2010年09月08日

あらっネグロス島へ 8

トゥマゲッティの、ホテルは、歴史的建物、ベル・タワーの通りに面した、道路を一つ隔てた、新しいホテルである。

だから、ガイドブックに載っていない。
一泊、900ペソ、1800円。
ツインルームで、広い。

最初に、もっと、安いホテルに向かったが、フロントの対応が悪いことと、部屋が、息苦しいので、変更した。

日本と違い、チェックインの時間が、早くても、入れてくれる。

そのホテルの一階にある、レストランに入って、食事をしていた時に、ホテル前に、二人の男の子、ストリートチルドレンが、現れた。

二人は、喧嘩をしているように見えた。
実は、じゃれあっていたのだが・・・

一人の、やられていた、男の子に、水を買って渡し、服を上げるから、待っていてと、言う。身振りである。
男の子は、頷いた。

そして、部屋に戻り、二枚の、シャツと、ズボンを持参した。
彼に、渡す。
すると、さきほど、買って上げた、ペットボトルの、水か無い。

どうしたの
指を差す。道路に、捨てられ、車に、破られていた。
どうして
すると、彼は、もう一人の、男の子を指差した。

あいつが、捨てたのか。
私は、その子を、呼んで、日本語で、叱った。
私の声は、大きい。それで、萎縮してしまった。
だから、彼を、呼んでも、その日は、来なかった。彼にも、衣服を渡したかった。

翌日、ビーチで、慰霊をして戻ると、彼らに、会った。
更に、もう一人の、男の子もいた。
彼らより、年上である。後で知るが、15歳だという。10歳程度にしか、見えない。

私が、掲げていた、日の丸を持ちたいと言う。
そこで、彼らに、渡した。
昨日、叱った、男の子も、けろりとして、着いて来た。

私は、裸足の、男の子に、サンダルを買うことにした。
近くに、市場がある。
そこまで、出掛けた。
そして、彼の好きな、サンダルを買って渡した。

一度、ホテルに戻る。
そして、昼の食事をするために、出た。
焼き鳥が美味しいと、聞いていたので、焼き鳥を食べることにした。

ホテル近くの公園の、前の店である。
すると、また、彼らが、現れた。

一緒に、食事をすることにして、私は、その店に誘う。
一人の、私が叱った男の子が、楽しそうについて来た。
そして、テーブルに着くのだが、二人の子は、入り口で、もじもじして入らない。

と、その時、店の奥から、走り出してきた、男がいる。
二人の子が、逃げた。

私たちも、外に出で、何が起こったのかを、見た。
小さな方の、男の子が、捕まった。
そして、何やら、男に、説教をされて、涙ぐんでいる。

コータが、その中に、割って入った。

彼らを店の中に、いれることは、出来ない。
物を買って、外で、食べさせるなら、良いとのこと。

昨夜、男の子は、店の厨房に入り、食べ物を盗んだというのである。

そして、それは、常態化していた。
どおりで、店に入らないはず。

私は、店に戻り、兎に角、一羽分の鶏肉を、注文し、ご飯を、五人分注文した。
彼らのために、ジュースを三本。
公園で、一緒に食べようと、思った。

開放された、男の子と、二人の子を、呼んで、食べなさいと、促した。
男に、叱られた子は、中々、来ない。
私が、何度も、手招きして、ようやく、来た。

三人が、食べ始めた。
食欲旺盛である。当たり前だ。食べ盛りである。

しばらくすると、店から、先ほどの、男が出てきて、私たちに、挨拶し、握手を求めた。
私たちは、子供たちに、食べさせて、食べなかった。

少し、離れた場所で、彼と、話をした。
彼の、名前は、ジョンソンさんである。

ミンダナオ島の、出身で、ここでは、農場を経営し、食堂を経営していた。

そこで、彼の話を、聞くことになる。
まず、私たちの、好意に、感謝した。
そして、話し始めた。

問題は、根が深いのです。
フィリピンは、貧しい。しかし、このままでは、いけない。
食べ物、衣服、その次に必要なものは、住まい。
子供たちに、それを、提供し、そして、教育が必要です。
そうでなければ、あなたたちの、好意も、単なる一時の、バンソウコのようなものになる。

その、通りである。

だから、私も、農場を経営して、働く場所を、提供し、親に働かせ、子供たちには、学校へやるように言うと語る。

つまり、ストリートチルドレンが、大人になっても、物乞いの精神から、抜けられず、子供が出来ると、子供を、働かせようとするらしい。

更に、施設を造り、何人もの人が、現状を打開しようとした。しかし、皆、途中で挫折する。それは、続けられなくなるからだ。

一人の人間では、無理である。
多くの人間が、関わって、運営しなければ、続かない。
今は、政府系の、施設がある。
そこに、支援を、是非して欲しい。

いつまでも、フィリピンが、このままでよいはずがない。
フィリピン人の、誇りを持つような、子供たちを、育てたい。

ジョンソンさんの話は、長かった。
そして、情熱に溢れたものだった。

私は、それを聞いていて、私の考え方と、方法が理想的だと、知る。
新しい建物を、造るのは、簡単である。しかし、それを、持続させることは、至難の業である。

だから、私も、建物や、施設を造らない。
すでに存在する、施設、学校に、支援するのである。

話している途中で、近くの人が、椅子を、運んで来た。
すると、これが、フィリピン人ですと、ジョンソンさんが、言う。

フィリピン人の、誇りを、取り戻す・・・

素晴らしいことである。

私は、次にこちらに、来た時に、あなたの店に立ち寄りますと、言った。
最後も、握手をして、別れた。

子供たちは、すでに、すべての食べ物を、食べていた。

私たちは、食事のことを、忘れ、一度、ホテルに戻った。




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2010年09月09日

神仏は妄想である 298

怒るのは神であって、人間は怒ってはならない、という発想が強くなっていく

キリスト教発生以前のユダヤ教が全部そうだというわけではないが、この傾向は特に知恵文学に系統においてはっきり出てくる。「怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い」(箴言の書)など。もっとも、知恵文学の場合、イスラエルの伝統的な発想だけではなく、外来の処刑訓も加味されて、感情的に激するのは愚物であって、賢い人間はいつも冷静さを保つ、と言っているのだが、そういう処世訓が神観念へと疎外された「怒り」に結びつく時、人間の怒りは神に逆らうことであって、怒ることは神にのみまかせておけばよいのだ、という考え方になっていく。
田川

