2010年07月15日

メーソート・ミャンマー難民を訪ねる

深夜バスで、九時間かかる。
それでは、大変だと、飛行機にする。

バンコクから、スコータイまで、エア・バンコクで、飛ぶ。
一時間と少し。
そして、バスに乗り、メーソートに向かう。

スコータイまでの、飛行機は、何の問題もなかった。
朝、七時の飛行機であるから、私たちは、朝四時に、起きて、出掛けた。

その前に、私は、バンコクで、暑さに慣れるために、四泊している。
また、バンコクで、カンボジア流民の親子に、衣服支援をしていた。

スコータイの、バス乗り場に到着して、その人の多さに驚いた。
何と、明日から、三日間、タイの三法祭という、お祭りがあり、皆、帰郷するという。

だから、バスは、満席で、乗れません、である。

私たちの、荷物は、大きなバッグが、三個、小さなバッグが、二個、そして、それぞれの、バックが、一つずつ。合計、七つのバッグなのである。

次のバスを待つことにした。
ところが、受付の、お姉さんが、混んでいるが、乗れると言う。
これ幸いと、乗ることにした。

そして、到着したバスは、満席であり、すでに、立っている人もいる。
更に、私たちの、荷物である。

バスの下の、荷物入れに、入らない。
おじさんは、両側のバスの、下を開けて、何とか、こんとか・・・不思議だが、入れてしまった。

ただ、入れた場所を覚えていなければならないと、思った。

乗車するが、座れる席は無い。
混雑する、バスの中で、立つ。
これが、また、大変に辛いものである。

だが、一時間程度で、降りる人もいて、漸く、席が開いた。
立つ人は、全員が座ることが、出来たのだ。

スコータイから、タークという、街に向かう。
時々、止まるので、約二時間ほど、かかった。

更に、バスは、二等エアコンバスである。
つまり、日本からの、払い下げのバスなのである。
乗り心地は、良くない。

タークに着いた。
兎に角、荷物である。
一つでも、忘れられない。

外は、熱風である。
私は、紗の着物を着ていたが、汗だくになる。
裸になりたい・・・

さて、そこからが、問題である。
メーソートには、ミニバスが、走る。
しかし、メーソート行きの、チケット売り場は、混雑の限り。
百名ほどが、並ぶ。
皆、帰郷する人たちである。

コータは、これじゃあ、乗れないと、いう。
しかし、ここに泊まるわけにはいかない。
今日中に、メーソートに行かなければならない。
そういう、予定である。

コータの、タイ語学校の、休みを利用して来ているのである。

すると、先ほどの、バスで一緒だった、おばあさんと、孫の二人連れが、私たちに、声を掛けた。

混んでいるから、娘に電話して、迎えに来るように、頼んだので、一緒に、乗せてあげるというのだ。

ありがたい、と、思った。

私は、バスの中で、男の子に、お菓子を、差し出して、食べていた。
席に座るのも、一緒だった。

ところが、メーソートの、広倉さんから、電話が入る。
そして、迎えに行きますと、いう。
また、小西さんからも、電話が入る。

私が、事情を説明すると、小西さんは、それは、勧められないという。
タイでは、何があるか、解らない。特に、タークから、メーソートの道は、山道であり、どこに連れられていかれるか、知れないし、身包み剥がされることも、あり得るというのである。

そんなことは、無いと、思うが、両氏が、心配するので、コータと、考えた。

ミニバスは、期待できないとすると、迎えを頼むか・・・
しかし、ここまで来て、また、メーソートに戻るというのは、大変なことだと、感じる。

私は、トイレに行った。
そこで、一台のタクシーを、見つける。

コータ、タクシーがいるよ
ちょっと、アンタ、交渉してみて

コータは、タイ語の会話は、ほぼマスターしている。

700バーツで行くといっている
少し、下げてくれと、言ってみて

戻ったコータが、それ以下に出来ないという。

ああああーーーーしょうがない、それで、行こう。



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2010年07月16日

神仏は妄想である 305

私のお気に入りの明らかな矛盾は・・・・
イエスの「告別の説教」の場面に出てくる。これは、イエスが最後の晩餐に弟子たちに話して聞かせる最後の講話で、「ヨハネ」の十三章から十七章まで長々と続く。十三章三十六節では、ペトロがイエスに、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問う。数行後にトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と再び問う。それから数分後に、同じ食事の席で、イエスは弟子を激しく非難して、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のものに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない」と言う。イエスの記憶能力に問題があるのか、これらの章の下敷きになった出典が訳ありで、文脈がおかしな具合に断絶してしまったかのどちらかであろう。
アーマン

ところが、聖書解釈に、言わせると、その、矛盾が矛盾ではなくなるという、不思議である。

改めて、イエスが、弟子たちに、問いかける理由があると言う。
それほど、この部分が、重要であるとのこと。
弟子たちと、イエスの、意識の差が、あり過ぎるために、そのように、書いたのだと。

弟子たちは、この世での、行き先を、イエスは、死を通り、別な次元への、行き先を。

何とでも、言える。

このような、初歩的な、間違い、勘違いが、聖典とされると、許されるし、また、それに、大袈裟な講釈が、施される。

ヨハネの福音書は、他の、三つの、共観福音書とでは、質が違う。
弟子のヨハネが、書いたことになっている。
そして、イエスに最も愛された、弟子と、名乗る。
最後の晩餐の時も、一人イエスの胸に寄りかかっている。実に、意味深な関係である。

