2010年07月01日

神仏は妄想である 290

ここで、少し、当時の時代背景を、描くことにする。
更に、話が、横道にそれても、それは、必要なことである。

当時の、ユダヤ教の姿は、想像以上の、ものだった。
それは、支配者階級である。

戒律主義、差別的偏見、物欲のとりこ、傲慢の極み、傲慢の塊である。
イエスは、彼らに対して、徹底的に、攻撃し、鋭い批判を展開した。

勿論、だからこそ、最高刑の、磔刑を受けたのである。

イエスは、民衆の人気者、大変な支持を受けた。
何故か。
それは、虐げられた人々の中に入って、行ったからである。

ユダヤ教の、支配者層は、政治的支配者でもあった。
その、支配者層によって、搾取され、差別された、人々の、この世での、救いは無い。

当時は、更に、ローマの支配の中に、組み込まれて、民衆は、二重支配に、苦しめられていた。

救いようの無い、民衆に、イエスは、心から、同情した。
と、共に、本来は、民衆のために、現世の救いも、与えなければならない、役割をするべき、ユダヤ教の支配者層は、皆無だった。

現在の、キリスト教の、支配者層に、実によく似ている。

現世の生活にも、救いが無い、状態を生きる人々の、救いは、矢張り、神だった。
だが、その神の側につくのが、律法学者であり、パイサイ人である。

イエスは、色々な、差別から、人々を、解放した。
当時のユダヤ人ほど、差別感情の激しいものはない。

隣国サマリア人、異邦人、婦人、子供、貧しい人々、心身障害者、らい病、取税人とは、ローマの委託を受けて、税金を取り立てる者である、更に、遊女たちである。

選民意識から、出た、これらの差別は、まことに、根の深いものである。

マルコ福音には、
私が来たのは、健康な人たちのためではなく、病気の人たちのためである。義人を招くためではなく、罪人を招くために来た。

差別されていた人々は、罪人として、扱われていたのである。

恐ろしい、排他的主義である。

歴史は、それが、逆転して、ユダヤ人迫害に至ることを、教える。

自分たちは、神に選ばれた者である、という、意識過剰は、甚だしく、イエスの、怒りは、それに向けられた。

実際、イエスは、宗教教団を作る意思は無い。
ユダヤ人の、意識改革であった。

当時の、イエスの世界というものは、実に、狭いのである。
地の果てとは、どこまでのことを、言ったのかは、誰にも、解らない。
しかし、イエスは、ユダヤ教の地域の、地の果てを、指していたのである。

現在の、全世界のことではない。

傲慢とは「自分を義人だと自任して他人を見下げる」ことであるが、それは神との垂直な交わりを阻害するだけではなく、他人との平等な交わりをも破壊する。ゆえにイエスは傲慢という非人間化からの開放を行ったのである。
キリスト教新講 由木 康

そして、偽善からの、開放である。

イエスは、罪人と、言われた人々、貧しい人々、病人に対しては、実に、哀れみ深く、対応したが、律法学者、パリサイ人には、容赦なく、大変厳しい態度で、臨んだ。

その、彼らに対して、
外側は美しいが、内側は、死人や骨、あらゆる不潔なもので一杯である。
外側は、人に正しく見えるが、内側は、偽善と不正とで、一杯である。
と、攻撃した。

その激しさは、生半可なものではなかった。
イエスを、亡き者にしようと、彼らが、策を練るほどであった。

一体、このような、人間が現れた時に、既成の権力を持つ人たちは、どのように、対処するだろうか。
暗殺を考える。

更に、イエスは、ユダヤ教の、神にも、その、攻撃を向けるのである。
というと、おかしい、イエスは、神の子であろう・・・
いや、神の子は、ユダヤ人、すべての人のことである。

私の父と、イエスがいうところの、父が、ユダヤ教の神のことだろうか。

ユダヤ教の、神とは、アブラハム、イザク、ヤコブ、ヨハネの、神である。
更に、モーゼの神である。

磔刑の、イエスは、最後に、神よ、神よ、私の神よ、何故、お見捨てになるのですか、と、旧約にある、言葉を、投げ掛ける。

実際、イエスの神と、旧約の神、ヤハゥエ、エホバは、違う。

イエスの、時代になると、神は、沈黙したままである。
あの、嫉妬と、怒りの神が沈黙したのである。

イエスは、多く神という、言葉を、用いない。
天の父、私の父、である。

当時は、神の名を呼ぶことも、注意に、注意した。
それなのに、私の父と、言って、憚らないのである。

聖書研究の、限界が、見える。
旧約の神と、イエスの神は、別物である。
そして、もし、同じならば、イエスも、魔神の仲間であるということだ。
ヤハゥエとは、霊である。
ユダヤ民族の、神と、名乗る霊なのである。

私以外を、拝んではならない、という、魔神であり、化け物の霊である。

イエス以後、その神が、ユダヤ民族に、対して、何事か、指し示したか。
否である。

ユダヤ教は、旧約の、契約から、未だに、一歩も、出ていない。
だから、今でも、メシアの、出現を待つ。
そして、それは、永遠に訪れないのである。
それは、すべてが、終わったからである。


