2010年07月13日

奇跡の旅・ビアク島へ 13

水を浴びた後、私は、体を乾かし、そのまま、ベッドに寝てしまった。
すべてを、終えたという、安堵感と、疲労である。

ドアのノックで、起こされた。
四時である。
夕方の、ティーと、お菓子を、今度は、別の女の子、と言うより女性が、運んできた。

その、お菓子、これが、当たった。
大当たりだった。
私は、夜の九時から、朝の九時まで、下痢が続いたのだ。

さて、夕飯である。
まだ、明るいが、出た。
そして、スーパーのレストランに入ろうとした。
その時、二人の男の子を見た。

二人は、スーパーに買い物に来る、バイクの上に、ダンボールを掛けて、日差しから守ることをしていた。そして、そのお礼に、10円を貰うのである。

その一人の、男の子の、ズボンの、右側に、大きな穴がある。
そして、もう一人の、男の子の、シャツは、汚れて、原型が無い。

私は、急いで、ナシゴレンの食事をして、一度、ホテルに、戻る。

そして、考えた。
買って、彼らに与えようか、どうかと・・・

ここには、もう二度と、こないかもしれない・・・

それでは、最後に、彼らに、ズボンと、シャツを、買ってあげるべきだ・・・

即座に、部屋を出た。
すぐに、姿を消してしまうこともあるからだ。

そして、彼らを見つけて、日本語で、ズボンと、シャツを買うから、ここで、待っててよ・・・
一人の男の子が、頷いた。
通じたのである。

そして、スーパーの二階にある、衣料品のコーナーに、上がった。

ズボンと、シャツで、950円。
それを、また、急いで、持って、下に降りた。

二人は、いた。
私は、袋から、ズボンと、シャツを取り出して、上げた。

およそ、10歳前後の子である。
ひとりは、ただ、驚いて、絶句した。
そして、もうひとりの男の子が、大声を上げた。つまり、歓声である。

よく解らないが、とても、喜び、しまいに、二人が、私に、抱き付いて来た。
私も、驚いた。
周囲の人たちも、驚いた。

だが、私は、これ以上のことは、出来ないと、二人を抱きしめることは、せず、バイバイと言って、ホテルに戻る。
しかし、二人の男の子は、私の背中に、言葉を、浴びせる。
きっと、ありがとう、ありがとうと、言うのである。

彼らには、奇跡だった。
そんなことを、考えることもなかった。
しかし、このようなことが、ある、ということ。

そして、私も、人生には、このようなことが、あるのだということを、伝えられた。
明日は、何が起こるか、解らない。だから、生きる。どんなことも生きて、超える。

これは、詭弁ではない。

多くの、支援の場で、私が、体験したことである。

つい、先ほどまで、そんなことがあるとは、知らない。しかし、考えもしなかった、衣服が、届けられた。
それで、飛び跳ねて、喜んだ、子供たちを、多々、見てきた。

もし、少しでも、私が、衣服を差し上げることで、その、時の、生きる、生きていることの、歓喜を・・・これ以上は、書けない。

私は、私に出来ることだけを、している。
特別なことを、しているのではない。

ましてや、善意ではない、
ついで、である。
追悼慰霊の、ついでに、やっている。

これは、決して、迷わない、惑わない。
ついでに、差し上げている。

ただ、追悼慰霊に関して、理解するよりも、衣服支援が、理解しやすいようであるから、衣服支援を、主にして、テラの会というものを、伝えている。

ビアク島に来て、私は、追悼を、やめて、慰霊だけにしょうと、真実、思った。
辛いからだ。
調べて、どのような事実があったのかを、知ることが、辛い、辛すぎるのである。

追悼など・・・

慰霊だけでいい・・・

ビアク島にて、詠める歌

赤道の
上にて意味を
問いし兵
あはれに泣くは
国のためなり

忘れては
ならぬ戦の
痛恨を
我はただ行く
ただ行くのみに

果て遠き
一万余名
日本兵
命 果てたる
パプアの島に

その洞の
命捨てたる
心をば
何にて思う
ただ 祈りあり

その洞窟の
石にも籠もる
悲しみを
今 我泣きて
ただ 黙祷す

あはれとか
儚きとかを
超えてある
時代の不可を
生きたる兵は

この我が
出来るものをば
他の人も
当然出来る
追悼慰霊

服上げし
子らが抱きつき
歓声を
上げて喜ぶ
その 喜びを

この後のことは、すべて、省略する。
食中りになったこと。
マカッサルにてのこと。
そして、ジャカルタに戻り、帰国のこと。

この旅日記は、これで、上々である。

だが、追伸として、ビアク島で、起こった、悲劇を紹介することにする。
多く、世界の人たちが、知らない、知らせないようにした、虐殺の事件のことである。

その後、東ティモールが、独立した。
その複線となった、出来事である。

パプアが、独立しないように、インドネシア政府は、国軍と、警察を使い、ビアク島を、見せしめとして、行った、極悪非道な事件である。

オーストラリア政府も、見て、見ぬ振りをした。
そこには、資源の利権の問題が、隠されてある。




posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 302

多くの神学生は、歴史的・批判的手法に完全に面食らう。自分たちが通っていた教会の牧師や司祭のように、自分も説教を通して聖書の宗教的な真実を信者に伝えられるよう、そうした真実について学ぶのだと、意気込んで入学してくるのだから。歴史的批判のための心の準備など、全然できていないのだ。
キリスト教成立の謎を解く バート・D・アーマン

