2010年08月17日

天皇陛下について 17

さらに、当時の、中国の状態を、俯瞰する。

1912年、孫文の辛亥革命があり、清は、滅亡する。
歴史的な、出来事である。
二千年以上続いた、帝政中国が、終焉したのである。

臨時大統領に、孫文が推されるが、まもなく、軍閥の袁世凱が、実権を握る。
孫文は、皇帝の退位と共に、座を退く。

しかし、独裁体制を、固める、袁世凱に対して、民主政府を樹立するため、再度、孫文が、立ち上がる。

その、中華革命党は、袁世凱の死後、1917年、軍閥政府打倒を、掲げて、広東に、もう一つの、政府を打ち立てる。
それが、中国国民党である。
その、軍司令部を務めていたのが、蒋介石である。

1921年、毛沢東、周恩来が、中国共産党を、誕生させる。

二大勢力は、1935年に、戦い、共産党軍は、蒋介石の、国民党軍に、完璧に、叩き潰される。

毛沢東は、北へ、北へと、逃れる。
そして、延安を軽微していた、張作霖の息子を、そそのかし、西安にやってきた、蒋介石を、捕虜にする。
延安から、周恩来の軍政も、駆けつけ、蒋介石の命は、風前の灯であった。

ところが、そこに、ソ連の、スターリンから、電報が入る。
蒋介石を生かして、日本と、戦わせろ、である。

狡猾なスターリンが、考え出した謀略は、戦わずして勝つと言うもの。

敵同士を、戦わせて、出来るだけ、長期戦に持ち込む。そして、両者が、疲れ果てたときに、割って入り、漁夫の利を得る。

スターリンの考える敵は、国民党だけではない。
日本、アメリカ、ドイツ、イギリスなどである。

その後は、そのシナリオ通りに、進む。

最後になって、日本に参戦し、日本から、北方領土、樺太を奪い、中国、東欧などの、共産主義化に、成功するのである。

酷いのは、日本人、百五万人を、シベリアに、長期抑留し、奴隷同然に扱い、酷寒の地で、シベリア鉄道の建設に、従事させたのである。
そして、四十万もの、日本人を、虐殺したのである。

中国の、泥沼の戦い、日支事変に、日本を追い込んだのも、スターリンに、通じていた、共産党である。

義和団の乱の後、日本は、西欧列強と同じように、清国と、条約を結び、北京周辺に、四千人の、駐屯軍を、派遣している。

そして、1937年7月7日、北京郊外の、盧溝橋で、夜間演習をしていた、清水中隊に、何者かが、発砲する事件が起きる。
上官の命令が、なければ、応戦できないと、自重するが、三度目の、発砲により、やむなく、応戦した。

これが、発端となり、日本と、国民党の全面衝突が、始まる。

真相は、わからないが、おおよそ、共産党であろうと、言われる。
事件の翌日、共産党は、国中の新聞、団体に、日本が蜂起した。北京が危ない、戦闘の準備をと、檄を飛ばしている。

共産党とは、手段を選ばないのである。
自分に利があれば、それでいい。さらに、人間主義ではない。
単なる主義、主義である。
宗教と、同じである。

最近の、研究では、共産党は、日本軍にも、国民党軍にも、同時に攻撃したと、言われる。
だから、日本と、国民党は、誤解して、戦う状態になったというのである。

毛沢東在世中に、中国を訪問した、日本の社会党の、議員が、中国を侵略したことを、詫びると、毛沢東は、
日本が国民党と、戦ったおかけで、われわれは、天下を取れたと、答えている。

それでは、アメリカは、何をしていたか。
張作霖の、息子と、手を組み、満鉄包囲網を築き、満州における、日本の利権を圧迫していたのである。

満州を巡る、日米の確執が、始まったのは、日露戦争後からである。

日本が、満州国を誕生させた、1932年、アメリカ大統領に、フランクリン・ルーズベルトが、就任した。
彼は、激しい、人種差別主義者で、日本人を、最も嫌った。

彼も、日本叩きに、利用したのが、蒋介石である。

アメリカ、イギリスは、フランス領だった、インドシナ半島の、ハノイと、ビルマから、蒋介石に、武器弾薬、食糧などの、支援物資を、送っている。
抗日軍事援助を、行っていたのである。

ルーズベルトの、狙いも、スターリンと、同じである。

両者、共倒れになれば、都合がいいのである。

更に、驚きは、1940年、フライング・タイガーと、名付けられた、正規の空軍二百人を、アメリカが、蒋介石に、派遣して、日本と、戦わせるという、暴挙である。

日本とは、中立条約を結んでいるにも、関わらず、である。
これは、重大な、国際法違反である。
宣戦布告なくして、参戦している。

更に、アメリカは、日本に対して、1939年、通商条約の破棄を通告し、その十月には、アメリカ大使が、条約の締結を拒否し、翌年、条約が、失効するのである。

日本は、アメリカに対して、懸命に、関係緩和を、努めていた。
にも、関わらず、アメリカは、日本に、戦争突入を、迫るべく、様々な、形で、追い詰めてゆくのである。

日本は、アメリカと、戦う、戦争を行う意思など、毛頭無かったということである。
これは、覚えておくべきことである。

アメリカは、イギリス、中国、オランダと、交渉を重ねて、共同戦線を張り、日本に対する、経済封鎖を断行する。

軍需物資は、勿論、生活必需品の、日本への、禁輸措置を課したのである。

追い詰められた、日本が、取るべき道は、インドシナ半島への、駐留である。
その動きに、アメリカは、石油の、全面禁輸を実施した。

当時、日本の石油の、99パーセントを、アメリカの輸入に頼っていた。

ここまで、追い込まれると、戦争の道しかなくなる。

何度も、私は言う。
アメリカによって、起こされた、戦争が、大東亜戦争なのである。




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2010年08月18日

天皇陛下について 18

八月十日午前二時二十分の、天皇陛下の、ご聖断により、敗戦を受け入れ、降伏を決定した。

だが、それだけでは、陛下の御心は、まだ、理解できないゆえに、更に、その後の、二度目の御前会議を書く。

午前四時、国体に変更なきことを、唯一の条件として、閣議でも、ポツダム宣言の受諾を決定した。

その時に、阿南陸相が、問題にしたのは、降伏申し入れへの、米国の回答文である。

天皇および日本政府の国家統治の権限は・・・連合国軍最高司令官の下におかれるものとする・・・最終的な日本国の政府の形態は・・・日本国民の自由に表明する意志により決定すべきものとする・・・

天皇制の、存続に関しては、触れず、国民の自由な意志で決める、としていることと、天皇は総司令官に従属する・・・というものだった。

陸相や、両院議員総長は、
これは、日本を属国とすることである。国体に変更を加えないことを、絶対条件にせよ
と、唱えて、譲らない。

陛下は、
阿南、心配するな、朕には確信がある
と、仰せられた。

阿南大将は、かつて、侍従武官として、奉仕し、その忠誠無比な武人気質を、陛下は、深く愛されていた。

統治形態を国民の自由な意志で決める、ということについても、陛下は、
たとい、連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのでは、しようがない。人民の自由意志によって、決めてもらって、少しも差し支えない
との、仰せであった。

