2010年07月16日

メーソートへ 2

タクシーが、走り出したので、すぐに、小西さんに、電話をする。

タクシーに乗りました
えっ、大丈夫ですか。メーターは、ついていまか・・・
いや、料金を交渉して決めました。顔つきも、悪い人ではないと思います
そうでか・・・

不安そうである。
だいだい、その付近に、タクシーなどは無いのである。

それに、運転手の写真付の、ナンバーが掛けてあります
と、私は、小西さんを安心にさせるために、言う。

兎に角、気をつけてください

本当に、ありがたい、心配である。
何があるか分からないタイであるから・・・

その後で、運転手が、バンコクから来たことを、知る。
通りで・・・
空港から、人を乗せて、ここまでやって来た。そして、バンコクへ戻る人を、待っていたのである。

お金のある人は、バンコクの空港から、タクシーで、ここまで来る。

身包み剥がされないで、済んだ。
メーソートに向かう道は、確かに、山道、だんだらである。
体が、大きく揺れるカーブが多い。

日本の、横浜支部からも、心配の電話である。

大丈夫です。とんでもない、道を走っていますが・・・

だから、帰りのミニバスの時は、酷かった。
メーソートから、タークまでの、二時間、拷問のようであった。

麻薬のルートであるから、途中で、検問がある。
ミャンマー国境の町は、皆そうである。

タイ人は、認識カードを、外国人は、パスポートを提示する。

元首相の、タクシンが、麻薬撲滅と称して、徹底的に、調査、人を殺した町が、メーソートである。

無実の人、1800名ほどを、殺したという。
町自体を、崩壊させるような、規模だったというから、凄まじい。
しかし、それは、麻薬のルートを、わが手に、治めるための、方法だったことに、市民は、気づいた。

メーソートの人々は、タクシンを信用していない。
北部の町としては、他の、北部の町のタクシン派とは、異にする。

彼が、タイに戻れば、殺されるでしょうと、言う。
それほど、酷いことをしたのである。

それを知らず、タクシンを支援する人々は、洗脳されている。
更に、バンコクでの、デモでは、参加者に、お金が、支払われた。
特に、水商売の女たちには、日当、2000バーツである。

6000円とは、凄い。
日当であるから、それで、相当、金になったという。

タクシン派は、すべて、金である。
そこで、内部分裂も、起こった。
幹部だった、元陸軍出身の、男が、殺された。

最高幹部は、南部に、豪邸を建てて、悠々と暮らすという。
南部であれば、北部、東北部の人たちには、見えないからである。

タイ政府は、兎に角、タクシンを、捕らえて、法廷で、裁くことである。
虐殺の罪で、死刑が、相当である。

タクシーは、メーソートの、バス乗り場に、着いた。
そこからは、地元の、三輪車タクシーに乗り換える。

あらかじめ、ホテルは、決めていたので、ホテルに向かう。

ようやく、ホテルに着いたのが、夕方の四時頃である。
コータが、心配する、広倉さんに、電話をすると、すぐに、来るという。

着替えをして、広倉さんに、お会いする。
右手を、事故で、失った方である。

ホテル二階の、レストランで、お会いする。

兎に角、無事で・・・
心配かけました

初対面から、そのお人柄が、伝わる。
私が、追悼慰霊と、支援に来たことを、すべて、納得して、全面協力体制である。

予定を、申し上げる。
車の手配も、更に、回るところも、考えていらした。

難民キャンプは、沢山あるという。
私は、メラキャンプしか、知らない。だが、この雨季の時期に、メラキャンプに行くのは、とても、時間がかかるらしい。

それより、市内に、多くの孤児たちの施設や、世話をしている、団体があるという。そこは、支援が必要とのこと。
それで、私は、広倉さんに、お任せることにした。

明日の一日で、すべてを行う予定である。

広倉さんは、汗をかきつつ、お話する。
大柄な体格で、心も、大柄である。
私は、父親の時代の、人々を思い出した。
父親の時代は、こういう人が、多かった。人のために、一生懸命になる人である。



posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 305

私のお気に入りの明らかな矛盾は・・・・
イエスの「告別の説教」の場面に出てくる。これは、イエスが最後の晩餐に弟子たちに話して聞かせる最後の講話で、「ヨハネ」の十三章から十七章まで長々と続く。十三章三十六節では、ペトロがイエスに、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問う。数行後にトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と再び問う。それから数分後に、同じ食事の席で、イエスは弟子を激しく非難して、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のものに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない」と言う。イエスの記憶能力に問題があるのか、これらの章の下敷きになった出典が訳ありで、文脈がおかしな具合に断絶してしまったかのどちらかであろう。
アーマン