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奇跡の旅・ビアク島へ

兎に角、早く、追悼慰霊に出掛けたいと思っていた、ビアク島である。

パプアは、ニューギニアの、西半分の、インドネシア領、現在は、イリヤンジャヤという。
その、北西にある、小島である。

ニューギニア戦線は、最悪の激戦地である。
その、最後の激戦地である、ビアク島。

餓死、病死、そして、米軍と、オーストラリア軍の、火炎放射器によって、壊滅させられた。
亡くなった日本兵は、一万二千名ほどである。

ジャカルタから、スラウェシ島の、マカッサルを通り、マルク諸島を飛行して、ビアク島に向かう。
おおよそ、六時間である。

単独行動で、行った。
私は、この旅を、奇跡の旅・ビアク島へ、と、銘打つ。

出発は、6月21日、朝の便である。
であるから、前日に、すべて用意して、朝タクシーを予約しておく。
六時に家を出る。

支援物資が、大半であるから、一人では、大変な旅である。

前日の、夜に、お握り、五個を作った。
そんなに、作るつもりでなかったが、ご飯が大量に残ったのである。

鰹節が、二個と、母の作った梅漬けが、三個。
これが、ジャカルタの二回の、朝の食事になったという・・・自分でも、呆れる。

タクシーの、運転手さんが、尋ねた。
どちらですか
インドネシアの、ビアク島に行きます
えーっ、そんな島聞いたことないなー
日本兵が、一万人ほど、亡くなっているニューギニア戦の激戦地です。慰霊に行きます。
慰霊ですか・・・
ええ、それと、衣服支援をします。ジャカルタでもしますよ
お一人ですか
ええ
自腹で、行くんですね
ええ
凄いことですね
いやー、ゴルフをしたり、旅行に行くのと、同じですよ
いやー、そんなことはない。自腹で、そんなことをする人なんて・・・でも、本当は、皆、やりたいんですよ・・・

いや、違うと、思った。
運転手さんが、したいのである。だが、皆と、言って、曖昧にしたのである。

荷物を下ろして、私が、カートに乗せると、運転手さんは、深々と、頭を下げた。
無言で、見送ってくれた。

私は、急いで、バスチケット売り場に走った。
後、三分で、バスが出る。
バスに乗り込み、安心して、眠ってしまった。

気づいた時は、成田空港の、検問所に着く頃だった。

急いで、お握りを一つ、食べる。

飛行機の、チェックインが始まっていた。
問題は、支援物資の、重さである。

一度、計っていた。
二つの、バッグで、約25キロである。
受付の、お姉さんの顔色を見る。

少しオーバーしていますので、抜いていただけますか

しょうがない。
タオル類を、機内持ち込みの、バッグに詰めてみた。
また、お姉さんの顔色を見る。

これで、いいですよ

機内持ち込みの、バッグは、二つで、自分のバッグは、着替え用で、パンパンである。
そして、支援物資のバッグも、パンパンになった。

あのー座席は、後ろの席で、トイレに近い場所にしてください
つまり、うまくいけば、座席に寝られるからだ。
だが、飛行機は、満席だった。

通路側の、トイレ近くである。

台北で乗り換えて、香港を経由して、ジャカルタに行く。
香港経由が、面倒である。

それに、三度も、機内食を食べるのである。
朝、9:40発、ジャカルタには、夜の、20:20に、着く。日本時間では、22:20である。
時差が、二時間ある。
およそ、12時間。

十年間、飛行機に乗れなかった私が、今は、飛行機に乗るのが、楽なのである。
パニック障害だった。

飛行機が、振動無く、飛ぶよりも、少し揺れると、乗っている気分になるという、倒錯である。

だが、12時間は、やはり、きつい。

その間の、唯一の楽しみは、香港で、喫煙室があること。
台北の空港は、全面禁煙である。

着物姿は、勿論、私だけ。
いよいよ、今回の、奇跡の旅の始まりである。
飛行機に乗る前に、睡眠導入剤を飲む。これが、いい。そうでなければ、疲れて、倒れてしまう。

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2010年07月02日

神仏は妄想である 291

マタイ福音書の、冒頭では、イエス・キリストの系図というものが、書かれる。

アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちとを、
ユダはタマルによってペレズとゼラとを・・・・

エッサイはダビデ王を生んだ。

イエスが、ダビデの、子孫であり、約束された、キリスト、メシアであることを、説得するのである。

聖書研究では、アブラハムの名を記したのは、神がアブラハムに約束された、全人類への祝福が、キリストによって、与えられたことを、示すと、いう。

ヤコブはマリアの夫ヨゼフを生んだ。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

だから、イエスは、ユダヤ教の、完成者なのであると、言いたいのである。

しかし、イエスは、聖霊によって、身ごもったのであり、血統ではない、はず。
マリアの子であり、ヨゼフの子ではない。

マタイは、ダビデのすえである、ヨゼフが、妻マリアから生まれる子の、父としての資格を持つことによって、この子こそ約束された、メシアはダビデのすえから出るという、預言を成就するものでると、教える。
とは、聖書研究である。

血の関わりより、聖霊、つまり、神の意思の方が、強いのである。

あまりの、こじ付けに、唖然とする。

処女降誕は長々と書きつられた系図を無効にしてしまう。その意味においても、処女降誕の記事は不可解である。
聖書の読み方 北森嘉蔵

ところが、北森氏は、とんでもないことを、書く。
それこそ「連帯化」の真理にほかならない。連帯化は、一方ではAがBと一体化し内在化することであるが、しかし他方ではAはBから超越して他者性をもっていることを必要とする。処女降誕はその超越的他者性を示すのである。

系図によって人間と一体化した救い主イエス・キリストは、その系図とは無関係な処女降誕によって、人間から超越した他者であることを示すのである。

救いとは、罪びとから超越している聖なる神が、罪びとの世界に内在して罪びとと一体化することによって成り立つのである。

上記、勝手な言い分、勝手な解釈である。
全く、説得力がない。
超越的他者性・・・
詭弁である。

更に、その蒙昧は、続く。

もし罪びとと一体化するだけであるなら、それは罪びとを現状肯定することになってしまうであろう。救い主が罪びとから超越した聖なる存在であることによって、救いが罪びとの現状肯定に終わらず、その現状批判と現状変革とを伴うことになるのである。

これが、神学者である。
系図を取り上げた、マタイの解釈ではなく、希望的願望を、書き上げるという、愚である。

更に
はじめから罪びとと一体化しているだけの存在なら、救いと称しても、結局は「すねに傷持つ身同士」」で傷をなめ合っているようなことになるにすぎない。
と、なる。

この人は、自分が、矛盾しているとは、全く考えていない。
イエス・キリストが、メシアであるという、前提に立ち、解釈するからである。
つまり、信じている。
信じているから、とんでもない、飛躍したことも、平然として、書く。