しかし、日本始まって以来の、降伏であり、ことは、一気に進まず、更に、八月十四日、再び、御前会議が、開かれた。

新たに、陸海軍省の軍務局長、内閣書記官らも、加わり、首相以下、十一名である。

ここに重ねて聖断を、わずらわし奉るのは、罪軽からずと存じますが、反対の者の意見も親しくお聞き取りの上、重ねて、何分の御聖断を仰ぎたく存じます。

抗戦派は、これが最後の機会とみて、必死となり、涙を交えて、訴えた。
とくに、阿南陸相は、溢れれる涙も、そのままに、時に慟哭して、降伏反対を、訴えた。

一同、寂として、声なく、陛下も、たびたび、眼鏡を持ち上げて、白手袋を瞼に、当てた。

そして、天皇陛下は、
ほかに、別段の発言がなければ、私の考えをのべる。これ以上、戦争の継続は無理だと、考えている。
国体についての不安は、もっともだが、先方も、相当の好意をもつと、解釈し、そう疑いたくない。
自分はいかようになろうとも、国民の生命を助けたい。

更に、陛下は、
このさい、私になすべきことがあれば、何でもいとわない。

一同は、嗚咽しつつ、聞き入っていた。

自分が、いかようになろうとも
そして、陛下が、目頭を、押さえると、全員、こらえきれず、号泣した。

敗戦は、ここで、最終的に、確認された。

天皇の、戦争責任問題という、議論がある。
天皇は、戦争の責任を、一身に負ったのである。

何度も言うが、退位も、亡命も、願わずに、ただ、国民と共にあろうとした。
そして、日本の伝統を、滅びさせることは、出来ないと、決断された。

天皇の、戦争責任を、求める国もあり、天皇死刑を、求めた国もある。
だが、マッカーサーは、反対だった。
それでは、天皇を、更に英雄にしてしまうという、考えである。

今、現在の、考え方で、天皇戦争責任を、問うのではない。
その当時の、あり方で、問うべきである。

もし、天皇陛下が、死刑になった場合・・・
国民は、どうなったのか・・・

あの当時の、天皇に対する思いは、親以上の存在、何よりも、国体であらせられるとの、考え方である。

連合軍の統治は、全く進まず、国内での、内戦状態に突入したであろうことは、難くない。

昭和天皇が、生きて、その、責任を負ったからこそ、現在の日本がある。
そして、立ち直ることが、出来たのである。

天皇は、作られる存在ではないと、書いた。
そして、天皇という、存在は、国民と、共にあるのである。

更に、国民の祈りの対象とされる。
それは、天皇が、国の最高祭祀で、あらせられるからである。

これは、もはや、天皇制云々の問題ではない。
日本は、伝統として、天皇を、そのように、戴いてきたのである。

敵を想定しない、存在が、国の、上、カミに、おわします・・・なのである。

下、シモには、国民が、いる。
そういう国が、日本という国である。

欧米列強は、天皇を、ローマ法王のように、理解した節があるが、全く、異質なものである。

教義による、権威などを、持つものではない。
祖霊に続く、御親、みおや、と、つなぐ存在なのである。
つまり、祖先との、取次ぎ役なのである。
それを、理解できるものではない。

祖霊崇敬など、彼らは、特別の価値を、見出さない。
皆、神の国、天国に入るべきものであると、考える。

神を崇めるが、祖霊を、崇める、伝統は、無いのである。


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2010年08月19日

天皇陛下について 19

よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ   
明治天皇御製

よも、とは、四方、世界のことである。
皆、はらから、とは、縁あるもの。同胞である。兄弟である。

など、しかし、波風が、立ち騒ぐ、とは、争いが、起こるという。
つまり、争いは、しない、という、意思である。

昭和天皇は、その、御製を、朗詠して、平和裏の解決、外交での、解決を、望まれた。

時の、首相、近衛文麿は、陛下の、御意を受けて、アメリカ大統領、ルーズベルトに、連絡を取り、日米首脳会談を開きたいと、申し込む。
それに、ルーズベルトは、機嫌よく応じるが、実際、腹の中は、すでに決まっていた。
開戦である。

1941年八月、プリンスオブウェールズ号艦船で、イギリスのウィンストン・チャーチルと、ルーズベルトは、大西洋会談を行い、日米開戦を密約する。

いかに、日本に、先制攻撃を仕掛けさせるか、すでに、協議を済ませていた。

チャーチルは、焦っていた。
このままでは、ドイツに攻撃されると。
そして、何とか、アメリカに、参戦させようとしていた。

ルーズベルトは、すぐにでも、参戦したい。
だが、彼の選挙公約は、第二次世界大戦の戦場には、アメリカの青年は、送らないとして、当選したのである。

参戦するには、それ相応の、戦争反対に対する世論を、納得させる必要がある。

そこで、ルーズベルトは、ドイツの商船を、二度も沈めたが、ヒトラーは、乗ってこなかった。

かくなる上は、日本に、それを、やらせる、という、魂胆であった。

そんな、謀略など、考えもしない、日本は、十月に入っても、天皇の命で、平和的解決を、模索していた。

10月16日、近衛内閣が、倒れ、東条英機内閣が、出来る。
東条は、大命を拝受したとき、陛下より、9月6日の、御前会議の決定を白紙にし、あくまでも、外交交渉を続けるようにとの、お言葉を賜る。

これを、知った、グルーアメリカ駐日大使も、クレギー駐日イギリス大使も、本国に、日本は、真に平和を望んでいる。今こそ、和を結ぶべきである、と、打電する。
しかし、開戦を決めていた、ルーズベルトも、チャーチルも、取り合わず。

アメリカが、突きつけてきたのが、中国大陸からの全面撤退、日独伊三国同盟の即時破棄という、ハル・ノートである。

ルーズベルトの陰謀は、最高機密であり、それを知る者は、三名だけである。
その中の、一人、スチムソン陸軍長官の、日記には、
われわれが過大な危険にさらされないで、日本の最初の一弾を撃たせるように、どのように誘導してゆくかが話し合われた。
と、書かれている。

事実、日本軍が、進駐した、インドシナ沖に、アメリカは、軍艦に仕立てた、四隻の廃船を、おとりにして、日本が攻撃したら、戦争のきっかけにするという、挑発も、行っていた。

ルーズベルトの、長女が書いた、「操られたルーズベルト」には、家族との会食の席で、ルーズベルトの、発言を、暴露している。

「私は決して宣戦はしない。私は戦争を創るのだ」

更に、真珠湾攻撃の前日は、
明日戦争が起こる
と、つぶやいていた、という。

日本は、考えに考えた末、通常の戦争では、敗戦は、火を見るより、明らかである。この上は、宣戦布告して、奇襲をかけ、多大な損害を与えて、早期に、和睦を申し入れること。
それしか、方法が無いという、ところまで、追い詰められたのである。

それは、日露戦争のときに、考えられた戦略と、同じである。

1941年12月8日、日本の存亡をかけて、ハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争に、突入する。