ところが、聖書解釈に、言わせると、その、矛盾が矛盾ではなくなるという、不思議である。

改めて、イエスが、弟子たちに、問いかける理由があると言う。
それほど、この部分が、重要であるとのこと。
弟子たちと、イエスの、意識の差が、あり過ぎるために、そのように、書いたのだと。

弟子たちは、この世での、行き先を、イエスは、死を通り、別な次元への、行き先を。

何とでも、言える。

このような、初歩的な、間違い、勘違いが、聖典とされると、許されるし、また、それに、大袈裟な講釈が、施される。

ヨハネの福音書は、他の、三つの、共観福音書とでは、質が違う。
弟子のヨハネが、書いたことになっている。
そして、イエスに最も愛された、弟子と、名乗る。
最後の晩餐の時も、一人イエスの胸に寄りかかっている。実に、意味深な関係である。

聖典とされると、絶対的、権威があり、その中の矛盾など、吹き飛ぶような、扱いを受ける。

この種の問題は、旧約聖書ではさらに顕著であり、しょっぱなから齟齬をきたしている。・・・
「創世記」一章の天地創造の記述は、二章のそれとは全然違う。言葉遣いや文体が違うということは、テキストをヘブライ語で読めば一目瞭然であり、神を指す呼び名も異なっているが、それだけではない。内容そのものが多くの点で食い違っているのだ。
一章に書かれている全ての出来事を時系列順に書き出して、二章についても同様のリストを作り、二つを比べてみてほしい。一章で書かれているように、動物は人間の前に造られたのか?二章で書かれているように、人間の後に造られたのか?植物は人間の前に造られたのか、それとも後に造られたのか?男は最初に造られた生物なのか?それとも最後に造られた生物なのか?女は男と一緒に造られたのか、別々に造られたのか?さらに、それぞれの記述自体にも意味の通らない箇所がある。
「創世記」一章で「光」が造られたのは天地創造の一日目なのに、太陽や月や星が四日目まで造られなかったのはどういうわけか?太陽や月や星が存在しないなら、光はどこから発せられたのか?太陽がなかったら、一章と二章の最初の三日間に「夜と昼」がどうして存在しえようか?
アーマン
私が、改行している。

これが、ほんの、手始めに過ぎないと、言う。

いかに、旧約聖書、新約聖書に、矛盾と、齟齬が多いかということである。

しかし、聖典となると、必ず、小理屈がつく。
甚だしいのは、神による、啓示と、霊感によって、書かれたという、恐ろしく蒙昧な、屁理屈である。
だから、矛盾があっても、いいのである。

更に、その矛盾にも、意味づけがされるという、不思議である。

聖書を細かく見ていくと、あまたの食い違いや矛盾の他にも問題があることが分かる。神や選民に似つかわしくないと思わざるを得ない価値観に基づいて書かれた箇所が、見受けられるのだ。神が都市の住民を無差別に殺戮するように命じるような存在だと、はたして私たちは考えることができるだろうか?
「ヨシュア記」六章で、神はイスラエルの兵士に、エリコの町を襲い、子どもを含む住民を皆殺しにするよう命じている。神が、選ばれし民がよからぬ影響を受けることを懸念したことについては、一応納得がいく。しかし、神はその目的のために、幼児や乳飲み子まで虐殺するなどという必要性を、本当に感じたのだろうか?一体彼らが邪悪さとどんな関わりがあったというのか?
アーマン
私が改行している。

旧約の神は、嫉妬と、怒り、殺人の神であることは、よくよく、知っていた。
虐殺、殺戮などは、朝飯前である。

いよいよ、キリスト教徒の中にも、その神の、命ずることが、おかしいと、気づき始めたのである。

随分と、年月を経たものである。

皆殺しの好きな、神である。
その名は、ヤハゥエという。

これは、インドの神々と、比べても、魔神の仲間であり、日本で言うと、荒ぶる神になるが、荒ぶる神も、皆殺しなどは、しない。

とんでもない、霊というしかない。

旧約聖書を、精読してゆくと、明らかに、この神なるものは、狂っている。また、化け物である。
神として、崇拝できるような、モノではない。

ところが、聖典であるとする、キリスト教は、兎に角、手間勝手な、屁理屈を持って、その神の行状を、肯定しようと、躍起になる。

このような、神を崇めていれば、人間の精神も、狂う。
だから、私は言う。
キリスト教徒の言う、霊性なるものは、まさしく、魔の神の、霊性を受ける。

こんな、物騒な、神を、我らが主として、崇めているのだから、世界に争いが絶えない。
ユダヤ、キリスト、イスラム教の、神である。

同じ神を、奉ずるものたちが、世界を、争いの、混乱に巻き込むということも、頷ける。

さて、果たして、この聖書研究の行くへは、どうなるのか。
私は、アーマンの、著作から、マタイに絞って、再度、マタイの福音書を、検証する。
そして、再度、聖書全体の、検証をする。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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