イエスの、系図の解説を、淡々とするというならば、解る。しかし、そこに、すでに、イエスを、メシアであると、信じることが、前提にあるから、全く、説得力がない。

イエス在世当時の、律法学者と、変わらない。
今、イエスが、目の前に現れると、偽者だと、弾圧するであろうことは、難くない。

責任を負うのは、相手の現状に対する批判と変革とを伴う。この批判と変革は、相手からの超越性によってのみ成り立つ。完全に内在化してしまえば、相手を批判することも変革することもなくなる。
北森

通常の、問題を解決する、手立てとしてならば、それを受け入れられるが、イエスが、メシアだということの、解釈とすれば、受け入れることは、出来ない。

キリストは罪びとの責任を負って十字架の刑罰をうけ、罪びとをその刑罰から救い出す。それは完全な救いであって、人間のがわでのいかなる条件をも要求しない。無条件の救いである。それが系図の中にふくまれるメッセージである。
北森

ここでは、人間を、罪びとであるとする、前提がある。
人間は、罪びとなのである。

しかし、そのキリストは本来的に罪びとであるのではなく、罪から超越した聖なる存在であるままで、罪びとと連帯化するのである。この超越性が処女降誕の中にふくまれるメッセージである。
北森

メシアとして、作られてゆく、イエスであるということだ。

処女降誕を信じることが、クリスチャンの、まず最初の試み。

ユダヤ教の、背景を、見回して、イエスの存在が、アブラハムから、ダビデにつながる、系図の上にある存在を言い、それが、旧約に約束された、メシアであるという、段取りを、マタイ教団は、その、権威と共に、書き上げなければならなかった。

イエスを、メシアとして、作らなければならない、使命があった。

処女降誕だけでも、十分に、説得力があるものだが、ユダヤ教、ユダユ人を、意識しての、記述である。

信仰宣言は、我は全能の神を信じ、乙女マリアから生まれ、死から甦る、主イエスを、信じます、である。

最低限の、それは、信仰宣言である。
が、二千年前の人には、通ずるが、今は、無理である。

神話として、生きているというならば、それもまた、善しであるが、それが、事実であるというのは、あまりにも、無理がある。

それは、完全な救いであって・・・
何を根拠に、完全な、救いというのか。

まさに、妄想というしかない。


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奇跡の旅・ビアク島へ 2

無事に、ジャカルタに到着。
入国審査を通り、荷物のターンテーブルへと、向かう。

二つの、バッグを抱えて、更に、大きな二つのバッグである。

カートを用意して、荷物が出てくるのを、待つ。
予約はしていないが、泊まるホテルは、決めてある。
スラムに面した、以前泊まった、ホテルである。

であるから、急ぎたい。
荷物が出てきて、カートに乗せて、走る。

出口では、タクシーの呼び込みである。
二人のおじさんに、引かれて、タクシー乗り場に向かう。

ところで、料金は。
ハウマッチ
トェンティ、サウザント
何、20万ルピア。二千円・・・

ノー
ここから、いつもの、癖が始まった。
私は、フリーのメータータクシーで、行くの

ノーノー
何が、ノーだって、こっちが、ノーだ

二人のおじさんを、振り払い、タクシーが停車している場所に走る。
おじさん、二人も、着いてくる。

要するに、チケット制のタクシーに乗せたいのだ。それで、ピンハネするのである。

街中ならば、それでもいいが、スラムのホテルは、街から離れていて、空港から近い。20万ルピアも、かからないのである。

ついに、私は、おじさんの一人を、手で、押し退けて、フリーのタクシー運転手に、メーターオッケーと、聞いた。
オッケーと、応える。

運転手が、急いで、荷物をトランクに積む。

それでも、おじさんたちは、私に、紙切れを渡す。
そして、一番上の、料金を示した。
15万ルピアである。

私は、紙切れを受け取ったが、無視した。
実は、私の行動を、皆が、見ていて、声を上げて、笑った。

あの、日本人、なかなかやるーーーといった、感じ。

旅行者は、チケット制のタクシーを利用すると、決め込んでいるのだ。

だが、私も、おじさんたちに、同情している。
それが、彼らの、収入なのである。
それは、解る。しかし、私も、なけなしの金で、来ているのである。

矢張り、ホテルまでの料金は、5万ルピアだった。
500円である。私は、チップで、一万ルピアを渡した。
600円で、到着。

言いたいことは、日本語でも言う。
相手が、理解しようとする、それが、私の手だ。

ホテルマンが、うやうやしく、迎えてくれた。
私を、覚えていた。

一泊、3300円。高いが、それ以上に、安いホテルは、その付近に無い。
前回は、二人で、3300円。今回は、一人で、3300円。贅沢である。

部屋は、広い。

六階の部屋である。

そのホテルは、カラオケと、スパ併設のホテルで、五階と、六階がホテル仕様である。

つまり、ラブホテルの替わりにもなるのである。
カラオケで、女を連れて来る。

私は、単なる宿泊客なので、六階。
五階の、部屋が、満室になると、六階を使うという形。

三時間単位で、使用できるのである。

私は、ホテル客なのである。
だから、従業員たちも、対応が違う。

そこで、三泊する予定である。

着物を脱いで、シャワーを浴びる。
そして、タイパンツ姿になり、ホッと一息である。

どこにも、出る気は無い。
水も、フリーのものが、二本ある。これで、夜は、十分である。

ところが、何となく、落ち着かないのである。
高いと、思ったが、ルームサービスで、ビールを注文した。

案の定、価格に、サービス料金、15パーセントである。
小瓶だから、二本頼んだ。

そうそう、お握り、四個を冷蔵庫に入れる。

旅の間は、アルコールを必要としない私が、まして、嫌いなビールを飲むという。
興奮しているのだ。

ビールを飲んで、梅漬けのお握りを食べて、持参した、裂きイカを少し食べて、寝ることしにした。
お握りは、あと、三個残っている。

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2010年07月03日

神仏は妄想である 292

処女降誕とは、イエス・キリストが男女の性的結合によらないで生まれたということである。これはまさに「異象」である。人間が男女の性的結合によって生まれるという自然現象を破るものとして、異常な現象である。そこで、もし処女降誕がこのような異常な「現象」が起こったと承認することを意味するなら、それは信仰の告白ではなくなる。
北森