この、上記のことを、忘れることなかれ。
昭和天皇は、最後まで、平和解決を、希望されたのである。

暗号解読に優れていた、アメリカは、日本の真珠湾攻撃を、事前に察知していた。
それを聞いた、ルーズベルトは、飛び上がり、喜んだだろう。

これで、参戦の大義が、出来た。
日本の、卑怯な攻撃に、アメリカ国民は、参戦に反対するどころか、戦争に、奮い立つという・・・シナリオが、出来たのである。

ルーズベルトは、日本に対しても、自国民に対しても、顔を向けられない、謀略を作り出したのである。

この、大戦により、どれほどの人の命が、失われたか。

ここで、暫く、アメリカという、国と、その国民性について、検証する。

アメリカ人の、前身は、イギリスの、清教徒、ピューリタンといわれる人々である。

清教徒などと、呼ぶことすら、はらわた煮えくり返ることだが、アメリカ大陸の、先住民族、インデアンを、皆殺しにして、成り立った国である。

兎に角、単純である。
そして、憎悪に満ちている人々であった。
その、憎悪の元を、辿れば、古代エジプトにまで、遡る。

差別された、白人の子孫、末裔たちである。
古代、白人は、差別されていた。
その能力が、黒人より、劣っていたからである。

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2010年08月20日

天皇陛下について 20

初期の、アメリカ人と、アメリカという国を、精神分析する、実に、面白い、「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀氏の、著作から、俯瞰してみる。

岸田氏は、白人を被差別民族と、断じている。

その中でも、最も、差別されたのが、イギリスから、アメリカへ渡った、ピューリタンであるという。

これを説明するには、古代エジプトまで、遡る。

古代エジプトでは、高度な文明が築かれ、大帝国を成していた。
その、文化の、担い手は、黒人である。

エジプト帝国は、征服地を北に広げて、そこから、奴隷を連れてきた。
この奴隷が、白人である。

黒人の方が、文明のレベルが、高かったのである。

近代史では、奴隷というと、黒人であるが、それは、白人の、復讐であろう・・・か。

紀元前13世紀あたりに、この白人は、モーゼによって、指導され、エジプトから、逃亡した。
旧約聖書の、出エジプト、である。

この、逃亡奴隷たちは、何十年か後に、カナンに侵入して、イスラエル王国を、創設した。
そして、唯一絶対神の、ヤハウェを信仰する、ユダヤ教を作り上げた。

フロイトは、このユダヤ教を、当時エジプトで行われていた、アテン信仰が、元だとしている。

唯一神、アテンの信仰は、エジプト第18王朝の、アメンホプ四世が、突如として、はじめたものである。
その子である、ツタンカーメンの時代に、衰退する。
これを、モーゼ一行が、受け継いだと、ユダヤ人の、フロイトは、考えた。

旧約聖書の、最初の部分は、モーゼの手によるものであり、モーゼによる、妄想が、大半であると、いえる。

イスラエル王国は、紀元前10世紀に、南北に、分裂し、北が、イスラエル王国、南が、ユダ王国となった。だが、それぞれ、紀元前8世紀と、紀元前6世紀に、滅亡した。

その後、ユダヤ人たちは、カナンの地に戻るが、ペルシャや、マケドニアなど、様々な帝国に、支配される。
そして、最後に、ローマ帝国の、属州とされて、過ごすことになる。

紀元一世紀初めに、その属州に、イエスが、生まれる。
そして、イエスを奉じる、一派は、ローマ帝国に迎合するユダヤ支配層に、反抗し、そのため、不穏分子として、イエスが処刑される。

イエスの、死刑は、純粋に、宗教的なものではない。
多分に、政治的なものである。

処刑されたことにより、イエスは、神格を持つことになる。
そのように、イエスを奉じる一派が、考えたのである。

この辺りについては、神仏は妄想である、私のエッセイを、参照してください。

その後、イエスのグループとは、別のユダヤ人グループが、二回にわたり、反乱を起こす。
第一次、 第二次ユダヤ戦争といわれる。

しかし、惨敗して、ユダヤ民族は、離散することになる。
これが、ディアスポラである。

イエスをメシアと仰ぐグループは、この反乱に参加せず、パウロを指導者として、キリスト教を創始した。

キリスト教とは、実は、パウロ教なのである。
イエスは、教団を、作らなかった。
更に、このキリスト教は、最初は、迫害を受けるが、政治的利用が得策だとして、紀元380年、ローマ皇帝により、認証されて、ローマの国教となる。つまり、ローマカトリックである。

だが、その頃の、信者には、ユダヤ、キリスト教徒は、少なく、新しい集団になっていたと、解釈する方が、真っ当である。

ユダヤ、キリスト教徒は、迫害によって、おおよそ、皆殺しにされたのである。

だが、それまでの、ローマは、多神教である。
ローマ人には、受け入れ難いことであったが、ローマ皇帝は、自身を唯一神と、重ねて合わせて、支配力を強めるために、不合理な教えのキリスト教を、強制したのである。

ローマ帝国は、広大である。
当然、ローマの属州にも、キリスト教が、押し付けられた。

ドイツなども、深い森があるように、本来は、多神教である。
一神教とは、無縁な民族だった。
しかし、権力によって、キリスト教を押し付けられ、受け入れざるを得ない。

だが、納得しないものを、受け入れた場合、無意識の世界に、その抑圧が、押し込められる。
決して、それは、消えない。

それが、異端となって、現れる。

異端は、様々な形があるが、一番、キリスト教に多い、異端は、一神教に対する、反発である。

甚だしいものは、創造主を、悪魔扱いする。

その、人々の、不満が、爆発したのが、16世紀の、宗教改革である。
文句をつける奴、つまり、プロテスタントである。
ドイツの、マルティン・ルターが、ローマカトリックに対して、反旗を掲げた。

プロテスタントは、カトリックと、袂を分かつが、その結果、皮肉なことに、ユダヤ教に近づくことになる。

それは、カトリックを批判する運動であったがため、プロテスタントは、聖書を第一に掲げた。

潜在的に、キリスト教に、反発していた闘争が、かえって、キリスト教の源流となった、ユダヤ教に近づけることになったのである。
聖書第一主義が、最も、ユダヤ的である。

このために、一層、ヒステリックになった彼らは、仲間内でも、激しく対立することになる。

そして、この宗教改革が、イギリスへと、飛び火した。

丁度、ヘンリー八世の再婚問題がこじれて、カトリックから、分かれた、英国教会も、両者の間で、揺れ動いたのである。

そこで、英国教会から、カルヴァン主義の、ピューリタンが誕生する。

これも、プロテスタントで、清教徒と、呼ばれる。

その、清教徒が、ジェームズ一世の、王権神授説の立場から、弾圧、迫害されるのである。

1642年から、清教徒革命が始まるが、その前の、1620年に、弾圧を逃れたピューリタンたちが、メイフラワー号に乗って、アメリカの、プリマスに、上陸したのである。

これが、アメリカの、創始者たち、ピルグリム・ファーザーズ、である。


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2010年08月21日

天皇陛下について 21

アメリカに渡った、ピルグリム・ファーザーズは、一版に言われる、信仰の自由を求めて、イギリスから、脱出したのではない。
彼らが、体制側の人間ではないことは、確かで、心の奥底に、深い抑圧を感じていた、人たちであった。

