2010年08月07日

天皇陛下について 6

さて、日本は、日清、日露戦争の勝利で、中国の覇権を獲得してゆくのだが、南部の、蒋介石率いる、国民革命党軍は、外国勢力を排して、中国統一を、謀り、猛進撃を開始した。

日本は、北部の、張作霖を擁して、大陸の利益を得ようと、していた。

張作霖爆殺事件が、起きたのは、昭和三年六月四日である。

日本軍は、国民革命党軍と、交戦状態にあり、張作霖元帥も、日本の軍部から、離れようとしていた。
このままでは、戦況、人心ともに、不利になると、考えた、関東軍参謀、河本大作は、満州邦人の、伊藤謙二郎と、張作霖の暗殺を企てた。

張作霖は、国民革命軍に追われて、北京から、現在の、瀋陽へ落ち延びるため、満州鉄道に乗っていた。
爆薬は、線路に仕掛けられ、列車ごと、吹き飛ばされた。

事件は、関東軍から、蒋介石一派の、南方便衣隊の、仕業であると、発表されたが、事実が、確認されると、その報を耳にした、昭和天皇は、参内した、田中義一首相や、白川陸相に、満州の支配者を、陸軍が、暗殺するとは、よろしくない、といわれた。

それでは、なお調査の結果・・・
と、責任者を、降格、停職、譴責処分ですませた。
それを、上奏すると、天皇は、それで、軍紀が維持できるのか・・・
二度と、聞きたくないと、おおせられて、田中内閣は、総辞職した。

だが、天皇の、怒りも、空しく、事変は、拡大するばかりだった。

それから、三年後にも、再び、満州鉄道が、爆破される。
それも、関東軍によるもの。

北も、南も、抗日闘争を繰り広げていた。
身勝手な、強引さは、日本の属国である、朝鮮軍にも、飛び火して、独断派兵を推挙することになる。

天皇陛下は、またか・・・
また、こういうことになったのか、と深く憂慮され、御座所を歩き回られる、足音が、侍従たちにも、聞こえるほどだったという。

結局、朝鮮軍派兵問題は、皇軍として、擁護しなければ、補給路を絶たれ、被害が、重なるとして、陛下の追認を得た。

いかに、関東軍が、独裁的だったかということである。

天皇陛下は、この度は、致し方ないが、以後は、十分に注意するようにと、忠告するが、軍部の独走は、止むことがなかった。

年が明けて、上海事件が、起きる。

日蓮宗の、僧侶五人が、上海市内を、歩いていた時に、十数人の中国人が、襲ってきて、重傷を負わせた。

これが、引き金となり、在留邦人と、中国人の、抗争が、始まった。

日本軍は、上海市に立て籠もる、中国軍に対して、攻撃を開始する。

このとき、英米両国は、中国の依頼で、国際連盟の名のもとに、兵を派遣し、満州事変につぐ、日本軍の、進攻を阻止しようとした。

日本の、国際連盟脱退は、時間の問題となる。

さて、昭和七年五月、5.15事件が起こる。

クーデターを計画したのは、陸海軍の青年将校、士官候補生たちである。
それは、テロ集団「血盟団」に感化されての決起だった。

日蓮宗の、井上日召という者の、一人一殺主義が、唱えられていた。

彼らは、首相官邸にいた、犬養毅に、銃弾を浴びせ、暗殺。
他のグループも、次々に、内大臣、立憲政友会、東京市内各変電所を、襲撃し、破壊工作を行った。

驚かれた、陛下は、後に、終戦時の首相を務めることになる、侍従長、鈴木貫太郎海軍大将を通じて、ときの、元老西園寺公に、次期首相任命に当たっての、本意を伝えられた。

この事態は、内閣が、奏上して、天皇の認可を得ていた、それまでの、立憲君主制の、慣例では、珍しいことである。

立憲君主制は、国民の選挙による議会が、政務を遂行し、議決以外の、君主の専断がないようにされている、政体のことである。

ここが、注目すべき、ところである。
議会が、政務を行う。そして、決定したことを、天皇に奏上する。
それを、天皇が、認可するという、体制である。

天皇戦争責任を問うものは、これを、知らないようである。

平安期から、天皇は、特に、その態度を、とられていた。
天皇は、統治しないのである。

そして、昭和天皇の、勅旨は、次である。

首相は人格の立派なものを推す。
政治の幣を改善し、陸海軍の軍紀の振粛は、一に首相の人格いかんによる。
協力内閣、単独内閣は、あえて問うところにあらず。
ファッショに近きものは絶対に不可とする。
憲法は擁護しなければならない。しからざれば明治天皇に相済まない。
外交は国際平和を基礎として、国際関係の円滑に努めること。
事務官と政務官の区別を明らかにして、網紀の振粛を実行すること。

更に、当時の若者の、行き過ぎを批判して、大臣こそ、みずから犠牲になり、処置に当たるようにと、申し渡された。

ファッショとは、イタリア語の、束という意味で、政治体制として、労働者階級の革命的運動にたいし、資本主義を擁護する、ブルジョア的反革命的暴力支配のことで、帝国主義的で、国粋主義の、一党独裁を志向するものである。

それまでの、慣習からは、実に珍しいことで、天皇の、統帥権を発動されたとも、受け取れる。

昭和天皇は、行過ぎた、国粋主義、天皇を掲げて、一党独裁を行う勢力を、否定したのである。

古から、天皇は、国民を、公宝、おうみたから、と称して、国民主体の政を、希望されていた。

天皇が、国民を思う心が、素直に、国民に通じていたのである。
これは、日本の特徴である。
君臨しても、統治しないのである。

それは、簡単に言えば、天皇は、すめらみこと、であり、詔、みことのり、を、発する存在であるという、意識。
すべての国民の、総意を、聞き届けて、それを、再度、みことのり、するという、存在なのである。

すめら、とは、統べる、みこと、とは、御言である。

ちなみに、尊称しては、尊、命、も、みこと、と、呼ぶ。

天皇は、国民の親ではない。
天皇は、皇祖皇宗と、国民を、つなぐ、最高祭祀の立場に、あらせられる。
それでは、皇祖皇宗とは、天照る神に、代表される、日本民族の祖霊のことである。

この場合の、神とは、かむ、とお呼びする。

欧米、アラブの神とは、日本では、上と書いて、カミと、呼ぶのに似る。
守は、カミと呼び、その一定地域を、治める者を、カミというのである。

因幡の守、いなばのかみ、である。
それは、因幡を、治める者である。

これについても、追々と書いてゆく。



posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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