聖典とされると、絶対的、権威があり、その中の矛盾など、吹き飛ぶような、扱いを受ける。

この種の問題は、旧約聖書ではさらに顕著であり、しょっぱなから齟齬をきたしている。・・・
「創世記」一章の天地創造の記述は、二章のそれとは全然違う。言葉遣いや文体が違うということは、テキストをヘブライ語で読めば一目瞭然であり、神を指す呼び名も異なっているが、それだけではない。内容そのものが多くの点で食い違っているのだ。
一章に書かれている全ての出来事を時系列順に書き出して、二章についても同様のリストを作り、二つを比べてみてほしい。一章で書かれているように、動物は人間の前に造られたのか?二章で書かれているように、人間の後に造られたのか?植物は人間の前に造られたのか、それとも後に造られたのか?男は最初に造られた生物なのか?それとも最後に造られた生物なのか?女は男と一緒に造られたのか、別々に造られたのか?さらに、それぞれの記述自体にも意味の通らない箇所がある。
「創世記」一章で「光」が造られたのは天地創造の一日目なのに、太陽や月や星が四日目まで造られなかったのはどういうわけか?太陽や月や星が存在しないなら、光はどこから発せられたのか?太陽がなかったら、一章と二章の最初の三日間に「夜と昼」がどうして存在しえようか?
アーマン
私が、改行している。

これが、ほんの、手始めに過ぎないと、言う。

いかに、旧約聖書、新約聖書に、矛盾と、齟齬が多いかということである。

しかし、聖典となると、必ず、小理屈がつく。
甚だしいのは、神による、啓示と、霊感によって、書かれたという、恐ろしく蒙昧な、屁理屈である。
だから、矛盾があっても、いいのである。

更に、その矛盾にも、意味づけがされるという、不思議である。

聖書を細かく見ていくと、あまたの食い違いや矛盾の他にも問題があることが分かる。神や選民に似つかわしくないと思わざるを得ない価値観に基づいて書かれた箇所が、見受けられるのだ。神が都市の住民を無差別に殺戮するように命じるような存在だと、はたして私たちは考えることができるだろうか?
「ヨシュア記」六章で、神はイスラエルの兵士に、エリコの町を襲い、子どもを含む住民を皆殺しにするよう命じている。神が、選ばれし民がよからぬ影響を受けることを懸念したことについては、一応納得がいく。しかし、神はその目的のために、幼児や乳飲み子まで虐殺するなどという必要性を、本当に感じたのだろうか?一体彼らが邪悪さとどんな関わりがあったというのか?
アーマン
私が改行している。

旧約の神は、嫉妬と、怒り、殺人の神であることは、よくよく、知っていた。
虐殺、殺戮などは、朝飯前である。

いよいよ、キリスト教徒の中にも、その神の、命ずることが、おかしいと、気づき始めたのである。

随分と、年月を経たものである。

皆殺しの好きな、神である。
その名は、ヤハゥエという。

これは、インドの神々と、比べても、魔神の仲間であり、日本で言うと、荒ぶる神になるが、荒ぶる神も、皆殺しなどは、しない。

とんでもない、霊というしかない。

旧約聖書を、精読してゆくと、明らかに、この神なるものは、狂っている。また、化け物である。
神として、崇拝できるような、モノではない。

ところが、聖典であるとする、キリスト教は、兎に角、手間勝手な、屁理屈を持って、その神の行状を、肯定しようと、躍起になる。

このような、神を崇めていれば、人間の精神も、狂う。
だから、私は言う。
キリスト教徒の言う、霊性なるものは、まさしく、魔の神の、霊性を受ける。

こんな、物騒な、神を、我らが主として、崇めているのだから、世界に争いが絶えない。
ユダヤ、キリスト、イスラム教の、神である。

同じ神を、奉ずるものたちが、世界を、争いの、混乱に巻き込むということも、頷ける。

さて、果たして、この聖書研究の行くへは、どうなるのか。
私は、アーマンの、著作から、マタイに絞って、再度、マタイの福音書を、検証する。
そして、再度、聖書全体の、検証をする。

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メーソートへ 2

タクシーが、走り出したので、すぐに、小西さんに、電話をする。

タクシーに乗りました
えっ、大丈夫ですか。メーターは、ついていまか・・・
いや、料金を交渉して決めました。顔つきも、悪い人ではないと思います
そうでか・・・

不安そうである。
だいだい、その付近に、タクシーなどは無いのである。

それに、運転手の写真付の、ナンバーが掛けてあります
と、私は、小西さんを安心にさせるために、言う。

兎に角、気をつけてください

本当に、ありがたい、心配である。
何があるか分からないタイであるから・・・

その後で、運転手が、バンコクから来たことを、知る。
通りで・・・
空港から、人を乗せて、ここまでやって来た。そして、バンコクへ戻る人を、待っていたのである。

お金のある人は、バンコクの空港から、タクシーで、ここまで来る。

身包み剥がされないで、済んだ。
メーソートに向かう道は、確かに、山道、だんだらである。
体が、大きく揺れるカーブが多い。

日本の、横浜支部からも、心配の電話である。

大丈夫です。とんでもない、道を走っていますが・・・

だから、帰りのミニバスの時は、酷かった。
メーソートから、タークまでの、二時間、拷問のようであった。

麻薬のルートであるから、途中で、検問がある。
ミャンマー国境の町は、皆そうである。

タイ人は、認識カードを、外国人は、パスポートを提示する。

元首相の、タクシンが、麻薬撲滅と称して、徹底的に、調査、人を殺した町が、メーソートである。

無実の人、1800名ほどを、殺したという。
町自体を、崩壊させるような、規模だったというから、凄まじい。
しかし、それは、麻薬のルートを、わが手に、治めるための、方法だったことに、市民は、気づいた。

メーソートの人々は、タクシンを信用していない。
北部の町としては、他の、北部の町のタクシン派とは、異にする。

彼が、タイに戻れば、殺されるでしょうと、言う。
それほど、酷いことをしたのである。

それを知らず、タクシンを支援する人々は、洗脳されている。
更に、バンコクでの、デモでは、参加者に、お金が、支払われた。
特に、水商売の女たちには、日当、2000バーツである。