いかに、無知で、無心であるかということである。
とても、騙されやすいのである。
更には、騙されて、喜ぶのである。

説教の題材について教わる代わりに、何世紀にも及ぶ研究に基づいて、歴史的・批判的な学者が築き上げてきた研究成果について教わることに、神学生はびっくりする。聖書は矛盾に満ち満ちており、しかもその多くは、いかんともしがたい矛盾である。
アーマン

いかんともしがたい、矛盾である。
これを、神学者が、書くと、実に、説得力がある。
一市井の研究家や、ライターが、提案しても、教会は、もとより、その信者たちも、取り合わないだろう。

五書(旧約聖書の最初の五つの書)を書いたのはモーセではなく、福音書を書いたのはマタイでもマルコでもルカでもヨハネでもない。最終的には聖書には組み込まれなかったが、ある時期には正典と認められていた書もある。例えばイエスの弟子だったペトロ、トマスあるいはマグダラのマリアの手によるものと考えられている福音書がそれである。
アーマン

正典ではない、聖書を、外典と呼ぶ。
その中には、イエスを裏切った、ユダの福音書というものもある。
私は、それを、持っている。
そこに書かれていることは、正典とされている、内容とは、全く別のものである。

奇想天外な、福音書もある。
少年イエスの、奇跡物語などなど・・・

歴史は、いつか、必ず、事実を見せてくれる。

今までは、事実、真実だと、思っていたものが、嘘だと、解った時に、人間は、二通りの、反応しかない。

無視するか、それを、受け入れるかである。

キリスト教においては、その教会においては、それを、無視し続けた。

更に、疑いを持った聖職者たちも、騒動を嫌い、慣習に従った。
嘘のまま、信者に、伝え続けたのである。

旧約聖書に出てくるイスラエル人のエジプト脱出は、おそらく本当にあった話ではない。約束の地カナンの征服は、おそらく伝説であろう。福音書の内容は多くの点で互いに食い違っている上に、史実に基づかない記述も含まれている。モーセが実在の人物なのかどうか、あるいは歴史的人物としてのイエスの教えが、正確にどのようなものだったのか知るのは、至難の業だ。
アーマン

と、すれば、キリスト教全体、イエス・キリストを、掲げる、すべての、宗教が、怪しいということになる。

至難の業、だという。
それでは、今までの、教義や、教理というもの、一体、どうなるのか・・・
どうにもならない。
簡単なことである。
信じれば、済むのである。

嘘も、百回言えば、本当になるとは、中国人のことである。
だが、宗教の信徒たちも、そのようである。

いやいや、彼らを、指導し、導く、牧師や、司祭たちも、同じである。

どうして、そのようになるのか。
それは、奇跡を見たからである。

パウロは、キリスト教の迫害者だったが、イエスが、パウロに現れて、改宗したのである。
それが、イエスの霊なのか、どうかも、検証せずに、イエスだと、名乗った、霊を、信じたのである。

そんなことが、朝飯前の、霊というものが、多く存在する。

中でも、カトリックによって、聖人とされた、多くの人々は、そのようである。

要するに、幻覚、幻視、暗示によるもの、多々あり。
イエスの、磔の、そのままを、受けたという、聖なる痕跡、つまり、聖痕である。
手と足に、イエスと、同じように、傷を受けたと言う。

激しい、精神錯乱による、暗示効果である。

何故、人が、そのように、何かを信じるようになるのか、ということは、いずれ、書くことにするが、私が思うことは、生きるということが、退屈なことであり、暇なことなのであると、認識する。

それぞれの、時代に合わせて、それぞの、欲望を持つが、いつの時代も、欲望希薄な人々がいる。
更に、人のためにという、大きなお世話の人々がいる。

更に、妄想である。

まさに、神仏という、妄想なしに、生きられない人々が、生まれた。

生まれて、生きることに、意味を、見出さなければ、生きられないという、病を、得た。それは、人間の大脳化ゆえである。

生まれて、生きることには、意味はない。

全くの、無意味である。
それに耐えられないがために、妄想を抱く。
そして、かろうじて、生きられる人々がいる。

生きるために、何故、意味が必要なのか・・・

私は言う。
それこそ、奇跡ではないか、と。
存在することを、意識するという、僥倖に、恵まれたのである。
そこに、意味など、無い。
ある、訳が無い。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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