2010年07月20日

メーソートへ 6

次に、向かうところは、ミャンマー難民の、孤児たちの家である。
小学生から、中学生までの、おおよそ、70名が、暮らすという。

ノーンブアデン孤児の家である。

車が、山の中に入る。
そして、細い、林の中を通る。
こんな、山奥に・・・

ようやく、建物が、見えてきた。
中野さんの、説明によると、フランスの団体が、食料支援をすることから、はじまったという。

住まいと、学習する、建物がある。
だが、写真を見て欲しい。
建物といっても、皆、手作りである。

まず、二三人の子供の姿が、見えた。
今日は、日曜であるから、皆、建物の中に入っているのか・・・

平倉さんと、奥様が、早速降りて、施設の代表の、女性と、話し始めた。

誰が、声を掛けたのか、子供たちが、続々と、集まってきた。

サワディー・・・
だが、誰も、声を上げない。
子供たちの、顔は、神妙である。
更に、笑わない。

私は、早速、バッグを開けて、支援物資を、出した。
ここでは、奪い合いはないと、それぞれの、大きさの、シャツを、木製のテーブルの上に出した。

好きなものを、取ってくださいーーー
私の日本語を、コータが、英語に、そして、中野さんの奥様が、タイ語にし、代表の方が、ビルマ語にした。

子供たちは、静かに、衣服に手を出す。
矢張り、小さな子供たちからである。

大きな子供たちは、その背後にいて、見詰めている。

私は、今回、子供用の、靴を、多く持参した。

その、靴を子供たちの前に、並べた。
さあー、自分に合うものを、取ってください。

英語、タイ語、ビルマ語に、訳されて、子供たちに、伝わる。

いよいよ、子供たちが、動き出した。
靴である。
日本の靴。

履いて、歩くと、光を放つ靴もある。
子供たちは、驚いて、少し歓声を上げた。
それも、小さな子供たちである。

大きな子供たちは、騒がないし、冷静である。

次々と、私は、物を出した。
三枚の、子供用の、毛布を取り出すと、後ろの女の子が、手を挙げる。
何という、子供たち・・・

すると、また、手を挙げる子がいる。
次々に、手渡す。

一番の、感動は、ぬいぐるみ、だった。
何も無い場所・・・・

私が、沢山の、小さな、ぬいぐるみを、取り出して、頬に当てて、一緒に寝てくださいと、表現した。

小さな手、手、手である。
私が、渡すまで、待っている。
後ろのほうからも、前に出てきて、手を、出す。

一人一人に、手渡す。

それにしても、後ろにいる、大きな子供たち、中学生であろう、どこかで、見た、表情である。
思い出した。
オーストラリアの、アーネムランドの、アボリジニの中学、高校生の、顔である。

自分たちの、現状を把握し、絶望した、表情である。
彼らは、自分たちには、国籍も無い、親も無い、そして、未来が、全く見えない・・・
それを、知ったのである。

アボリジニの大きな子供たちも、絶望感が、漂っていた。
私たちの、民族は、もう、駄目だ、希望などない・・・という、悟り。
仕事も無い。ただ、政府が、出すお金で、暮らしてゆくだけ・・・

ミャンマー難民の孤児たちの場合は、それより、悪い。

兎に角、その場から、動くことが出来ない。
国籍が無いのであるから、その町から、出られない。
そして、何も出来ないのである。

更に、諦め。

ぬいぐるみを、差し上げた後で、子供たち、小さな子供たちに、微笑みが、あった。

私は、日本語で、また、ここに来ます。待っててください。また、沢山の、プレゼントを、持ってきますと、言った。
それが、英語、タイ語、ビルマ語に、訳されて、子供たちに、伝えられた。

私が、片付けでいるのを、子供たちは、静かに見ていた。
そして、解散である。
中野さんも、平倉さんも、後ろで、それを、見詰めていた。
奥様が、色々と、気遣い、通訳、写真まで、撮ってくれた。