6000円とは、凄い。
日当であるから、それで、相当、金になったという。

タクシン派は、すべて、金である。
そこで、内部分裂も、起こった。
幹部だった、元陸軍出身の、男が、殺された。

最高幹部は、南部に、豪邸を建てて、悠々と暮らすという。
南部であれば、北部、東北部の人たちには、見えないからである。

タイ政府は、兎に角、タクシンを、捕らえて、法廷で、裁くことである。
虐殺の罪で、死刑が、相当である。

タクシーは、メーソートの、バス乗り場に、着いた。
そこからは、地元の、三輪車タクシーに乗り換える。

あらかじめ、ホテルは、決めていたので、ホテルに向かう。

ようやく、ホテルに着いたのが、夕方の四時頃である。
コータが、心配する、広倉さんに、電話をすると、すぐに、来るという。

着替えをして、広倉さんに、お会いする。
右手を、事故で、失った方である。

ホテル二階の、レストランで、お会いする。

兎に角、無事で・・・
心配かけました

初対面から、そのお人柄が、伝わる。
私が、追悼慰霊と、支援に来たことを、すべて、納得して、全面協力体制である。

予定を、申し上げる。
車の手配も、更に、回るところも、考えていらした。

難民キャンプは、沢山あるという。
私は、メラキャンプしか、知らない。だが、この雨季の時期に、メラキャンプに行くのは、とても、時間がかかるらしい。

それより、市内に、多くの孤児たちの施設や、世話をしている、団体があるという。そこは、支援が必要とのこと。
それで、私は、広倉さんに、お任せることにした。

明日の一日で、すべてを行う予定である。

広倉さんは、汗をかきつつ、お話する。
大柄な体格で、心も、大柄である。
私は、父親の時代の、人々を思い出した。
父親の時代は、こういう人が、多かった。人のために、一生懸命になる人である。

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2010年07月17日

神仏は妄想である 309

だからここで問題の中心となるのは、社会体制の秩序維持、ということである。従ってまた、「一切誓うな」という宣言は、誓いなどというのは空虚な形式なのだから、虚礼は廃止しましょう、などという程度の消極的な意味ではなく、むしろ、誓いの背後にかくれている社会体制の秩序維持に固執する頑強な力に対するはっきりした抵抗の宣言なのだ。またそうでないとすれば、「一切誓うな」というせりふ自体、空虚なおしゃべりとなる。このことは現代においてもなおあてはまる。まして古代においてそういうことを宣言するのは、ものすごいことなのだ。
田川建三

こうして見ると、イエスという、人間は、とても、反骨精神の強い人物である。
ユダヤ教支配の中にあって、明確に、ユダヤ教の、形式を批判している。

今、様々な、教会において、イエスのような、強烈な批判、反骨精神を持って、物を言う者がいるのか。

社会体制ではない。
教会体制に、物申す者である。

どこかで、教会が、方向転換を迫られる。
つまり、聖書の嘘が、ばれて、誰も信用しなくなる。

信仰深い人々は、騙され続けるが、時代は、どんどんと、事実を明確にしている。

兎に角、何でもいいから、信じたい・・・
人間には、何かを、拝むという、本能的なものがあるようである。

だから、宗教が廃れないのか・・・
とすると、結局、宗教という、蒙昧が、いつまでも、まかり通るのか。

安心立命。
人は、何かによって、それを、得たいと思う。

それで、知恵深いキリスト教会は、イエスのこの言葉を(ほかの言葉もそうだが)平気で無視し続けてきた。しかもその無視の仕方は巧みであって、イエスのこの言葉を、いやそれだけではなくイエスについての思い出を全体として、歴史の記録から抹殺してしまうというような露骨なまねはしない。それはそれで保存しておいて、自分たちはこういう「良心的」なせりふも知っているのだぞ、ということを示そうとする。
田川

マタイ福音書の、眼目は、ユダヤ教徒より、より良い、ユダヤ教の確立である。
それを、イエスの言葉を通して、行った。

田川氏の、批判的聖書研究を尊敬するが、マタイの意図を、読み取ることからすると、少々のズレが生ずる。

聖書の、ギリシャ語の解説は、必要であるが、その前に、マタイの意図したものは何か、である。

だが、語彙に関しての、分析は、十分に説得力がある。

ギリシャ語の、誓いという言葉、それを、翻訳した、言葉にも、誓いには、二つの概念があるという。

一つは、宣誓である。
法廷などで、宣誓する。宗教的な意味で、神に対する信仰の誓い。
そして、もう一つは、神かけて誓うという、約束するという意味での、誓いである。

日本語の場合の、誓いという意味も、曖昧である。

要するに、イエスは、いずれの意味でも、誓うな、というのである。

イエス以前のユダヤ教においても、安直に誓うということをいましめる言葉は多く見られる。神かけて誓う、といった類のせりふを濫発するのはいかにも安っぽくなるから、「教育的」な意識をもった教養人はそれをいましめようとするのである。
田川

そこで、
古代のマタイ学派はそのように単純に底が割れるような下手な細工はしない。福音記者マタイの背後に存在している、ないしマタイ自身もその一員であるマタイ学派は、この場合でもはっきりそうとわかるように、ユダヤ教律法学者的な意味でまことに優秀な知識人である。
田川

イエスの「一切誓うな」を何とかして彼らのユダヤ教的心性の中で理由づけようとして、次のような理屈を付け足したのである。
田川

天にかけて誓うな・・・神の玉座である・・・

また、それは、ユダヤ教にある、神の名を、みだりに口にするなという、教えからのものである。

そして、神の代わりに、天や、地という言葉も、駄目だというのである。
議論の根拠を、旧約聖書からの、引用によって、なすという、段取りは、マタイ学派が、いかに、ユダヤ教の知識人たちであったかということだ。

