2010年07月10日

奇跡の旅・ビアク島へ 10

夕方に、部屋をノックする音。
ドアを開けると、女の子が、お茶と、お菓子を持ってきた。
女の子は、小学生の低学年くらいで、ホテルの主人の娘ではないかと、思った。

お茶は、ジャスミン茶に砂糖の入れたもの。
お菓子は、自家製で、芋に衣をつけて、揚げたものである。

お茶は、飲んだが、お菓子の方は、そのままにしておいた。
この、芋の場合は、良かったが、翌日の、夕方の、バナナを揚げたもので、私は、12時間、下痢だった。

さて、ぼんやりと過ごしていた。
明日の、追悼慰霊が、どうなるのか、全く検討がつかない。
慰霊碑のある場所は、解った。そして、そこには、確実に行く。そして、その後は、どのようになるのか。
それで、終わることもあるだろう。

そして、支援である。
多くは無いが、残してきたものを、島の人たちに、手渡したい。

色々、ぼんやりと、考えていると、歌詠みがしたくなるが、それも、まだ余裕が無い。

結局、早く寝ることにした。
そして、目の前にあった、揚げ物のお菓子を、食べてみた。
ああ、芋だ・・・とても、美味しい。

翌朝も、お茶と、小さなパンが出た。

今度は、息子だろうか、若い男が、運んできた。

お茶を、飲みつつ、日本や、バンコクに電話をする。
このために、何度も、電話に、料金を入れなければならない。

ホテルの並びにある、店でも、カードが売ってあるので、そちらで買ってみることにした。

そこでは、正規の値段である。
では、ホテルで、売っているものは、ここから、買って、それを売っているのだろうか・・・
と、思いつつ、自分で、入れてみようと、部屋に戻った。
ところが、どうしても、入らない。

しょうがないと、放っておくことにした。

運転手は、十時より前に、来ていたらしく、私が、玄関に出ると、すでに、ロビーにいた。

それではと、思ったが、ホテルの主人が、出かけている。つまり、通訳してくれる人がいないのだ。
そうすると、運転手が、外に出た。

私は、部屋で、出掛ける準備をする。
ノックがしたので、戸を開けると、運転手と、一人の男がいた。

その男が、ミスターキムラ、アイスピークイングリッシュと、いうではないか。
とても、変な発音である。

そこで、交渉が始まった。
昨日、考えた通りに、こちらから、提案した。

今日の、慰霊と、支援、そして、明日の、空港まで送ってくれて、50万ルピアで、どうだ、である。
そして、私は、五万ルピアを、十枚出して、見せた。

男は、そのお金を、ソーリーといって、受け取り、数を調べる。
運転手に、何か言うと、運転手は、頷いた。

ミスターキムラ、オッケーといい、男は、お金を私に返した。
私は、25万ルピアを、運転手に渡し、明日、残りを渡すことにした。

とても、大きな仕事である。
後で知るが、運転手は、結婚したばかりで、車、タクシーの仕事も、はじめたばかりだった。

決定したので、出掛けることにする。
荷物を、運転手が運ぶ。

そして、マイフレンド ゴーと言うと、車が、走り出した。

私のことを、フレンドと呼んだのか・・・・

いや、違った。
英語の出来る、彼の友人を、一緒に連れてゆくということだった。

その友人の家に立ち寄り、友人が、乗り込んできた。
そして、また、発音の少し変な、英語で、話がはじまった。

これから、行くところの、説明をしているようだ・・・私には、よく解らない。
でも、うんうん、そうそう、と、反応して聞いていた。

山道を走り、到着した場所は、日本軍の残した、砲弾や、戦車、戦闘機の、崩れたものが、並べられてあった。

そこで、降りるという。

そして、そこが、慰霊に、最も、相応しい場所だったのだ。

そこで、また、友人の英語の説明があった。
頷いて聞いていた。
写真を撮る。

運転手に、カメラを渡して、これからも、写真を撮ってもらうことにする。

次に、山道を、案内された。
出たところに、大きな穴がある。
洞窟である。
日本兵が、籠もった洞窟である。

そして、昭和31年に、建てられた、慰霊碑に出た。
何とも、そこで、はじめて、私は、私らしくなったのである。
二人には、ここで、祈ると言った。
日の丸を立て、付近の木の枝を使い、御幣を作る。

後ろにいた二人に、イッツ、ジャパニーズプレイ、プリーズ、ピクチャーといった。
通じた。

二人は、イスラム教徒である。
しかし、この島では、どの宗教も、共存していると、ホテルの主人に聞いていた。

二人は、私の後ろに座り、見ていた。

神呼びを行い、祝詞を、唱える。
およそ、30分ほど、かかった。
最後に、私は、ここに、居残る皆様は、私の音に乗って、日本にお戻りください。
古里に、そして、靖国に行きたい方は、靖国に・・・
満身の力を込めて、お送りの、音、音霊、おとたま、を、発した。

実は、神呼びのときに、鳥たちが、一斉に鳴いたのである。
それが、いつも、不思議に思う。

一羽や二羽ではない。
色々な、鳥が鳴くのだ。

皇祖皇宗と共に、日本をお守り遊ばす、神々、つまり、カムの皆様に、御願いする。

そして、最も大切な、清め祓い、を、行う。

四方を祓い、清める。

すべてが、終わってから、敵軍の兵士のために、祈る。
これは、キリスト教である。
キリエレイソン
主よ憐れみたまえ
ラテン語にて、御父と、御子と、聖霊の御名において、と、祈念する。