作られていく、感情であり、更に、神観念の中に没入させるという、手である。
それを、神観念へと、疎外すると、表現する、田川氏である。

いよいよと、偏狭な心境に入っていくのだが、それは、何も、ユダヤ、キリスト教だけに、言えることではない。
宗教のすべてが、神観念や、仏観念へと、疎外するのである。

つまり、信仰が、深くなれば、なるほど、そういう傾向を帯びる。

私は、もう一つ、別な言い方をする。
疎外する、つまり、逃避するのである。

たとえば「ソロモンの詩」では、「私の舌と私の唇を真理の言葉でつつみ給え。怒りと不合理な憤りを私から遠ざけ給え」という祈りが出てくる。そして、「怒り」は人間の持つべきものではない、ということを、「ベンシラの知恵」ははっきり言い切っている、「心の憤りは女から生まれた者のためにあるのではない」。「女から生まれた者」つまり人間には、怒ることは許されていないので、怒ることができるのは神のみである、というのだ。
田川

新約聖書において、「怒り」は神の意志に逆らうことだ、とみなす見方の理解がつく。当時のユダヤ教のこれらの文章、ことに知恵文学では、人間の怒りは非理性的な感情の爆発として退けられている。右に「心の憤り」と訳した句は、むしろ「情の怒り」と訳すべきで、ていねいに言えば、「憤りの感情のもつ怒り」という意味である。このように、人間の持つ怒りを愚かな感情のほとばしりとみなし、正統な、あるべき当然の怒りは神のみ帰する、というところに、宗教的な疎外の特質がある。正統な怒りを神にのみ帰してしまったら、しいたげられた民の腹の底から煮えたぎる怒りを神への不従順として抑圧してしまうことになるのである。
田川

これが、宗教指導者、支配層の、狙いである。

こういう、ものの考え方、つまり、ヘレニズム的な、世界支配の中で、私的個人の、安心立命を願う、ユダヤ教の、知恵文学、ローマの世界支配の中で、私的個人の、宗教的救済のみを、願う、パウロや、その亜流に、主として、現れるのである。


このように、実に、偏狭で、矮小である。
宗教とは、人を、支配するために、とことん、練られた、巧みな言葉の世界であると、言える。

そして、それは、人間によって、作られているということである。

「怒り」というものをすべて感情的な動きの類似性からのみ形式的に一般化して、一切の怒りは愚劣な感情の動きだ、などと断じられたのでは、やりきれない。
田川

しかし、イエスは、随分と、怒る。
新約聖書には、イエスの怒りの様が、四福音書に、多く記される。
これは、怒りを発することが、出来ない、民の代わりに、怒る如くである。

そして、イエスの、怒りは、支配層、指導者層に、向けられた。

マタイ教団は、それを、どのように処理しようとしたのか。

マタイ教団では、イエスの言葉、反対命題を、旧約聖書的教条に対する批判的対決とは、解さず、むしろ、彼らの「義」の完成という発想で、捉えた。
旧約聖書では、不十分な、「義」というものを、より大きく、十分に完成したものであるとする。

しかし私はいう
という、イエスの言葉を、それより、よりよく、より徹底して、言うと、解釈されたのである。

旧約的教条に反対するのではなく、完成命題とした。

山上の説教とは、イエスの強烈なユダヤ教批判と、マタイ教会のユダヤ教を発展的に継承しようとする視点との、ごった煮なのである。
田川

つまり、マタイ教団も、ご多分に漏れず、ユダヤ教のみならず、宗教的に、作り上げていく、教義なのである。

田川氏は、神学者であるから、多くの例を、引いて、解説している。
私は、それを、省略する。

マタイは、精神主義である。
すべてを、精神主義に、拡大して、発想する。

重要な問題は、正当な怒りはすべて神のみに属する、という宗教的に疎外された発想の中で、社会的に抑圧された者の怒りすらも骨抜きにされていく、というからくりをしっかりと見抜いておくことであろう。
田川

マタイは、精神主義的な、教団内倫理と、ユダヤ教から継承した、宗教的に疎外された、「怒り」の理念を定着させることになる。

ところで、兄弟に対して・・・怒る者は・・・
異教徒に対してではない。

同じ信徒同士のことである。
兄弟を殺す者は、裁かれる。しかし、異教徒を殺した場合は、裁かれない・・・

とっても、狭義の意味での、教義であろうか・・・

キリスト教徒が、イスラム教徒を、殺しても、問題は無い。
または、それほど、重要なことではない。
こうして、無明の教義が、作られていく。
疎外が、逃避になり、そして、何かを忘れていく。信仰というものの、闇である。

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あらっネグロス島へ 9

これから、私は、セブ島を拠点にして、フィリピンの、各島へ、慰霊と、支援に出掛けるだろう。

日本軍は、フィリピンの島々で、戦争を繰り広げた。

しかし、何故、フィリピンは、貧しさから、抜けられないのか・・・

様々なことが、考えられる。

その歴史は、スペイン植民地時代に、さかのぼる。
長きに渡る、スペインによる、植民地の間に、フィリピン独自の、文化や伝統が、破壊された。

それは、特に、カトリックによるものである。
最初は、イスラムの島々が多かったが、武力で、キリスト教を押し付けた。

今でも、キリスト教に、虐殺された、ミンダナオ島の一部が、反政府となって、抵抗している。

更に、アメリカによる、統治である。
すべて、アメリカ式に、変えられた。
アメリカの文化が、最高という意識は、今でも、ある。
だが、アメリカの文化といっても、伝統ではない。
実に、そこの浅いものである。

そして、第二次世界大戦の、一時期、日本軍が、統治する。
その時に、少しばかり、日本軍は、フィリピン、独自の、伝統と、文化を、回復するようにと、指導した。

だが、それも、一時的なもの。
日本の敗戦で、もう一度、アメリカ支配に陥る。

アメリカは、フィリピンに、莫大な資金を投資した。しかし、それらが、国民に行き渡る前に、消える。
つまり、政治家により、搾取される。

アメリカ軍の、駐留も、無くなった。
要するに、捨てられた。

今、フィリピンの歴史的遺産といえば、すべて、スペイン時代に、建てられた、教会である。
その長きに渡る、支配のうちに、フィリピン人は、何かを忘れた。

熱心な、カトリック信者が、多いが、それは、当初、押し付けられたものである。
だが、時代を経て、ついに、拠るべき所が、教会となったのである。

貧しい人々は、すべてを、搾取されている。

政治からも、教会からも、である。

更に、お金がなければ、教会で、葬儀もできないのである。

私は、何度も、人々が、教会ではなく、地元で、葬儀をするのを、見た。
路上に、遺体を置いて、カンパを募る。
墓の費用である。

フィリピンの歴代大統領は、悲しいかな、一部を除いて、すべて、身内に、支援金を流した。
国家の予算が、個人的に、流用される。
政治家もまた、同じく。

政治の伝統のようである。

多くの島があるが、島は、兎に角貧しい人たちが多い。
だが、その中でも、富裕層がいる。
すべて、中華系である。

地方の議員を、抱きこみ、彼らの、希望通りの、法整備を、作っている。
金の流れが、彼らに向かうように、である。

レイテ島に、出掛けた時に、バイクタクシーの、運転手に聞いた。
それは、毎日、借りるのであり、自分で、持つことは出来ない。
そのように、法律が、条例が、作られている。

