2010年06月30日

神仏は妄想である 289

イエスは、新しい、福音なのである。
つまり、それを、象徴するのが、洗礼者ヨハネである。

律法の時代は、ヨハネで、終わっている。
だが、相変わらず、律法の支配が、強固に続いているのである。

因習的な、律法に従って、何になるのか。
イエスの、疑問である。

三千年ほどの、長きに渡り、律法は、どんどんと、形骸化して、いる。しかし、それを、主に、人々を、脅し続ける律法学者たち。

心の入らない、律法の行為を、いくら繰り返しても、しょうがないのだと、イエスは、激昂する。

だから、初期のキリスト教団が、護教論的に、イエスの言葉を、是正しようとした、付け足しと、解するのが、自然である。

天地が過ぎ行く方が、律法の一点一画がくずれるよりも容易である。
と、イエスが、言う、ように書いたのである。

彼らはイエスと違って、まだまだユダヤ教の支配体制の中で自分たちの安住の場所を見出そうとしていた。だからユダヤ教律法とまっこうから対決するようなイエスの発言をそのまま正直に継承したくない。何らかの仕方で誤魔化す必要がある。それで、今やもはや律法の時代は終わったのだ。我々は現実にそういう時を生きようとしている、というイエスの発言の伝承の直後に、それと正反対の方向のせりふをつけ足したのだろう。・・・
田川

だが、問題は、それでは、ユダヤ教と同じになる。
イエスの教えより、ユダヤ教の一派にしかならない。

とすると、それでも、自分たちの方が、よほど厳格に行い、更に、相手に対する、優位性を、主張するしかない。
マタイ的キリスト教としての、ユダヤ教対策である。

そこで、イエスに、私は、破壊するためではなく、成就するために、来たと、言わせる。
律法、予言の完成者こそ、イエスであるという、訳である。

だから、驚くべきことに、マタイ教団は、ユダヤ教に対して、我々の方が、正統なユダヤ教であり、より大きなユダヤ教であるという、自己主張をしたのである。

こうなると、正統争いである。

伝統的、ユダヤ教の、義、より、大きな義、を、有するという、マタイ教団である。

これは、徹底した批判者の批判を骨抜きにして後世に残す場合に用いられる手法である。
田川

これに対して、学者でさえも、イエスの倫理は、ユダヤ教の服従の倫理の徹底化であった、という解釈をするものもいる。

イエスは、メシアである前に、当時の、鋭い批判者であった。
その批判に、立ち向かうことが、出来ないほどである。

イエスの、行動に随所に見られる、律法破りは、見逃せない。

生きた人間の言葉を、イエスは、叫んだといえる。
反逆精神の、最たるもの。

因習や、迷信を廃する、姿勢。
歴史は、イエスから、新しい時代が、はじまったと、西暦を、作った。
確かに、イエスは、新しい時代の、幕開けだった。

そして、古い時代の人々に、殺された。

何より、一番最初に、犠牲になるのは、真実というものである。

マタイ教団は、成功したか。
否である。

イエスの反逆精神を正統主義の中にかかえこむことはついに不可能であった。
田川

だが、イエスの、「しかし、私は言う」は、何の論理操作もなく、鮮明に鳴り響く、と、田川氏は、言う。
私も、その通りだと、思う。

旧約律法がその権威の最重量をかけて法的規定で人間を処理しようとしてきても、「私は断乎宣言する」の一言でもってはねのけられる。
田川

ここで、田川氏の、力強い、言葉がある。
この「私」はいわゆる客観的真理に対するいわゆる主観的確信の「私」ではない。「私」とあれば、主観とか「主体」とか言い換えていればすむ、と思い込んでいるのは、近代主義的な哲学者の安易な発想にすぎない。
田川

これは、生きた人間が、叫びだすときの、私、なのである。

私、といえば、意識過剰、主観的確信を、絶対化して、他人に押し付ける心情的ラディカリスムだ、などときめつける者たちは、結局、法と秩序の権威のかげに逃げ込んで終わってしまう。
と、田川氏は、言う。

続けて、
むしろ逆なのだ。明らかな人間的事実をさし示してものを言う時に、その事実を見ているのが自分ならば「私は言う」と叫ぶことで十分なのだ。その「私」は、それ以上何ものによっても権威づけられる必要はない。「しかし」という反逆に裏打ちされている限りは、そこにイエス自身の「私」の権威がある。我々もまたそのように言い切ることができる時、そこに我々の力がある。
田川

だから、私も言う。
今、新しいイエスや、新しい時代の、先駆けを、説くものが、現れれば、過去の考えの人々に殺される。

今、イエスが、現れれば、今の、キリスト教徒に、殺される。
すでに、それらの、教えは、因習になり、迷信に、堕落しているからである。

キリスト教徒が、勝手に、製作した、数々の、形式、特に、カトリックにおける、秘跡というもの、すべて、後世の人たちが、勝手に、作り上げて、信者の支配と、した。

聖典と、認めた、聖書の中から、抜き出して、それらを、構築した。
イエスは、それらを、何一つ、定めていない。

神が愛であるように、互いに愛し合うことが、第一の掟である。
違う。
私が愛を行為するように、あなたたちも、互いに行為しなさい、である。

人間を差別し、改宗しない者を、殺戮し、果ては、民族を滅亡させ、戦争を仕掛け、植民地にして、その利益を奪い、白人主義を謳い、世界を混乱に至らしめたのは、キリスト教国である。

どれほど、懺悔しても、救いは無い。
何一つ、イエスの、教えを、行為していない。

西欧の歴史を、見れば、一目瞭然である。
戦いに、明け暮れた、歴史。

イエスの、教徒ではなく、キリスト教徒なのである。

イエス不在の、キリスト教という。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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