2010年07月03日

奇跡の旅・ビアク島へ 3

翌日の朝は、早く目覚めた。
六時、日本時間では、八時になる。

やることが、多い。
まず、電話のカードを買うこと。
両替して、ビアク島行きの、航空券を買うこと。
そして、スラムに、衣服支援をすること。

部屋にある、ポットで、湯を沸かし、インスタントコーヒーを、煎れた。
しばし、飛行機の行き方を、確認する。
下手な英語で、伝えなければならない。

横浜支部の、報告には、英語も出来ないのに、よくぞ、やっていると、書かれたようであるが、全く、英語が出来なければ、行動するのは、無理である。
勿論、大ブロークン英語であり、英語の中に、日本語が、混じるという・・・

三個目の、お握りを食べる。
その美味しさに、感動する。
冷えても、柔らかく炊いたご飯は、美味しいと、知るのである。

八時前になったので、出掛ける。
まず、電話から。
下に降りると、若いボーイがいた。
そこで、電話を見せて、シンパチカードを買いたいと言うと、彼は、即座に、私の携帯電話を、調べた。

そして、以前の番号が、使用できないと、教えられた。
新しい番号を買うこと。

このボーイは、私の部屋に、遊びに来るほど、親しくなった。

スラムの、通りに、お店があると、教えられて、出掛けた。
その店は、すぐに見つかった。
店・・・ただの、小屋である。
一人の、若い女がいた。

五万ルピア、500円で、新しい番号を買い、更に、五万ルピア分の、カードを買う。そして、お姉さんに、その、料金分を、電話に入れて貰う。
そこには、何度も、通うことになる。

お金を出せば、お姉さんが、勝手に、電話に、料金を入れてくれるようになった。

さて、次は、両替である。
そごうデパートに向かう。
そごうデパートは、日本の会社である。そのビルは、複合ビルで、日本、アメリカの、大型デパートが、入居している。

地下には、スーパーもある。
そのスーパーの、地下二階に、両替所がある。

ところが、開店が、10時からである。
まだ、開いていなかった。

タバコを吹かして、待とうと思ったが、一本、吸って、一度、ホテルに戻ることにした。

先ほどの、ボーイに、番号を買ったことを言う。
そして、フロントで、今夜の宿泊分を支払う。

一日ごとに、支払うことにしている。というのは、三泊分を支払い、二泊しかしなかった場合でも、戻さないホテルがある。
フィリピンで、二度、そういう経験をしたから、一日ずつ、支払うことにした。

部屋に戻り、支援物資の、仕分けをした。

一度、衣服を取り出して、中身を確認し、入れ直す。
一度に、すべてを持つことは、出来ない。何せ、一人である。

十時になったので、また、出掛ける。
若いボーイは、朝から、三時までの、勤務である。
私は、彼に、仕事が終わったら、ガイドをして欲しいと言うと、後で、部屋に来るという。
やってくれると、期待した。

そごうデパートに入り、地下二階に、下りる。
ところが、両替所は、11時から・・・ああ、である。

そこで、また、上に上がり、旅行代理店に行くことにする。

とても、忙しい様子だった。
私が椅子に座ると、作業をしていた、後ろのお姉さんが、やってきた。
目の前の、おばさんは、英語が出来ないようである。

ペラペラペラ・・・
よく解らない。

私は、国内線の、地図を出して、ゆっくりと、英語で、ビアク島に行きたいと言った。そして、紙に、行く日と、戻りの、マカッサルの日程、そして、ジャカルタに戻る日を、書いた。

お姉さんは、すぐに、別の、若い女に命令して、空席を探させた。

しばらく、待つ。
すいません・・・ウォータある・・・
オッケーと、別の女が、二つ、カップに入った、水を出してくれた。

中々、結果が、出ない。
私は、少し大きな声で、デスカウントチケットね・・・と言った。
すると、調べていた、お姉さんが、オッケーと、応えてくれた。

11時になったので、目の前のおばさんに、マネーチェンジと言って、両替することにした。

丁度、開店したところである。
今回は、おじさんである。前回は、女性だった。
五万円を出した。

一万円が、98万ルピアである。
0が多い、紙幣なので、実に、煩わしい。

どっさりと、お金が、出てきた。
そして、私は、何と、コープクンカップといった。
タイ語の、ありがとうである。
おじさんは、それを、繰り返し、笑いながら、あたなは、日本人ねーーと言われて、気づいた。
あーーートリマカシと、言い直した。
おじさんは、オッケー、コープクンカップと、言う。

約、500万ルピアを、持って、また、旅行代理店に向かう。

チケットが、すべて取れていた。
ジャカルタから、ビアク島までは、ガルーダであり、帰りは、マカッサルまで、別会社であり、マカッサルからは、ライオンエアーである。
ライオンエアーは、前回、パダンに行く際に、乗った飛行機である。

