2010年06月29日

神仏は妄想である 288

実際、イエスはくどいほど、「だから私は汝らに言おう」と繰り返す。しかもそれは、きわめて断言的である。イエスがこのように自分の判断を断言的に主張しうる根拠は何なのか。―――先に結論を言っておけば、このように、根拠は何なのか、と問う問いこそが、多くの場合、思想的自立をつぶしてしまう。
田川

しかしまず、ここでは、福音記者マタイがイエスの反逆の姿勢を、再度どのようにうまく正典的信仰の中に組み入れていったか、という巧みな処理の仕方を知っておく必要がある。さもないと、イエスがせっかく、しかし私は言う、と叫び出さなければならなかった理由も、マタイ的正統意識の中に吸収されて、わからなくなってしまう。
田川

社会が、正しいと、決めたこと、そして、社会通念上の、常識というものがあれば、それなりの、根拠、権威がなければならない。
しかし、イエスは、言う。
私は言う、と。

イエスは、ユダヤ教の、律法と、対立した。
それは、イエスが、最も、嫌った、偽善があるからである。

最も、古いマルコの福音は、イエスの、事跡を中心に描くが、マタイは、違う。
イエスの行動も、教えの、例示でしかない。
そして、更に、ユダヤ教の、律法主義を、権威として、イエスの、律法批判を書き入れている。

反対命題、アンチテーゼを、あえておくのである。

意図的に、書かれた福音なのである。

マルコの場合は、抽象的な、教え、ではなく、イエスの発言の、一つ一つが、具体的場面に即して、書かれる。

だが、マタイは、意図的に、イエスの教えの、中心的内容を、十分に展開する。

マタイ教団は、ユダヤ教と、決別して、キリスト教の独自性を確立する必要があった。
強烈に、旧約聖書の批判をする、イエスを、教祖として、掲げなければならないという、意図である。

イエスの口から、天地が過ぎ去るまで律法の一点一画たりとも過ぎ去ることはない、と、律法の絶対権威を主張する、彼らが、イエスの、律法批判を、立て続けに、書き入れる。

とても、努力したのである。

そして、マタイ教団は、イエスの言葉を、通して、ユダヤ教の権威を、示しつつ、新しい、イエスの教えに、義、という、命題を置いている。

田川氏と、少し違うが、私は、とても、狡賢い連中が、集い、教団として、ユダヤ教の権威も、利用し、更に、新しい、義としての、つまり、ユダヤ教を発展させた、キリスト教の原型を、作り上げるという、作業である、を、目指したと、考える。

自分たちの、正統性を、イエスの言葉を通して、語るのである。

であるから、実在の、イエスは、置物である。
更に、イエスの、本意ある、教えが、実に、不明確になる。

この、作られた、マタイの福音を、解釈、解説する、者たち、つまり、司祭、牧師たちの、手前勝手な、言葉の羅列は、詭弁を通り越して、嘘なのである。

どうにでも、解釈出来る。
どうにでも、人を騙せる。
経典とは、そのようなものである。

私が、律法や預言者を破壊するために来た、などと思ってはならない。破壊するどころか、成就するために来たのである。
マタイ 5章

汝らに告ぐ、もしも汝らの義が律法学者、パリサイ派の義よりも大きいのでなければ、汝らは決して天の国にはいることができない。
マタイ 5章

権威ある、律法を、成就するために、イエスが来た、という、とても素晴らしい、企画を、考えたのである。

マタイ教団の、律法学者たちは、厳格主義であった。

今も、昔も、宗教家、それに関連する、者どもは、皆、当時の、律法学者や、パリサイ派なのである。

規則を、考案して、信者に、守るように、強制する。そして、信者を、騙して、我が物とし、支配する。
宗教家の、支配力は、甚だしい。

つまり、マタイ教団は、
イエス・キリストは旧約律法を破壊するためにではなく、成就するために来たのだ、と言う時に、一方では、キリスト教内部で、キリスト教信仰は旧約律法の終わりであり、破棄である、と主張するもの達「たとえばパウロ主義者」に対して論争的に、他方では、キリスト教外部のユダヤ教徒から、お前たちは律法を破壊しようとする破壊主義者である、とする論難に対して護教的に、このように言い切っているのである。
田川

もう一つ、イエスの言葉に、
律法の戒命の最も小さいものの一つでも破棄し、また人にもそうするようにと教える者は、天の国において最も小さい者と呼ばれ。そういう小さい戒命までもみな実践し、また人にもそうするように教える者は、天の国において大きな者と呼ばれよう。
マタイ 5章

この「天の国において」という句は、「天の国という尺度から見れば」という趣旨である。つまり、天の国の尺度から見れば最も小さい者というのは、救われて天の国に行く可能性の最も小さい者、という意味である。要するに、そういう人間のみが救われて天の国に入ることなどありえないよ、と断罪しているだけのことである。
田川

これがまた意図的キリスト教の基礎的な視点であるのだから、二千年にわたって全世界のキリスト教がこのマタイと、それから律法の破棄を主張するパウロとを、新訳正典の二本柱としてかかえつづけることができた、というのは、一種の詐欺である。
田川

実は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネという、四つの福音書は、皆同じ、価値観ではない。
それぞれが、別の価値観をもって、イエスに対している。

更に、キリスト教は、主に、パウロ主義が、教義となるのである。

パウロの、矛盾を説けば、キリスト教の、矛盾が、解る。

さて、これからも、続けるが、現代、天の国というのは、もはや、死語になりつつある。
神の支配する場所である、天国という、場所・・・

イスラム教も、神が、作られた神の国を、天国と言う。
更に、ユダヤ教も、である。

同じ神から、発しているが、それぞれの、天国は、別々である。
不思議だ。

ユダヤ教は、イエスを、メシアとして、認めない。
イスラム教は、イエスを、預言者の一人としている。
そして、イスラム教は、最後の預言者が、ムハンマドである。

それぞれが、いかに、頑固で、偏狭であるかは、追々書き付けてゆく。
そして、それらは、すべて、妄想である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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