そして、私に、英語で、もっと、小さな子供たちの、施設に、行きましょうという。
幼児用もあり、それは、大賛成だった。

その後、平倉さんが、学校というか、学習する建物に、案内してくれた。
その、屋根である。
大きな、葉を使い、屋根を作っている。

山から、大きな葉を、取ってきて、このように、屋根にします。乾くと、ある程度固まり、雨漏りは、しません

机も無い。
ただ、敷物を敷いただけの、部屋。
小さな黒板がある。

白人の先生が、二人来ています
そうですか

私は、日の丸を掲げて、写真を撮った。

うーんと、唸るだけ。

次は、慰霊碑に行きますと、平倉さんが、言う。

代表の方に、挨拶して、私たちは、車に乗り込んだ。

さようなら
何人かの、子供たちに、声を掛けた。
手を振り、見送ってくれた。

また、林の中を、車が走る。
その時、別の車が来た。
あれが、食料を運んでいる、車ですと、中野さんが、言った。



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2010年07月21日

メーソートへ 7

カレン族と、共に戦った、日本人三名が、奉られる、自由戦士の碑に、向かった。
大きな道路に出た時、小雨が降ってきた。
ということは、スコールか・・・

スコールになれば、一時間ほどは、外に出られない。
困ったと、思った。

車は、ミャンマー国境の、ミャワディー川に、向かっているという。
戦場であった、その前に、碑を建てたのだ。

ある寺の前に来た。
その前に、慰霊碑がある。
まだ、小雨である。

車から降りて、私は、即座に、慰霊の儀を執り行う。
スコールが来ても、続けるつもりだった。

神呼びを、行い、祝詞を献上する。
神呼びで、空を見上げて、太陽の位置を、確認した。
その時、何と、雲間から、薄く、太陽の光である。

ああ、いつものことだ。

そして、雨も止んだ。

長い祝詞である。
最後に、お送りの、音霊による、霊位の自由を求める、所作である。
そして、清め祓いをする。

私の力ではない。
皇祖皇宗、天津神、国津神、八百万の神、そして、地場の、産土の神の、力である。

早々に、終わり、平倉さんから、説明を受けた。

一人は、戦死である。
味方の兵を助けるために、敵の、陣地へ向かい、味方の兵を、連れてきたとき、砲弾を受けた。四日間生きていたが、息を引き取った。
そして、二人は、マラリアによる、死である。

砲弾で亡くなった方は、青森県出身の若者である。

次に、川に向かい、平倉さんが、目の前を指して、こちらが、カレン族部隊、川の向こうの、小高い山が、ミャンマー軍の基地だったという。

この川、すぐ渡れそうですね
と、私がいうと、
ええ、昔は、よく渡っていましたよ
と、答える。

ミャンマーが、目の前である。
確かに、小船でも、泳いでも、渡れる。

そのうちに、空の雲が、薄くなる。
雨がすっかり、上がった。スコールは、来なかった。

コータに、御幣を川に、流してもらう。

どうだった
一二三で、沈んだ
ああ、そう

流れても、沈んでも、いい。
私の祈りが、通じれば・・・

川の流れを見詰めつつ、平倉さんの話を、聞いた。

ミャンマー軍事政権の、横暴さと、少数民族に対する対応などなど・・・

本当に、どうしようもない国ですよ

要するに、国民を敵と、想定しているのである。
特に、独立を目指して、戦った、カレン族に象徴される、差別と、弾圧は、非寛容である。
時々、政治犯として、捕らえて、10年以上も、刑務所に、監禁し、日常的に暴力を加える。大半の人が、障害者になるという。

人権などという、意識は、無い。

その、ミャンマーを支援し続けるのが、中国である。
更に、最新の情報では、ミャンマーで、商売をするためには、中国語が、必要不可欠だという。
どういうことか。
経済活動が、中国人に乗っ取られているということだ。

私は、個人的に、中国人に、恨みなどはないが、あの、民族は、他国に、入り込んで、その国の、システムを、滅茶苦茶するのである。

更に、軍事政権の幹部たちを、抱き込めば、好き勝手のし放題である。

私が、ヤンゴンに出掛けたときに、頻繁に停電が起こったが、あれも、意図的なものだったという。
今も、そうである。
ヤンゴンの都市機能を、麻痺させる。

国が、最大の都市を、壊滅させるという、神経は、ただ事ではない。
要するに、支配しやすくするのである。

今回、国境が、閉じられた。
選挙のための、政情不安を、外国人たちに、見られたくない。
更に、私のように、政権を批判する、文書を書いて欲しくない。

すべて、ベールの中に、包み込んでしまいたいのである。

メーソートの町に、どんどんと、少数民族が、入ってくる。というより、逃れて、やってくるのである。
勿論、着の身着のままである。

これは、他人の、他国の問題であり、関係ないこと・・・
そう思えば、思える。
私は、追悼慰霊をするために、皆さんと、縁して、支援をしている。
だが、そこから、国際社会というものを、見る目を養った。