キリスト教徒であるが、キリスト教に対して、深い、恨み、辛みの心があったのである。

それで、岸田氏の、言葉で、まとめる。

アメリカ合衆国は、エジプト帝国で差別されたユダヤ人がエジプトから逃亡して、パレスチナに渡り、その先住民を追い払って国をつくったが、そこでさらにあれこれの異民族に、ついでローマ人に差別され、その上、ユダヤ人を差別するローマ人に迎合する支配層のユダヤ人にもさらに差別された下層のユダヤ人がキリスト教を信じるようになり、そのキリスト教がローマ皇帝の下層民に普及し、その結果、ローマ帝国の国教となったキリスト教が、ずうつと昔、アフリカの黒人に差別されて北の寒冷地に追い払われていたヨーロッパ人に押し付けられて普及し、キリスト教徒となったヨーロッパ人のなかで更に差別されたキリスト教の一派のピューリタンがヨーロッパから逃亡してアメリカ大陸に渡り、その先住民を追っ払って建国した国である。
と、なる。

要するに、四重の被差別の、どんづまりにある、民族なのである。

このような、歴史背景により、その抜群の軍事力で、気に入らない、他民族に対して、徹底的に攻撃し、虐殺する。

岸田氏は、
先住民族虐殺は四重被差別に対する最初の報復であった。
と、する。

四重の差別を書くと、
黒人―白人―ユダヤ人―キリスト教徒―ピューリタン、と、なる。

ヨーロッパの歴史は、キリスト教の分裂と抗争の歴史である。
組織は、分裂して、更に過激になる。
分派して、原理主義も生まれる。

ピューリタン、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントという、支配層は、紛れもなく、悪魔的である。

それでは、それからの、歴史により、その残虐性を、検証する。

テキサスが、まだメキシコの領土だった時代、入植した、アメリカ人は、1835年、独立戦争を起こした。
だが、劣勢となった、アメリカ義勇兵たちは、翌年、155人が、サンアントニアの、アラモ砦に立て籠もり、応戦する。
それでも、メキシコ軍に、壊滅させられた。

この時、アメリカが、掲げたのが、「リメンバー・アラモ」の、合言葉である。

アメリカは、復讐に燃えて、総力戦を展開する。
そして、独立を勝ち取る。

1846年、併合して、テキサス州としたのである。

そればかりか、余勢をかって、メキシコに宣戦布告して、勝利し、当時の、メキシコ領の、およそ半分に当たる、領土を、手中にする。

この時、奪取したのが、現在の、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ネバタ、ユタ、ワイオミングである。

ただし、アモラ砦の、アメリカ義勇兵は、メキシコ侵略の、囮だったと、いわれる。

これに、味をしめて、アメリカ政府は、19世紀末、同じ手口で、スペインを相手に、侵略を企てる。

スペイン領、キューバで起こった、独立戦争に乗じて、ハバナ港に、軍艦メーン号を、派遣する。
だが、何者かによって、爆破される。
260人の、犠牲者が出た。

この爆破事件を、スペインの陰謀と断じた、アメリカは、「リメンバー・メーン号」の、合言葉で、アメリカ国民の敵愾心を煽り、1898年、宣戦布告して、米西戦争に、入る。

勝利して、キューバ、フィリピン、グアム、プエルトルコを、奪うのである。

だが、しかし、この時の、メーン号の爆破も、アメリカが、画策したものだという、見方が、根強く残る。

そして、リメンバー・パールハーバーも、同じく。
伝統の手法に則って、仕組まれた陰謀。

12月1日、ルーズベルトは、各地の軍司令部に、戦争準備の指令を出している。だが、ハワイの軍司令部だけは、除いた。

そして、肝心な、二隻の空母と、新鋭艦19隻は、あらかじめ、移動させて、老朽艦16隻だけを残し、日本の先制攻撃を誘導した。

日本の、急襲によって、アメリカ兵の、約2400人が、死亡した。

戦争を仕掛けるためには、自国民さえも、このように犠牲にするという、悪魔的発想である。

さて、当時の日本は、そういう、欧米の国々の、成り立ちを知らず、その陰謀逞しい様も知らない。
日本人ならば、考えないような、陰謀である。

戦国時代の、国内戦ではない。

汚い、卑劣な行為は、日本の精神、武士道にはないものである。

白人が、軸となっている、国際社会の、有様を知らなかったのである。

アメリカは、自国の、国益に沿って、用意周到に、戦略を練った。
日本は、優勝劣敗の白人の、倫理と、国際社会の、現実を、知らなかった。

今でも、謝罪外交を掲げる、日本だが、大航海時代からの、欧米列強の植民地政策に、一度も、謝罪などしないのである。

東南アジアに、出掛ける私は、時々、小耳に挟む、彼らの言葉を聞いて、驚く。

昔は、ここは、俺たちの、国だったんだぜ、である。
全く、謝罪など、思い浮かばないのである。

白人であるという、だけで、傲慢不遜になれる、その民族の元を、見直すべきである。

更に、言えば、真珠湾攻撃当時の、アメリカは、レーダーの技術が進んで、暗号の解読技術も、発達していた。
アメリカは、日本軍の動向を、すべて、お見通しだったのだ。

その、あまりにも、うまく出来すぎた、攻撃に、警告を発した人物がいた。
東郷平八郎元帥である。
だが、日本の軍部は、慢心した。

大東亜戦争を、振り返り、検証することは、これからの日本の、国益を考える上で、最も大切なことである。
昔のことではない。
今も、国際社会は、そのようなのである。


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2010年08月22日

天皇陛下について 22

大東亜戦争を、長い歴史の、見方をすれば、五世紀に渡った、西欧列強、白人の、有色人種に対する、解放の戦争であったと、いえる。

有色人種が、到底適わないであろうと、諦めていた、白人支配、植民地化に、唯一、歯向かい戦った戦争が、日露戦争である。

世界史上、特筆すべき、戦争である。

そして、大東亜戦争により、それを、更に、具現化した。

人権の国というのは、日本のことを、言う。
アメリカが、自由と、人権の国ではない。

大東亜戦争は、自存自衛の戦争であり、アジアの開放という、崇高な目的を掲げて、戦った戦争と、今こそ、意味づけがされる。

更に、日本は、最初に、人種差別の撤回を求めた。

日本軍によって、シンガポールが、陥落したとき、当時、ロンドンに亡命していた、フランスの、ドゴール将軍、後の、大統領は、日記に、綴った。
シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉を意味する、と。

日本の敗戦後、アジアは、続々と、独立国が誕生した。
フィリピン、インド、パキスタン、ビルマ、セイロン、マレーシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア・・・