その、バイクタクシーを、貸すのが、中華系である。

人々は、二重、三重に、搾取されている。

革命を起こすしかない。
しかし、革命も、瞬時にして、終わる。

軍隊が、一体となって、起こさなければ、無理である。

だが、その軍にも、汚職が広がるのだろう。
不穏分子は、密告される。

さて、歴史の、種を探しても、詮無いこと。

現在の、アキノ大統領が、どこまで、フィリピンの民衆の、期待に応えるか。

フィリピンは、スペイン統治時代の、その前の歴史を、学び、フィリピンの、誇りを、取り戻して、欲しいと願う。

英語教育に、力を入れたが、それは、海外に働きに出るために、必要なもの、のみである。
英語教育が、国の力には、ならなかった。
それより、自国の言葉を、しっかりと、身につけて、そこから、物を考える力を、養うべきだった。

今でも、エリートたちは、アメリカを目指す。
しかし、目指すアメリカには、何も無い。

フィリピンの希望は、日本である。
伝統の国、日本が、フィリピンの、希望になりえる。

ミンダナオ島の、反政府軍は、必ず、政府との話し合いに、日本を指定する。
何故か。
他の国は、すべて、キリスト教国である。
イスラム国家は、ひとつもない。
そこで、日本を指定し、日本の、冷静な対処に、期待するのである。
日本は、世界の平和に、貢献できる、唯一の国となる。

宗教の国で無いということだ。
日本は、伝統の国である。
その、日本の役割が、世界平和の貢献に、大きく寄与できる。

私は、実感として、それを、感じる。

新しい時代は、宗教闘争の時代ではない。
長い歴史を有する、世界が、納得する、伝統を有する、日本が、希望となるのである。


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2010年09月10日

神仏は妄想である 299

「かんつうしてはならない」と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、だれでも情欲をいだいて女を見る者は、その女に対して心の中ですでにかんつうの罪をおかしたことになる。それで、もしあなたの右の目があなたを罪にさそうならば、それをえぐり出して捨てなさい。全身が地獄に投げ入れられるよりは、からだの一部を失うほうが、あなたにとってはましである。もしあなたの右の手があなたを罪にさそうならば、それを切って取って投げ捨てなさい。全身が地獄に落ちるよりは、からだの一部を失うほうが、あなたにとってましである。
マタイ福音

聖書研究では、罪は、外的な行為だけではなく、内的な行為、すなわち、思い、望みによっても、生ずる、とある。

このイエスの言葉を、真っ当に、解釈することが、出来ずにいるのが、神学者や、司祭、牧師たちである。

一体、イエスは、何を言うのか。
そして、マタイは、何を考えて、このように、仕立てたのか、である。

姦通してはならない
とは、モーゼの十戒にある、言葉である。

端的に言う。
モーゼの姦通は、人妻のことである。
当時、女は、男の所有物の一つであった。
他の男の、牛でも、羊でも、女でも、それを、奪ってはならないということである。

この言葉を、額面通りに、実行しようとするのは、また、現代の言葉通りに、読んで、実行するのは、極めて、グロテスクな、新興宗教であろう。
ものみの塔という、エホバの証人ならば、そのままに、解釈するだろうし、原理主義者も、そのようだろう。

聖書主義というものも、そうだろうと、思われる。

これを、検証してゆくと、とんでもないことになるのである。

「姦淫するなかれ」についても、反対命題が伝えられている。そしてこれは人間の心の動きの機微をついている。旧約律法には「姦淫するなかれ」とあるけれども、私ならば敢えて申し上げよう、情欲をいだいて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである・・・
田川建三

女が好きな男にとって、女を見る時、少なからず、そのような、目つきになるだろう。
そのような、心の機微に、何ゆえ、その目をえぐり、投げ捨てよ、などという、言葉が出て、更には、全身が、地獄に投げ入れられるよりもましだ、などと言うのか。

全身が、地獄に投げ入れられるよりまし、だという、その地獄という、言葉も、尋常ではない。

天国が、妄想であり、更に、地獄というのも、妄想である。

更に、人間の欲望を手玉に取り、人間を支配しようとする、根性が、気に入らない。

さて、神学者、田川氏の、解説である。
つまりマタイはここで、今までに実に長い間ユダヤ人社会に支配してきたモーセ十戒の法律的規則の一つを「観念領域に対して無制限に拡張している」姦淫の禁止が法律の規定の一つである限りは、極めて限定された具体的な一つの実行行為だけがそこで扱われるので、それはユダヤ教社会の社会秩序を維持するために働き、多くの人々は、それを、自分には直接ふれてくることのない特別な事例を扱ったものとして了解する。
ところが、それがこのように意識心情の世界にまで無制約に拡大してくると、すべての人の日常の心づもりにふれてくるし、単にふれてくる、というだけではなく、これが法の規定の拡張として考えられ、それを犯せば決定的な審判の前に立たせられると言われているだけに、もしもこういう言い方が正しいとすれば、人はそこに無限の脅しを感じざるをえない、ということになる。
田川 
読みやすく改行している。

そして、吉本隆明の言葉を紹介する。
思想としては実に徹底していてすぐれているけれども、すぐれているからとて、正しいとは言えない
というのである。

それで、もしあなたの右の目があなたを罪にさそうならば・・・
という、箇所は、マタイと、イエスの、発想の相違を知る上で、基本的な手掛かりを与えるという。

つまり、マタイは、それを、つなげて、書いているのである。

伝承の歴史から、見れば、それは、つながっていなかったのであると、田川氏は、言う。

マタイは、イエスの言葉を、結びつけることによって、律法の徹底化を図ろうとしたのである。
つまり、創作された、福音書なのである。

つまり、マタイはこれを実現可能な倫理規定として考えていたことになる。第二に、マタイがこれをただの倫理規定としてではなく、律法的な規定として考えていたことは、29節以下に罰の理念があらわれていることから知られる。・・・
マタイは、山上の説教の反対命題全体を律法の完成として見ていたのである。
田川

イエスの言葉を、勝手に、作り変えたのである。
自分の思いの、ままに、である。

それでは、イエスは、律法の概念を、何故、意識の世界にまで、拡大したのか。

それを、田川氏は、
このことを論じる前に、多少の字句の問題に拘ってゆこう。「情欲をいだく」と訳した単語は一単語の動詞であるが、聖書学者たちがふつう問題にするのは、この動詞及びその前につけられたpros(ために)という前置詞をどう解するか、ということと、「女」という単語の意味である。
と言う。