人は今、アメリカの衰退をいい、中国の台頭をいう。
だが、一瞬身たりとも、停止していない。
動いている。

同じ状態は、続かない。

中野さんの、奥様が、私の知り合いの、幼児を預かる、孤児たちの家に、行きましょうと、誘う。
是非、御願いします。


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2010年07月22日

メーソートへ 8

次の場所は、ミャンマー難民の、幼児用の孤児の家である。
バンメーパという、名前の家である。

ところが、迷った。
複雑な道で、奥様も、分からなくなった。
何度も、行きつ戻りつを、繰り返した。

私も、どこを、どう走っているのか、分からなくなった。

電話で、中野さんと、奥様が、問い合わせている。
そして、ようやく、出た。

住宅街の、込み入った、中にある。

丁度、昼ご飯が終わり、子供たちは、お昼寝の時間だった。
静かである。

若いスタップの、男の子が、玄関の扉を開けてくれた。
そういう、スタップが、五、六人いた。
彼らも、孤児である。

代表の、女性と、男性が、歓迎してくれた。

女性が、私たちを、子供たちの、寝ている部屋に案内してくれた。

そこで、写真を撮らせてもらう。

およそ、40名が、暮らしている。
その資金は、男性のお兄さんが、毎月、シンガポールから、三千バーツ、六人円を、仕送りしてくれているという。
勿論、それでは、足りない。

私は、すべての、支援物資を、出した。
多くは、幼児物であるが、中に、大人物もあった。

兎に角、すべてを、出して、見て貰い、必要ですかと、尋ねた。
女性は、必要ですと、言った。

更に、私は、次は、どんなものが、必要ですかと、尋ねると、寒い時期の、衣類ですという。

山間部は、十月後半から、一月まで、寒い時期が、続く。
それが、更に、寒さが、増しているのだ。

タイだけではない。
ベトナム、ラオスも、そうである。
中国国境地帯は、寒冷化が、進む。

寒さによる、死者も出ているが、そんなことは、報道されない。
更に、悲しいことは、今まで、寒さに慣れていない人たちであるから、防寒の、備えが無い。

タイ、北部、東北部にも、必要なのである。
毛布もないというから、子供と、お年寄りは、大変だと、聞いた。

ここで、温暖化と、寒冷化について、語ることは、避ける。
科学者も、意見が分かれるのだ。

さて、衣類を出し終えると、甘いコーヒーが、出た。
とても、美味しく感じられる。

汗で、塩分と、糖分が、流れてしまう。
コーヒー牛乳のような、コーヒーである。

そこで、色々と、話がはじまった。

もう、この家では、限界だという。
階下には、障害を持つ子供たちも、数名暮らしているという。

男性は、別に、家を、持ちたいといった。
しかし、資金は無い。

だが、このような、施設、家は、メーソートに、沢山あると、平倉さんが、教えてくれた。

子供の施設だけでも、多数あり、すべての、施設では、支援が必要であるとのこと。

タイ政府は、見て見ない振りをしている。
違法入国であり、しかし、人道上、排除も出来ない。
それに、バンコクからは、離れている。

だが、タイ政府の、曖昧さは、北朝鮮の、脱北者たちも、助けている。

東北地方の、ある町を目指して、脱北者が、来るのである。
更に、チェンマイには、彼らを支援する、団体もある。

それに、タイ政府も、それ以上のことは、出来ない。
タイ人、特有の、曖昧さが、救いとなる。

次に来る時は、寒い時期の、衣類も、もって来ますと、私がいうと、二人の代表が、とても、喜んだ。

誰かが、助けないと、やってゆけないのである。
街の中には、ミャンマー人も、大勢暮らす。その人々からの、支援もある。

中野さんの、奥様も、ミャンマー人であり、少数民族の出である。

更に、街の中には、インド系の人たちもいる。
皆、ミャンマーから、流れてきた人たちであろう。

対岸の、ミャンマーの建物と、タイ側の建物は、明らかに違った。
全く、別物である。

ミャンマー側の、国境の町、ミャワディーは、観光客が、回れる部分だけは、整然と、整理されているが、それを抜けると、とんでもなく、貧しい。
観光客には、化けた部分だけを、見せているのである。

