2010年07月09日

奇跡の旅・ビアク島へ 9

まあ、それでも、この部屋に、二泊することにした。
この程度で、慌てていては、これから、まだまだ、ニューギニア戦線の追悼慰霊をするのであるから、驚くに当たらない。

時間は、朝の十時前である。
ではと、早速、ホテルの周囲を散歩することにした。
食堂も、見つけなければならない。

暑いのだが、日差しは、ジャカルタより、弱い気がした。

そこが、ビアク島の、メイン通りだと聞いたので、また、驚いた。
ホテルの並びに、スーパーがあり、その向かい側にも、スーパーがある。
そして、小屋のような建物が、続いて、音楽ショップや、携帯電話の店・・・などがある。

食堂が、一軒。
向かい側のスーパーの中にも、一軒あるのみ。

それで、おしまい。
歩いても、五分である。

仕方なく、向かい側のスーパーに入り、水を買う。
そして、色々な品物を見て回る。

以外に、食料品が多い。
ただ、果物が少ないのが、気になった。
輸入物が、大半である。

そして、島であるから、全体的に、値段が高い。
それは、何から何までに、言えた。

1,5リットルのペットボトルを、二本買い、一度、ホテルに戻る。

矢張り、汗をかく。
地元の人は、汗をかかないようだ。

水浴びに挑戦してみる。
大きな水槽のような場所に、水が溢れるようにある。
桶を使い、下半身から、かけてみる。

少し冷たいが、気温が高いゆえに、それほどでもない。
体全体に、水を掛ける。
少し、気合を入れた。
意外に、気持ちがいい。

と、それで、タオルが無いことに気づき、そのまま、全裸で、乾くまで、部屋の中で、立っている。
何とも、情け無い。

バリ島で、買った、シルクの腰巻をして、過ごす。

そろそろ、腹が空いてきた。
ホテルの並びにある、食堂で食べようと思う。

腰巻に、Tシャツを着て、出た。
五六人の男たちが、食事をしていた。

メニューを出されるが、全く、解らない。
いくつか、写真が出ていたので、そのから、選ぶことにする。
が、私が、食べたいものは、無いと、女の子が言う。

それでは、ナシゴレンである。
それか、ミーゴレンである。それしか、解らない。

ナシゴレンを注文したが、おかずと、ご飯が別に出てきた。

何とも、変な感じである。
勿論、店の方も、変な感じだろう。

見かけない顔、それも、外国人である。

ただ、おかずが、野菜中心だったので、良かった。しかし、辛い。

兎に角、島の食堂で、食事をしたということ。
日本円にして、百円と少しである。

部屋に戻り、夜は、スーパーの食堂で、食べてみようと、思った。
料理の写真が多いから、そこから選べる。

そして、突然、疲れを感じた。
飛行機に乗った疲れである。

ベッドに、体を横にすると、そのまま、寝てしまった。

目覚めたのが、三時過ぎである。
そこで、ロビーに出て、主人に、聞いた。

車で、一時間、島を案内してもらうと、幾らかかりますか。
英語である。
伝わったようで、一時間、60万ルピアだという。
そして、手配するよと、言う。
それでは、アフターね、と、言って、部屋で考えた。

一時間、六千円とは、高い。高過ぎる。

バンコクのコータに電話する。
ちょっと、一時間車をチャーターして、六千円だってさ
それは、ボッているね
そうだよね。そんなに高いはずないよね

主人は、ガイド付の料金を言ったのかもしれない・・・それにしても、高い。

それで、考えた。
明日、あの運転手が来る。
あの運転手に、こちらから、値段を言い、交渉することにした。

つまり、追悼慰霊に行き、そして、その翌日に、空港まで、送ってもらって、50万ルピアで、交渉してみる。
追悼慰霊の時間は、無視してもらう。つまり、二時間でも、三時間でも、料金は、同じということ。

ホテルの、主人には、頼まないことにした。
アフター、後でと言ったので、そのままにしておこう・・・

島では、五千円でも、大金である。
だが、島の人は、島以外から来た人から、お金を得る以外に、方法がないのである。

ここで、裕福に暮らす人たちは、政府関係者である。
つまり、公務員、警察、軍関係者。

電話の料金を入れるのに、五万ルピアのものを、ホテルの主人に頼むと、五万五千ルピアといわれた。
そして、ホテル前の看板を見ると、五万二千ルピアと書いてある。

ジャカルタでは、五万は、五万で、10万のものだと、二千ルピア安くなる。

嫌だーーーー
嫌な性格であると、我が身を思う。この、ケチケチした、性格・・・
まあ、自腹で、来ているのだから、しようがないが・・・

夜、スーパーの食堂に行く。
写真を指して、注文した。
ばっちり、である。

何のことは無い、ミーゴレンを食べた。
情け無い。

従業員の、男の子たちも、女の子たちも、実に、親切で、笑顔を絶やさないのが、いい。

おいしかった、と、日本語で言う。
サンキュー
意味、通じたのか・・・




posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 298

怒るのは神であって、人間は怒ってはならない、という発想が強くなっていく

キリスト教発生以前のユダヤ教が全部そうだというわけではないが、この傾向は特に知恵文学に系統においてはっきり出てくる。「怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い」(箴言の書)など。もっとも、知恵文学の場合、イスラエルの伝統的な発想だけではなく、外来の処刑訓も加味されて、感情的に激するのは愚物であって、賢い人間はいつも冷静さを保つ、と言っているのだが、そういう処世訓が神観念へと疎外された「怒り」に結びつく時、人間の怒りは神に逆らうことであって、怒ることは神にのみまかせておけばよいのだ、という考え方になっていく。
田川