奇跡についての、説明をしているのだが、それが、宗教信仰の現象の奥にある、本質を見るものであるという。

宗教信仰は本来「本質」の領域にかかわるのであって、「現象」の領域にかかわるのは科学ないし常識である。
北森

奇跡は、意味の領域に属する。
北森

つまり、その、内容のもつ、宗教的意味であるということ。
それを、決断によって、受け入れる者にとってのみ、生きてくる。

それでは、信じる者だけが、その宗教的意味を、知るということになる。

私は、処女降誕という、奇跡など、どうでもいいのである。
イエスという、人間が、当時の、ユダヤ教の中にあり、その、偽善を暴き、弱い人々、更に、罪人といわれた、人と、真っ当に対座したということが、魅力なのである。

上記、簡単に言えば、信じるか、否か、ということである。

奇跡は、信仰されるものとして「ある」のである。
北森

勿論、信じる人に、信じるなということは、出来ない。
いわしの頭も、信心からである。

その、いわしの頭も、信心というものと、別であると、屁理屈を書き連ねる、根性が気に入らない。

たとえば生物学的に処女降誕に類する現象が証明されたとして、それを承認することが処女降誕の信仰告白であるというなら、すべての人間が信仰の決断なくして、キリスト教徒となり得るであろう。・・・普遍的に認識される事に対しては、信仰は要求されないからである。
北森

処女降誕を、あくまで、奇跡として、見ることが、信仰であり、更に、飛躍して、イエス・キリストの本質的な意味、それは、イエス・キリストの愛に、他ならないと、語る。

実に、恐ろしい、理論である。

イエス・キリストが、処女降誕で、生まれたということに、意味を、持たずとも、イエスという、人間の教えを、受け入れることが、出来る。
どうしても、そのような、奇跡を、意味ある、本質として、受け入れると、考えるという、錯乱である。

更に、飛躍することは、イエスの、愛は、どのようなものであったか。
それは、愛に価しない者に対する愛であった、と、語る。

人間は、愛に価する者だけを愛するのである。したがって、愛に価しない者を愛することは、人間の自然的ありかたを超えたものとして、まさに奇跡である。
北森

罪びとを愛するイエス・キリストの愛は、自然的人間にとっては奇跡である。
北森

一体、この人は、何を言っているのであろうか。

これが、神学者といわれる、人の書き物である。

更に、処女降誕に対して、愛に価しない者への、愛に、真っ向から対立するのは、性愛である。性愛は、それが健全なものであろうとするなら、必ず愛に価する者へ向けられるはずである。
性愛は本質的にいって、愛に価する者への愛である。
北森

であるから、処女降誕は、人間の自然的なありかたを超えた「本質的な意味」としての「罪びとへの愛」を語るためのものである。
と、なる。

そのような、意味としての、処女降誕であるというのである。

聖書が、語りたいことは、イエスの、本質的な、意味としての、罪びとへの愛という、奇跡を、処女降誕の奇跡で、語るということなのであるという。

ここまで、偏狭になれば、第一級の、神学者なのであろう。

人間を、初めから、罪びと、であると、断定して書く。
これが、キリスト教の、原罪説である。

これも、信じるか、否かである。

この世に、生まれたこと、自体が、罪びと、なのであるという、妄想である。

聖書が、語りたいことが、云々として、語るが、彼は、その証拠があるのか・・・
ある訳が無い。
そのように、教えられたのである。そして、その、教えを、信じたのである。

そして、信じる者は、騙される。

私は、処女降誕の奇跡から、イエスの、愛の奇跡、つまり、愛するに価しない者への、愛というものがなくても、イエス・キリストの、存在を、否定しない。肯定する。

神学というものが、学問に価しないというのは、これを、読んでみて、よく、解るのである。

つらーっとして、読んでいると、そんなものかと、思われるが、このような、妄想を、彼らは、撒き散らすのである。

そして、驚くべきは、原罪というものである。
生まれながらに、罪人であるという、意識。それを、持てという。
それも、信仰の、世界の問題である。

生まれながらに、罪人という、意識を、持たなければ、キリスト教徒になれないのである。

自虐に、他ならない、考え方。
一体、誰が、考え出したのか。
実に、おぞましい、自虐感覚である。

これを、考え出した者、当然、自虐感覚に、囚われたのである。
それを、教義とした、キリスト教である。

宗教の、蒙昧が、明確に、現れた。

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奇跡の旅・ビアク島へ 3

翌日の朝は、早く目覚めた。
六時、日本時間では、八時になる。

やることが、多い。
まず、電話のカードを買うこと。
両替して、ビアク島行きの、航空券を買うこと。
そして、スラムに、衣服支援をすること。

部屋にある、ポットで、湯を沸かし、インスタントコーヒーを、煎れた。
しばし、飛行機の行き方を、確認する。
下手な英語で、伝えなければならない。

横浜支部の、報告には、英語も出来ないのに、よくぞ、やっていると、書かれたようであるが、全く、英語が出来なければ、行動するのは、無理である。
勿論、大ブロークン英語であり、英語の中に、日本語が、混じるという・・・

三個目の、お握りを食べる。
その美味しさに、感動する。
冷えても、柔らかく炊いたご飯は、美味しいと、知るのである。

八時前になったので、出掛ける。
まず、電話から。
下に降りると、若いボーイがいた。
そこで、電話を見せて、シンパチカードを買いたいと言うと、彼は、即座に、私の携帯電話を、調べた。