私は、コーヒーを飲み終えて、それで、また、来ますと、立ち上がった。
お手伝いの、女の子たちも、挨拶に来た。
皆と、写真を撮る。
知り合いの、子供たちと、会う感覚である。

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2010年07月23日

メーソートへ 9

最後に、障害を持つ子供たちの、部屋を見た。

二人の男の子は、起きていて、将棋のようなことを、していた。
後の三人は、寝ていた。
皆、中学生くらいの年である。

単なる、孤児ではなく、障害があるとたら・・・
生きるに、大変厳しいものがある。

二人の男の子と、写真を撮った。
さようなら
ニコニコ笑っている。

すべてを終わって、街に向かった時は、二時を過ぎていた。

ホテルから、朝、十時に出て、四時間を費やして、終わったのだ。

その後は、皆で、食事をしたいと、言うと、平倉さんが、それではと、お店に、向かってくれた。

皆で、食事するには、丁度よい、中華料理の店である。
大きなテーブルに、五名が、ついた。

色々なものを、注文した。
その中で、私の言葉が、唯一通じたのが、麻婆豆腐である。

その他は、平倉さんが、注文してくれた。

私が先に、箸をつけると、皆さんが、取り分けはじめた。

それから、英語と、タイ語での、会話である。
私は、平倉さんと、日本語で、会話した。

その際に、タクシン元首相の話しになった。

この町を、潰そうとしたのです、という、驚きの話だった。
麻薬撲滅と称して、麻薬密売ルートを、独占するために、無実の人を、1800人、殺した。即座の射殺である。
一説には、1200人ともいわれる。

兎に角、無実の人が、千人以上、殺されたということ。

麻薬撲滅と称して、自分のルートを作ろうとしたこと。
驚いた。

中には、本当に、麻薬密売をしていた、日本の山口系暴力団の、男もいたという。

彼が、タイに戻ると、殺されますよ
と、平倉さんが言う。

そのような、裏の話しは、表に出ないことになっている。

すべてを、金で、解決していた、首相である。
何でも、金で、肩がつくと思っていたのだ。
自分の票も、金で買う。

タイ、北部と、東北部には、ばら撒き財政を、展開して、支持を得た。
今でも、タクシンは、素晴らしいと、思い込む人々がいる。

タクシン派の、人々は、洗脳を受けているようなものだった。
知識の無い、人々を集めて、国民の権利を主張すべきである・・・等々の、話しを、繰り返し、聞かせる。
そのうちに、人々は、真実そう思うようになる。
そして、金を配られる。

その幹部たちは、その金を自由に、我が物として、使う者もいた。
そして、幹部の内部抗争である。

共産主義者がやるような、愚かなことをしたのだ。

タクシンは、最後は、大統領制への、伏線を張る。
当然、王室擁護のタイ人は、立ち上がった。

タクシン派も、反タクシン派も、王室擁護の人が多い。
それで、タイ王国は、継続していた。

色々な民族がいる。それを統一するために、王室、王様が、一番理想的な、存在なのである。
それが、タイという国である。

タイ王室は、200年程度の伝統である。
しかし、それは、かけがえないものなのである。

タイの、何処へ出掛けても、国旗と、王様の旗を、掲げている。
一般市民たちも、である。

更には、市民の家に、王様の、お写真が、掲げられる。

三年前の、憲法改正の時に、王妃によって、宗教の自由が、奨励された。
仏教国でありながら、宗教に寛容を、示した。

日本の、新宗教である、創価学会、真如苑、救世教などの、布教も、盛んに行われている。
更には、プロテスタント系の、キリスト教である。とても、盛んである。

私は、そのどれも、お勧めできない・・・

タイの伝統とも、言うべき、上座部仏教に対する、敬意があって、はじめて、タイ国における、布教が成り立つ。
しかし、我らが、唯一と、なってしまうと、混乱を招く。

キリスト教は、特に酷い、悪魔から出た宗教であると、堂々と、上座部仏教を、攻撃するのである。

さて、食事の最後に、私は、立ち上がって、ジャパニーズ、スタイルといい、皆さんに、深く、お辞儀をした。
すると、奥様が、今日は、とても、良いことをしましたと、言う。

