2010年07月05日

奇跡の旅・ビアク島へ 5

ジャカルタの人口は、おおよそ、910万人。
その、北西部に、ブンジャラガンと言う地区があり、スラムが広がる。

スラムに住む人の数は、把握できないのである。
100万人いるといっても不思議ではない。
更に、低所得者は、人口の、大半だろうと、思える。

中華系が、一番、金持ちである。
一時期、中華系の排除運動があったが、それにより、資金が海外に流れた。
更に、中華系も、インドネシアに解け込む、努力をしていると、言われる。

インドネシアの歴史に関しては、前回、書いているので、省略する。
ただ、今回、私が、感じたことは、インドネシアという国の成立に、日本が、深く関わっていたということである。

つまり、ポルトガル領だった、東部ティモールをはぶく、現在の、インドネシア領は、オランダが、植民地として、支配していた。
それを、日本軍が、統治して、敗戦後、インドネシア独立の中で、オランダ領支配だった、島々が、団結して、共和国を建設したのである。

オランダは、日本敗戦後も、再び、植民地化を企むが、四年間に続く、独立戦争にて、また、世界の監視により、断念した。
その際に、日本兵の一部が、インドネシア軍と共に、戦った。
彼らは、英雄として、奉られている。

あるインドネシア人に、言わせると、戦いの方法を、日本兵が、教えてくれたという。

更に、独立後、日本の支援により、今も、インドネシアは、国として、成り立つのである。
日本の支援なくして、インドネシアの存続は、有り得ない。

さて、とんでもない、支援活動を終えて、私は、シャワーを浴びて、ベッドで、休んだ。

しばらくすると、あの、ボーイが、部屋に遊びに来た。

今度は、ホテル内の、色々な施設の話をする。

二階から、四階までが、カラオケである。
前回、コータが、そこに出て、情報を仕入れて来たが、ボーイから、話しを聞くのは、はじめてである。

カラオケは、夕方から、はじまる。
そして、気に入った女性がいれば、買うことが出来る。

私は、女の料金はと、尋ねた。
日本円にして、一万円から、二万円である。
前回は、コータが、二万円と、聞いていた。そして、ボッていると、言ったが、それが本当の料金だった。

ボーイは、イスラム教徒であるが、男との関係は、駄目だが、ガールとの関係は、問題ないと、言った。つまり、売春は、肯定するのである。

更に、私に、マッサージを勧める。
マッサージ料金は、時間によって違う。
だが、マッサージ嬢も、買えるという。

それも、一万から、二万である。

客の、半分以上は、それが、目的であると、いう。
つまり、買春である。

ボーイの、マッサージは、あるのかと、聞くと、無いという。
私は、ガールより、ボーイのマッサージがいいと、言った。
すると、マン エンド マンは、駄目だという。
いや、ボーイの方が、力が強いから・・・
大丈夫だ、ガールでも、力があるという。

そして、もう一度、写真を撮るという。
それは、私を撮るだけで、自分は、一度でいいと、言う。

私は、ボーイに、ユービュティフルボディ、上着を脱いで、写真を撮るというと、また、マンエンドマンは、駄目だという。

つまり、男同士の関係は、禁止されているという。
彼は、男同士に、敏感だった。少し、勘違いしていた。

というより、私が、勘違いさせたのか・・・

彼の、勤務時間が終わる、三時に近くなった。

私は、また、少し休んだ。

夜の食事は、そごうデパートで済ますことにした。
屋台で食べてもいいのだが、ビアク島に行く前に、もし、食中毒などになっては、大変だと、思ったからだ。

そして、また、電話に料金を入れる。

毎日、横浜支部と、実家、そして、バンコクのコータに、報告の電話をする。
単独行動であるから、皆、心配しているのだ。

六時を過ぎて、スラムの、電話屋に行き、お姉さんに、料金を入れて貰う。
そのまま、そごうデパートに向かう。

パダン料理を食べることにした。
そこは、四階にあり、デパートの屋台広場であるから、安い料金で、食べられる。

旅をしていると、あまり、多く食べなくても、いい。
食べるだけでも、疲れるのだ。

最後は、スーパーに降りて、水を買う。
兎に角、いつもの、倍の水が必要である。

通りの店で、5000ルピアで売っている水が、スーパーだと、半額以下である。
東南アジアは、すべて、水道の水は、飲めない。
その点、日本は、天国である。
水道水が、どんどんと進化して、美味しくなっているのだ。

水を買い、今日が、それで、終わった。



posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 294

天地創造、そして、人間を造りたもうた、神というモノに、徹底的に対決した、一人の作家がいる。

マルキ・ド・サドである。

ぼくは思うに、このけがらわしい宗教の神というやつは、今日一つの世界を創造したかと思うと、明日はその出来栄えを後悔するといった態の、およそ無定見で野蛮なやつでないとしたらいったい何だ?けっして人間を思うとおりに仕込むことのできない、力の弱いやつでなくて何者なのだ?神から出たにもせよ人類は、かえって神を支配しているよ。