そして、以前の番号が、使用できないと、教えられた。
新しい番号を買うこと。

このボーイは、私の部屋に、遊びに来るほど、親しくなった。

スラムの、通りに、お店があると、教えられて、出掛けた。
その店は、すぐに見つかった。
店・・・ただの、小屋である。
一人の、若い女がいた。

五万ルピア、500円で、新しい番号を買い、更に、五万ルピア分の、カードを買う。そして、お姉さんに、その、料金分を、電話に入れて貰う。
そこには、何度も、通うことになる。

お金を出せば、お姉さんが、勝手に、電話に、料金を入れてくれるようになった。

さて、次は、両替である。
そごうデパートに向かう。
そごうデパートは、日本の会社である。そのビルは、複合ビルで、日本、アメリカの、大型デパートが、入居している。

地下には、スーパーもある。
そのスーパーの、地下二階に、両替所がある。

ところが、開店が、10時からである。
まだ、開いていなかった。

タバコを吹かして、待とうと思ったが、一本、吸って、一度、ホテルに戻ることにした。

先ほどの、ボーイに、番号を買ったことを言う。
そして、フロントで、今夜の宿泊分を支払う。

一日ごとに、支払うことにしている。というのは、三泊分を支払い、二泊しかしなかった場合でも、戻さないホテルがある。
フィリピンで、二度、そういう経験をしたから、一日ずつ、支払うことにした。

部屋に戻り、支援物資の、仕分けをした。

一度、衣服を取り出して、中身を確認し、入れ直す。
一度に、すべてを持つことは、出来ない。何せ、一人である。

十時になったので、また、出掛ける。
若いボーイは、朝から、三時までの、勤務である。
私は、彼に、仕事が終わったら、ガイドをして欲しいと言うと、後で、部屋に来るという。
やってくれると、期待した。

そごうデパートに入り、地下二階に、下りる。
ところが、両替所は、11時から・・・ああ、である。

そこで、また、上に上がり、旅行代理店に行くことにする。

とても、忙しい様子だった。
私が椅子に座ると、作業をしていた、後ろのお姉さんが、やってきた。
目の前の、おばさんは、英語が出来ないようである。

ペラペラペラ・・・
よく解らない。

私は、国内線の、地図を出して、ゆっくりと、英語で、ビアク島に行きたいと言った。そして、紙に、行く日と、戻りの、マカッサルの日程、そして、ジャカルタに戻る日を、書いた。

お姉さんは、すぐに、別の、若い女に命令して、空席を探させた。

しばらく、待つ。
すいません・・・ウォータある・・・
オッケーと、別の女が、二つ、カップに入った、水を出してくれた。

中々、結果が、出ない。
私は、少し大きな声で、デスカウントチケットね・・・と言った。
すると、調べていた、お姉さんが、オッケーと、応えてくれた。

11時になったので、目の前のおばさんに、マネーチェンジと言って、両替することにした。

丁度、開店したところである。
今回は、おじさんである。前回は、女性だった。
五万円を出した。

一万円が、98万ルピアである。
0が多い、紙幣なので、実に、煩わしい。

どっさりと、お金が、出てきた。
そして、私は、何と、コープクンカップといった。
タイ語の、ありがとうである。
おじさんは、それを、繰り返し、笑いながら、あたなは、日本人ねーーと言われて、気づいた。
あーーートリマカシと、言い直した。
おじさんは、オッケー、コープクンカップと、言う。

約、500万ルピアを、持って、また、旅行代理店に向かう。

チケットが、すべて取れていた。
ジャカルタから、ビアク島までは、ガルーダであり、帰りは、マカッサルまで、別会社であり、マカッサルからは、ライオンエアーである。
ライオンエアーは、前回、パダンに行く際に、乗った飛行機である。

三社の飛行機に乗る。
確認して、今度は、手続きである。
言うのが、面倒なので、パスポートを出す。

また、時間がかかりそうで、一応、支払い分を渡して、向かいにある、レストランで、食事をすることにした。

あのねーーーレストランに行ってくると、おばさんに言うと、オッケーである。
レストランという言葉で、何をいうのか、解るのであろう。

レストランに入り、注文する。
矢張り、高い。
マーボー豆腐と、野菜のスープを、注文すると、おねえさんが、笑顔で、ナントカコントカという。
いらないと、手を振る。

そして、気づいた。
ご飯だ。ご飯、ご飯、いや、ライス。手を上げて、お姉さんを呼ぶ。
らいす、ね・・・
スチームと、尋ねる。そうそう、オッケー、である。

蒸したご飯である。フライライスだと、チャーハンになる。

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2010年07月04日

神仏は妄想である 293

旧約聖書、創世記には、天地創造の由来が、書かれる。
由来というから、それは、神話である。

夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神はいわれた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」

ここでは、地球のすべての、生き物が、人によって支配される、という、定義が、持ち出される。

そして、神は、我々に、似せて、人を造るという。
この、我々とは、何か。

似せてというのは、何を、似せるのか。

それでは、神が、人を造った経緯を見る。

主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

そして、神は、その人を、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。・・・アダムのことである。

また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
・ ・・・
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
私の骨の骨
私の肉の肉
これをこそ女と呼ぼう
まさに、男から取られたものだから」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

ここには、恐ろしいほどの、差別がある。
人とは、男のことをいう。
女は、人とは、呼ばない。

男は、イシュであり、女は、イシャーと呼ばれた。
女は、男の、付属物なのである。
一夫多妻の原型である。

そして、蛇の誘惑を、女が受けることになる。

その前に、人を、神、我々に、似せてという、部分である。
ここには、どのような意味があるのか。
人、つまり、男は、神に似せて、造られたのである。

普通、似せるとは、その形である。
しかし、聖書解釈には、神と、同じ霊として、となる。
鼻から、息吹を掛けられて、人が、造られた。
その、息吹とは、霊のことである。

肉体は、塵である。
肉体が、朽ちると、塵に還る。

蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

そして、神の登場である。

主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」
主なる神は女に向かって言われた。
「なんということをしたのか」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました」

