2010年08月04日

あらっネグロス島へ 4

参拝を、終えて、戻る道、声をかけられた。

木村さんですか・・・
ええ
大西です
ああーーー

戦没者の慰霊のために、戦地に出掛けて、桜を植えている方である。
桜会の代表であり、本日も、靖国神社の、草刈に来ていたという。

最初に、お会いしたのは、チェンマイである。
あれから、三年が過ぎる。
チェンマイの、タイ・ビルマ戦線の追悼慰霊碑にも、桜を植えていた。

お手紙では、お話している。
偶然のことで、嬉しく、驚いた。

今日は、こんな格好ですから、声をかけるのを、躊躇ったのですが・・・
と、仰る。

確かに、草刈用の服装である。
しかし、ご苦労様である。

戦争犠牲者を、忘れていない人々がいる。

次は、パラオの、ペリリュー島へ、出掛けると、言う。
私も、あの、激戦地である、ペリリュー島には、出掛けるつもりだった。

直行便が出るのが、九月の時期なのだそうである。
八月、九月に、特別便が出る。夏休みのせいでもある。

更に、ツアー旅行になる。

格安航空券だと、台北か、グアム経由になる。

しばしの、立ち話だった。
いつか、ご一緒したいと、申し上げて、頭を下げた。

それから、茶屋に立ち寄る。
ソフトクリームを食べるためである。

そして、母に、お土産の、お菓子を買う。
もう、靖国神社などに、出掛けて来られない年である。

落雁を買った。
昔、落雁は、贅沢なお菓子だった。
今は、貧乏臭い・・・
しかし、懐かしさで、食べる。

日の丸を、丸めて、しばし、休憩する。

参道を通る人を見ている。

二時間ばかり歩いて小休止となった。私も崩れるように地面に腰を降ろす。転がるように横に寝てしまう兵士もいた。しばらくして出発となり、闇の中に立ち上がり歩き始めたが、間もなく「橋本がいないぞ」と誰かが言い出した。しかし、長い隊列は容赦なく暗闇の中を進んで行く。
私たちの小隊もこの流れの一部となって最後尾辺りを行くだけで、誰も止まるわけにいかない。引き返し、先ほど休憩した所まで探しに行きたい気持ちはあるが、そうなると闇夜の中で方向を失い、自分も落伍者になってしまう恐れがあるので、どうにもならない。躊躇している頃、後方遠くで「ドーン」という手榴弾の爆発音がした。橋本上等兵がやったのだろうか。誰も悲痛のあまりものも言わず黙ったままで闇の中を遅れまいとして歩いた。
ビルマ最前線 白骨街道生死の境 小田敦巳

病になった人、もう、動けない、体力を失った兵士は、自爆して果てた。

戦死ではない。
自爆で、亡くなった兵士も多い。

戦記を読むと、時々、先が、読めなくなる。
その状況を理解しようとして、佇むからである。
しかし、理解を超える。
皆の迷惑になると、自爆する兵士もいる。

連隊本部の山本上等兵が自分の水筒に水を汲んできて、竹竿の先に括りつけ林伍長に差し出した。彼はそれをゴクリと飲み、「有難う、俺は助からない、死ぬ・・・山本、わしはここで死ぬがお前が内地に帰ったら、故郷の父母にこの歌を伝えてくれ」と言った。
「身はたとえ ビルマの果てに 朽ちるとも とどめおかまし 大和魂」という辞世の歌を。そして、「みんな、あっちへ行ってくれ」と言い、手榴弾を自分で叩き轟音と共に散っていった。実に見上げた最期であった。
上記より

これを、我が身のことと、考えてみるのが、体験の追悼、追憶である、経験となる。
体験するわけではないが、共感する能力により、経験となる。
言葉遊びをしているのではない。