まさに、創世記の神の、技は、実に、矛盾している。
しかし、キリスト教司祭、牧師は、言う。

神は、人間に最大の愛である、自由意志を与えたと。

その自由意志で、人間が、神の愛を受け入れることが、信仰である。
更に、人間の罪を、我が子を使って、救うという、その愛の行為・・・

とてもとても、妄想なのである。

人間の、原罪というもの・・・
生まれながらに、罪人であるという、観念は、ただ事ではない。

人間には、罪を犯す、種を持つものである。だから、罪人・・・
あらゆる、キリスト教作家は、そこに、問題意識を見出して、小説を書くという、アホ振りである。

その人間存在の、根底にある、原罪というものを、いかに、観念するか、である。

この、人間の自虐性は、どこからのものか。

原罪説というものも、教義の一つである。
最初から、それが、存在していたのではない。

教父といわれる、神学哲学者によって、作られたものである。

それでは、サドの続きである。

神の意志にそむき、そのために地獄の苦しみをなめることだって、人類にはできるのだから!神様としたことが、何とまあ意気地のない、何とまあ情け無いことだろうね!われわれの眼にふれるありとあらゆるものを創造することができたというのに、人間一匹思い通りに作りあげることができなかったとは!しかしあなたはそれに対してこう答えるかもしれない。もし神が人間をそんなふうに立派に作りあげてしまったら、人間の価値というものをどこに求めたらいいのだろう、とね。じつに愚劣な議論だよ。第一、人間がその神にふさわしく立派にあらねばならぬ必要が、どこにあるだろうか?もしも、人間をまったく善良に作りあげさえしたら、人間はけっして悪事をはたらくことができなかっただろうに。そうしてこそ初めて、人類創造という仕事は、まことの神の事業というに辱しからぬものであったはず。人間に選択を許すということは、人間を試みることだ。ところで神は、端睨すべからざる先見の明をお持ちなのだから、その結果がどうなるかというようなことは、いちいち分かっていたはずだ。

リチャード・ドーキンスとは、また、別な形で、創世記の矛盾を突くのである。

勿論、それに対して、キリスト教側は、妄想逞しく、反論する。

そうしてみると、神は自分でつくった人間を好んで堕落させているということになる。何という怖ろしい神だろう。この神様というやつは!何という酷いやつだろう!むしろわれわれの憎悪と容赦なき復讐を受けてしかるべき極悪人だよ!しかもそいつは、神としての最高至上の勤めには満足しないのか、改宗させるためには人間を大洪水で溺れさせたり、業火で焼き殺したり、呪いを唱えて禍を被らせたりする。

嫉妬と裁きの、神であるとは、神自ら、聖書の中で、語る。
人格神とは、よく、言ったものである。
人格神で、全知全能であるはずがない。
つまり、完全な人格というものは、無いのである。

人格神ということ、自体に、矛盾がある。

更に言えば、全知全能であれば、次元も質も違うということで、全く、人間と、接する何物も無いのである。

しかし、そうまでしても、人間を変えることはさっぱりできない。だからこの醜悪な神よりももっと力強い存在たる悪魔が、相変わらずその勢力を失わず、相変わらずその創造者を見くびって、もって神の子羊たる人間どもをさまざまに誘惑し、絶えず堕落せしめることもできるというわけだ。われわれにはたらきかけるこの悪魔の力に打ち克つことは、何物をもってしても不可能だ。するというと、あなた方が口をすっぱくして唱えるあの怖ろしい神は、このときいったい何を考えているのかしら?神にはひとり息子がある。どんな交渉から生まれたものかとんとぼくは知らないが、ともかく一人息子だ。何のことはない、人間は自分がマグアイするものだから、自分たちの神も同じようにやることを望んだわけさ。神は自分自身のこの尊い部分を天国から下界へつかわした。ひとびとは想像した、この崇高な神の子はおそらく天上の光に乗って、儀杖の天使たちに取り巻かれて、全世界の衆目を集めながらその姿をあらわすのだろうと・・・・しかるに、何ぞはからん、救世主として地上へやってきた神が姿をあらわしたのは、ユダヤの淫売婦の腹の中であり、汚らしい豚小屋の中だったとは!これが実に世に伝えられる神の子の素性だとは!それはそうと、彼の栄光ある使命によって、いったいわれわれ人類は救われるのだろうか?

ここから、実に、興味深い、サドの、イエス・キリストに関する、問い掛けが行われる。

つまり、彼は、イエスは、何を言い、何をしたのか。この男から、どんな使命を授かったのか。どんな霊妙な教えを彼は告げたのか。どんな教義を規定したのか。要するに、どんな行為のうちに、彼の偉大さが、発揮されたのか・・・である。

ぼくの心に浮かぶのは、まず第一に、少しも知られていない少年時代と、この悪童がエルサレムの寺院の坊主どもにしてやったにちがいない、きわめて淫らなある種のお勤めと、次に十五年間の逃亡だ。この山師は行方をくらまして十五年、その間エジプト学派のあらゆる妄想にかぶれて、やがてこれをユダヤに持ち帰ったらしい。そしてユダヤに姿をあらわすやいなや、彼はわれこそは神の子であり、父なる神と等しきものである、などとほざき、かくしてその狂気沙汰がはじまるのだ。あまつさえ彼はこの神の子との組み合わせに、さらにもう一つ聖霊と称する化物を付け加えて、この三つの位は一体にして分かつべからざるものであると断言する!この哂うべきマヤカシがわれわれの理性に怪奇に響けば、いよいよこの下司な男は、それを受け入れることの功徳を主張し・・・それを棄てることの危険を力説する。神であるにもかかわらず、ひとの子の腹に宿って肉身となったのは、全人類を救済するためであり、やがて自分によって行われるでろあう目覚しい奇蹟の数々は全世界を承服させるであろうと、この男は断言する!

これは、文学である。
だから、救いがある。
しかし、サドが、宗教家として、説教をするというのであれば、救いは、無い。

実に、烈しい、皮肉である。
それには、当時の、聖職者たちの、堕落の最たる時代であるということも、ある。

私は、ここで、新訳聖書当時の社会情勢、状態を鑑みることで、更に、イエスという、人間に、迫ってみる。
勿論、マタイの福音書を、理解するためである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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