2010年08月13日

天皇陛下について 13

日本は、和平工作として、ソ連に期待していた。
しかし、ソ連は、期待できる国ではない。
確実に、日本が負けた戦争と確信してから、ソ連は、参戦したのである。

だが、そのため、交渉をかさね、天皇も進言されて、近衛文麿の、特使派遣をソ連に申請していた。

さて、鈴木首相は、政府見解として、
あの共同声明は、カイロ会談の焼き直しにすぎない。政府として、なんら重大な価値があるとは、考えられない。ただ、黙殺するだけである。われわれは、戦争完遂にあくまで邁進する。
と、述べた。

これが、問題となる。

黙殺という、言葉が、誤訳されたのである。
IGNORE、無視するが、REJECT、拒否すると、訳されたのである。

連合国に、全く違った、印象を与えた。

カイロ会談とは、1943年11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が、日本の無条件降伏と、その後の、領土決定事項を含み、要求したものである。

8月6日、広島に原爆投下される。

翌日、ソ連が、参戦する。
満州の関東軍が、奇襲されたのである。

そして、9日、長崎に、原爆投下される。

その日、午前11時過ぎ、鈴木首相は、ポツダム宣言を受諾するか否か、最高戦争指導者会議を、御前会議として、開いた。

鈴木首相、東郷茂徳外相、米内海相、阿南陸相、参謀総長梅津大将、軍司令部総長豊田大将、六名である。

鈴木、東郷、米内は、受諾する終戦賛成派。
他の三人は、反対派である。

それ以前の、閣議でも、平行線を辿っていた。

平沼枢密院議長も、同席したが、作戦上の有無により、戦争継続も可として、確答を避けた。

阿南陸相は、
最後まで、戦うことこそ、日本の道義と勇気を永久に残す
と、一歩も引かず、梅津、豊田も、同調した。
更に、本土決戦の必要を説く。

押し問答は、延々と続く気配に、鈴木首相は、
それでは、まことに、畏れ多いことですが、かくなるうえは、陛下の聖慮をえて、本会議の、決定といたしたいと、存じます
と、いい、陛下の前に立ち、頭を垂れた。

陛下は、
それでは、自分の意見をいうが、自分は、外務大臣の意見に賛成する
との、言葉である。

更に
本土決戦に備えながら、九十九里浜の防備でさえ、予定の、十分の一もできていない。決戦師団の武装、飛行機の増産も遅れている。このように、計画と実行が伴わないのに、どうして、戦争に勝てるだろうか
と、仰せられた。

そして、厳しく、
この状態で、本土決戦になれば、日本は、どうなる。日本民族は、みな死んでしまわなければ、ならなくなる。
忠誠な軍隊の降伏、武装解除、あるいは、戦争責任者の処罰を思うと、実に、忍び難いが、いまは、忍ばなければならない
と、仰せられた。

最後に、
明治天皇の三国干渉の際の、御心を偲び、自分は、涙をのんで、外相の意見に賛成する
との、御聖断を、下された。
加えて、自分一身のこと、皇室のことを、心配しなくてもよいとの、お言葉であり、一部の者、感動のあまり、嗚咽したという。

三国干渉とは、日清戦争で、勝利した、日本に対して、ロシア、フランス、ドイツから、講和条約で、清国から割譲をうけた、遼東半島の領有破棄を、申し入れてきた。
これは、ロシアの策である。
日本は、代償金を得て、やむなく、三国の勧告を受け入れたのである。

会議場に、嗚咽が洩れる。
鈴木首相は、
ただいまの思し召しをもって、本会議の決定と致します
と、宣言した。

ここにおいて、敗戦を受け入れ、ポツダム宣言受諾が、決定された。

その後も、阿南陸相は、
皇室保全の確証がないかぎり、陸軍は、戦争を継続する
との、強硬意見を発した。
国が滅んで、何の国体か・・・

陛下は、
将兵の動揺は、大きいと思うが、そのためにも、自分は、いつでも、マイクの前に立つ。自分が、いかようになろうとも、との、決意を示された。

天皇陛下は、皇室の保全に関しては、一言も、言葉を発していない。
つまり、皇室存続より、国民のことを、主に考えていたのである。

歴史に、もし、は無い。

だが、陛下が、皇室保全を全面的に、考えたら・・・

一億、総玉砕も、ありえた。

また、亡命を考えたら・・・

日本国民は、絶望の果てに、多くの国民が、自決しただろう。
そして、更に、今の日本は無い。

時に、八月十日午前二時二十分である。



posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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