とすれば、イエスの、真意は、何だったのか。
とても、反骨精神の強い人物だと、私は、先に書いたが、イエスの言葉か、マタイ学派の言葉か、解らない。

イエスをダシにして、自分たちの言い分を主張したのか。

宗教の経典というものが、ある人や、ある人々によって、改竄されてゆく過程には、それを書くものたちの、思惑があるということが、明確に解る。

権威を、イエスや、仏陀に置いて、書き付けるものだから、後世の人たちは、迷う。

初期、仏典などより、後世に書かれた、大乗仏典を持って、仏教、仏法などという、輩がいるが、自分の思惑通りに、出来るものを、掲げるのみである。

そして、それが、正しいとなる。

嘘なのだが、それが、正しいと、言い張る。
その心には、何があるのか。

それは、支配欲である。
信じさせて、支配するという、人間の欲望の、高度なもの。

それと、為政者が結託すれば、上々である。


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神仏は妄想である 306

宗教に、入信するといことは、如何なることか。
それは、宗教の与える、神や仏を、信じて、奉るということである。
そして、その教義を受け入れる。
更に、自分の頭で、考えないようにする。

もう一つ、宗教に入信せずとも、それと、同じようになる人もいる。
何々主義者である。
更に、個人崇拝も、そうである。

一旦、信じてしまうと、思考が停止する。
勿論、本人は、考えての末の結論であると、思い込む。
しかし、信じる。任せるということが、心地よくなる。更に、物事の判断を、すべて、その教えや、主義に、帰結させる。

完全に、そうなると、人間は、知性を捨て、理性を捨てる。
勿論、最初から、そんなものが無い人も、いる。

大半が、宗教が何であるのかを、知らずに、近づき、果ては、信じて取り込まれる。
信じる者は、確実に騙される。

大きな、宗教ではなくても、小さな団体でも、所属する人は、その団体の教えに、偏狭になってゆく。

最も、恐ろしいのは、それを、他の人に、説いて、自分と、同じく信じさせようとすることである。

つまり、更に、罪を作るのである。

ある、法華経の講義に出ていた者が、私に、仏教批判を書くなと、言う。
その方法は、すでに、終わった方法である、云々・・・

その頭の悪い者は、一向に、自分が、洗脳されているとは、思わない。
更に悪いことは、それを、受け入れないと、本当に理解していないからだと、言う。
理解していないのは、自分の方であることに、気づかない。
そして、延々と、それの繰り返しをする。

本当に、救われない者に、なってしまう。

救われない。つまり、信じてしまう。信じると、救いは、無い。
人間が、進化して、生成発展してきたのは、考えてきたからである。
信仰は、それを、放棄させる。

そして、私のような、批判をする者を、破綻した論理という。

自分自身が、破綻していることを、知らない。
自分が、信じているものは、良いものである。
だから、あなたも、信じるべきだ、とは、あまりにも、破綻している。

歴史的・批判的聖書研究を、見ている。

復讐に燃える神についての記述は、一部のキリスト教徒が主張するように、旧約聖書にのみ書かれているわけではない。新約聖書の神でさえ、審判と怒りの神であることは、「ヨハネの黙示録」に親しんでいる読者なら知っていよう。燃えたぎる火の池が、神に従わなかった人々を待ち受けている。これは永遠に焼かれることを意味する。例えば二十年間といった一時だけ、神に背いた人々でさえ、永劫にわたって罰せられるという。たった二十年間の間違った生き方と引き換えに、二十兆年もの間、もがき苦しむのだ。しかもこれはほんの序の口に過ぎない。これが本当に神にふさわしい行いだと言えるだろうか?
アーマン

勿論、それは、聖書に書かれていることで、書いた人が、そのように、脅していると、いえる。
果たして、神に、相応しい行い・・・?
全く、神に相応しくないのである。

だから、私は言うのである。

どのようにでも、解釈できるのが、宗教の聖典であると。

牧師、司祭は、信者に、ありがたい・・・教えを、語り、信者を、気持ちよくさせる。
そして、その後では、神の裁きを説いて、信仰を捨てると、このように、神の裁きが下ると、脅すのである。

聖書には、あらゆることが、書かれていて、後で、どうにでも、理屈を付けられるようになっている。

聖書の読み方 北森嘉蔵
旧約における新約
それは、旧い契約が破られて、新しい契約によって回復されるということである。この点をきわめて明確に語っているのは、旧約聖書のエレミヤ書である。(したがって、そのかぎりではエレミヤ書はいちおう旧約に属してはいるが、実は旧約・新約を総括するような立場に立っているといえる)そこには次のように書かれている。―――主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトから導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われるーーー

ここに書かれている「エジプトから導き出した日に立てたようなもの」というのは、モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させた後、シナイ山において神から与えられた十戒のことである。

第一戒
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

すなわち、人間がただひとりのまことの神のみを愛して、貞潔を誓うことである。それは夫と妻の関係にもたとえられ。しかし、妻たるイスラエルは夫たる神を裏切って、他の神々を愛し求め、姦淫の罪を犯した。これによって、神は契約を破棄して、人間との関係を断とうとした。これが神の怒りである。