直訳すると、女を情欲するために見る者は、ということになる。
つまり、情欲するために、女を見るということである。

具体的な、性行為をすることを、目的として、女を見るのである。

情欲を抱く、のではない、ということ。

「情欲するために見る」という「ために」の前置詞であり、「情欲を抱いて見る」のではない。

見るのは、情欲するために、見るのである。

性的欲求を起こすために、見るのであり、単に、眺めの中に入ってきた、女を見て、欲望を起こすのではない。

だが、しかし、研究家というものは、ご苦労なことである。
たかが、そんなことに、血眼になるのである。

私は、モーセの十戒にある、古代の、考え方に興味を持つ。
女が、男の、所有物であり、姦淫とは、他の男のものの、所有権の、侵害だとする、考え方である。
そこには、現代でいうところの、性道徳などではないということ。

女という、単語は、人妻と同じであるということ。

今なら、人権侵害であり、とんでもない、差別である。
つまり、ユダヤ教というものが、そのように、作られたという、作為に、私は、驚く。

完全に、父系社会の、創造である。
この、父系社会が、ただ今、歴史というものを、造り上げてきたのである。
つまり、戦争の歴史である。

更に、続ける。

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2010年09月11日

神仏は妄想である 300

性的情欲を持たない人間は、まず、いないだろう。そうすると、牧師神学者真面目キリスト教徒の男の、自分はそういう情欲をもって女を見ることなどまったく無縁だ、と思い込んでいる連中が、実際には、自分で意識しようとしないから、かえってそれが嫌らしく露出する。彼らが女を見る目つきのいやらしさは、そこから生じる。自分が意識しようとするまいと、情欲は情欲なのだ。自分はそういうものを持っていないと思い込んでいるから、自分の中に無自覚なままに蓄えたその種の情欲を、屈折して嫌らしく表現することになる。
田川

付け加えれば、欧米の、カトリック司祭には、同性愛が多いから、女には、興味を持たずとも、男子に興味を持つという。
ローマ法王でさえ、司祭の男子に対する、性的虐待で、謝罪したほどである。

さて、マタイが、目を抉り出せと、付け加えたのは、本当に、そのように、考えたからであると、いう。
本気になって、実行しようとしたのである。
現代の、キリスト教徒より、真剣だったということだ。

マタイにもどって、重要な問題は、どうして法的規定をこのように精神主義的に拡大していくことができるのか、ということだ。それは、法とは何なのかを批判的につけえることによってはじめて考えることができる。
田川

以下、田川氏の、論調をまとめてみる。

法とは、本質的に、一つの擬制である。
人間の行為を、一つの抽象された水準においてのみ、扱う。
われわれの行為の、数多くの行為が、どこかで、法と関連する。
しかし、一つの行為が、法的な水準にのせられるためには、その行為を囲む、他のあらゆる要因が抽象される必要がある。

それは、極めて具体的な行為を、扱うが、実は、非常な抽象でしかない。
法とは、そういうものだ。

「姦淫」が法的な規定のもとに、論じられる場合も、同じ抽象がある。
その行為を、形成する具体的な、様々の、要因が、捨象され、行為の特定の、形式だけが、抽象されて、処置の対象となる。

「姦淫するなかれ」を「情欲をみたすために女を見ることはするな」にまで拡張したのは、いかにも、現実の実行行為だけを扱うはずの法の領域をこえて、法では規定しえない観念領域にまで拡大してしまった、と思えるのだが、そして事実そうに違いないのだが、他方では、法というもののこのように抽象する性格にうまく対応してものを言っているのである。
田川

そして、マタイの倫理拡大がいつもある種の誠実さをともなった説得力があるのは、そのせいである。
と、言う。

ユダヤ教の律法が、普通に考える法という意味と、宗教的社会倫理的規定でもあったという、点が重要である。

さらに、当時は、ローマの支配で、その法があり、そけだけ、律法は、倫理的側面ばかりが、強調されることになったのである。

そこから、マタイ的ユダヤ人キリスト教徒の精神主義も、生まれてくる。
そこで、マタイは、姦淫を犯す、具体的な目的をもって、見る行為は、正しくないと、留保をつける。

ただ、宗教倫理的な、解釈は、ユダヤ人に限られていたのではなく、オリエント世界に、広くあったものである。

アラブの、女たちの、ブルカを、思い出せばよい。
女を、見られないように、全身を、布で覆うのである。
勿論、それは、風土の影響も、多分にある。

イエスもまたこの発言によって法的規定を無制約に拡大しているのは確かである。
田川

ただ、この話を、延々とするのは、暇な学者に任せて、結論に行く。

イエスは、とても、逆説的、説教をした。

イエスがマタイのようにユダヤ教の法の精神を拡大、「完成」とようとしたのではなく、それに対決しようとしていったことは、彼の活動の全体から見て、あまりに明らかである。
田川

実際、罪を咎められるのは、誰かということである。
社会的地位のある人々は、罪に問われないという、矛盾があるのだ。
罪に問われるのは、いつも、社会に抑圧され、差別される人間である。
当時が、そうである。
以前書いた、当時の、ユダヤ州のことを、思い出して、もらいたい。

ヨハネ福音書にある話が、イエスの、考え方である。

姦淫の罪で、捉えられた一人の女を、石打の刑にしようと、律法学者、パリサイ派が、神殿に、連れてきた。
そして、そこにいた、イエスに、どう思うかと、問う。
イエスは、あなたたちの中で、罪の無い者が、まず、この女に、石を投げよ、と言う。

そこで、一人去り、二人去りと、皆、去ってしまう。
イエスは、女に、二度としないようにと、言葉をかける。

男と女の性的関係が、それを包むすべての人の人間的、社会的過程をぬきにして、それだけ抽象して抜き出されて、「姦淫」として法的に罰せられる、というのは、所詮不当なことなのだ。
田川

その、不当の、犠牲者は、罪人と、言われる人たちであろう。

イエスは、偽善を徹底的に、嫌い、攻撃した。
つまり、ユダヤ教の、律法のあり方自体に、偽善を見抜いたのである。
結局は、支配層の、もの。支配層が、勝手に、暇つぶしに、下層階級の人々を、翻弄するという、遊びに、激怒したのである。

これは、田川氏が言っていることではなく、私の考えである。

そこで、情欲を、みたすために、女を見る男は、姦淫するのと、同じではないかと、問い詰めたのである。
それが、マタイの福音のあの、箇所である。

当時の、ユダヤ教の、支配層は、兎に角、下層民を、裁く事が、楽しみだった。
実に、嫌らしい、趣味である。
そして、現代の、キリスト教の、すべての、宗派の、指導者も、同じであると、言う。

