2010年07月04日

奇跡の旅・ビアク島へ 4

食事をして戻ると、すべての手続きが終わっていた。
そして、おばさんが、笑顔で、ディスカウントと言い、返金してくれた。

これで、ビアク島行きが、決定である。
日本から出る時は、どうするかと、少し迷っていたが、もう、後戻りは、出来ない。

何せ、ビアク島の、情報が何も無いのである。
ホテルや、ゲストハウの、情報も無い。
出掛けて、野宿する覚悟が、出来たのである。

出掛けてからの、勝負である。

書類を貰って、ホテルに戻る。

あの、ボーイが、部屋に後で行くと言う。
さて、手伝ってくれるのか・・・

時間は、12時を過ぎていた。
この後、スラムに、衣服支援である。

暑い時間帯と、ボーイの仕事が終わる、三時以降にすることにした。

ボーイが、やって来た。
彼も、あまり英語が出来ないので、丁度よい。

前置きの話が長かった。
彼は、ジョグジャカルタの出身である。
あの有名な、ボロブドール遺跡や、プラン・バナン遺跡のある場所である。
一度、私も、出掛けた。

ジャカルタでは、兄弟二人で、働き住んでいる。
一月の、給料は、日本円で、8千円である。
実に、少ない。それでは、生活が出来ないと、思う。

彼は、言った。
あなたの、三泊分が、僕の給料と・・・
うーん・・・

写真を撮り合うことになった。
記念写真である。
彼は、思わず、ポーズをつけたから、面白い。

そして、本題である。
実は、スラムに、入り、人々に、衣服を渡すと、言った。
ガイドを、して欲しい。そして、写真を撮って欲しい。

ところが、話しをはぐらかされる。
どうも、乗り気ではない。
チップも差し上げるから。でも・・・

つまり、スラムに入りたくないのだ。

そういう人たちとは、別の世界にいると、彼は、信じている。
確かに、暗黙の、境界線がある。
スラムの人々も、こちらに、出ることは無い。

これは、駄目か・・・

無理強いは、出来ないので、話をやめた。

もう、一人で行くしかない。
彼が、出て行ったので、私は、出掛ける準備をはじめた。
一時過ぎである。
暑くても、いい。

ホテルを出て、以前から、気になっていた、高架下に向かった。
子供たちが、遊んでいる。

そして、よく見ると、高架下にも、小屋が、立ち並んでいる。
近づくと、その小屋の間に、道があり、何と、そこから、スラム街に入られるのである。

驚いた。
びっしりと、小屋が立ち並ぶ。
道が狭く、四方に伸びている。
ここから、膨大なスラム街に、なっているのである。

私は、三人の子供たちが、遊ぶ道に、バッグを置いて、子供たちの服から、取り出した。

それからである。
どんどんと、人が集ってきた。
いつもの通りである。

子供のたちが、群がり、そして、大人も、混じる。
おおよそ、半分ほどの、衣類を、手渡しして、私は、場所を移動することにした。

その、支援の様子は、若い男に、カメラを渡し、撮って貰った。
地元の人に、カメラを渡すと、撮られるほうも、気を許すので、そのままの、姿が、映る。

さて、次の道へと、向かうが、子供たちも、大人たちも、後をつけてくる。
どんどんと、その数が増える。

一度、バッグを置いて、取り出すが、混乱の極みである。

そこで、一人のおばさんが、私を、高架下に誘う。
高架下は、広いから、よいという、訳である。

高架下に出て、私は、子供たちに、並びなさいと、身振りで、言う。
子供たちは、素直に、二列に、並び始めた。
大人も、協力してくれる。

ところが、その間に、大きなバッグから、若い男たちが、走り来て、一つ、また、一つと、支援物資を、取り出して、走り去ったのである。

最後の、袋を、取られて、私は、やっと、それに気づいたのである。
子供たちに、気を取られている間の、出来事。
しかし、子供たちは、見ていたはずである。

つまり、支援するものが、無くなっていたのである。
このスラムには、盗みをする、若い男たちが、いるのである。
スリの、集団がいる。

それでは、どうなったか・・・
私は、子供たちに、両腕を上げて、何も無いと、知らせた。が、子供たちは、納まらない。

百人ほどの子供たちの、群れが、私を襲う形になった。

逃げた。

逃げながら、写真を撮った。

中には、赤ん坊を抱いた女もいて、私に、下さいと、頭を下げるが、差し上げるものがないのである。

逃げた。

高架下を抜けても、子供たちが、追ってくる。
逃げる。

そして、ある地点まで来ると、子供たちは、ぴたっと、動きを止めた。
そこが、境界線なのである。

スラムと、通常の世界の、境界線。

着物を着ていなくて、よかった。
ほうほうの体で、ホテルに戻る。

ぐったりした。
そして、怒りが湧いた。
半分は、盗まれた。

だが、彼らが、自分の周囲にいる、子供たちに、渡すことを、願った。
しかし、それは、甘い考えである。
きっと、彼らは、それを、金に換えるだろう。
スラムの中にある、店に、売るはずである。



posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 293

旧約聖書、創世記には、天地創造の由来が、書かれる。
由来というから、それは、神話である。

夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神はいわれた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

ここでは、地球のすべての、生き物が、人によって支配される、という、定義が、持ち出される。

そして、神は、我々に、似せて、人を造るという。
この、我々とは、何か。

似せてというのは、何を、似せるのか。

それでは、神が、人を造った経緯を見る。

主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

そして、神は、その人を、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。・・・アダムのことである。

また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
・ ・・・
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
私の骨の骨
私の肉の肉
これをこそ女と呼ぼう
まさに、男から取られたものだから」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

ここには、恐ろしいほどの、差別がある。
人とは、男のことをいう。
女は、人とは、呼ばない。

男は、イシュであり、女は、イシャーと呼ばれた。
女は、男の、付属物なのである。
一夫多妻の原型である。

そして、蛇の誘惑を、女が受けることになる。

その前に、人を、神、我々に、似せてという、部分である。
ここには、どのような意味があるのか。
人、つまり、男は、神に似せて、造られたのである。

普通、似せるとは、その形である。
しかし、聖書解釈には、神と、同じ霊として、となる。
鼻から、息吹を掛けられて、人が、造られた。
その、息吹とは、霊のことである。

肉体は、塵である。
肉体が、朽ちると、塵に還る。

蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

そして、神の登場である。

主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」
主なる神は女に向かって言われた。
「なんということをしたのか」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました」

キリスト教の原罪説は、ここから、はじまる。

主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

善悪を知る者となり、永遠に生きる者となる、恐れがある。
一体、この神の言葉は、何を意味するのか。

天地創造などとは、実に、いやらしいほど、の、傲慢の思想がある。

創世記は、モーゼによって、書かれたと、言われる。
その、モーゼは、神と契約をした。
その契約の内容は、神を、モーゼの意のままに、使うというものである。

神が、モーゼを、使うのではない。モーゼが、神を使うのである。

その後、創世記には、神が、
わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。
と、言うのである。

全知全能、天地創造の神が、後悔するのである。

その前段で、
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

神という、我々に似せた人とは、そのようなものであった。
つまり、神と、同じである。

神は、それを、願っていたのである。
そして、ノアの箱舟。
それでも、人は、生きて、増え続けた。

神話であると、言えば、いいが、それを、そのままに、信じる姿勢を、キリスト教は、求める。

女は、男から、出た者である。
全くの、見当違いである。

人は、受精した瞬間は、皆、女から、はじまる。
神話であるから、許せるが、これが、真っ当な話であると、するならば、明らかに、間違っている。
つまり、原罪という、生まれながらに、罪を持つという、思想は、妄想としか、いえない。

その原罪を持つ人間を、愛するに相応しくないと、考える神学なるもの・・・
その、愛する価値のない人間を愛する、イエスの存在・・・

そこから、教義がはじまること、自体が、誤りである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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