しかし今や、神は「新しい契約」を立てることによって、断絶した人間との関係を回復したのである。これが罪のゆるしである。

上記が、牧師や、司祭が、真顔で言う、嘘である。

イスラエル人と、人間全体を、勝手に結び付けている。
新約聖書と、旧約聖書の結びつきを語るが、少し、歴史的・批判的聖書研究をした者には、全く、説得力がない。

エジプトからの、脱出も、嘘だった。
十戒は、モーセが、イスラエル人と、神との契約であったもの。
全人類ではない。

面白いのは、他の神々を、愛し求めていると、他の神の存在を認めている。
つまり、神は、他にも、存在しているのである。

勿論、他の神というのは、偶像であると、断定する。

それを、神が、ヤハゥエが語るのではない。
書いているのは、人間である。

ルカ福音書の中で、イエスが、
モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する
と、言わせる。

ルカを名乗って、勝手に言うのである。

どこも、かしこも、嘘だらけである。


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メーソートへ 3

ここで、私たちの、活動のために、車を用意してくれたのが、最後の残留日本兵といわれた、中野弥一郎さんの、ご子息の方である。

広倉さんは、その、中野弥一郎さんと、友人だった。
家も近い。

この、中野弥一郎さんについては、本に書かれている。
様々な、マスコミの人たちが、彼を、追った。

しかし、私が目を通したものは、左翼的考え方を基本にして、彼を描く。
つまり、反日的考え方である。

だから、
誰も、天皇陛下ばんざいなどといって、死んだ兵士はいませんよ
などという、言葉が、軽々しく書かれる。

確かに、天皇陛下ばんざいより、かあさん、お母さんが、一番多いと、思われる。
更に、妻の名、子供の名・・・

当たり前である。

それを、あえて、天皇陛下ばんざいなどと・・・云々と、書く、ジャーナリストたちの、神経は、病んでいる。

私が、中野さんの家に行き、その遺骨の前で、慰霊の儀を行った。
その多くの写真の中に、昭和天皇の、お写真があった。
タイの、高僧たちと、並んでいた。

日本兵は、そして、当時の日本人の、天皇陛下に対する、思いを、今、現在の人は知らない。知るはずが無い。

天皇陛下が、存在しなければ、戦地を放棄したであろう。

こんな、馬鹿馬鹿しいことが、あろうかと、思ったはずである。
玉砕せよ、との、命令に、従わず、生きた者は、自決させられた。

実に、人の命が、軽い。
兵士は、馬以下だったという。

戦地で、上官に、人の命の尊さを訴えた、軍医などは、張り倒され、更に、自決を迫られた。

こんな、馬鹿馬鹿しいことが、あろうか。
人の命を、何と考えていたのか。
それを、天皇陛下を、利用して、語った軍部の、傲慢は、計り知れない。

天皇陛下について、という、エッセイで、私は、天皇陛下の、お姿を、書くので、そちらを、参照してほしい。

さて、中野さんの、ご子息の方に、朝、十時に来てもらうことにした。
そして、出来る限り、時間をかけずに、予定を終わらせることにした。

熱中症で、倒れては、更に、皆さんに、迷惑をかけると、思ったからだ。

それでは、ということで、広倉さんと、別れた。

私は、疲れて、ベッドに、横になった。
コータは、街の中を見てくると、出かけた。

少しして、私は、急ぎ、支援物資の整理をした。

回るところは、難民無料クリニックの、メータオ・クリニック、小学生、中学生の難民孤児院、ノーン・ブアデン、幼児の孤児院、バーン・メーパである。

メータオ・クリニックは、日本人の、支援団体が、行っている。
そこで、ボランティアをしている、女医さんにも、お会いする予定である。

バッグに、詰め直す。

勿論、いくらあっても、足りない。
後で知ることになるが、孤児院は、二十箇所以上あるという。

更に、難民キャンプも、十箇所以上あるという。
その中には、車で、四、五時間かかる、場所ばかりである。

中には、山の中腹にある、キャンプもあり、酷い貧しさにあるという。

それほど、多くの難民が、タイに逃れているのである。

ミャンマー軍事政権は、悪魔の、巣である。
少数民族は、家畜以下なのである。

その、悪行を、書くべきか、否か。

このまま、筆に任せる。

コータが、戻ってきた。

ちょっと、近くに食べ物屋ある
ホテルの並びにあるよ
じゃあ、夜は、そこで、食べよう。水も買いたい

その、ホテルの並びにある、地元の食堂には、毎日通うことになる。

兎に角、水は、大量に必要である。
脱水症状などに、なっていられない。

部屋では、エアコンで、汗はかかないが、一歩外に出ると、汗だくになる。
絶えず、汗をかく。
雨季だというが、あまり、雨に当たらなかった。

日本の、梅雨時期の似た、蒸し暑さであり、兎に角、暑い。
イスラムの、女性たちが、すっぽりと、体全体に、布を巻くのは、意味がある。暑さと、紫外線対策である。

私も、イスラム女性のように、布を、すっぽりと、被りたいと、思った。

そして、部屋では、リラックスするため、女性用の、ワンピースを買って、部屋で着た。
体全体を、蔽う、暑い国特有の、薄手の、布である。

日本でも、時々、それを着ている。
時に、荷物が来たときも、その格好で、出て、驚かれる。

もう、どうでもいい、年になった。

ただ、コータには、頼むから、住んでいる、マンション近くを、それで、歩かないで欲しいと、言われた。
日本の、変なレディボーイだと、思われるし、あんたの父親は、アレかと、聞かれるのは、困るという。
一応、コータと、私は、親子である。
法律上も、親子。
だが、コータは、私を、先生と呼ぶ。
それも、皆が、不思議がる。

それも、どうでもいい。

この世は、どうでもいいことが、多すぎる。


posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月18日

神仏は妄想である 307

ここで、マタイに戻り、マタイ福音書が、如何なるものであるかを、検証する。

なぜイエスは奇跡を行うのだろうか?ほとんどの人は、彼が人びとを憐れみ、人びとを苦痛から解放してあげたかったからだと答えるだろう。事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかし、それだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕われている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言った。
ルカ四章

別の箇所で、洗礼者ヨハネの弟子がイエスの下にやって来て、イエスが終末期に出現する人なのか、それとも誰か別の人間が現れるのか聞いている。それに対し、イエスは次のように答えている。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」マタイ十一章。共観福音書のイエスは、神の国へ人びとをいざなう、永く待たれた人物として描かれている。
以上、アーマン

だが、そうであるにも、関わらず、共観福音書では、彼を信じない人々に、自分が何者であるかを示す、奇跡を行うことを、拒絶するのである。

マタイでは、何人かの、ユダヤ人指導者が、イエスに、先生、奇跡を見せてくださいと、要求するが、イエスは、断固たる口調で、
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない
と、言う。
そして、ヨナが、大魚の腹の中で、三日三晩死んでいたように、人の子も、大地の中に、三日三晩いるだろうと、述べる。