その、共感能力を、日本では、別名、あはれ、という。
もののあはれ、である。

その兵士たちが、靖国にお奉りされている。
だから、彼らに、その御霊に、お逢いするために、参拝に来ている。

国のために、命をかけて、苦労された兵士の皆様に、感謝と、慰霊の心を、持つことは、世界の常識である。

戦犯合祀があるから・・・
敗戦したから、戦犯になったのであり、勝てば、戦犯などというものは、存在しない。

歴史を、見よ。

今、この世界大戦の、事実が、明るみにされてきた。
その時、アメリカの、ルーズベルトが、戦犯になるだろう。
しかし、アメリカ国民は、彼を裁くだろうか。

更に、ルーズベルトの墓を暴き、不遜な行為をするだろうか。
更に、マッカーサーを、戦犯とするだろうか。

アメリカが、仕掛けた戦争であるとが、明確になってきた。
さて、どうする・・・

日本には、戦犯という、罪状は無い。
あれは、東京裁判によるもの。それを、今、認めないとしてもいい。

日本に、戦犯は、存在しないのである。

フィリピン、モンテンルパの刑務所に、日本兵の戦犯とされた、B、C級戦犯が、収容されていた。
その大半は、無実である。

何とか、理由をつけて、戦犯にされたという、悲劇である。

だが、数名の処刑者を出して、開放された。
一人の、歌手によって、それが為された。
渡辺はま子である。

モンテンルパの夜は更けて、という、獄中で、作詞し、作曲された、歌を、日本に持ち帰り、歌った。
それが、国民を動かし、自発的に、嘆願書の署名が集まり、フィリピン大統領が、開放した。
大統領も、その妻と、子供三人を、日本兵に、射殺されていた。

全国に、戦犯を開放する、嘆願書の、署名運動が、展開された。

戦犯などとは、実に、馬鹿馬鹿しい。

戦犯を、戦犯と呼ぶ、日本人が、戦犯認定戦犯者である。

私は、言う。
日本に、戦犯はいない。
戦犯は、アメリカにいた。

さて、これを書き続けても、終わらない。
兎に角、私は、今年、二度目の、慰霊を、行った。

最期に、靖国神社に、私は、組しないといった。

それは、それ、これは、これ、である。

私は、神社神道の、神道を、新神道と、便宜上言う。
私は、古神道である。
更に、新興宗教の古神道を名乗る、偽者の古神道ではない。

大和朝廷以前の、富士王朝、一万余年の伝統を有する、天照るかむ、の、定めた、かむながら、である。

富士吉田市に、微かに、その名残がある。
阿曽山大神宮跡の、小さな、社、やしろ、である。

現在は、坂上田村麻呂が、創建した、浅間神社が、ある。

しかし、それは、大和朝廷の、命により、創建したもの。

ただし、みらめみこと、当時は、大政頭、おおまつりごとかしら、と、呼ばれた、主を、持つ、民族である。

そして、すめらみこと、は、現在まで、信じられないが、一系なのである。

富士王朝の、おおまつりごとかしら、が、大和朝廷、そして、神武天皇の、血族である。

証拠があり、私の霊感である。

アカデミズムの、歴史学者が、権威を失う。
それだけの、私は、確信がある。

学者は、プロである。そして、それは、商売である。
私は、素人である。そして、それは、商売ではない。

誤てる学者は、幽界にて、反省し、己の罪を、贖っている。
この世の、名誉を欲した者、霊界には、中々、上がれないのである。
これを、あはれ、という。



posted by 天山 at 00:00| 千鳥ヶ淵、靖国神社へ 平成22年8月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 4

天皇は日本民族の家長であって、任期もなければ交代もない。共和国の大統領は、その地位を維持するためには、常に民衆と接する必要に迫られているが、天皇にはその必要がない。更にいえば、一般国民のプライバシーが尊重されるのと同様に、天皇家のプライバシーもまた尊重されなければならない。
今上天皇 藤島泰輔 総監修

私も、上記に賛成である。
更に、加えて、いえば、日本民族の、家長、それは、国体であり、民衆の決定ではなく、自然発生的に、出来上がったものであるということ。
そして、それが、民衆に、受け入れられてあったこと。
つまり、日本人は、自然に、民の上という意識を持って、天皇を見ていたこと。