アメリカで、有名な、テレビ伝道師が、高級娼婦を買って、遊んだことが、知れた。
何と、いけしゃーしゃーと、人々の前で、懺悔して、その地位を守った。

イエスは、こういう、偽善が、大嫌いである。

イエスは、法を無制約に拡大してみせることによって、そのうさんくささを明るみに出し、愚弄し、粉砕しようとした点だった。・・・・
イエスの方は、その秩序がはらんでいる本来のグロテスクさを、拡大してみせることによって暴き出したのである。
田川

もう一つ、面白いことは、性関係とは、男女関係であるが、女だけが、捕らえられるという、不思議である。
男だって、同じだろう・・・

旧約では、男女が、石打の刑に、処せられた。
きっと、私の想像では、マタイ福音の場合、相手は、支配層に近い男だったのだろう。

律法学者、そして、パリサイ派、更に、現代の、聖職者といわれる、偽善者たちは、イエスの、最も、嫌った人間たちである。

イエスは、法的秩序からの解放を叫んだだけで、すでに殺されてしまったのだが。
田川

男と女の、情欲とは何かということを、イエスは、何も語らない。
要するに、語れなかったのである。
つまり、解らなかったと、私は、いう。

解るのは、ただ、出来れば、人間は、一人でいるのがよいだろう・・・である。
とういうこと・・・イエスは、いつも、男たちと、行動していた。

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2010年09月12日

神仏は妄想である 301

ここで、一端、マタイ福音書のみの、検証から、聖書全体、新約聖書の、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書との、関係から、マタイを、検証してみる。

手引きは、最近出された、キリスト教成立の謎を解く、バート・D・アーマン著である。

神学者が、批判的キリスト教、及び、聖書の本を書くことは、実に理想的である。
そして、今では、批判的に、それらを、俯瞰することが、最も、聖書、キリスト教を、理解する上で、必要なことである。

ただ、キリスト教徒であれば、理解可能なものもある。
また、聖書に触れていない者には、意味の無いことである。

歴史的・批判的アプローチでは、異なる一連の題目が立てられるため、異なる一連の疑問が提示される。このアプローチの中核となるのは、聖書が書かれた時代背景に照らして、聖書の記述は何を言わんとしているのか、という歴史的な疑問である。
アーマン

聖書に書かれたことを、無批判に読み、ただ、信仰という名によって、理解するという、方法は、時代遅れも甚だしい。

それぞれの、福音書には、それぞれの、意図があり、それは、確実に創作されたものであるということだ。

更に、キリスト教徒は、聖書を、歴史書でもあると、誤解している。

細部に渡って、矛盾するものを、信仰という、名で、封じ込める。
兎に角、信じればいいと、なる。
そして、信じる者は、確実に、騙されることになるのである。

記者はいつの時代の人間なのか?彼らはどのような時代状況下に置かれていたのか?記者が生きていた時代に、彼らはどのような主張を展開しようとしていたのか?彼らはいかなる当時のいかなる文化的・歴史的先入観に影響を受けていたのか?彼らはどの出典をよりどころにしているのか?彼らが拠り所にした出典はいつの時代のものか?・・・・
アーマン

そして、それは、
それどころか、そもそも聖書のオリジナル・テキストがもはや現存しないとしたらどうなる?ヘブライ語で書かれた旧約聖書や、ギリシャ語で書かれた新約聖書が筆写されてきた何世紀もの間に、善意に満ち溢れてはいたものの少々軽率な書写が写し間違えたり、自分の解釈の都合がいいように聖書を書き換えようとした書記が、意図的に改竄していたとしたら?
アーマン

そして、それは、大いにあり得ることなのだ。
それが、他の福音書と、比べてみると、明確に解るのである。

作為がある。
そして、無理やり、こじつけた記述。

更に、恐ろしいことは、カトリック教会が、承認した、聖書の群れに、大いなる矛盾が、多すぎるということ。
その、矛盾を、教会という、権威で、押し潰したということ。

現在の、プロテスタント系聖書研究は、徹底的に、批判的に、聖書研究を行う。
そこでの、矛盾に、堂々と、挑戦している。
そして、信仰を捨てる者、信仰を、持ち続ける者と、様々である。

私は、すでに、何十年前からの、キリスト教の、崩壊を、予知していた書籍を、多く持つ。今、それらが、実に、役に立つ。

無批判に、聖書を、信奉している、多くのキリスト教徒がいる。
それらの、信仰は、ほぼ間違いなく、救いではなく、逃避という、信仰形態に、陥っている。

特に、激しいのは、貧しい国、政治的力の無い人々の国で、それは、行われている。
人々は、その諦めを、信仰という、精神的逃避の世界に、滑り込ませて、何とか、生きているのである。
それを、信仰深いとは、言わない。

信仰への、逃避であり、更には、信仰の疎外である。

そして、彼らは、死んだら、天国に行くことは、まず、あり得ない。
それは、私の霊学に照らしてみて、確実に、そのようである。
精々、教会の上空に、漂う霊となるのである。

更に、狭義、宗教霊界に、存在するだけになる。
勿論、そこには、イエス・キリストは、存在しないし、主なる神も存在しない。

聖書に書かれる、父の右に、おわす、イエスという、図は無い。

まことに、信仰とは、不自由になることであり、本来の魂の自由を得る、宗教信仰に、なっていないのである。

そして、巨大宗教団体は、商売に陥って、久しい。

バチカン銀行総裁、ポール・マンチンクスは、
アヴェ・マリアと唱えているだけでは教会は運営できないのだ、と、言い放ち、不正金融操作を、行っていた。

バチカンは、ローマ法王のいらっしゃる、神の代理人がいらっしゃる場所ではない。
世界中の信徒たちから、集めた、お金を、更に、増やすべく、金融操作を行う、巨大、会社となっている。

だが、すべての、宗教が、そうである。

その魂を、売り渡したのである。
金に。

日本の宗教団体も、まさしく、そうである。

布施を、集めるために、あの手この手の、手練手管で、信者を食い物にする。
だから、信じさせるのである。
それは、魂の救いではなく、騙せるからである。

信じる者は、確実に、騙されて、布施をする。
一度、宗教組織に入った者が、そこから、抜けるのが、いかに難しいか。
人間には、属性欲望がある。
つまり、どこかの、集団に所属したいと言う、欲望である。
宗教は、それを、実に、巧妙に取り入れている。


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2010年09月13日

神仏は妄想である 302

多くの神学生は、歴史的・批判的手法に完全に面食らう。自分たちが通っていた教会の牧師や司祭のように、自分も説教を通して聖書の宗教的な真実を信者に伝えられるよう、そうした真実について学ぶのだと、意気込んで入学してくるのだから。歴史的批判のための心の準備など、全然できていないのだ。
キリスト教成立の謎を解く バート・D・アーマン