キリスト教の原罪説は、ここから、はじまる。

主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

善悪を知る者となり、永遠に生きる者となる、恐れがある。
一体、この神の言葉は、何を意味するのか。

天地創造などとは、実に、いやらしいほど、の、傲慢の思想がある。

創世記は、モーゼによって、書かれたと、言われる。
その、モーゼは、神と契約をした。
その契約の内容は、神を、モーゼの意のままに、使うというものである。

神が、モーゼを、使うのではない。モーゼが、神を使うのである。

その後、創世記には、神が、
わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。
と、言うのである。

全知全能、天地創造の神が、後悔するのである。

その前段で、
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

神という、我々に似せた人とは、そのようなものであった。
つまり、神と、同じである。

神は、それを、願っていたのである。
そして、ノアの箱舟。
それでも、人は、生きて、増え続けた。

神話であると、言えば、いいが、それを、そのままに、信じる姿勢を、キリスト教は、求める。

女は、男から、出た者である。
全くの、見当違いである。

人は、受精した瞬間は、皆、女から、はじまる。
神話であるから、許せるが、これが、真っ当な話であると、するならば、明らかに、間違っている。
つまり、原罪という、生まれながらに、罪を持つという、思想は、妄想としか、いえない。

その原罪を持つ人間を、愛するに相応しくないと、考える神学なるもの・・・
その、愛する価値のない人間を愛する、イエスの存在・・・

そこから、教義がはじまること、自体が、誤りである。


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奇跡の旅・ビアク島へ 4

食事をして戻ると、すべての手続きが終わっていた。
そして、おばさんが、笑顔で、ディスカウントと言い、返金してくれた。

これで、ビアク島行きが、決定である。
日本から出る時は、どうするかと、少し迷っていたが、もう、後戻りは、出来ない。

何せ、ビアク島の、情報が何も無いのである。
ホテルや、ゲストハウの、情報も無い。
出掛けて、野宿する覚悟が、出来たのである。

出掛けてからの、勝負である。

書類を貰って、ホテルに戻る。

あの、ボーイが、部屋に後で行くと言う。
さて、手伝ってくれるのか・・・

時間は、12時を過ぎていた。
この後、スラムに、衣服支援である。

暑い時間帯と、ボーイの仕事が終わる、三時以降にすることにした。

ボーイが、やって来た。
彼も、あまり英語が出来ないので、丁度よい。

前置きの話が長かった。
彼は、ジョグジャカルタの出身である。
あの有名な、ボロブドール遺跡や、プラン・バナン遺跡のある場所である。
一度、私も、出掛けた。

ジャカルタでは、兄弟二人で、働き住んでいる。
一月の、給料は、日本円で、8千円である。
実に、少ない。それでは、生活が出来ないと、思う。

彼は、言った。
あなたの、三泊分が、僕の給料と・・・
うーん・・・

写真を撮り合うことになった。
記念写真である。
彼は、思わず、ポーズをつけたから、面白い。

そして、本題である。
実は、スラムに、入り、人々に、衣服を渡すと、言った。
ガイドを、して欲しい。そして、写真を撮って欲しい。

ところが、話しをはぐらかされる。
どうも、乗り気ではない。
チップも差し上げるから。でも・・・

つまり、スラムに入りたくないのだ。

そういう人たちとは、別の世界にいると、彼は、信じている。
確かに、暗黙の、境界線がある。
スラムの人々も、こちらに、出ることは無い。

これは、駄目か・・・

無理強いは、出来ないので、話をやめた。

もう、一人で行くしかない。
彼が、出て行ったので、私は、出掛ける準備をはじめた。
一時過ぎである。
暑くても、いい。

ホテルを出て、以前から、気になっていた、高架下に向かった。
子供たちが、遊んでいる。

そして、よく見ると、高架下にも、小屋が、立ち並んでいる。
近づくと、その小屋の間に、道があり、何と、そこから、スラム街に入られるのである。

驚いた。
びっしりと、小屋が立ち並ぶ。
道が狭く、四方に伸びている。
ここから、膨大なスラム街に、なっているのである。

私は、三人の子供たちが、遊ぶ道に、バッグを置いて、子供たちの服から、取り出した。

それからである。
どんどんと、人が集ってきた。
いつもの通りである。

子供のたちが、群がり、そして、大人も、混じる。
おおよそ、半分ほどの、衣類を、手渡しして、私は、場所を移動することにした。

その、支援の様子は、若い男に、カメラを渡し、撮って貰った。
地元の人に、カメラを渡すと、撮られるほうも、気を許すので、そのままの、姿が、映る。

さて、次の道へと、向かうが、子供たちも、大人たちも、後をつけてくる。
どんどんと、その数が増える。

一度、バッグを置いて、取り出すが、混乱の極みである。

そこで、一人のおばさんが、私を、高架下に誘う。
高架下は、広いから、よいという、訳である。

高架下に出て、私は、子供たちに、並びなさいと、身振りで、言う。
子供たちは、素直に、二列に、並び始めた。
大人も、協力してくれる。

ところが、その間に、大きなバッグから、若い男たちが、走り来て、一つ、また、一つと、支援物資を、取り出して、走り去ったのである。

最後の、袋を、取られて、私は、やっと、それに気づいたのである。
子供たちに、気を取られている間の、出来事。
しかし、子供たちは、見ていたはずである。

つまり、支援するものが、無くなっていたのである。
このスラムには、盗みをする、若い男たちが、いるのである。
スリの、集団がいる。

それでは、どうなったか・・・
私は、子供たちに、両腕を上げて、何も無いと、知らせた。が、子供たちは、納まらない。

百人ほどの子供たちの、群れが、私を襲う形になった。

逃げた。

逃げながら、写真を撮った。

中には、赤ん坊を抱いた女もいて、私に、下さいと、頭を下げるが、差し上げるものがないのである。

逃げた。

高架下を抜けても、子供たちが、追ってくる。
逃げる。

そして、ある地点まで来ると、子供たちは、ぴたっと、動きを止めた。
そこが、境界線なのである。

スラムと、通常の世界の、境界線。

着物を着ていなくて、よかった。
ほうほうの体で、ホテルに戻る。

ぐったりした。
そして、怒りが湧いた。
半分は、盗まれた。

だが、彼らが、自分の周囲にいる、子供たちに、渡すことを、願った。
しかし、それは、甘い考えである。
きっと、彼らは、それを、金に換えるだろう。
スラムの中にある、店に、売るはずである。