昔、天皇を、天子様と、呼んでいた。
更に、そのお姿さえ、見る事が出来なかった。
それが、理想的だった。

天皇陛下を、見る必要は無い。

その存在だけで、十分だった。

上記の本を、引用する。
天皇制という制度は、ごく短い親政の期間を除いて、天皇が現実の政治と無縁だったから今日まで続いて来た。これは長い歴史の間に日本人が体得した「知恵」である。将軍家が日本を統治していた時代に、天皇家は京都の御所に在って、名目的に将軍や諸侯に官位を授与する立場でしかなかった。その時代、御簾の彼方の天皇を垣間見ることさえ、民衆には機会がなかった。それでも天皇家が常に将軍家の上に存在したのは、存在が見えなかったからである。

あの、戦国時代でさえ、天皇家を、攻撃するものが、無かった。
あの、信長でさえ・・・

何故か。
天皇を敵にするということは、民衆、国民を敵にすることだと、知っていたからである。

貴い身分の天子様という、存在を置いたのは、日本人が体得した、知恵であるという。
和を貴ぶ、日本民族の、知恵なのである。
その、和の、象徴が天皇であり、その天皇が、国体なのであるという意識。
つまり、元首であるという、意識。

その、元首である天皇は、武力を持たない存在である。
つまり、敵を想定しない、存在なのである。

国民の一人に、敵を想定しない存在である、人がいる。
そういう人を、上に、頂くというのが、知恵だというのである。

名目的に、官位を授与する立場でしかなかった、というが、違う。

それは、大きな勘違いである。
確かに、行為としてみれば、そのようである。

しかし、明治維新前後、会津藩主、容保が、孝明天皇から、御製、お歌を、贈られている。彼は、その後、生涯に渡り、その御製を、胸に、掲げていたという。
肌身離さず、御製を抱いていた。

武士には、武力があるが、権威が無い。
そこで、無形の権威ある、天皇の名の下に、大義名分を欲した。

会津藩を打つために、薩長は、錦の御旗を作ったほどである。
そして、容保が、降参したのも、仙台藩の、王氏に逆らうのは、末代までの、恥であると、説得されてである。

それが、民族の、知恵であると、看破したのは、見事である。

戦をしないように、殺しあわないように・・・

ただ、平清盛のように、一時的に、上皇を追放するという、暴挙に出た、傲慢なものもいる。

驕れる平氏は、矢張り、滅んだ。

源頼朝も、天皇から、官位を頂いて、鎌倉幕府を開いた。

日本には、そういう、伝統と、知恵がある。

大化の改新の前に、丁度、舒明天皇の時代である。
蘇我氏の勢力と、今風に言えば、連立政権を、天皇家、大王家が結んでいた。

しかし、蘇我入鹿の、目に余る、暴挙を見て、このままでは、大和の国が、蘇我王朝になると、舒明天皇の、皇子である、後の、天智天皇が、立ち上がって、大化の改新を遂げた。

天智天皇は、天皇家の、中興の祖であると、いってもよい。

そして、天武天皇により、天皇家の、位置が、更に確定する。
だが、それで、納得しては、いけない。

天皇家の、地位の確定は、その以前にある。

少し、話は、変わるが、天皇家が、常に、イギリスの王室と、比べられたり、そこに、学べという、勘違いする者たちがいる。

全く、イギリス王室と、天皇家は、異質である。
その、歴史は、滅茶苦茶である。
更に、彼らは、海賊から、成り上がった、王様である。
つまり、地主の、親玉である。

成り立ちが、全く違う。

イギリス王室は、いくらでも、庶民的になってもよいが、天皇家は、庶民的になる必要は無い。

タイでは、ウィリアム王子の、裸体の写真が、出回るほどだ。
それほど、あちらの王室というものは、天皇家とは、異質過ぎる。

園遊会などで、高齢の昭和天皇が、各界の著名人たちと、言葉を交わすのを、見るたびに、何故、このような、馬鹿下駄ことをするのかと、いつも、思った。

天皇陛下は、そんな必要は無い。
ただでさえ、天皇の、一日は、忙しいのである。
つまり、朝から、国と、国民のための、祈りを、御行為される。

特に、昭和天皇から、それが、多くなったという。

御簾の向こうから、その御声が、洩れ聞こえるだけで、よい存在である。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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