いかに、無知で、無心であるかということである。
とても、騙されやすいのである。
更には、騙されて、喜ぶのである。

説教の題材について教わる代わりに、何世紀にも及ぶ研究に基づいて、歴史的・批判的な学者が築き上げてきた研究成果について教わることに、神学生はびっくりする。聖書は矛盾に満ち満ちており、しかもその多くは、いかんともしがたい矛盾である。
アーマン

いかんともしがたい、矛盾である。
これを、神学者が、書くと、実に、説得力がある。
一市井の研究家や、ライターが、提案しても、教会は、もとより、その信者たちも、取り合わないだろう。

五書(旧約聖書の最初の五つの書)を書いたのはモーセではなく、福音書を書いたのはマタイでもマルコでもルカでもヨハネでもない。最終的には聖書には組み込まれなかったが、ある時期には正典と認められていた書もある。例えばイエスの弟子だったペトロ、トマスあるいはマグダラのマリアの手によるものと考えられている福音書がそれである。
アーマン

正典ではない、聖書を、外典と呼ぶ。
その中には、イエスを裏切った、ユダの福音書というものもある。
私は、それを、持っている。
そこに書かれていることは、正典とされている、内容とは、全く別のものである。

奇想天外な、福音書もある。
少年イエスの、奇跡物語などなど・・・

歴史は、いつか、必ず、事実を見せてくれる。

今までは、事実、真実だと、思っていたものが、嘘だと、解った時に、人間は、二通りの、反応しかない。

無視するか、それを、受け入れるかである。

キリスト教においては、その教会においては、それを、無視し続けた。

更に、疑いを持った聖職者たちも、騒動を嫌い、慣習に従った。
嘘のまま、信者に、伝え続けたのである。

旧約聖書に出てくるイスラエル人のエジプト脱出は、おそらく本当にあった話ではない。約束の地カナンの征服は、おそらく伝説であろう。福音書の内容は多くの点で互いに食い違っている上に、史実に基づかない記述も含まれている。モーセが実在の人物なのかどうか、あるいは歴史的人物としてのイエスの教えが、正確にどのようなものだったのか知るのは、至難の業だ。
アーマン

と、すれば、キリスト教全体、イエス・キリストを、掲げる、すべての、宗教が、怪しいということになる。

至難の業、だという。
それでは、今までの、教義や、教理というもの、一体、どうなるのか・・・
どうにもならない。
簡単なことである。
信じれば、済むのである。

嘘も、百回言えば、本当になるとは、中国人のことである。
だが、宗教の信徒たちも、そのようである。

いやいや、彼らを、指導し、導く、牧師や、司祭たちも、同じである。

どうして、そのようになるのか。
それは、奇跡を見たからである。

パウロは、キリスト教の迫害者だったが、イエスが、パウロに現れて、改宗したのである。
それが、イエスの霊なのか、どうかも、検証せずに、イエスだと、名乗った、霊を、信じたのである。

そんなことが、朝飯前の、霊というものが、多く存在する。

中でも、カトリックによって、聖人とされた、多くの人々は、そのようである。

要するに、幻覚、幻視、暗示によるもの、多々あり。
イエスの、磔の、そのままを、受けたという、聖なる痕跡、つまり、聖痕である。
手と足に、イエスと、同じように、傷を受けたと言う。

激しい、精神錯乱による、暗示効果である。

何故、人が、そのように、何かを信じるようになるのか、ということは、いずれ、書くことにするが、私が思うことは、生きるということが、退屈なことであり、暇なことなのであると、認識する。

それぞれの、時代に合わせて、それぞの、欲望を持つが、いつの時代も、欲望希薄な人々がいる。
更に、人のためにという、大きなお世話の人々がいる。

更に、妄想である。

まさに、神仏という、妄想なしに、生きられない人々が、生まれた。

生まれて、生きることに、意味を、見出さなければ、生きられないという、病を、得た。それは、人間の大脳化ゆえである。

生まれて、生きることには、意味はない。

全くの、無意味である。
それに耐えられないがために、妄想を抱く。
そして、かろうじて、生きられる人々がいる。

生きるために、何故、意味が必要なのか・・・

私は言う。
それこそ、奇跡ではないか、と。
存在することを、意識するという、僥倖に、恵まれたのである。
そこに、意味など、無い。
ある、訳が無い。


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2010年09月14日

神仏は妄想である 303

旧約聖書の歴史的叙述には、伝説上の作り話がふんだんに盛り込まれており、新約聖書の「使徒言行録」に書かれているパウロの人生や教えについての記述には、歴史的に信用できない情報も混ざっている。新約聖書の中の多くの書は、ペンネームで書かれている。すなわち使徒によって書かれたのではなく、後世の記者が使徒の名を偽って書いたものである。以上列挙したような事例は、枚挙にいとまがない。
アーマン

であるとするなら、指導者をはじめ、信徒たちは、どう反応するのか。
それは、それ、これは、これ、といっていられない、話しなのである。
信仰の根幹に関わる。

嘘の話を、信じて、信仰など、出来ない。
それならば、自然を信仰の対象にした方が、身のためである。

次から次へと証拠を突きつけられた学生の多くは、早い段階で、聖書が無謬なる聖典であり、完全なる史実に基づいて書かれているというそれまでの確信を揺すぶられる経験をする。あまりに多くの証拠があり、聖書の何百という矛盾に整合性を持たせるためには、推論に推論を重ねたあげくに、強引な解釈を次々と編み出していかなければならないため、最終的に学生の手に負えなくなるのである。
アーマン

学生だけではない、すべての、信じる人たちにとっても、そうである。

強引な解釈は、最も、教会で、行われた。
更に、教会も、歴史的事実であると、信じ込んだ時期がある。

嘘を本当だと、信じ込んだ時に、人間は、どうなるのか。
一度信じたものを、変更するのは、至難の業である。
要するに、自己洗脳であるから、手に負えない。

日本の、鎌倉仏教時代も、仏典が、すべて真実だと、信じた。
情報が少なく、信じるしか、方法がなかった。
それで、あのような、事態が、起きた。

本当は、存在しない、阿弥陀如来がいると、信じて、念仏を唱えた。
釈迦ブッダの、直の教えだと、勘違いして、座禅を持って、悟りを、開くという、蒙昧。更には、法華経のお話が、本当だと、信じて、経典に帰依するという、題目・・・
それらは、すべて、作り物だった。

だが、今更、変更するわけにも、行かず。更に、それで、生活を立てているのだから、更には、教団になると、莫大な、布施が入るのであり、変更する何物もないと、なる。

成仏を説いたが、成仏していない、開祖たちを、信じるという、とんでもないことになっている。
ブッダより、開祖が正しい。
ブッダ以上である。

堂々と、開き直り、親鸞聖人を信じているのである、と、とても、真っ当な神経ではない。親鸞が信じたものが、架空のものだったのである。しかし、それは、見ないで、親鸞を信じるという。

