2010年07月17日

メーソートへ 3

ここで、私たちの、活動のために、車を用意してくれたのが、最後の残留日本兵といわれた、中野弥一郎さんの、ご子息の方である。

広倉さんは、その、中野弥一郎さんと、友人だった。
家も近い。

この、中野弥一郎さんについては、本に書かれている。
様々な、マスコミの人たちが、彼を、追った。

しかし、私が目を通したものは、左翼的考え方を基本にして、彼を描く。
つまり、反日的考え方である。

だから、
誰も、天皇陛下ばんざいなどといって、死んだ兵士はいませんよ
などという、言葉が、軽々しく書かれる。

確かに、天皇陛下ばんざいより、かあさん、お母さんが、一番多いと、思われる。
更に、妻の名、子供の名・・・

当たり前である。

それを、あえて、天皇陛下ばんざいなどと・・・云々と、書く、ジャーナリストたちの、神経は、病んでいる。

私が、中野さんの家に行き、その遺骨の前で、慰霊の儀を行った。
その多くの写真の中に、昭和天皇の、お写真があった。
タイの、高僧たちと、並んでいた。

日本兵は、そして、当時の日本人の、天皇陛下に対する、思いを、今、現在の人は知らない。知るはずが無い。

天皇陛下が、存在しなければ、戦地を放棄したであろう。

こんな、馬鹿馬鹿しいことが、あろうかと、思ったはずである。
玉砕せよ、との、命令に、従わず、生きた者は、自決させられた。

実に、人の命が、軽い。
兵士は、馬以下だったという。

戦地で、上官に、人の命の尊さを訴えた、軍医などは、張り倒され、更に、自決を迫られた。

こんな、馬鹿馬鹿しいことが、あろうか。
人の命を、何と考えていたのか。
それを、天皇陛下を、利用して、語った軍部の、傲慢は、計り知れない。

天皇陛下について、という、エッセイで、私は、天皇陛下の、お姿を、書くので、そちらを、参照してほしい。

さて、中野さんの、ご子息の方に、朝、十時に来てもらうことにした。
そして、出来る限り、時間をかけずに、予定を終わらせることにした。

熱中症で、倒れては、更に、皆さんに、迷惑をかけると、思ったからだ。

それでは、ということで、広倉さんと、別れた。

私は、疲れて、ベッドに、横になった。
コータは、街の中を見てくると、出かけた。

少しして、私は、急ぎ、支援物資の整理をした。

回るところは、難民無料クリニックの、メータオ・クリニック、小学生、中学生の難民孤児院、ノーン・ブアデン、幼児の孤児院、バーン・メーパである。

メータオ・クリニックは、日本人の、支援団体が、行っている。
そこで、ボランティアをしている、女医さんにも、お会いする予定である。

バッグに、詰め直す。

勿論、いくらあっても、足りない。
後で知ることになるが、孤児院は、二十箇所以上あるという。

更に、難民キャンプも、十箇所以上あるという。
その中には、車で、四、五時間かかる、場所ばかりである。

中には、山の中腹にある、キャンプもあり、酷い貧しさにあるという。

それほど、多くの難民が、タイに逃れているのである。

ミャンマー軍事政権は、悪魔の、巣である。
少数民族は、家畜以下なのである。

その、悪行を、書くべきか、否か。

このまま、筆に任せる。

コータが、戻ってきた。

ちょっと、近くに食べ物屋ある
ホテルの並びにあるよ
じゃあ、夜は、そこで、食べよう。水も買いたい

その、ホテルの並びにある、地元の食堂には、毎日通うことになる。

兎に角、水は、大量に必要である。
脱水症状などに、なっていられない。

部屋では、エアコンで、汗はかかないが、一歩外に出ると、汗だくになる。
絶えず、汗をかく。
雨季だというが、あまり、雨に当たらなかった。

日本の、梅雨時期の似た、蒸し暑さであり、兎に角、暑い。
イスラムの、女性たちが、すっぽりと、体全体に、布を巻くのは、意味がある。暑さと、紫外線対策である。

私も、イスラム女性のように、布を、すっぽりと、被りたいと、思った。

そして、部屋では、リラックスするため、女性用の、ワンピースを買って、部屋で着た。
体全体を、蔽う、暑い国特有の、薄手の、布である。

日本でも、時々、それを着ている。
時に、荷物が来たときも、その格好で、出て、驚かれる。

もう、どうでもいい、年になった。

ただ、コータには、頼むから、住んでいる、マンション近くを、それで、歩かないで欲しいと、言われた。
日本の、変なレディボーイだと、思われるし、あんたの父親は、アレかと、聞かれるのは、困るという。
一応、コータと、私は、親子である。
法律上も、親子。
だが、コータは、私を、先生と呼ぶ。
それも、皆が、不思議がる。

それも、どうでもいい。

この世は、どうでもいいことが、多すぎる。




posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 306

宗教に、入信するといことは、如何なることか。
それは、宗教の与える、神や仏を、信じて、奉るということである。
そして、その教義を受け入れる。
更に、自分の頭で、考えないようにする。