そして、アジアの、民族自決運動は、アフリカをも、動かした。
アフリカ大陸でも、続々と、独立国が生まれた。

これにより、五百年の間続いた、白人による、有色人種の植民地支配は、幕を閉じたのである。

1957年5月に、来日した、インドネシアの、ブン・トモ情報・宣伝相は、次のように日本政府の要人に語った。
われわれアジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパの人に対して何度となく、独立戦争を試みたが、すべて、失敗した。インドネシアの場合は、350年間も、である。それなのに、日本軍が、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスを、われわれの面前で、徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは、白人の弱体と、醜態ぶりを見て、アジア人全部が、自信を持ち、独立は、近いと思った。一度、持った自信は、決して崩れない。日本が敗北した時は、これからの独立戦争は、自力で遂行しなければならないと、思った。しかし、独力でやれば、50年は、かかると思っていたが、独立は、意外に早く勝ち取ることができた。
そもそも、大東亜戦争は、われわれの戦争であり、われわれが、やらねばならなかった。そして、実は、われわれの力で、やりたかった。それなのに、日本だけに、担当させて、少ししか、お手伝いできず、誠に、申し訳なかった・・・
である。

更に、タイの、ククリット・プラモード元首相は、次のように述べている。
日本のお陰で、アジア諸国は、すべて、独立した。日本という、お母さんは、難産して、母体を損なったが、生まれた子は、すくすくと、育っている。今日、東南アジア諸国民が、米、英と対等に話ができるのは、一体、誰のお陰であるか。それは、身を殺して、仁をなした日本という、お母さんがあったためである・・・

更に、である。
あの、マッカーサーまでが、東京裁判の最終判決の、わずか二年後、1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、その途端に、戦前の日本が、恐れた、北からの脅威の意味が、解ったのである。

マッカーサーは、日本を、ナチスと、同じような、軍国主義、邪悪な民族という、イメージを持って対処し、戦争を犯罪として、日本を裁こうとした。が、
侵略戦争の共同諜議なるものを、証明できなにかったのである。

だが、当時の、マッカーサーは、戦争裁判で、日本を裁く事が、使命と思っていたのである。

ところが、共産軍の、侵攻を放置すれば、朝鮮半島が取られ、更には、日本が危ないということを、身を持って知ったのである。

マッカーサーは、全力を挙げて、朝鮮半島を守ろうとした。結果は、第二次世界大戦に、匹敵するほどの、兵士の死者を出すことになったのである。

彼が、気づいたのは、ソ連や、中国をバックにした、北朝鮮と戦う場合は、朝鮮半島だけを、考えては勝てないということだった。
弾薬、武器は、中国、ソ連から、続々と、補給される。
つまり、補給源を断たない限り、降伏しないということだった。

勝つためには、補給基地となる、満州を空襲しなければならない。また、東シナ海に面した中国を、海上封鎖しなければ、ならない。

マッカーサーは、戦争中、その考えを、トルーマン大統領に進言したが、これを拒否された。それは、トルーマンが、ソ連と、原爆戦争に突入することを、恐れたからである。

そのために、朝鮮半島を、守りきる事が出来ず、アメリカは、北緯38度線から、北を敵に渡して、休戦協定を、結ばざるを得なかった。

この体験から、戦前の日本が、あれほどまでに、満州に執着したのか、北の脅威が、如何なるものかを、明確に、理解したのである。

連合国最高司令部、最高司令官を解任されて、帰国後、上院で、演説したときに、
日本の戦争は、侵略戦争というより、自衛の戦いであった、
と、語ったのである。

つまり、ソ連の脅威が、なければ、満州事変は、起こらなかった、ということである。

だが、マッカーサーが、更に、驚くべきことは、アメリカ内部にあったのである。
今まで、書きつけた事柄である。

悪と言うものも、国際社会では、相対的なものであろう。
しかし、相対的として、判断しても、白人主義は、矢張り、悪というしかない。

アメリカや、フランスなどが、いうところの、自由と人権などは、その国内における、言葉である。
日本のように、国際的感覚ではない。

国際連盟の、人種は平等であるとの、原則を打ち立てようとした、日本の提案に反対したのは、イギリス、アメリカ、ポーランド、ルーマニア、ブラジルの、五カ国である。

11対5であったが、議長であった、アメリカの、ウィルソン大統領が、全会一致、少なくとも、反対者がいないこと、との、論理を振りかざして、否決したのである。

よくよく、鑑みてみれば、アメリカには、自由も、人権も無いのである。

だから、オバマ大統領誕生が、嘘のようであった。
つまり、アメリカは、死んだのである。
新たなる、アメリカが、生まれるためには、数百年の歴史が必要である。

つまり、建国からの、年月と同じ、年月である。
世界一の、軍事大国として、それでも、世界に君臨するのか。

その、軍事を、売ってでも、経済の建て直しを迫られるはずである。
アメリカには、もはや、力は、無い。

とことん、日本に、見破られたからである。
次は、日本が、アメリカを、どのように、導くかが、問題である。


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2010年08月23日

天皇陛下について 23

昭和20年8月15日正午
天皇陛下の、御声は、全国に、ラジオ放送された。

朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せむと欲し、ここに忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英紫蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり・・・
堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。

慟哭と、動揺が、日本中を、震わせ、将兵の自決が続いた。

宮城、皇居前でも、集団自決が、行われるなどの、悲惨な事件が続いた。

鈴木首相は、戦争を終結させて、即日、辞職し、後継には、非常の措置として、東久邇宮稔彦王が、任命された。

皇族が、政治に関与するのは、天皇に、塁を及ぼす惧れがあり、明治以来、タブーとされてきたが、敗戦という、未曾有の危機を乗り越えるために、皇族の権威が、俄かに、要請された。

厚木航空隊の反乱などの、抗戦派の不穏な動きの、鎮圧と、占領軍受け入れ態勢の準備、外地の三軍への、勅旨伝達と、慰撫、ポツダム宣言に基づく、措置、国内の、治安維持、陸海軍の解体と、復員、戦犯問題、思想警察の解散などのほかに、経済再建、平和国家の青写真作り、など、なすべきことは、山積みしていた。

それは、天皇の権威を背景に、強力な、推進力となった。

だが、昭和6年以来、連続14年に渡る、戦争で、国民の、厭世観、無力感も、無視できなかった。

8月28日に、米軍の第一陣が、到着し、その二日後、8月30日に、マッカーサー元帥が、東京への途は遠かったと、降り立った。

米軍は、横浜、横須賀へ陸続と、陸軍部隊、海兵隊が上陸し、東京をはじめ、全国に進駐した。

9月2日、戦艦ミズーリ号のデッキで、降伏調印式が行われた。
義足を引きずり、首席全権重光外相が、出向いた。

横浜の、ニューグランドホテルに、仮滞在していた、マッカーサーは、9月8日、米国大使館の公邸に入り、17日、皇居のお濠ぎわの、第一生命館を、連合国軍総司令部、GHQとした。

いまや日本は、四等国に転落した。
マッカーサーの言葉である。
非常に、日本に対して、不敬な言葉を、吐いたが、マッカーサーは、日本のことを、知らない。多く勘違いしていたと、思われる。