さて、推論に推論を重ねるという。
これは、創作活動と、同じである。

そして、強引な解釈、つまり、今まで教会で、教えていた、教義に、強引に結び付けようとするということである。

それよりも、教会の虚偽が、誤りだったと、認めて、聖書を、読み直した方が、早い。

そして聖書が矛盾を抱えていることが明々白々であるにもかかわらず、頑なにその事実を否定するよりも、いっそのこと聖書にも矛盾があるのだと認めてしまったほうが、聖書がずっと理解しやすいことに気づき始めるのだ。
アーマン

ということになる。

ルターによって、開放された、聖書は、それ以前、一般信徒は、見ることも、出来なかった。聖書は、聖なる書物であるから、神と、同じように、扱われた。

だが、歴史は、それを、許さない。
必ず、公開され、知られるようになる。

マタイの福音書が、マタイと、名乗る人物、集団によって、作られた、書であると、明確になった。
そこでは、マタイの、考えるイエスキリストであるということに、なる。
それは、他の福音書も、同じである。

それぞれが、それぞれの、立場、考え方によって、違えば、その書き方も違う。当然、矛盾だらけになるのである。

人を信用させるのは、権威である。
イエスキリストの、権威を借りて、そうして、造り上げたものが、聖書であるということ。
更には、イエスキリストの、権威も、作られたものである。

イエスは、宗教を立ち上げたのではない。

宗教に、造り上げたのは、後世の人たちである。

更には、為政者と、組んで、その教えを、絶対化した。
ローマカトリックは、その際たるものである。
ローマ皇帝が、利用できるとして、国教としたのである。

イエスの、教えとは、全く違った、イエスの教えが、闊歩する。
イエス不在の、キリスト教の出来上がりである。

そこでは、旧約の神から、イエスまでを、結びつけて、主イエスとなる。
旧約の神とは、ユダヤ人の神であり、ユダヤ教の神である。
一、 民族神が、そこでは、テーマとなっている。
イエスは、その神の子として存在する。

だが、神の子は、ユダヤ人すべてが、神の子である。
イエスだけが、特別ではない。

イエスは、福音書の中で、人の子という。
それを、拡大解釈して、人間の子として、人間すべての、罪の、贖いとして、磔られて、人間の罪の、すべてを、それによって、解消するというのである。

そして、人類の救い主ということになる。
イエスは、その教えの大半を、ガリラヤで説いた。
その、実に、狭い範囲の中で、当時の、ユダヤ教の、偽善に、猛然と立ち向かった。
ユダヤ教の刷新を、試みたとも、いえる。

イエスの、当時の、世界とか、人類という、意識は、どんなものだったのか・・・
地の果てまで行き、教えを、述べ伝えよ、とは、イエスの言葉であろうか。

もし、そう言ったなら、イエスの地の果てとは、どの辺りまでのことか・・・


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2010年09月15日

天皇陛下について41

占領以来、GHQは日本の既成体制打破のため、次々と大ナタを揮ったが、肝心の天皇制については、沈黙を守っていた。
内外の動向を見極めながら、秘蔵のカードとして使おうという意図だった。外電の伝えるところは、おおむね厳しかった。
河原敏明 天皇裕仁の昭和史

日本は天皇制を廃して再組織すべきだ。天皇の起源についての不合理な神話も廃すべきである。米国上院議員

日本に少なくとも二十年くらい空位(天皇をおかない)時代をつくり、民主主義による国民の再教育を行い、天皇への神話をこわしてから共和制、立憲君主制いずれをとるか投票によるべきだ。米紙

天皇制は即時廃止し、天皇と皇族は戦犯として裁判にかけよ。ソ連放送

中国は天皇を戦争犯罪者として宣告すべし。中国参政会の決議

国別では、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、それにはじめのうちは、中国が、廃止に強硬だった。

その中で、
元駐在日米大使、当時の国務次官の、グルーは、
天皇はローマ法王のように、日本には不可欠の存在だから、天皇制は存続しつつ民主化すべきだと、擁護する。

同じく、元駐日大使だった、英国の、クレーギーも、
古い歴史のある天皇制が突然、廃止されたら、日本は混乱におちいり、侵略的、軍事的な共産主義が生まれる危険が大きい。
と、英国民を啓蒙した。

もっとも、彼らに、天皇の存在を、理解せよという方が、無理である。
ローマ法王のように・・・全く違う。ローマ法王より、権威がある存在である。

それに対して、昭和天皇は、深く悩む。

沈黙するのも、一つの方法だが、新聞記者に、開戦の経緯を明らかにするか、あるいは、マッカーサー元帥に話すことは、どうだろうか。
と、木戸に告白している。

木戸は、賛成しなかった。
弁明は、かえって、情勢を紛糾させる、というものだった。

ここで、素朴な疑問が、多くの人にあった。
敗戦を受け入れた、天皇が、何故、開戦を阻止できなかったのか・・・

それは、情報が無いゆえの、疑問だった。
以前、私は、少し開戦の経緯について、書いた。
また、詳しく書くが、戦争に追い詰められたのである。

天皇は、最後まで、外交での交渉をと、何度も、繰り返していた。
しかし、戦争を企画したのは、アメリカである。

その情報が、あれば、そんな疑問は、起こらない。

ところが、敗戦後、そういう、情報を知らない、進歩的知識人といわれる人々が、天皇の戦争責任や、退位について、平然と語る。

更に、共産主義者が、拍車を、かける。
彼らは、破壊と、全体主義しか、知らない。
天皇を理解できる、能力が無い者たちである。

では、マッカーサーは、どうか。
最初は、共和制を考えていた。しかし、時と共に、天皇存続に傾いた。
天皇との、会見で感動を受けたこともあるが、何よりも、占領政策、行政をスムーズに遂行し、偉業を成し遂げて、アメリカ大統領出馬を、目論んでいたのであるから。そのためには、天皇の存在が、最も、良いのである。

帰国後、立候補し、予選で敗れるが・・・

敗戦にも、左右されない、日本人の天皇崇敬を見て、天皇廃止などは、考えられなくなったのである。

最終的に、マッカーサーは、
天皇の地位の変更を、考えていない、という、結論に達した。

その頃、新憲法の草案作りも、天皇制存続の前提で、進められた。

関係者が、最も、苦心したのは、GHQの意向の範囲で、天皇をどのように表現し、位置づけるかということだった。

侃々諤々の議論を通し、西欧の憲法にもある、シンボル、象徴という、表現を採用した。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく
第一条

