2010年07月12日

神仏は妄想である 301

ここで、一端、マタイ福音書のみの、検証から、聖書全体、新約聖書の、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書との、関係から、マタイを、検証してみる。

手引きは、最近出された、キリスト教成立の謎を解く、バート・D・アーマン著である。

神学者が、批判的キリスト教、及び、聖書の本を書くことは、実に理想的である。
そして、今では、批判的に、それらを、俯瞰することが、最も、聖書、キリスト教を、理解する上で、必要なことである。

ただ、キリスト教徒であれば、理解可能なものもある。
また、聖書に触れていない者には、意味の無いことである。

歴史的・批判的アプローチでは、異なる一連の題目が立てられるため、異なる一連の疑問が提示される。このアプローチの中核となるのは、聖書が書かれた時代背景に照らして、聖書の記述は何を言わんとしているのか、という歴史的な疑問である。
アーマン

聖書に書かれたことを、無批判に読み、ただ、信仰という名によって、理解するという、方法は、時代遅れも甚だしい。

それぞれの、福音書には、それぞれの、意図があり、それは、確実に創作されたものであるということだ。

更に、キリスト教徒は、聖書を、歴史書でもあると、誤解している。

細部に渡って、矛盾するものを、信仰という、名で、封じ込める。
兎に角、信じればいいと、なる。
そして、信じる者は、確実に、騙されることになるのである。

記者はいつの時代の人間なのか?彼らはどのような時代状況下に置かれていたのか?記者が生きていた時代に、彼らはどのような主張を展開しようとしていたのか?彼らはいかなる当時のいかなる文化的・歴史的先入観に影響を受けていたのか?彼らはどの出典をよりどころにしているのか?彼らが拠り所にした出典はいつの時代のものか?・・・・
アーマン

そして、それは、
それどころか、そもそも聖書のオリジナル・テキストがもはや現存しないとしたらどうなる?ヘブライ語で書かれた旧約聖書や、ギリシャ語で書かれた新約聖書が筆写されてきた何世紀もの間に、善意に満ち溢れてはいたものの少々軽率な書写が写し間違えたり、自分の解釈の都合がいいように聖書を書き換えようとした書記が、意図的に改竄していたとしたら?
アーマン

そして、それは、大いにあり得ることなのだ。
それが、他の福音書と、比べてみると、明確に解るのである。

作為がある。
そして、無理やり、こじつけた記述。

更に、恐ろしいことは、カトリック教会が、承認した、聖書の群れに、大いなる矛盾が、多すぎるということ。
その、矛盾を、教会という、権威で、押し潰したということ。

現在の、プロテスタント系聖書研究は、徹底的に、批判的に、聖書研究を行う。
そこでの、矛盾に、堂々と、挑戦している。
そして、信仰を捨てる者、信仰を、持ち続ける者と、様々である。

私は、すでに、何十年前からの、キリスト教の、崩壊を、予知していた書籍を、多く持つ。今、それらが、実に、役に立つ。

無批判に、聖書を、信奉している、多くのキリスト教徒がいる。
それらの、信仰は、ほぼ間違いなく、救いではなく、逃避という、信仰形態に、陥っている。

特に、激しいのは、貧しい国、政治的力の無い人々の国で、それは、行われている。
人々は、その諦めを、信仰という、精神的逃避の世界に、滑り込ませて、何とか、生きているのである。
それを、信仰深いとは、言わない。

信仰への、逃避であり、更には、信仰の疎外である。

そして、彼らは、死んだら、天国に行くことは、まず、あり得ない。
それは、私の霊学に照らしてみて、確実に、そのようである。
精々、教会の上空に、漂う霊となるのである。

更に、狭義、宗教霊界に、存在するだけになる。
勿論、そこには、イエス・キリストは、存在しないし、主なる神も存在しない。

聖書に書かれる、父の右に、おわす、イエスという、図は無い。

まことに、信仰とは、不自由になることであり、本来の魂の自由を得る、宗教信仰に、なっていないのである。

そして、巨大宗教団体は、商売に陥って、久しい。

バチカン銀行総裁、ポール・マンチンクスは、
アヴェ・マリアと唱えているだけでは教会は運営できないのだ、と、言い放ち、不正金融操作を、行っていた。

バチカンは、ローマ法王のいらっしゃる、神の代理人がいらっしゃる場所ではない。
世界中の信徒たちから、集めた、お金を、更に、増やすべく、金融操作を行う、巨大、会社となっている。