もう一つ、宗教に入信せずとも、それと、同じようになる人もいる。
何々主義者である。
更に、個人崇拝も、そうである。

一旦、信じてしまうと、思考が停止する。
勿論、本人は、考えての末の結論であると、思い込む。
しかし、信じる。任せるということが、心地よくなる。更に、物事の判断を、すべて、その教えや、主義に、帰結させる。

完全に、そうなると、人間は、知性を捨て、理性を捨てる。
勿論、最初から、そんなものが無い人も、いる。

大半が、宗教が何であるのかを、知らずに、近づき、果ては、信じて取り込まれる。
信じる者は、確実に騙される。

大きな、宗教ではなくても、小さな団体でも、所属する人は、その団体の教えに、偏狭になってゆく。

最も、恐ろしいのは、それを、他の人に、説いて、自分と、同じく信じさせようとすることである。

つまり、更に、罪を作るのである。

ある、法華経の講義に出ていた者が、私に、仏教批判を書くなと、言う。
その方法は、すでに、終わった方法である、云々・・・

その頭の悪い者は、一向に、自分が、洗脳されているとは、思わない。
更に悪いことは、それを、受け入れないと、本当に理解していないからだと、言う。
理解していないのは、自分の方であることに、気づかない。
そして、延々と、それの繰り返しをする。

本当に、救われない者に、なってしまう。

救われない。つまり、信じてしまう。信じると、救いは、無い。
人間が、進化して、生成発展してきたのは、考えてきたからである。
信仰は、それを、放棄させる。

そして、私のような、批判をする者を、破綻した論理という。

自分自身が、破綻していることを、知らない。
自分が、信じているものは、良いものである。
だから、あなたも、信じるべきだ、とは、あまりにも、破綻している。

歴史的・批判的聖書研究を、見ている。

復讐に燃える神についての記述は、一部のキリスト教徒が主張するように、旧約聖書にのみ書かれているわけではない。新約聖書の神でさえ、審判と怒りの神であることは、「ヨハネの黙示録」に親しんでいる読者なら知っていよう。燃えたぎる火の池が、神に従わなかった人々を待ち受けている。これは永遠に焼かれることを意味する。例えば二十年間といった一時だけ、神に背いた人々でさえ、永劫にわたって罰せられるという。たった二十年間の間違った生き方と引き換えに、二十兆年もの間、もがき苦しむのだ。しかもこれはほんの序の口に過ぎない。これが本当に神にふさわしい行いだと言えるだろうか?
アーマン

勿論、それは、聖書に書かれていることで、書いた人が、そのように、脅していると、いえる。
果たして、神に、相応しい行い・・・?
全く、神に相応しくないのである。

だから、私は言うのである。

どのようにでも、解釈できるのが、宗教の聖典であると。

牧師、司祭は、信者に、ありがたい・・・教えを、語り、信者を、気持ちよくさせる。
そして、その後では、神の裁きを説いて、信仰を捨てると、このように、神の裁きが下ると、脅すのである。

聖書には、あらゆることが、書かれていて、後で、どうにでも、理屈を付けられるようになっている。

聖書の読み方 北森嘉蔵
旧約における新約
それは、旧い契約が破られて、新しい契約によって回復されるということである。この点をきわめて明確に語っているのは、旧約聖書のエレミヤ書である。(したがって、そのかぎりではエレミヤ書はいちおう旧約に属してはいるが、実は旧約・新約を総括するような立場に立っているといえる)そこには次のように書かれている。―――主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトから導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われるーーー

ここに書かれている「エジプトから導き出した日に立てたようなもの」というのは、モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させた後、シナイ山において神から与えられた十戒のことである。

第一戒
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

すなわち、人間がただひとりのまことの神のみを愛して、貞潔を誓うことである。それは夫と妻の関係にもたとえられ。しかし、妻たるイスラエルは夫たる神を裏切って、他の神々を愛し求め、姦淫の罪を犯した。これによって、神は契約を破棄して、人間との関係を断とうとした。これが神の怒りである。

しかし今や、神は「新しい契約」を立てることによって、断絶した人間との関係を回復したのである。これが罪のゆるしである。

上記が、牧師や、司祭が、真顔で言う、嘘である。

イスラエル人と、人間全体を、勝手に結び付けている。
新約聖書と、旧約聖書の結びつきを語るが、少し、歴史的・批判的聖書研究をした者には、全く、説得力がない。

エジプトからの、脱出も、嘘だった。
十戒は、モーセが、イスラエル人と、神との契約であったもの。
全人類ではない。

面白いのは、他の神々を、愛し求めていると、他の神の存在を認めている。
つまり、神は、他にも、存在しているのである。

勿論、他の神というのは、偶像であると、断定する。

それを、神が、ヤハゥエが語るのではない。
書いているのは、人間である。

ルカ福音書の中で、イエスが、
モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する
と、言わせる。

ルカを名乗って、勝手に言うのである。

どこも、かしこも、嘘だらけである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 309

だからここで問題の中心となるのは、社会体制の秩序維持、ということである。従ってまた、「一切誓うな」という宣言は、誓いなどというのは空虚な形式なのだから、虚礼は廃止しましょう、などという程度の消極的な意味ではなく、むしろ、誓いの背後にかくれている社会体制の秩序維持に固執する頑強な力に対するはっきりした抵抗の宣言なのだ。またそうでないとすれば、「一切誓うな」というせりふ自体、空虚なおしゃべりとなる。このことは現代においてもなおあてはまる。まして古代においてそういうことを宣言するのは、ものすごいことなのだ。
田川建三