旧約聖書の、ヨナの書にある、話しである。
アッシリアの首都ニネベに、神は預言者ヨナを、遣わす。しかし、ヨナは、神の命令に背く。そこで、彼は、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、三日後に吐き出される。
それ以上、神の命に背かず、ニネベに行き、神の教えを説いて、町の人々を、改宗させる。

イエスは、それと同じ状況を比較したのである。

イエスは、神に楯突く人々に、教えを説くが、彼らは、悔い改めようとしない。
しかし、イエスは、自分が聖なる、存在であることを、証明するために、奇跡を起こすことを、拒む。

マタイは、イエスが、三日三晩、死の眠りついて、再び、その姿を、現すという、復活を最重要テーマとして、福音書を書いている。

アーマンは、マタイの、一貫したテーマが、ここにあると言う。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行わない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人びとを助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ここで、マタイは、まもなく、神の国が、訪れることを、示すという。
だが、あれから、二千年を経ても、神の国は、訪れない。
まもなくとは、一億年程度のことか・・・

さて、ヨハネでは、全く違う。

ヨハネでは、イエスの行いは、奇跡ではなく、しるしとして、呼ばれて、更に、イエスが何者かを、証明する。
人々に、彼を信じさせるために、しるしが、行われるのだ。

目を惹くのは、イエスが、ユダヤ人指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む「マタイ」の物語が「ヨハネ」には全く見当たらないことである。しかし、なぜだろうか?ヨハネは、イエスがしるしを通して宣教活動を行ったと考えているのだ。「ヨハネ」には、荒野での三つの誘惑についての記述もない。これはどうしてだろうか?ヨハネにとって、奇跡的なしるしによってイエスがそのアイデンティティーを示すことは、決して悪魔の誘惑によるものではないのだ。これこそ、彼の聖なる仕事なのである。
アーマン

これで、十分に、それぞれの、福音書の、記述が、それぞれの、価値観によっているということが、解る。

そして、それは、統一されたものではない、ということ。

つまり、イエスという、人物が、いかなる者であるのかということが、不明なのである。

造られた、イエスなのである。
本物の、イエスは、どこにあるのか・・・
誰も、知らない。

マタイの、物語を解く鍵になるのは、宣教を始める前の、荒野での、悪魔の試みであると、アーマンは、言う。

最初の誘惑
四十日、断食をしていたイエスに、石をパンに変えよと、悪魔が言う。
イエスは、人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によると、言う。

二つ目の誘惑は、イエスをユダヤ教の神殿に、連れてゆき、飛び降りろという。すると、天使が助けるだろうと。
この意味は、群集の中で、奇跡を見せて、真に神の子であることを、証明せよと、誘惑されている。
イエスは、言う。
あなたの神である主を、試みてはならない。

三つ目の誘惑は、悪魔を崇めれば、地上の王国を与えるという。
この世の支配である。
しかし、マタイは、イエスが、最後に、この世の支配者になるめことを、知っている。
しかし、そのためには、十字架で、死ぬこと。
この誘惑の意味は、受難など、受けなくていいというもの。

「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティーを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

少し話は、それるが、エホバの証人などの、新興宗教が、この世は、悪魔が支配するという、その考え方は、マタイ的である。
悪魔を崇拝すれば、地上の支配する権利を有するのである。

カトリックから、プロテスタント、そして、キリスト教新興宗教に至るまで、この、矛盾した、聖書、福音書を、テキストとして、採用している。
更に、聖書主義などは、本当は、迷いに迷うはずであるが、堂々と、妄想全開で、勝手な解釈を平然として、行う。

そして、主イエスは、主なる神、ヤハゥエという、魔神に至るという・・・

聖書作家に、振り回されて、信仰も何も、あったものではない。

すると、敬虔なキリスト教徒、牧師、司祭たちは、言う。
それぞれが、それぞれで、イエスを、書いている。
それを、総合して、イエスという、神の子の、全貌が分かるのである。
嘘である。

それぞれが、別の次元と、価値観で、書いているのであり、改竄、また、改竄しているのである。

自分たちに、都合よく、書き改めている。

イエスキリストは、造られた、創作された、存在なのである。
それは、皆、妄想の産物なのである。

キリスト教の、霊性・・・などいうものは、全く無いものである。
その根拠が、全く無い。

霊性とすれば、自己暗示である。
聖人の中には、脱魂、という、状態もあったというが、あれは、ヒステリーである。


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メーソートへ 4

ホテル並びの、食堂に出掛けた。
タイ料理なら、なんでもある。

コータは、タイ語を書く、読むことが出来るようになっていた。
凄い。
勉強すれば、誰でも、そうなる。
だが、私は、駄目。決して、覚えない。

コータに、こんなものを食べたいと、言うと、メニューの中から、選んで、注文してくれる。

あんたーーー凄いねーーーーである。

勉強って、するもんだねーーー
どうして、大学の時に、勉強しなかったのーーー

東洋哲学、仏教である。
教授たちと、馬が合わなかったという。
そりゃーー馬が合わないよ
自分が、教授だと、信じているからね
インドに行くこともなく、仏教云々・・・なんて、私と同じじゃないのーーー