だが、すべての、宗教が、そうである。

その魂を、売り渡したのである。
金に。

日本の宗教団体も、まさしく、そうである。

布施を、集めるために、あの手この手の、手練手管で、信者を食い物にする。
だから、信じさせるのである。
それは、魂の救いではなく、騙せるからである。

信じる者は、確実に、騙されて、布施をする。
一度、宗教組織に入った者が、そこから、抜けるのが、いかに難しいか。
人間には、属性欲望がある。
つまり、どこかの、集団に所属したいと言う、欲望である。
宗教は、それを、実に、巧妙に取り入れている。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奇跡の旅・ビアク島へ 12

私たちは、元の場所に、戻った。
そして、今度は、日本軍の、遺留品を展示してある、建物に案内された。

一つ一つを、見て、胸に迫るものを、感じた。
そこでも、清め祓いをした。

特に、手榴弾は、自決用のものである。
病に倒れた者が、自決するのである。
また、皆の、足手まといになる者も、自決する。

更に、健康な者も、絶望して、自決した。
援軍が来ないと知ると、自決する者も、多々いた。

通訳の青年が、私の汗を見て、水をという。
運転手が、買ってくるというので、5000ルピアを渡した。

しばらく、建物の中で、過ごした。

そこを、管理している、男が、現れ、私に挨拶した。
そして、名簿に、名前を書いてくれと、言われた。

別の場所に、受付があり、そこの、芳名帳に、名前と、住所を書く。
すると、通訳の青年が、10万ルピアを払ってくれと、いう。
私は、その通りにした。
すると、おばさんが、チケットを渡してくれる。

その建物の、管理で生活しているらしい。

外に出ると、いつのまにか、人が集っていた。
衣服支援をすると言ったので、彼らが、あらかじめ、伝えていたようである。

そこで、バッグを車から取り出して、衣服支援を行う。
私の手から、相手の手へと、渡す。
皆さん、じっと、私の手元を見て、決して、騒がないのである。

大人用もあり、集まった人たちに、渡す事が出来た。

水を飲み、それでは、次に、ということになった。
あら・・・何処へ行くのか・・・

しばらく、走ると、ビーチに出た。

ああ・・・日本政府が、建てた、大きな慰霊碑の前に出た。
先の、昭和31年の、慰霊碑の、百倍以上の大きさである。

その前で、深く、黙祷する。
すると、その慰霊碑の、中に、案内された。

数十人の、遺骨がある。

驚いた。
皆、日本に、運ばれていると、思った。

少し、線香の匂いがした。
そこで、清め祓いをする。

あまり、大袈裟にしなかった。
地元の人たちが、見に来たからである。

すると、通訳の青年が、ビーチにいた人たちに、声を掛けた。
衣服支援である。

裸の子供もいる。
大人も来た。
だが、もう、あまり、衣服は残っていない。
それでも、少し渡す事が出来た。
中に、日本語で、ありがとう、という、人たちもいた。
そして、さようなら、である。

車に乗り、皆に、手を振り、別れた。
私は、もう十分だった。
時間にすると、二時間半を、超えていた。

私は、ホテルに戻ると、告げた。

通訳の青年が、また、色々と話をする。
彼は、時々、こうして、通訳をして、お金を得ていると、言った。

そこで、私は、チップは、幾らかと、尋ねた。
10万ルピアという。
私は、その通り、10万ルピアを、出した。
千円である。
十分な、収入である。

ホテルに到着した。
明日の、時間を決める。

私は、三時に、ホテルを出るつもりだった。
それを言うと、ホテルの主人が、それでは、もう、20万ルピアが、必要だという。
チェックアウトは、12時であると、いうのだ。

ああ・・・それなら、追加料金で、5万ルピア程度にすれば、いいのにと思ったし、交渉しようかとも、思ったが、疲れていたので、やめた。

それでは、と、運転手に、12時にと、告げた。

ホテル経営では、やっていけないことは、一目瞭然。
大家族である。
おばあさんから、孫までいる。

島にやってきた人から、お金を取るしか、方法がない。
何せ、客は、私ひとりである。

私は、部屋に戻り、すぐに、水を浴びた。
すべてが、終わった。
その、安堵感。
よくぞ、やったものだ・・・と、我が身ながら、感心した。
時間は、一時を過ぎていた。

posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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