日本にとって、幸いだったことは、軍政を敷く予定を、変更して、日本政府の、行政権を認めたことである。

GHQは、日本を解体すべく、復仇のメスを揮う。

その第一は、東条英機ら、39名の、戦争犯罪人を、巣鴨拘置所に、収容したこと。

東条は、逮捕のために、将校らが、自宅に来ると、自ら、拳銃で、心臓を撃ち、自決を計ったが、かすかな、狂いで、心臓を外れて、肺を貫通し、瀕死の重傷を負った。

戦犯の、逮捕は、その後も、続々と行われた。
軍、政、官、財、文化各界の要職にあった者たちは、戦々恐々と、息を潜めるように、日を送っていた。

天皇陛下は、
昨日まで、股肱と頼んだ者たちを、戦争責任者として、引き渡すのは、まことに、苦痛であり、忍び難いところである。自分ひとりが、引き受け、退位でもすることで、納めるわけにはいかないだろうか。
と、木戸内大臣に、諮ったが、木戸は、
いま退位を、仰せられては、皇族の基礎に、動揺をきたします。
と、反対した。

責任者たちの逮捕は、たしかに天皇にとって身を切られる苦痛であったろうが、じつは天皇自身、明日にもどんな過酷な運命に見舞われるか、予測もつかぬ身の上だった。
天皇裕仁の昭和史 河原敏明

そんな中、二人の、米英の、記者が、ジープで皇居に乗りつけ、天皇への、インタビューを申し込んだ。
驚いたのは、総務課の人たちである。

対応したのは、英語が得意な、黒田秘書官である。
天皇に会って、この戦争への感想と、今後の考え方などを、インタビューしたいという。

黒田は、唖然とする。
何ということか。記者の分際で、陛下に、拝謁したいとは・・・

黒田は、大臣と協議の上、
陛下とのご会見は、外務省を通して、手続きを踏んだ上にして、いただきたい。それに、陛下は、終戦時の過労で、目下、健康をそこねていらっしゃると、丁寧に、断る。

だが、彼らは、あれこれと、手を尽くし、ついに、UP社長と、ニューヨーク・タイムズ記者の二人が、9月25日に、空前のインタビューに成功した。

それは、事前に提出した、質問に、天皇が答えるもので、それは、拝謁の形をとった。

天皇が戦犯として逮捕されるか、退位を要求されるか、五里霧中の不安感にさいなまれていたが、GHQからはなんの音沙汰もなく、当たってみても手探りの域を出なかった。マ元帥は獲物が網にかかるのを待つように、余裕綽々としていたのである。
河原敏明

マッカーサー回顧録
「天皇に出頭を命じたり」すれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の前に殉教者に仕立て上げることになる・・・私が待っていれば、やがて、天皇は自発的に、私を訪問するだろう。
とある。

それを、知らない、宮内省は、藤田侍従長を、天皇の使者として、元帥を訪ねさせた。

藤田は、天皇のお言葉として
元帥は、開戦以来、ほうぼうの戦場で戦ってこられたが、健康は、どうであろか。灼熱の南方諸島で健康をそこなうようなことは、なかったろうか。また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に、健康にご注意ありたい。
と、伝えた。

元帥は、
私のことを、種々心配してくれて、感激にたえない。どうか陛下に、よろしくお伝え願いたい。
と、答えた。

それ以上の、進んだ話は無かった。

その仔細を聞いた、吉田茂外相が、元帥に会い、
天皇陛下には、閣下を、ご訪問したいとの、お気持ちをお持ちです。
と、伝えた。
すると、
日本の進駐がスムーズに進んだのは、天皇の協力が大きいと思う。訪問されるなら、喜んで、お迎えする。
との、返答を得た。

その日程は、9月27日、午前十時、米国大使館において、ということになった。

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2010年08月24日

天皇陛下について 24

マッカーサー元帥を、訪問される日、陛下は、車四台という、前例のない、簡略な行態で、御文庫を出発された。

玄関を出る際の、陛下は、いとも御深刻な御表情に拝したと、総務課長筧の手記にある。

警備配置は、一切しないこと、随員の数は、少なく、元帥は、玄関で送迎せず、会見室の入り口の、廊下で迎えることなどを、言い渡されていたのである。

元帥の宿舎である、虎の門の大使公邸に到着。
玄関には、副官らが冷厳さを、たたえて、並んでいた。
車を降りられた陛下は、一瞬、気負わされた戸惑いを見せた。

その時、陛下の前に、出た、フェラーズ代将は、
ようこそ、いらっしゃいました、陛下
と、にこやかに、笑顔で、手を差し伸べた。

この、フェラーズ代将の、いとこが、外務省の寺崎英成参事官の夫人グェンであった。
寺崎は、後に、御用掛となり、陛下と元帥の会見の通訳をする。

会見にあてられた、ホールは、二階にあり、元帥は、笑みもなく、陛下とは、事務的な握手をした。

米軍の写真班員が、二人の写真を三枚写した。

マッカーサーは、この時まで、日本を誤解していた。
ナチスと同じく、全体主義、軍事国家であり、悪魔の国と、想像していたのである。

陛下と、元帥が、卓をはさみ、通訳の奥村勝蔵が、その中間に座った。
宮内大臣と、侍従長ら五人は、別室に入れられた。

さて、ここで、会見の内容は、謎とされている。

様々な資料を、基に、私は、想像する。

まず、随員たちは、予定時間を過ぎても、陛下が、お戻りにならないので、気をもんだが、十分もオーバーしたころ、二人の声が、廊下に聞こえた。

二人の、表情に、一同は、歓喜したという。

元帥には、先ほどとは、打って変わって、温和さがあり、陛下も、いつもの温顔を取り戻されていた。

更に、随員たちを、元帥に紹介した。
驚くべきことは、次である。
元帥は、公邸玄関の、車の前まで同行した。

玄関での、送迎は、しないとの、申し渡しを、元帥自らが、破ったのである。
そして、最高の敬意である、ドアを開けて、陛下を乗せた。

ただ、元帥は、陛下と握手をして、車が発車するのを、待たず、身を翻して、引き返したのである。

これは、元帥が冷静に戻り、あまりの、感激に、度を逸したと、思ったのだろう。
だが、別の書き物には、陛下に近い側近が、語ったこととして、元帥は、車が去るまで、敬礼していたとも、ある。

帰りの車中で、陛下は、嬉しさを堪えきれず、極めて異例なほど、侍従長に、語りかけたという。

元帥が、天皇に、好感を持ったことは、占領下の日本に、大変な好結果をもたらすことになった。
通訳を務めた、奥村勝蔵の、まとめた、会見録は、正副二部あり、外務省と、慣例に反して、そのまま、天皇の私室に保管された。

会談の内容については、他言しないという、約束だった。
昭和天皇は、それを、生涯、守られた。
ただ、元帥は、回想録で、ある程度、披露している。

だが、何がしかは、洩れる。

昭和30年9月14日の、読売新聞に、重光元外相が、渡米時に、元帥から、聞いた話として、陛下が、
私は、日本の戦争遂行にともなういかなることにも、また、事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても、直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断がいかようのものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います。
との、談話である。