実は、コータの卒論を読んで、こんなんで、卒論になるのと、思った。
勿論、その時は、凄いねーーーと、褒めたが・・・

食堂には、数名の女の子が、忙しく働いている。
運ばれてきたものを、見て、私も、タイ料理に慣れたと、思った。

タイで、和食を食べたいと、思わないのである。

タイでは、タイ料理。
辛いっっっっっ、それがいい。

料金も、百円程度。
毎日来ても、すべての、料理食べられないね
と、私が言う。

ちょっと、美味しいよ、これ
本当に、美味しい。
口に合う。

スプーンと、フォークで、食べる。
時には、箸も使う。

食べ終えて、市場に向かう。
水を買うためだ。

コータは、一度出掛けて、付近を歩いているので、どんどんと、市場に歩く。
大変、混雑している。

肌の白いのから、黒いのまで、いる。
色々な人種が、混じっている。

水を売っている店は、閉まっていて、コンビニに入る。

1,5リットルを、三本買う。
それは、明日の分である。
沢山買っても、重たいから、度々買うことにする。

それで、ぐったり。
飛行機、バス、タクシーと、乗り物に乗った一日。
もう、いいわ
寝る

シャワーを浴びる。
何と、お湯が出る。

暑い日差しの中を歩いても、熱いシャワーが、気持ちいい。
熱を発散して、皮膚が、冷たくなっているのだ。

コータも、早々に、ベッドに着いた。

翌日の朝、早く目覚める。
そして、また、あの食堂に行く。
食堂は、朝の七時から、夜の七時まで。

朝は、スープライスがいい。
タイ語では、何というのか、忘れた。
一度、二度、三度と、聞くが、忘れる。

もち米の、カオニャオだけは、覚えた。

私は、一人でいると、兎に角、ゼスチャーで、通す。

相手も、私の言いたいことを、真剣に見詰めて、理解しようとする。
あんかけそばの時は、とんでもないことになる。

ホテルに戻り、準備をする。
私は、浴衣を着た。

カメラは、三台である。
フィリピンの時に、盗まれたことから、三台用意するようになった。

支援物資を渡している、姿を写すのは、支援をしてくれた人が、あっ、私の送ったものだと、感激して欲しいと思い、沢山撮る。

十時前に、フロントから、電話があった。
広倉さん、中野さんが、到着した。

広倉さんは、タイ人ですから、時間は、少し遅れると、思ってくださいと、言っていたが、早く来た。

中野さんの、長男と聞いていたが、本当は、次男の方である。
長男さんは、早くに、亡くなったという。

広倉さんは、私たちの、荷物が多いので、部屋まで、やってきた。
お嬢さんも、一緒である。荷物運びに、連れてきたのである。
おおよそ、70キロの支援物資を、皆で、運ぶ。

posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月19日

神仏は妄想である 308

また、「偽りの誓いをしてはならない。誓ったことは主に対して果たさなければならない」と昔の人々に命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、決して誓ってはならない。天にかけて誓ってもいけない。天は神の玉座だからである。地に誓ってもいけない。地は神の足台だからである。・・・
マタイ福音書

聖書研究では、
イエスは、誓いを一切、禁じたのではない。ただ、当時の人々が、やたらに、誓いを立てて、神を汚していたので、これを、厳しく禁じたのである。誓いは、すべて神の権威に関係がある。神の御前に、虚偽は、成り立たない。
と、ある。

何の説明にもなっていない。

これははっきりしていて、疑問をさしはさむ余地はない。一切誓うな、というのだから、一切誓うな、という意味であって、それ以上に説明する必要は全然ない。
田川建三

だが、田川氏は、続ける。
それにもかかわらず、キリスト教社会はいろいろな場面で「誓う」ことを強制してきた。どちらが正しいか、と問う前に、まず確かなこととして確認すべきは、この点でも、イエスとキリスト教は逆の方向を向いている、という事実である。

キリスト教社会、体制社会が、イエス・キリストの御名によって、誓い続けてきた。
矛盾。

その種の神学的な根拠づけは、誓うことを正しい行為としてまず前提し、その上でいろいろ詭弁を並べたてているにすぎないからである。我々が知るべきことは、何故彼らが、相変わらず「誓う」ことに固執してしまうのか、という根拠なのである。
田川

体制社会を、維持するために、その秩序を守ることを、被支配者に誓わせる必要がある。
誓いが、重要なのではない。
誓うことによって、人を秩序に縛り付けておくことが、必要なのである。

誓いという、形式が持つ、宗教的な権威だけで、人を縛り付けることに、十分だったからだ。

宗教的権威の影が薄れた現代社会においては、誓うことはまったく空虚な建前となっているのに、相変わらず人が誓いの形式を保存したがる理由はそこにある。
田川

アメリカ大統領は、聖書に手を置いて、誓う。
何をか。
神の意思を尊重し、国民のために、働く事を。

しかし、大統領が、神の意思で、国民のために、本当に働いたのか・・・
多くは、逆であろう。
実に、滑稽である。

キリスト教が洗礼式、結婚式などにおいて「誓い」をやらせるのは、今となっては、とりたててものを申し上げるほどの必要もない滑稽な矛盾、ということで話がすむかもしれない。それにしても、イエスの言葉にもかかわらず、二千年間こうした「誓い」の形式を護ってきた神経はたいしたものだ、と言わねばなるまい。キリスト教徒ならば誰でも、これはよく知っている矛盾なのである。それをこうして放置していられる、というのは、結局、イエスの「教え」などというものはキリスト教徒にとってそれほどむきになって取り組むつもりもないものであるからにすぎない。さびしい事実だが、事実にちがいない。
田川

イエスと、キリスト教は、別物である。
私も、そのように思う。
イエスの、教えなど、どうでもいいのである。
要するに、教会、あるいは、団体が、信者を騙して、いいように、支配するという目的のためである。

カトリック教会は、今でも、結婚の誓いをした者たちが、離婚した場合は、教会に入ることを、許さないが、そうすると、日本でも、アメリカでも、特に、キリスト教国では、カトリック教会の、信者は、大幅に減るだろう。

結婚も、七つの秘蹟と、呼ばれるうちの、大切な、儀式なのである。

誰の、策略か。
信者の寝室までに、入り込む、宗教家たちの、支配欲というしかない。

現在の、ローマ法王は、コンドームを否定して、フランスでは、大規模な、デモが起きた。

人間の欲望を支配するというのは、宗教の大罪であるが、それに気づかない、蒙昧な歴史を繰り返している。

その点では、イスラムは、男に対して、実に寛容さを示して、一夫多妻を、認めている。その代わり、女は、モノである。
男の所有物。
それは、旧約聖書からの、教えである。

