2010年07月18日

メーソートへ 4

ホテル並びの、食堂に出掛けた。
タイ料理なら、なんでもある。

コータは、タイ語を書く、読むことが出来るようになっていた。
凄い。
勉強すれば、誰でも、そうなる。
だが、私は、駄目。決して、覚えない。

コータに、こんなものを食べたいと、言うと、メニューの中から、選んで、注文してくれる。

あんたーーー凄いねーーーーである。

勉強って、するもんだねーーー
どうして、大学の時に、勉強しなかったのーーー

東洋哲学、仏教である。
教授たちと、馬が合わなかったという。
そりゃーー馬が合わないよ
自分が、教授だと、信じているからね
インドに行くこともなく、仏教云々・・・なんて、私と同じじゃないのーーー

実は、コータの卒論を読んで、こんなんで、卒論になるのと、思った。
勿論、その時は、凄いねーーーと、褒めたが・・・

食堂には、数名の女の子が、忙しく働いている。
運ばれてきたものを、見て、私も、タイ料理に慣れたと、思った。

タイで、和食を食べたいと、思わないのである。

タイでは、タイ料理。
辛いっっっっっ、それがいい。

料金も、百円程度。
毎日来ても、すべての、料理食べられないね
と、私が言う。

ちょっと、美味しいよ、これ
本当に、美味しい。
口に合う。

スプーンと、フォークで、食べる。
時には、箸も使う。

食べ終えて、市場に向かう。
水を買うためだ。

コータは、一度出掛けて、付近を歩いているので、どんどんと、市場に歩く。
大変、混雑している。

肌の白いのから、黒いのまで、いる。
色々な人種が、混じっている。

水を売っている店は、閉まっていて、コンビニに入る。

1,5リットルを、三本買う。
それは、明日の分である。
沢山買っても、重たいから、度々買うことにする。

それで、ぐったり。
飛行機、バス、タクシーと、乗り物に乗った一日。
もう、いいわ
寝る

シャワーを浴びる。
何と、お湯が出る。

暑い日差しの中を歩いても、熱いシャワーが、気持ちいい。
熱を発散して、皮膚が、冷たくなっているのだ。

コータも、早々に、ベッドに着いた。

翌日の朝、早く目覚める。
そして、また、あの食堂に行く。
食堂は、朝の七時から、夜の七時まで。

朝は、スープライスがいい。
タイ語では、何というのか、忘れた。
一度、二度、三度と、聞くが、忘れる。

もち米の、カオニャオだけは、覚えた。

私は、一人でいると、兎に角、ゼスチャーで、通す。

相手も、私の言いたいことを、真剣に見詰めて、理解しようとする。
あんかけそばの時は、とんでもないことになる。

ホテルに戻り、準備をする。
私は、浴衣を着た。

カメラは、三台である。
フィリピンの時に、盗まれたことから、三台用意するようになった。

支援物資を渡している、姿を写すのは、支援をしてくれた人が、あっ、私の送ったものだと、感激して欲しいと思い、沢山撮る。

十時前に、フロントから、電話があった。
広倉さん、中野さんが、到着した。

広倉さんは、タイ人ですから、時間は、少し遅れると、思ってくださいと、言っていたが、早く来た。

中野さんの、長男と聞いていたが、本当は、次男の方である。
長男さんは、早くに、亡くなったという。

広倉さんは、私たちの、荷物が多いので、部屋まで、やってきた。
お嬢さんも、一緒である。荷物運びに、連れてきたのである。
おおよそ、70キロの支援物資を、皆で、運ぶ。



posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 307

ここで、マタイに戻り、マタイ福音書が、如何なるものであるかを、検証する。

なぜイエスは奇跡を行うのだろうか?ほとんどの人は、彼が人びとを憐れみ、人びとを苦痛から解放してあげたかったからだと答えるだろう。事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかし、それだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕われている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言った。
ルカ四章

別の箇所で、洗礼者ヨハネの弟子がイエスの下にやって来て、イエスが終末期に出現する人なのか、それとも誰か別の人間が現れるのか聞いている。それに対し、イエスは次のように答えている。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」マタイ十一章。共観福音書のイエスは、神の国へ人びとをいざなう、永く待たれた人物として描かれている。
以上、アーマン

だが、そうであるにも、関わらず、共観福音書では、彼を信じない人々に、自分が何者であるかを示す、奇跡を行うことを、拒絶するのである。

マタイでは、何人かの、ユダヤ人指導者が、イエスに、先生、奇跡を見せてくださいと、要求するが、イエスは、断固たる口調で、
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない
と、言う。
そして、ヨナが、大魚の腹の中で、三日三晩死んでいたように、人の子も、大地の中に、三日三晩いるだろうと、述べる。