ここで、天皇は、元首ではなく、権限も大幅に縮小されて、首相と最高裁判官の任命、法律、条約の公布、衆議院の解散・・・
儀礼的に、行うものにすぎなくなった。

新憲法は、昭和21年11月3日に公布され、施行される、翌年5月3日には、両陛下の出席の元、十数万人が、集まり、皇居前で、記念式典が行われた。

なにより、天皇制が、確立されたことを、国民が、喜んだ。

そこで、少し、込み入った、天皇論を、鑑みる。

天皇を含めての国民だの、国民を含めての天皇だのというものはありえない。天皇は国民ではなく、天皇と呼ばれるべきであるから天皇というのであり、国民は天皇ではなく国民というべきだから国民と名付けられているのである。
天皇とは何か 里見岸雄

更に、続けて、
さて、わが国では古来、国人中に特定の一人を認めている。もっともこのような特定の一人を認めるのは、およそ君主国にはみな共通であるが、この特定の一人を、支那、日本ではともに単に「一人」という。
書経には有名な「一人慶あれば万民之に頼る」という句がある。「人」は漢音でジン、呉音でニンであるが、日本では昔から天子の場合だけイチジンと発音して他の一人と区別する。

日本の国人中の特定の一人は、古くは「おほきみ」「すめらみこと」などと称したが、漢字を用いるようになってから「天皇」と書きあらわすことになり、明治以後には一般に天皇の称に定まり、憲法もまた新旧ともに天皇といっている。すなわち、我が国人中の特定の一人は「天皇」である。
里見岸雄

これから、少し、天皇を論じることにする。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 304

例えば、「マルコ福音書」では、イエスが「神殿を清めた」、つまり両替商の台をひっくり返し、「私の家は・・・祈りの家とよばれるべきである。・・・ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言ったのは、死ぬ最後の週だったと書かれている。ところが「ヨハネによる福音書」によれば、この出来事はイエスの宣教活動の最初期に起こったことになっている。
イエスが宣教の初期と最後の週の二回、神殿を清めたのだと考える読者もいる。しかしそうなると、「マルコ」も「ヨハネ」も「真実」を語っていないことになる。さらに、歴史的に見て、この二つの記述をすりあわせることは可能だろうか?もしイエスが初期の宣教活動の最中に神殿で騒ぎを起こしたなら、なぜ彼は当局によって逮捕されなかったのだろうか?聖書が矛盾を抱えていることに気づけば、「マルコ」と「ヨハネ」が神殿を清めるというイエスの行為を通して、異なる教えを説いているがために、この出来事をそれぞれイエスの宣教活動の違う時期に設定したのだと考えることもできる。
しかし歴史的観点から見れば、この二つの記述に整合性を持たせることはできない。
アーマン
上記、読みやすく、改行した。

新約聖書には、こうした、多くの矛盾した、記述が、あるということ。

通常の、キリスト教徒や、読者は、それに気づかないのである。
言われて、はじめて、解る。
それほど、意識しないで、読むのである。

単なる、読書ならば、いいが、それを、信仰の根幹にするというならば、その矛盾を解かなければならないはず。

しかし、そんなことは、どうでもいいことだ、要するに、イエスの教えの、象徴なのであると、キリスト教の保守的な人は、言うであろう。
聖書作家の、意図するものを、無視して、どうして、聖書が理解できるのかとは、考えない。

それらは、信じれば、いいということになる。

日本の、キリスト教徒作家の、誰ひとりも、そのような、テーマを掲げなかった。
とても、残念である。
単なる、キリスト教の、片棒担ぎである。

しまいには、日本には、神不在の云々という、実に、蒙昧な、作家もいた。
神という、観念の違いさえも、知らずに、言うのである。
いずれ、名前を挙げて、批判することにする。

上記のような単純な事例よりも、つじつまを合わせることがずっと難しい(事実上不可能であるとあえて断言してしまってもいい)。聖書を構成する書の間に齟齬が見られるだけではなく、一つの書の記述自体が首尾一貫していないこともある。歴史的・批判的な学者は、福音書の記者が様々な出典を繋ぎ合わせたことによって、矛盾が生じたためだろうと長らく考えてきた。
アーマン

実は、私も、長い間、気づかずに、そうして、聖書を読んでいた。
まず、イエスキリストを、信じた。それから、カトリック教会の、教えを信じた。そして、聖書を読む。
聖書批判から、信者になったのではない。
最初に、信じたから、信者になったのである。

だが、私は、批判的に、聖書を読む前に、キリスト教というもの、その、教団の、教義に、疑問を持ち、さらに神学というものの、不明さにも、気づいた。
これは、神の学である。一体、人間が、神の学なるものを、論ずることが、出来るのかという、疑問だった。

そして、それらが、ギリシャ哲学の派生によって、なったものであるという。
更に、妄想逞しい、教父といわれる、人たちの、考えによって、何故、神学というものが、出来上がるのか、である。

仏教の、教義が、滅茶苦茶であるように、キリスト教の、教義も、滅茶苦茶であると、考えるようになった。

例えば、「ヨハネ」では、イエスは二章で初めて奇跡を行い、水をワインに変える。そして「イエスは、この最初のしるしを・・・」行ったと続く。この章の後半部分では、イエスがエルサレムで「沢山のしるし」を行ったと書かれている。さらに四章には、イエスが役人の息子の病を癒す場面があり、「イエスが・・・なされた、二回目のしるしである」となっている。あれ?最初のしるし、沢山のしるし、それから二回目のしるし?
アーマン

とても、単純な、誤りである。

だが、信じている人には、何も影響を与えない。
それは、信じているからである。
信じて、見えなくなっている。

信仰とは、目が開くことだったのではないか・・・
そして、信仰とは、心の自由を得ることだったのではないか・・・

ところが、逆である。
信仰とは、馬鹿になることである。
真っ当な、理性を、生かさないことである。
更には、知性さえも、投げ捨てることである。

そうして、立派な、キリスト教徒になってゆくのである。

まさに、自己洗脳である。

それに、牧師や、司祭が、拍車を掛ける。

そうした、妄想に浸りきった信者の中には、とても、正常だとは、思えない、霊感者が、現れたりする。
祈りのうちに、予知が出来るだの、予言が出来るだのと、妄想に、振り回されて、更には、人を巻き込み、混乱させる。

自己陶酔の、極みである。それも、嘘だらけの聖書を、見抜けずに、自己暗示のような、信仰を、純粋な信仰と、大きな勘違いをするという。

そして、悪いのは、更に、人をその世界に、引きずり込もうとする、熱心な信者である。

自分も、分からない、勿論、人も、解らないという、キリスト教、主イエスの元に、集うものたちを、集めるのである。

牧師、司祭に引き合わされて、感動の、信仰体験などという、妄想を、感じて、入信するという、段取りである。
何故、人は、拝むのか・・・
今の、私のテーマである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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