作られていく、感情であり、更に、神観念の中に没入させるという、手である。
それを、神観念へと、疎外すると、表現する、田川氏である。

いよいよと、偏狭な心境に入っていくのだが、それは、何も、ユダヤ、キリスト教だけに、言えることではない。
宗教のすべてが、神観念や、仏観念へと、疎外するのである。

つまり、信仰が、深くなれば、なるほど、そういう傾向を帯びる。

私は、もう一つ、別な言い方をする。
疎外する、つまり、逃避するのである。

たとえば「ソロモンの詩」では、「私の舌と私の唇を真理の言葉でつつみ給え。怒りと不合理な憤りを私から遠ざけ給え」という祈りが出てくる。そして、「怒り」は人間の持つべきものではない、ということを、「ベンシラの知恵」ははっきり言い切っている、「心の憤りは女から生まれた者のためにあるのではない」。「女から生まれた者」つまり人間には、怒ることは許されていないので、怒ることができるのは神のみである、というのだ。
田川

新約聖書において、「怒り」は神の意志に逆らうことだ、とみなす見方の理解がつく。当時のユダヤ教のこれらの文章、ことに知恵文学では、人間の怒りは非理性的な感情の爆発として退けられている。右に「心の憤り」と訳した句は、むしろ「情の怒り」と訳すべきで、ていねいに言えば、「憤りの感情のもつ怒り」という意味である。このように、人間の持つ怒りを愚かな感情のほとばしりとみなし、正統な、あるべき当然の怒りは神のみ帰する、というところに、宗教的な疎外の特質がある。正統な怒りを神にのみ帰してしまったら、しいたげられた民の腹の底から煮えたぎる怒りを神への不従順として抑圧してしまうことになるのである。
田川

これが、宗教指導者、支配層の、狙いである。

こういう、ものの考え方、つまり、ヘレニズム的な、世界支配の中で、私的個人の、安心立命を願う、ユダヤ教の、知恵文学、ローマの世界支配の中で、私的個人の、宗教的救済のみを、願う、パウロや、その亜流に、主として、現れるのである。


このように、実に、偏狭で、矮小である。
宗教とは、人を、支配するために、とことん、練られた、巧みな言葉の世界であると、言える。

そして、それは、人間によって、作られているということである。

「怒り」というものをすべて感情的な動きの類似性からのみ形式的に一般化して、一切の怒りは愚劣な感情の動きだ、などと断じられたのでは、やりきれない。
田川

しかし、イエスは、随分と、怒る。
新約聖書には、イエスの怒りの様が、四福音書に、多く記される。
これは、怒りを発することが、出来ない、民の代わりに、怒る如くである。

そして、イエスの、怒りは、支配層、指導者層に、向けられた。

マタイ教団は、それを、どのように処理しようとしたのか。

マタイ教団では、イエスの言葉、反対命題を、旧約聖書的教条に対する批判的対決とは、解さず、むしろ、彼らの「義」の完成という発想で、捉えた。
旧約聖書では、不十分な、「義」というものを、より大きく、十分に完成したものであるとする。

しかし私はいう
という、イエスの言葉を、それより、よりよく、より徹底して、言うと、解釈されたのである。

旧約的教条に反対するのではなく、完成命題とした。

山上の説教とは、イエスの強烈なユダヤ教批判と、マタイ教会のユダヤ教を発展的に継承しようとする視点との、ごった煮なのである。
田川

つまり、マタイ教団も、ご多分に漏れず、ユダヤ教のみならず、宗教的に、作り上げていく、教義なのである。

田川氏は、神学者であるから、多くの例を、引いて、解説している。
私は、それを、省略する。

マタイは、精神主義である。
すべてを、精神主義に、拡大して、発想する。

重要な問題は、正当な怒りはすべて神のみに属する、という宗教的に疎外された発想の中で、社会的に抑圧された者の怒りすらも骨抜きにされていく、というからくりをしっかりと見抜いておくことであろう。
田川

マタイは、精神主義的な、教団内倫理と、ユダヤ教から継承した、宗教的に疎外された、「怒り」の理念を定着させることになる。

ところで、兄弟に対して・・・怒る者は・・・
異教徒に対してではない。

同じ信徒同士のことである。
兄弟を殺す者は、裁かれる。しかし、異教徒を殺した場合は、裁かれない・・・

とっても、狭義の意味での、教義であろうか・・・

キリスト教徒が、イスラム教徒を、殺しても、問題は無い。
または、それほど、重要なことではない。
こうして、無明の教義が、作られていく。
疎外が、逃避になり、そして、何かを忘れていく。信仰というものの、闇である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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