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2010年07月05日

神仏は妄想である 294

天地創造、そして、人間を造りたもうた、神というモノに、徹底的に対決した、一人の作家がいる。

マルキ・ド・サドである。

ぼくは思うに、このけがらわしい宗教の神というやつは、今日一つの世界を創造したかと思うと、明日はその出来栄えを後悔するといった態の、およそ無定見で野蛮なやつでないとしたらいったい何だ?けっして人間を思うとおりに仕込むことのできない、力の弱いやつでなくて何者なのだ?神から出たにもせよ人類は、かえって神を支配しているよ。

まさに、創世記の神の、技は、実に、矛盾している。
しかし、キリスト教司祭、牧師は、言う。

神は、人間に最大の愛である、自由意志を与えたと。

その自由意志で、人間が、神の愛を受け入れることが、信仰である。
更に、人間の罪を、我が子を使って、救うという、その愛の行為・・・

とてもとても、妄想なのである。

人間の、原罪というもの・・・
生まれながらに、罪人であるという、観念は、ただ事ではない。

人間には、罪を犯す、種を持つものである。だから、罪人・・・
あらゆる、キリスト教作家は、そこに、問題意識を見出して、小説を書くという、アホ振りである。

その人間存在の、根底にある、原罪というものを、いかに、観念するか、である。

この、人間の自虐性は、どこからのものか。

原罪説というものも、教義の一つである。
最初から、それが、存在していたのではない。

教父といわれる、神学哲学者によって、作られたものである。

それでは、サドの続きである。

神の意志にそむき、そのために地獄の苦しみをなめることだって、人類にはできるのだから!神様としたことが、何とまあ意気地のない、何とまあ情け無いことだろうね!われわれの眼にふれるありとあらゆるものを創造することができたというのに、人間一匹思い通りに作りあげることができなかったとは!しかしあなたはそれに対してこう答えるかもしれない。もし神が人間をそんなふうに立派に作りあげてしまったら、人間の価値というものをどこに求めたらいいのだろう、とね。じつに愚劣な議論だよ。第一、人間がその神にふさわしく立派にあらねばならぬ必要が、どこにあるだろうか?もしも、人間をまったく善良に作りあげさえしたら、人間はけっして悪事をはたらくことができなかっただろうに。そうしてこそ初めて、人類創造という仕事は、まことの神の事業というに辱しからぬものであったはず。人間に選択を許すということは、人間を試みることだ。ところで神は、端睨すべからざる先見の明をお持ちなのだから、その結果がどうなるかというようなことは、いちいち分かっていたはずだ。

リチャード・ドーキンスとは、また、別な形で、創世記の矛盾を突くのである。

勿論、それに対して、キリスト教側は、妄想逞しく、反論する。

そうしてみると、神は自分でつくった人間を好んで堕落させているということになる。何という怖ろしい神だろう。この神様というやつは!何という酷いやつだろう!むしろわれわれの憎悪と容赦なき復讐を受けてしかるべき極悪人だよ!しかもそいつは、神としての最高至上の勤めには満足しないのか、改宗させるためには人間を大洪水で溺れさせたり、業火で焼き殺したり、呪いを唱えて禍を被らせたりする。

嫉妬と裁きの、神であるとは、神自ら、聖書の中で、語る。
人格神とは、よく、言ったものである。
人格神で、全知全能であるはずがない。
つまり、完全な人格というものは、無いのである。

人格神ということ、自体に、矛盾がある。

更に言えば、全知全能であれば、次元も質も違うということで、全く、人間と、接する何物も無いのである。

しかし、そうまでしても、人間を変えることはさっぱりできない。だからこの醜悪な神よりももっと力強い存在たる悪魔が、相変わらずその勢力を失わず、相変わらずその創造者を見くびって、もって神の子羊たる人間どもをさまざまに誘惑し、絶えず堕落せしめることもできるというわけだ。われわれにはたらきかけるこの悪魔の力に打ち克つことは、何物をもってしても不可能だ。するというと、あなた方が口をすっぱくして唱えるあの怖ろしい神は、このときいったい何を考えているのかしら?神にはひとり息子がある。どんな交渉から生まれたものかとんとぼくは知らないが、ともかく一人息子だ。何のことはない、人間は自分がマグアイするものだから、自分たちの神も同じようにやることを望んだわけさ。神は自分自身のこの尊い部分を天国から下界へつかわした。ひとびとは想像した、この崇高な神の子はおそらく天上の光に乗って、儀杖の天使たちに取り巻かれて、全世界の衆目を集めながらその姿をあらわすのだろうと・・・・しかるに、何ぞはからん、救世主として地上へやってきた神が姿をあらわしたのは、ユダヤの淫売婦の腹の中であり、汚らしい豚小屋の中だったとは!これが実に世に伝えられる神の子の素性だとは!それはそうと、彼の栄光ある使命によって、いったいわれわれ人類は救われるのだろうか?