二人の会談により、以後の、占領政策、天皇の存在、戦争責任に、大きく係わっている。

さて、再度、元帥と、陛下との、会談の前の、元帥の心境を、推察する。

天皇が、会見を申し込まれた。
元帥は、天皇も、命乞い、あるいは、亡命を願い出るだろうとの、思いがあった。
何故か。

陛下会見の、前には、元帥に、ツテを求めて、多くの、指導的立場の者たちが、元帥の下を、訪れていた。
そして、
自分だけは許して欲しい
自分は戦争に協力しなかった
自分は親米主義であり、大東亜戦争には、反対し続けた
日本は駄目な国、アメリカは、素晴らしい国、自分はアメリカのために何でもする
それらは、軍の高級幹部、政治の表舞台で、活躍していた者、財界のボスといわれた人、言論界の重鎮・・・

彼らは、
戦争は悪かった。自分は戦争に反対していた。だから、自分に罪は無い。自分の命だけは、助けてくれ、という、者ばかりだった。

彼らは、元帥の、靴に、頭を擦り付けて、頼み込む。中には、元帥の靴に、しがみ付いて、哀願する者もいた。

これらは、今まで、書かれなかったことである。

こうした、日本人の姿を見た、マッカーサーは、どのように、日本人を、理解したか・・・

所詮、日本人といっても、他の国の者たちと、何の変わりも無い者たちである。
マッカーサーには、日本人に対する、侮蔑の思いが、広がった。
そして、日本に対する、先入観である。

天皇をお迎えした時も、マッカーサーは、彼らと、同じ人間であると、見ていたのである。

しかし・・・

しかし、である。
天皇陛下は、違った。
全く、違った。
どこの国に、いる者たちもと、違った。

マッカーサーは、最初、倣岸無礼な姿勢だった。
天皇の、お言葉が、通訳されると、話の途中から、組んでいた足を、解いた。
更に、ソファーに座りなおした。
そして、最後になると、陛下と、同じく、直立不動の姿勢を取った。

黒色のメガネを外し、パイプを口から外し、そのすべてを、応接台の上に、おいた。

陛下の、お言葉の通訳が、終わると、両手を陛下に差し出し、陛下に握手を、求めた。

これは、陛下に近い方々の、証言として、聞いたものを、私は、書いている。
まだ、それを、続ける。

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2010年08月25日

天皇陛下について 25

今日は閣下に、御願いの議があって、参りました。
陛下が、マッカーサーに、仰せられた。

マッカーサーには、侮蔑の色があった。

天皇も、命乞いに来たのだと、思ったのだ。

陛下は、姿勢を崩さず、
実は、本日参りましたのは、今回の戦争のことについてであります。
今、多くの将兵や文官たちが、戦争犯罪人として、身柄を拘束されておりますが、このことについて、説明と、御願いを、申し上げたいのです。
実は、今回の、大東亜戦争については、その責任の一切は、この私にあります。
閣下の部下の兵士の方々の中にも、多くの犠牲者が出ました。
そして、我が国でも、今回の戦争で、三百余万の、尊い命が、失われております。
これは誰の責任であるかといえば、全く、私の責任であります。
閣下には戦争ということの、本質はご承知でいらっしゃるでしょうが、十数百万の人たちが、命を失ってしまったということに対して、限りない痛みを覚え、日夜、この罪業に責められ、この五体は、張り裂けんばかりであります。
特に、戦場に我が夫を送り、我が子を送り、戦死をしていった将兵に対し、戦死せり、との、一片の通知によって、永く別れねばならない、遺族のことを、思うとき、この苦痛は、更に、深くなるばかりです。しかも、家を焼かれ、家族を失い、路頭に彷徨うもの、幾十幾百万の国民の上に思いを、いたすとき、この償いを如何に、すべきかということに、五体を裂いても、足りない思いです。
閣下、今回の戦争の責任は、すべてこの私にあるから、どのような処罰を受けようとも、そのことを厭うものではありません。
例え、この身を、八つ裂きにされようとも、それはかまいません。
それで、どうぞ、戦争の責任は、私に負わせて、将兵、文官の戦争責任を、お許し頂くよう、御願い申し上げるものであります。

その、お言葉が、通訳されると、マッカーサーの態度が、徐々に変化してゆく。

マッカーサーも、陛下と同じく、直立不動になり、両手を差し出して、陛下の手に、握手を求めた。

わかりました。
陛下、陛下の仰せになることは、このマッカーサーによくわかりました。
陛下の仰せを、生かすべく、全軍に、指令を出したいと思います。
ただ、すでに、リストに載っているものについては、致し方ありませんが、これからの、新たな戦争の犯罪人は、載せないようにします。
私は、天皇陛下を、見誤っておりました。
私のところに、命乞いに来られると、思っていたのに・・・
私の認識は、間違っておりました。
私は、世界各地で戦争を続け、いろんな国の指導者を捕らえて、処罰してまいりましたが、どの、指導者も最後は、哀れなものでした。
泣いて罪を認めないもの、最後まで、偽りを押し通すもの、部下に、責任を転嫁しようとするもの、色々見てまいりました。
天皇陛下、あなたほど、立派な方に、お目にかかれたのは、最高の幸せです。
あなたは、神の思し召しを、身を持って示される、尊い方です。
陛下の御意を生かすべく、努力をします。

陛下は、ご自分の手を、握り締めていた、マッカーサーの手を握りかえすように、更に、申された。

閣下、ただ今、有難いお言葉を頂戴し、喜び、これに過ぎたるはありません。
大変ありがとうございました。
厚くお礼を申し上げます。
今一つ、閣下に御願いが、あります。
それは、閣下も、ご承知のように、今、この日本は、打ち続いた、戦乱によって、家を焼かれ、子供を奪われ、また、親に別れた寄る辺無き、子供たちら、実に、多くの国民が、路頭に迷っております。
この、多くの国民たちは、食べる食べ物にも、事欠いております。
そして、迫り来る冬に、厳寒の中に、どう生きていくかということに、不安の思いに、苛まれています。
これを思うとき、この私の力では、どうすることも出来ない悲しみを、覚えるものです。
皇室には、若干の、財産があります。
この皇室の、財産を閣下に差し上げますので、多くの日本の国民を、救ってください。
明日の食事に、事欠いて、泣き叫んでいる子を思う、母親のために、一食の食事を与えてください。
また、今宵、寒さのために、凍えて死にそうになっている、老婆のために、一枚の着物を与えてください。このことは、私が命をかけても、しなければならない大切なことであるので、閣下、是非、日本国民のために、お力をお貸しいただくよう、御願いをします。

陛下は、ここまで、申し上げられて、応接台の上に、手をつかれて、深々と、頭を下げられた。

しばらくは、お顔を上げることがなかった。
応接台の上には、陛下の涙が、流れていたのである。

通訳を受けた、マッカーサーは、陛下を、包むように、再び、その手を握る。

そして、
わかりました。
わかりました。
日本国民の、安全と生活を守るのは、今は、私の責任です。
一人の餓死者も出ないように、一人の凍死者もでないように、全力を挙げて、努力をいたします。
陛下、どうぞ、案じられよ。
このマッカーサーが、陛下の、お心に、報い奉るように、努力いたしますゆえに、ご心配なく、宮中へ、お帰りください。