次に、ビアク島の、戦禍について、少し、紹介する。



posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 299

「かんつうしてはならない」と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、だれでも情欲をいだいて女を見る者は、その女に対して心の中ですでにかんつうの罪をおかしたことになる。それで、もしあなたの右の目があなたを罪にさそうならば、それをえぐり出して捨てなさい。全身が地獄に投げ入れられるよりは、からだの一部を失うほうが、あなたにとってはましである。もしあなたの右の手があなたを罪にさそうならば、それを切って取って投げ捨てなさい。全身が地獄に落ちるよりは、からだの一部を失うほうが、あなたにとってましである。
マタイ福音

聖書研究では、罪は、外的な行為だけではなく、内的な行為、すなわち、思い、望みによっても、生ずる、とある。

このイエスの言葉を、真っ当に、解釈することが、出来ずにいるのが、神学者や、司祭、牧師たちである。

一体、イエスは、何を言うのか。
そして、マタイは、何を考えて、このように、仕立てたのか、である。

姦通してはならない
とは、モーゼの十戒にある、言葉である。

端的に言う。
モーゼの姦通は、人妻のことである。
当時、女は、男の所有物の一つであった。
他の男の、牛でも、羊でも、女でも、それを、奪ってはならないということである。

この言葉を、額面通りに、実行しようとするのは、また、現代の言葉通りに、読んで、実行するのは、極めて、グロテスクな、新興宗教であろう。
ものみの塔という、エホバの証人ならば、そのままに、解釈するだろうし、原理主義者も、そのようだろう。

聖書主義というものも、そうだろうと、思われる。

これを、検証してゆくと、とんでもないことになるのである。

「姦淫するなかれ」についても、反対命題が伝えられている。そしてこれは人間の心の動きの機微をついている。旧約律法には「姦淫するなかれ」とあるけれども、私ならば敢えて申し上げよう、情欲をいだいて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである・・・
田川建三

女が好きな男にとって、女を見る時、少なからず、そのような、目つきになるだろう。
そのような、心の機微に、何ゆえ、その目をえぐり、投げ捨てよ、などという、言葉が出て、更には、全身が、地獄に投げ入れられるよりもましだ、などと言うのか。

全身が、地獄に投げ入れられるよりまし、だという、その地獄という、言葉も、尋常ではない。

天国が、妄想であり、更に、地獄というのも、妄想である。

更に、人間の欲望を手玉に取り、人間を支配しようとする、根性が、気に入らない。

さて、神学者、田川氏の、解説である。
つまりマタイはここで、今までに実に長い間ユダヤ人社会に支配してきたモーセ十戒の法律的規則の一つを「観念領域に対して無制限に拡張している」姦淫の禁止が法律の規定の一つである限りは、極めて限定された具体的な一つの実行行為だけがそこで扱われるので、それはユダヤ教社会の社会秩序を維持するために働き、多くの人々は、それを、自分には直接ふれてくることのない特別な事例を扱ったものとして了解する。
ところが、それがこのように意識心情の世界にまで無制約に拡大してくると、すべての人の日常の心づもりにふれてくるし、単にふれてくる、というだけではなく、これが法の規定の拡張として考えられ、それを犯せば決定的な審判の前に立たせられると言われているだけに、もしもこういう言い方が正しいとすれば、人はそこに無限の脅しを感じざるをえない、ということになる。
田川 
読みやすく改行している。

そして、吉本隆明の言葉を紹介する。
思想としては実に徹底していてすぐれているけれども、すぐれているからとて、正しいとは言えない
というのである。

それで、もしあなたの右の目があなたを罪にさそうならば・・・
という、箇所は、マタイと、イエスの、発想の相違を知る上で、基本的な手掛かりを与えるという。

つまり、マタイは、それを、つなげて、書いているのである。

伝承の歴史から、見れば、それは、つながっていなかったのであると、田川氏は、言う。

マタイは、イエスの言葉を、結びつけることによって、律法の徹底化を図ろうとしたのである。
つまり、創作された、福音書なのである。

つまり、マタイはこれを実現可能な倫理規定として考えていたことになる。第二に、マタイがこれをただの倫理規定としてではなく、律法的な規定として考えていたことは、29節以下に罰の理念があらわれていることから知られる。・・・
マタイは、山上の説教の反対命題全体を律法の完成として見ていたのである。
田川

イエスの言葉を、勝手に、作り変えたのである。
自分の思いの、ままに、である。

それでは、イエスは、律法の概念を、何故、意識の世界にまで、拡大したのか。

それを、田川氏は、
このことを論じる前に、多少の字句の問題に拘ってゆこう。「情欲をいだく」と訳した単語は一単語の動詞であるが、聖書学者たちがふつう問題にするのは、この動詞及びその前につけられたpros(ために)という前置詞をどう解するか、ということと、「女」という単語の意味である。
と言う。

直訳すると、女を情欲するために見る者は、ということになる。
つまり、情欲するために、女を見るということである。

具体的な、性行為をすることを、目的として、女を見るのである。

情欲を抱く、のではない、ということ。

「情欲するために見る」という「ために」の前置詞であり、「情欲を抱いて見る」のではない。

見るのは、情欲するために、見るのである。

性的欲求を起こすために、見るのであり、単に、眺めの中に入ってきた、女を見て、欲望を起こすのではない。

だが、しかし、研究家というものは、ご苦労なことである。
たかが、そんなことに、血眼になるのである。

私は、モーセの十戒にある、古代の、考え方に興味を持つ。
女が、男の、所有物であり、姦淫とは、他の男のものの、所有権の、侵害だとする、考え方である。
そこには、現代でいうところの、性道徳などではないということ。

女という、単語は、人妻と同じであるということ。

今なら、人権侵害であり、とんでもない、差別である。
つまり、ユダヤ教というものが、そのように、作られたという、作為に、私は、驚く。

完全に、父系社会の、創造である。
この、父系社会が、ただ今、歴史というものを、造り上げてきたのである。
つまり、戦争の歴史である。

更に、続ける。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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