ここから、実に、興味深い、サドの、イエス・キリストに関する、問い掛けが行われる。

つまり、彼は、イエスは、何を言い、何をしたのか。この男から、どんな使命を授かったのか。どんな霊妙な教えを彼は告げたのか。どんな教義を規定したのか。要するに、どんな行為のうちに、彼の偉大さが、発揮されたのか・・・である。

ぼくの心に浮かぶのは、まず第一に、少しも知られていない少年時代と、この悪童がエルサレムの寺院の坊主どもにしてやったにちがいない、きわめて淫らなある種のお勤めと、次に十五年間の逃亡だ。この山師は行方をくらまして十五年、その間エジプト学派のあらゆる妄想にかぶれて、やがてこれをユダヤに持ち帰ったらしい。そしてユダヤに姿をあらわすやいなや、彼はわれこそは神の子であり、父なる神と等しきものである、などとほざき、かくしてその狂気沙汰がはじまるのだ。あまつさえ彼はこの神の子との組み合わせに、さらにもう一つ聖霊と称する化物を付け加えて、この三つの位は一体にして分かつべからざるものであると断言する!この哂うべきマヤカシがわれわれの理性に怪奇に響けば、いよいよこの下司な男は、それを受け入れることの功徳を主張し・・・それを棄てることの危険を力説する。神であるにもかかわらず、ひとの子の腹に宿って肉身となったのは、全人類を救済するためであり、やがて自分によって行われるでろあう目覚しい奇蹟の数々は全世界を承服させるであろうと、この男は断言する!

これは、文学である。
だから、救いがある。
しかし、サドが、宗教家として、説教をするというのであれば、救いは、無い。

実に、烈しい、皮肉である。
それには、当時の、聖職者たちの、堕落の最たる時代であるということも、ある。

私は、ここで、新訳聖書当時の社会情勢、状態を鑑みることで、更に、イエスという、人間に、迫ってみる。
勿論、マタイの福音書を、理解するためである。


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奇跡の旅・ビアク島へ 5

ジャカルタの人口は、おおよそ、910万人。
その、北西部に、ブンジャラガンと言う地区があり、スラムが広がる。

スラムに住む人の数は、把握できないのである。
100万人いるといっても不思議ではない。
更に、低所得者は、人口の、大半だろうと、思える。

中華系が、一番、金持ちである。
一時期、中華系の排除運動があったが、それにより、資金が海外に流れた。
更に、中華系も、インドネシアに解け込む、努力をしていると、言われる。

インドネシアの歴史に関しては、前回、書いているので、省略する。
ただ、今回、私が、感じたことは、インドネシアという国の成立に、日本が、深く関わっていたということである。

つまり、ポルトガル領だった、東部ティモールをはぶく、現在の、インドネシア領は、オランダが、植民地として、支配していた。
それを、日本軍が、統治して、敗戦後、インドネシア独立の中で、オランダ領支配だった、島々が、団結して、共和国を建設したのである。

オランダは、日本敗戦後も、再び、植民地化を企むが、四年間に続く、独立戦争にて、また、世界の監視により、断念した。
その際に、日本兵の一部が、インドネシア軍と共に、戦った。
彼らは、英雄として、奉られている。

あるインドネシア人に、言わせると、戦いの方法を、日本兵が、教えてくれたという。

更に、独立後、日本の支援により、今も、インドネシアは、国として、成り立つのである。
日本の支援なくして、インドネシアの存続は、有り得ない。

さて、とんでもない、支援活動を終えて、私は、シャワーを浴びて、ベッドで、休んだ。

しばらくすると、あの、ボーイが、部屋に遊びに来た。

今度は、ホテル内の、色々な施設の話をする。

二階から、四階までが、カラオケである。
前回、コータが、そこに出て、情報を仕入れて来たが、ボーイから、話しを聞くのは、はじめてである。

カラオケは、夕方から、はじまる。
そして、気に入った女性がいれば、買うことが出来る。

私は、女の料金はと、尋ねた。
日本円にして、一万円から、二万円である。
前回は、コータが、二万円と、聞いていた。そして、ボッていると、言ったが、それが本当の料金だった。

ボーイは、イスラム教徒であるが、男との関係は、駄目だが、ガールとの関係は、問題ないと、言った。つまり、売春は、肯定するのである。

更に、私に、マッサージを勧める。
マッサージ料金は、時間によって違う。
だが、マッサージ嬢も、買えるという。

それも、一万から、二万である。

客の、半分以上は、それが、目的であると、いう。
つまり、買春である。

ボーイの、マッサージは、あるのかと、聞くと、無いという。
私は、ガールより、ボーイのマッサージがいいと、言った。
すると、マン エンド マンは、駄目だという。
いや、ボーイの方が、力が強いから・・・
大丈夫だ、ガールでも、力があるという。

そして、もう一度、写真を撮るという。
それは、私を撮るだけで、自分は、一度でいいと、言う。

私は、ボーイに、ユービュティフルボディ、上着を脱いで、写真を撮るというと、また、マンエンドマンは、駄目だという。

つまり、男同士の関係は、禁止されているという。
彼は、男同士に、敏感だった。少し、勘違いしていた。

というより、私が、勘違いさせたのか・・・

彼の、勤務時間が終わる、三時に近くなった。

私は、また、少し休んだ。

夜の食事は、そごうデパートで済ますことにした。
屋台で食べてもいいのだが、ビアク島に行く前に、もし、食中毒などになっては、大変だと、思ったからだ。

そして、また、電話に料金を入れる。

毎日、横浜支部と、実家、そして、バンコクのコータに、報告の電話をする。
単独行動であるから、皆、心配しているのだ。

六時を過ぎて、スラムの、電話屋に行き、お姉さんに、料金を入れて貰う。
そのまま、そごうデパートに向かう。

パダン料理を食べることにした。
そこは、四階にあり、デパートの屋台広場であるから、安い料金で、食べられる。

旅をしていると、あまり、多く食べなくても、いい。
食べるだけでも、疲れるのだ。

最後は、スーパーに降りて、水を買う。
兎に角、いつもの、倍の水が必要である。

通りの店で、5000ルピアで売っている水が、スーパーだと、半額以下である。
東南アジアは、すべて、水道の水は、飲めない。
その点、日本は、天国である。
水道水が、どんどんと進化して、美味しくなっているのだ。

水を買い、今日が、それで、終わった。

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