こうして見ると、イエスという、人間は、とても、反骨精神の強い人物である。
ユダヤ教支配の中にあって、明確に、ユダヤ教の、形式を批判している。

今、様々な、教会において、イエスのような、強烈な批判、反骨精神を持って、物を言う者がいるのか。

社会体制ではない。
教会体制に、物申す者である。

どこかで、教会が、方向転換を迫られる。
つまり、聖書の嘘が、ばれて、誰も信用しなくなる。

信仰深い人々は、騙され続けるが、時代は、どんどんと、事実を明確にしている。

兎に角、何でもいいから、信じたい・・・
人間には、何かを、拝むという、本能的なものがあるようである。

だから、宗教が廃れないのか・・・
とすると、結局、宗教という、蒙昧が、いつまでも、まかり通るのか。

安心立命。
人は、何かによって、それを、得たいと思う。

それで、知恵深いキリスト教会は、イエスのこの言葉を(ほかの言葉もそうだが)平気で無視し続けてきた。しかもその無視の仕方は巧みであって、イエスのこの言葉を、いやそれだけではなくイエスについての思い出を全体として、歴史の記録から抹殺してしまうというような露骨なまねはしない。それはそれで保存しておいて、自分たちはこういう「良心的」なせりふも知っているのだぞ、ということを示そうとする。
田川

マタイ福音書の、眼目は、ユダヤ教徒より、より良い、ユダヤ教の確立である。
それを、イエスの言葉を通して、行った。

田川氏の、批判的聖書研究を尊敬するが、マタイの意図を、読み取ることからすると、少々のズレが生ずる。

聖書の、ギリシャ語の解説は、必要であるが、その前に、マタイの意図したものは何か、である。

だが、語彙に関しての、分析は、十分に説得力がある。

ギリシャ語の、誓いという言葉、それを、翻訳した、言葉にも、誓いには、二つの概念があるという。

一つは、宣誓である。
法廷などで、宣誓する。宗教的な意味で、神に対する信仰の誓い。
そして、もう一つは、神かけて誓うという、約束するという意味での、誓いである。

日本語の場合の、誓いという意味も、曖昧である。

要するに、イエスは、いずれの意味でも、誓うな、というのである。

イエス以前のユダヤ教においても、安直に誓うということをいましめる言葉は多く見られる。神かけて誓う、といった類のせりふを濫発するのはいかにも安っぽくなるから、「教育的」な意識をもった教養人はそれをいましめようとするのである。
田川

そこで、
古代のマタイ学派はそのように単純に底が割れるような下手な細工はしない。福音記者マタイの背後に存在している、ないしマタイ自身もその一員であるマタイ学派は、この場合でもはっきりそうとわかるように、ユダヤ教律法学者的な意味でまことに優秀な知識人である。
田川

イエスの「一切誓うな」を何とかして彼らのユダヤ教的心性の中で理由づけようとして、次のような理屈を付け足したのである。
田川

天にかけて誓うな・・・神の玉座である・・・

また、それは、ユダヤ教にある、神の名を、みだりに口にするなという、教えからのものである。

そして、神の代わりに、天や、地という言葉も、駄目だというのである。
議論の根拠を、旧約聖書からの、引用によって、なすという、段取りは、マタイ学派が、いかに、ユダヤ教の知識人たちであったかということだ。

とすれば、イエスの、真意は、何だったのか。
とても、反骨精神の強い人物だと、私は、先に書いたが、イエスの言葉か、マタイ学派の言葉か、解らない。

イエスをダシにして、自分たちの言い分を主張したのか。

宗教の経典というものが、ある人や、ある人々によって、改竄されてゆく過程には、それを書くものたちの、思惑があるということが、明確に解る。

権威を、イエスや、仏陀に置いて、書き付けるものだから、後世の人たちは、迷う。

初期、仏典などより、後世に書かれた、大乗仏典を持って、仏教、仏法などという、輩がいるが、自分の思惑通りに、出来るものを、掲げるのみである。

そして、それが、正しいとなる。

嘘なのだが、それが、正しいと、言い張る。
その心には、何があるのか。

それは、支配欲である。
信じさせて、支配するという、人間の欲望の、高度なもの。

それと、為政者が結託すれば、上々である。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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