陛下が、マッカーサーに、お別れを告げて、玄関に、お出ましになると、MPが、直立不動の姿勢で、挙手の礼をした。
最初の無礼さが、消えていた。

天皇陛下の、お言葉が、マッカーサーの、翌日の行動に現れる。

一切の、公務を差し置いて、アメリカに帰国したのである。

アメリカ大統領に、会い、日本占領の方向の変更を、報告し、関係諸方面に、呼びかけて、日本救済のための、一大運動を展開した。

それは、アメリカからの、救援物資として、日本に送り込まれたのである。

日本では、一人の餓死者も出す事がなかった。

敗戦の、最中、日本を困窮の中から、救ったマッカーサーを、動かしたのが、昭和天皇である。

これは、侍従長、侍従たちと、親しいものが、聞き取って書いたものを、私が、読みやすいように、書き改めた。

秘密は、洩れるものである。


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2010年08月26日

天皇陛下について 26

マッカーサー回想録より

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の手にゆだねるためおたずねした」
私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。

元帥夫人の、ジーンも、この光景を、会見室のカーテンの影から、覗いていたという。

その当時は、天皇の、戦争責任と、処遇について、内外から、多くの意見と、関心が、寄せられていた。

中華民国、ソ連、オーストラリア、ニュージーランドなども、戦争犯罪人の中に、天皇の名を、つらねていた。

マッカーサーの天皇との、会見は、その滞在中に、11回も、行われたと、いわれる。

回想録より

天皇は私が話し合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。



最初の会見が、終わると、マッカーサーは、即座に、ワシントンに、天皇を戦争犯罪人にしては、ならないと、報告した。

トルーマン大統領と、米政府は、しかたなく、元帥の意向を受け入れたと、いわれる。

天皇と、マッカーサーの会談の際には、卓上には、戦犯容疑者リストが、置かれていた。

さて、東久邇首相と、前首相の近衛文麿公は、天皇退位説を、唱えていた。

近衛公は、統帥権に関しては、政府は、全く発言権がなく、政府と、統帥部の両方を、抑えることが、できたのは、天皇だけで、その権限行使に消極的なために、陛下には、責任があるとした。

だが、近衛公にも、戦犯の逮捕状が出され、みずからの、政治的過誤と、和平交渉にも努力したアメリカから、裁かれることの、屈辱に、耐えかねて、抑留される、前夜、青酸カリを飲んで、服毒自殺をしたのである。

回想録より

一つの国、一つの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈伏したことは、歴史上に前例をみない。・・・・
幾世紀もの間、不滅のものとして守られてきた日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去ったのである。近代史において、これほど大きい破滅の衝撃を味わった例はおそらくあるまい。

マッカーサーは、日本人は、封建的指導者による、伝統と伝説と神話と統制の、完全な奴隷化の、所産だと、みなしていたのである。

しかし、マッカーサーは、天皇との、会見で、天皇陛下に対しては、その、先入観を改めた。更に、個人的に、好感を持ったのである。

しかし、マッカーサーの仕事は、日本解体である。
日本を、作り直すという、仕事であった。

それには、容赦なかった。

皇室財産の発表と、その、封鎖、皇室予算の、GHQの承認制、皇室財産の開放と、皇族の、経済特権の剥奪、宮内省職員の削減・・・

更に、天皇の、災害などの、見舞金、賜与も、禁じた。
つまり、民に施すのは、政府であり、天皇ではあってならない、という、考え方である。

天皇は、全皇室財産を、政府に渡し、賠償に当てると、希望したが、GHQは、許さなかった。
皇室財産は、国に属すると、大部分は、国庫に帰属させたのである。

ここで、解るとおり、天皇陛下は、すべての財産を、政府に受け渡すと、考えられていたということである。

前代未聞の、ことである。
帝が、全財産を、国民に渡すと、同じである。

敗戦した、その主は、その財産を、隠す。そして、亡命して、安穏として、暮らす。

昭和天皇には、一切、そのような、邪な、考えは無い。

世界一の、富豪であった、天皇家は、千五百万円の、現金と、一部の、貴金属、宝石、美術品を、残すのみとなった。

吹上の御文庫も、那須、葉山の御用邸も、所有者の政府から、無料で、借用するという、形にされた。

ただし、宮中の三殿だけは、私的な、宗教建造物として、除外された。

国民からは、気の毒すぎるとの、声が上がる。

衆議院で、新憲法の、草案が審議された中で、皇室財産から、生ずる収益は、すべて国庫の収入として・・・という、文言を、削除すると合議された。
が、即座に、GHQより、
連合国間には、天皇制を全廃すべしとの、強い意見がある。もし、日本国民が、天皇制の維持を、図るなら、政治的には、天皇の一切の統治機能を廃し、経済的には、皇室財産を、国に、属せしむべきだ。天皇財閥を解体することにより、天皇制の存在が、将来の禍根にならぬように、憲法で、明確にすべきである。
との、命令である。

天皇というものの、存在を、理解し得ないのは、アメリカが、新興国だからである。
更に、その他の国も、理解できないのである。

オーストラリア、ニュージーランドなどは、イギリス王室を、承認しても、日本の天皇は、承認しないのである。

王室には無い、遥かな、歴史を、認めたくなかったのである。

更に、皇室のみか、宮家にまで、それが、適用されて、平宮家十一家は、皇籍離脱となる。

臣籍降下の方針といわれた。

天皇陛下は、各宮家の当主を招いて、皇族会議を、開いた。
ところが、三直宮以外の、一斉降下に、侃々諤々の意見が、出された。

いつ果てるともない、議論に、無言で耳を傾けていた、陛下は、大声で、一喝した。
机上の空論はよしなさい
そして、穏やかな口調で、
このような時代になり、まことに、忍び難いが、この際、一同に、臣籍降下を御願いするほかはなくなった
と、仰せられて、十一宮家、五十一人が、降下したのである。

この、決断も、国を思えば、こそのものである。

敗戦から、何十年を経ても、天皇戦争責任云々が、議論されるが、この天皇を、日本人が、裁けば、ただちに、皇祖皇宗以下、祖霊から、列島が沈没させられるだろうと、私は、思う。

下々の、民が、天皇の、身の上を、想像できない。
天皇は、いつも、お一人であらせられる。

言論の自由により、天皇陛下に関しても、勝手放題なことが、言える。

しかし、その御心を、察することが、できるか・・・
出来るわけが無い。
天皇に、ならなければ、天皇の、御心を察するなどいう、不敬が出来るはずもない。

すべてを、取り上げられようが、日本が、日本国民が救われればよい

こんな指導者が、この世界に存在するということが、私には、救いである。

今上天皇は、日本の象徴であらせられる。
しかし、実質的精神指導者として、存在すると、私は、考えている。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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