旧約聖書の、ヨナの書にある、話しである。
アッシリアの首都ニネベに、神は預言者ヨナを、遣わす。しかし、ヨナは、神の命令に背く。そこで、彼は、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、三日後に吐き出される。
それ以上、神の命に背かず、ニネベに行き、神の教えを説いて、町の人々を、改宗させる。

イエスは、それと同じ状況を比較したのである。

イエスは、神に楯突く人々に、教えを説くが、彼らは、悔い改めようとしない。
しかし、イエスは、自分が聖なる、存在であることを、証明するために、奇跡を起こすことを、拒む。

マタイは、イエスが、三日三晩、死の眠りついて、再び、その姿を、現すという、復活を最重要テーマとして、福音書を書いている。

アーマンは、マタイの、一貫したテーマが、ここにあると言う。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行わない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人びとを助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ここで、マタイは、まもなく、神の国が、訪れることを、示すという。
だが、あれから、二千年を経ても、神の国は、訪れない。
まもなくとは、一億年程度のことか・・・

さて、ヨハネでは、全く違う。

ヨハネでは、イエスの行いは、奇跡ではなく、しるしとして、呼ばれて、更に、イエスが何者かを、証明する。
人々に、彼を信じさせるために、しるしが、行われるのだ。

目を惹くのは、イエスが、ユダヤ人指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む「マタイ」の物語が「ヨハネ」には全く見当たらないことである。しかし、なぜだろうか?ヨハネは、イエスがしるしを通して宣教活動を行ったと考えているのだ。「ヨハネ」には、荒野での三つの誘惑についての記述もない。これはどうしてだろうか?ヨハネにとって、奇跡的なしるしによってイエスがそのアイデンティティーを示すことは、決して悪魔の誘惑によるものではないのだ。これこそ、彼の聖なる仕事なのである。
アーマン

これで、十分に、それぞれの、福音書の、記述が、それぞれの、価値観によっているということが、解る。

そして、それは、統一されたものではない、ということ。

つまり、イエスという、人物が、いかなる者であるのかということが、不明なのである。

造られた、イエスなのである。
本物の、イエスは、どこにあるのか・・・
誰も、知らない。

マタイの、物語を解く鍵になるのは、宣教を始める前の、荒野での、悪魔の試みであると、アーマンは、言う。

最初の誘惑
四十日、断食をしていたイエスに、石をパンに変えよと、悪魔が言う。
イエスは、人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によると、言う。

二つ目の誘惑は、イエスをユダヤ教の神殿に、連れてゆき、飛び降りろという。すると、天使が助けるだろうと。
この意味は、群集の中で、奇跡を見せて、真に神の子であることを、証明せよと、誘惑されている。
イエスは、言う。
あなたの神である主を、試みてはならない。

三つ目の誘惑は、悪魔を崇めれば、地上の王国を与えるという。
この世の支配である。
しかし、マタイは、イエスが、最後に、この世の支配者になるめことを、知っている。
しかし、そのためには、十字架で、死ぬこと。
この誘惑の意味は、受難など、受けなくていいというもの。

「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティーを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

少し話は、それるが、エホバの証人などの、新興宗教が、この世は、悪魔が支配するという、その考え方は、マタイ的である。
悪魔を崇拝すれば、地上の支配する権利を有するのである。

カトリックから、プロテスタント、そして、キリスト教新興宗教に至るまで、この、矛盾した、聖書、福音書を、テキストとして、採用している。
更に、聖書主義などは、本当は、迷いに迷うはずであるが、堂々と、妄想全開で、勝手な解釈を平然として、行う。

そして、主イエスは、主なる神、ヤハゥエという、魔神に至るという・・・

聖書作家に、振り回されて、信仰も何も、あったものではない。

すると、敬虔なキリスト教徒、牧師、司祭たちは、言う。
それぞれが、それぞれで、イエスを、書いている。
それを、総合して、イエスという、神の子の、全貌が分かるのである。
嘘である。

それぞれが、別の次元と、価値観で、書いているのであり、改竄、また、改竄しているのである。

自分たちに、都合よく、書き改めている。

イエスキリストは、造られた、創作された、存在なのである。
それは、皆、妄想の産物なのである。

キリスト教の、霊性・・・などいうものは、全く無いものである。
その根拠が、全く無い。

霊性とすれば、自己暗示である。
聖人の中には、脱魂、という、状態もあったというが、あれは、ヒステリーである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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