中野さんは、いつでも、車を出しますと、言う。
次も、是非、御願いします。

この、お三方が、いなければ、このように、スムーズには、進まなかった。
本当に、感謝である。

そして、平倉さんが、船便で、荷物を送ってください、そうして、こちらに来て、渡してくださいと、申し出てくださったので、それでは、テラの会支部になって、いただけますかと、尋ねると、ええ、いくらでも、協力しますと、仰ってくださった。

そして、奥様に、必要なら、お送りした支援物資を、必要な場所に、渡してくださいと、申し出ると、解りましたと、受けてくださった。

更に、私たちが、明日、乗るべき、ミニバスのチケットを、平倉さんが、取ってくださるという。
それも、朝一番で、取りますと、言う。
混雑していれば、取れないからだ。

私は、父親の時代に見た、人たちを、思い出した。
人のために、進んで、献身的に、生きた人たちである。

今、日本に、こういう人がいるだろうか・・・と。


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2010年07月24日

メーソートへ 10

ホテルに戻り、ホッと一息。
食事をしたせいもあり、疲れが、ドッと出た。

四時間のうちに、駆け足で、回ったのである。

シャワーを、浴びて、着替える。
しばらく、ベッドに、横になった。

とても、充実した気持ちである。

皆で、食事をすると、腹いっぱい食べてしまう
それを、コータに言う。

僕も、いっぱいになった
二人で、しばし、沈黙。

昼に、これほどの量を食べると、夜はいらないと、思う
が、短い日程のせいか、街に出たくなる。

コータは、マッサージに行きたいと言う。
通って来た道沿いに、マッサージ屋があったらしい。

だが、歩くのが、面倒だ・・・

私も、夕暮れを過ぎないと、外に出たくない。

部屋の扉を開けて、タバコを吹かす。

そして、夜を待つ。

その間、今日、巡ってきたところを、回想する。

薄暗くなり、ホテル並びの食堂に出た。
明日の朝で、こことも、お別れだ。
明日は、スコータイまで、出なければならない。
そして、一泊して、翌朝の、飛行機で、バンコクである。