女を、男の支配するモノとした、旧約聖書が、堂々と、この、平等社会を、目指す時代に、聖典とされていることに、疑問を差し挟まない、キリスト教徒である。

矛盾も、何もかも、信仰という、美名の元に、収めてしまう、宗教指導者たちである。
彼らは、確実に、地獄に落ちるだろう。本当に、地獄があれば・・・

それとも、化け物の、ヤハゥエの神の元に、集い、喜び合うのか。
いずれにせよ、真っ当な場所ではない。

イスラムは、ムハンマドが、多数の妻を得ていたから、それが、当たり前になったのか。
当時、人々は、ムハンマドを、女好きの、気の狂ったものとして、認識していた。
ところが、武力でムハンマドが勝つと、従わざるを得なかった。

今でも、イスラムは、基本的に、武力を好む。
教祖の、意識が、そのまま残る。

諸々の、キリスト教新興宗教は、どうか。
これらも、嘘八百の聖書解釈を、掲げて、信者を騙す。
それに加担するのが、頭脳明晰な人たちである。
勿論、大枚な金を得る。

とてもじゃないが、読むに耐えない、教義である。
信じなければ、成り立たないのである。
信じるから、成り立つという、愚昧。

メシア到来を、信じるユダヤ教から、イエスをメシアとする、キリスト教から、メシア、イエスの再臨を信じる教徒たち。
いずれも、救われない人々である。

どんなに、待てど暮らせど、イエスが、雲に乗って、やってくることは、無い。
まして、エホバの、千年王国などは、確実に無い。

あり得るのは、人間の進化による、神無き時代の、希望である。


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メーソートへ 5

まず、向かったのは、難民の無料診療、及び、入院看護をする、メータオ・クリニックである。

丁度、日曜日であり、医師、看護士は、お休みである。
それは、残念だった。

しかし、入院病棟に私たちは、向かった。
といっても、ただの、小さめの、体育館のような建物。

そこに、入院患者と、それを、世話する人たちがいる。

準備していた、大人、子供用、更に、タオルを入れた、バッグを開ける。

入り口に、陣取ったが、そこに、人が集まる。
手に取ったものから、手渡す。

手渡す、これが、私の方法。
手渡して、差し上げる。

皆さん、神妙に、笑顔もない。
その、苦境の生活が、身に沁みて感じられる。

無料だから、来ることが出来る。
そこには、希望が無い。

笑う力も無いのである。

私は、中腰で、物を取り出して、渡していたので、ついに、腰が、怪しくなってきた。
あーーーいたっっっっっ
と、腰に手を当てた。その時、人々が、少し声を出して、笑った。

もう一度、私は、同じ仕草をした。
すると、また、笑い声である。

ああーーーー
私は、最後に、タオルを取り出した。
それが、とても、喜ばれた。
皆が、手を出す。
決して、奪い合わない。

その手に、私は、タオルを、渡す、渡す、渡す・・・

すべて、差し上げた。
バッグを、片付ける際に、一人の男性が、手伝った。
無言である。

だが、心の思いは、十分に伝わった。
彼らを、憐れむ気持ちなど、微塵も無い。
ただ、有るところから、無いところへ、運んだだけである。

タイ語も、分からない私は、ビルマ語も、当然分からない。

そして、私が、それを行うのを、広倉さんと、中野さんが、じっと、見詰めていた。
決して、手出しは、しなかった。

コータ、写真、写真
大丈夫、どんどん、渡して

それでも、私は、バカチョンカメラで、撮った。
皆さん、仲良く写ってくれる。

コープクンカップ ありがとう
私の知る、タイ語の一つである。
何とも、情け無いが、それしか、言えない。

平倉さんが、今日は、日曜で、職員が、居ませんと、言うが、私は、大丈夫です、次に、来た時、お会いしますと、言った。

最後は、日本語で、さようなら、である。

また、来ますね

次は、クリニックから近い、中野さん宅に向かう。

中野弥一郎さんの、遺骨に、慰霊するためである。

最後の日本兵と、言われた中野さんは、マスコミを嫌ったという。
平倉さんが、教えてくれた。

私は、普通の人間で、特別なことはしていないと、いつも、言っていたという。

私は、居間に通されて、即座に、神呼びを、行った。
御幣は、中野さんの庭先の、枝を貰って、作った。

その間に、家族が、集まっているのを、私は、知らない。
私は、兎に角、数霊を、唱えて、中野さんの、霊位に対座した。

うーーーーとか、おーーーーとか、皆さん、驚いたと、思う。
音霊による、慰霊の所作である。

最後に、清め祓いをした。

沢山の写真が、掲げられてあった。
中野さんの、お母さん、お兄さん、そして、タイの高僧たち、更に、昭和天皇のお写真である。

気づいた時、おじさんという人や、中野さんの息子さんの、奥様まで、揃っていた。

彼らは、日本語が、分からない。
平倉さんは、来年、遺骨を、中野さんの、古里、新潟の、小地谷にもって行くと言う。

日本に、帰りたいと、言っていたという。
当然である。
古里は、古里で、ある。

それを、運ぶという、平倉さんも、あまりに、善良な人柄である。
これについては、後で少し、説明することにする。

私たちは、即座に、立ち上がり、失礼しますと、家族の皆さんに、告げた。

そして、また、車に乗り込む。
すると、平倉さんと、中野さんの、奥さんが、車の、荷台に乗るではないか。

それは・・・
いいえ、いいんですよ
奥様が、真っ当な英語で、答えた。
実に、素晴らしい発音である。

コータは、英語で、奥さんと話し、中野さんとは、タイ語で、話した。

私は、平倉さんと、日本語である。


posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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