三社の飛行機に乗る。
確認して、今度は、手続きである。
言うのが、面倒なので、パスポートを出す。

また、時間がかかりそうで、一応、支払い分を渡して、向かいにある、レストランで、食事をすることにした。

あのねーーーレストランに行ってくると、おばさんに言うと、オッケーである。
レストランという言葉で、何をいうのか、解るのであろう。

レストランに入り、注文する。
矢張り、高い。
マーボー豆腐と、野菜のスープを、注文すると、おねえさんが、笑顔で、ナントカコントカという。
いらないと、手を振る。

そして、気づいた。
ご飯だ。ご飯、ご飯、いや、ライス。手を上げて、お姉さんを呼ぶ。
らいす、ね・・・
スチームと、尋ねる。そうそう、オッケー、である。

蒸したご飯である。フライライスだと、チャーハンになる。



posted by 天山 at 00:00| 奇跡の旅ビアク島へ 平成22年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 292

処女降誕とは、イエス・キリストが男女の性的結合によらないで生まれたということである。これはまさに「異象」である。人間が男女の性的結合によって生まれるという自然現象を破るものとして、異常な現象である。そこで、もし処女降誕がこのような異常な「現象」が起こったと承認することを意味するなら、それは信仰の告白ではなくなる。
北森

奇跡についての、説明をしているのだが、それが、宗教信仰の現象の奥にある、本質を見るものであるという。

宗教信仰は本来「本質」の領域にかかわるのであって、「現象」の領域にかかわるのは科学ないし常識である。
北森

奇跡は、意味の領域に属する。
北森

つまり、その、内容のもつ、宗教的意味であるということ。
それを、決断によって、受け入れる者にとってのみ、生きてくる。

それでは、信じる者だけが、その宗教的意味を、知るということになる。

私は、処女降誕という、奇跡など、どうでもいいのである。
イエスという、人間が、当時の、ユダヤ教の中にあり、その、偽善を暴き、弱い人々、更に、罪人といわれた、人と、真っ当に対座したということが、魅力なのである。

上記、簡単に言えば、信じるか、否か、ということである。

奇跡は、信仰されるものとして「ある」のである。
北森

勿論、信じる人に、信じるなということは、出来ない。
いわしの頭も、信心からである。

その、いわしの頭も、信心というものと、別であると、屁理屈を書き連ねる、根性が気に入らない。

たとえば生物学的に処女降誕に類する現象が証明されたとして、それを承認することが処女降誕の信仰告白であるというなら、すべての人間が信仰の決断なくして、キリスト教徒となり得るであろう。・・・普遍的に認識される事に対しては、信仰は要求されないからである。
北森

処女降誕を、あくまで、奇跡として、見ることが、信仰であり、更に、飛躍して、イエス・キリストの本質的な意味、それは、イエス・キリストの愛に、他ならないと、語る。

実に、恐ろしい、理論である。

イエス・キリストが、処女降誕で、生まれたということに、意味を、持たずとも、イエスという、人間の教えを、受け入れることが、出来る。
どうしても、そのような、奇跡を、意味ある、本質として、受け入れると、考えるという、錯乱である。

更に、飛躍することは、イエスの、愛は、どのようなものであったか。
それは、愛に価しない者に対する愛であった、と、語る。

人間は、愛に価する者だけを愛するのである。したがって、愛に価しない者を愛することは、人間の自然的ありかたを超えたものとして、まさに奇跡である。
北森

罪びとを愛するイエス・キリストの愛は、自然的人間にとっては奇跡である。
北森

一体、この人は、何を言っているのであろうか。

これが、神学者といわれる、人の書き物である。

更に、処女降誕に対して、愛に価しない者への、愛に、真っ向から対立するのは、性愛である。性愛は、それが健全なものであろうとするなら、必ず愛に価する者へ向けられるはずである。
性愛は本質的にいって、愛に価する者への愛である。
北森

であるから、処女降誕は、人間の自然的なありかたを超えた「本質的な意味」としての「罪びとへの愛」を語るためのものである。
と、なる。

そのような、意味としての、処女降誕であるというのである。

聖書が、語りたいことは、イエスの、本質的な、意味としての、罪びとへの愛という、奇跡を、処女降誕の奇跡で、語るということなのであるという。

ここまで、偏狭になれば、第一級の、神学者なのであろう。

人間を、初めから、罪びと、であると、断定して書く。
これが、キリスト教の、原罪説である。

これも、信じるか、否かである。

この世に、生まれたこと、自体が、罪びと、なのであるという、妄想である。

聖書が、語りたいことが、云々として、語るが、彼は、その証拠があるのか・・・
ある訳が無い。
そのように、教えられたのである。そして、その、教えを、信じたのである。

そして、信じる者は、騙される。

私は、処女降誕の奇跡から、イエスの、愛の奇跡、つまり、愛するに価しない者への、愛というものがなくても、イエス・キリストの、存在を、否定しない。肯定する。

神学というものが、学問に価しないというのは、これを、読んでみて、よく、解るのである。

つらーっとして、読んでいると、そんなものかと、思われるが、このような、妄想を、彼らは、撒き散らすのである。

そして、驚くべきは、原罪というものである。
生まれながらに、罪人であるという、意識。それを、持てという。
それも、信仰の、世界の問題である。

生まれながらに、罪人という、意識を、持たなければ、キリスト教徒になれないのである。

自虐に、他ならない、考え方。
一体、誰が、考え出したのか。
実に、おぞましい、自虐感覚である。

これを、考え出した者、当然、自虐感覚に、囚われたのである。
それを、教義とした、キリスト教である。

宗教の、蒙昧が、明確に、現れた。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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