翌朝も、同じ食堂で、朝ごはんを食べた。

平倉さんが、ホテルに、迎えに来てくれた。
バイクタクシーを、二台連れてきた。

私たちは、それに乗り、バス停まで行く。
何から、何まで、平倉さんは、手順がよい。

バス停では、12:30発のミニバスに乗る。
ところが、それが、1:00に変更である。

平倉さんには、申し訳ないので、戻ってもらった。

最後の写真を撮る。
娘さんも、一緒だった。
何枚も、記念写真を撮る。

それで、さようなら
ありがとうございました
また、来ます

コータが、再度、受付に行き、中の、おねえさんに、確認する。
驚くべき答えである。

まだ、車が来るかどうか、解らないの
えっーーー
解ったら、教えるわ
えっっっっっっっ

12番乗り場で、待っていて
ということで、12番乗り場に、向かう。

実に適当である。
だが、これが、タイの田舎。

一時間を過ぎても、バスは、来ない。
1:30頃、別の乗り場に、一台の、ミニバスが来た。
そして、おじさんが、何か叫んでいる。

コータが、チケットを持って、おじさんに、見せた。
そのバスだった。

乗り場も、適当。

バスは、満席である。
一番後ろの席に座る。

そして、発車した。
街の中を走り、もう一つの、乗り場で、また、三名が乗り込んでくる。
ぎゅうぎゅう詰めである。

この、体勢で、二時間の山道を、走った。
とても、疲れた。

ミニバスは、スコータイ行きであるから、一度、タークのバス停に、着いて、数名が降りた。それで、少しは、間が空いた。

また、二時間、乗るのかと、思いきや、運転のおじさんは、山道を抜けたので、猛スピードで、走り始めた。

高速道路を走るようである。
どんどんと、追い越しをかける。

思った以上に早く、スコータイに到着した。
安堵。

バス停から、ソンテウという、トラックを改造した車に乗り換えて、ゲストハウスに向かう。
そこは、あらかじめ、決めていた。

バスの中で、とうきびを二本食べて、お菓子を食べたので、昼飯は、いらない。
ゲストハウスに着いて、しばし、お休みである。

部屋の中では、禁煙である。
もし、それが、見つけられたら、2000バーツの罰金とある。

それでも、私は、タバコをふかした。
後で、解らないように、工夫した。
コータは、呆れて、見ていた。

実は、私は、タバコも、酒も、あまり好きではない。

すると、飲むもの、吸うものが無いのである。

水を飲んで、指を吸えばいいとは、誰も言わない。
アマチュア作家の私は、タバコが、実に、体によい。

合法ドラックである。
更に、である。タバコは、税金が、大半である。
間接的に、消費税を、払っているようなもの。
国に、凄く、貢献している。


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2010年07月25日

メーソートへ 11

スコータイで、何をしたか。
何もしない。
遺跡の観光地である。

ゲストハウスの、お客は、皆、観光客だった。

私は、コータと、夜の食事をとめため、地元の食堂に出掛けた。
お洒落なレストランも、多々ある。
観光客のために、出来たものだ。
しかし、全く、興味がない。

一食、百円程度の、ご飯を地元の、食堂で、食べる。そこに、私は、意味がある。

観光には、興味が無い。
そんな時間は、無い。

その時、私は、考え続けていた。

ミャンマー難民キャンプ支援のことである。

キャンプは、沢山あるという。
それも、多くは、山間部である。

山の中腹にも、キャンプがあると、教えられた。
メラキャンプは、有名であり、知っていたが、その他にも、多々あるとは、知らなかった。

そのキャンプの中での、生活は、とても、想像できないものである。
山から、山菜を採ってきて、売る。大きな葉を採ってきて、屋根を作り、僅かな、金を得る。

支援の無い、キャンプは、それはそれは、貧しい。

私は、チェンマイから車で、行く方が、近いキャンプもあると、平倉さんから、教えられた。
それでも、四時間、五時間は、かかる。

そして、山道である。

到着しても、しばらく、動けないだろう。
しかし、宿泊施設がないので、日帰りしなければならない。

とても、体力がいる。

実は、チェンマイから、車で、五時間のところに、少数民族の子供たちが、寝泊りしている、学校があると、聞いた。
そこにも、支援物資を、持参したいと、考えている。

荷物を持って行くのだから、普通の車では、駄目である。
大型車が、必要である。

十月には、チェンマイに、慰霊と、支援と、コンサートのために、出掛ける。しかし、その時は、それで、予定が、限界である。

そして、更に、多くの支援をするとしたら、船便にて、チェンマイに先に送るということも、考える。

だが、私の頭の中には、タイだけの話ではない。

カンボジアの孤児たち、ラオスの山間部への、支援、ベトナムの北部地方への、冬物の、支援。

ミャンマー北部の、アカ族への、支援も、考える。
ミャンマーは、マンダレーにて、追悼慰霊もしたい。

インパール作戦で亡くなった、兵士の遺骨が、その山の中に、散乱し、すでに、土と、化したものもあるだろう。

インドネシアの島々への、慰霊と、支援。

そして、ニューギニアである。
追悼慰霊は、長期に渡る。
ラバウルからはじめて、ニューギニアの、東海岸線を、慰霊して、回る。
そして、支援もする。

とうてい、一人で、出来ることではない、が、やもうえない場合は、単独行動である。

更に、皆の太平洋の島々への、追悼慰霊である。

パラオでは、砂浜と、遺骨が、混じり合っているという。
ペリリューでは、玉砕である。

死ぬまでに、出来るだろうか・・・

そんなことを、考える。

私は、建物や、団体を作るつもりは無い。
今ある、建物や、団体を支援しなければならない。

学校などを建てるのは、簡単である。
しかし、それを維持する、持続するということが、どんなに大変なことか。

だから、今ある、それらの施設に、支援することであると、思う。
それが、私の方法である。

そして、それなのに、私は、南アジアへも、活動を広げようとしている。

インドから、ネパール、バングラディシュ、パキスタン・・・

支援するべき、場所は、限りない。
しかし、今こそ、日本の心を、アジアに、世界に示すべき時である。
大和心、である。

和の心
つまり、争わない、分かち合う心

私の、死に場所は、そこにある。
死に場所を、見つけた私は、実に、幸せである。
着物を着て、日の丸を持って、歩く。

posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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