2010年06月28日

神仏は妄想である 287

田川氏の、指摘は、更に、鋭いものになっていく。

本当は「神の国はその人のものになる」という言い方は、当時のユダヤ教の環境の中では、驚くべき発言なのだ。神の国とは「神が支配すること、神が支配するところ」の意味である。従って、人間はその中に入れていただく、救わるべき人間だけがそこに入れてもらえる。というのが「正しい」言葉遣いとなる。あるいは、終末に際して「神の国」の方が「来る」。その時此の世は「神の国」に変えられる、と信じられた。神の国については、普通はこの二つの言葉遣いしかなかった。

それに対してイエスは平然と言い切った。「神の国はその人のものになる」なんぞと。
もちろんこれまた逆説的発言である。
田川

ユダヤ教指導者たちは、人々に、そんなことをしていては、神の国に、入れないと、思想的圧力をかけていた。

そこで、イエスは、その彼らの、偽善的態度に、もし、神の国があるのなら、彼らこそ、貧しい者こそ、入るべきであるというのだ。

あまりに、イエスの言葉は、激しい。
それほど、当時、ユダヤ教の指導者というものたちが、奢っていたのである。

しかし、マタイ福音書は、ユダヤ教に迎合する。
ゆえに、イエスの激しい言葉を、中和させるために、ユダヤ教的な言葉遣いに、変更し、当時の、ユダヤ教の宗教的敬虔主義の伝統に、属するように、編集された。

その中和させる、言葉の象徴が、受け継ぐ、という、言葉である。
ユダヤ教で、よく用いられた表現である。
選民イスラエルの遺産を受け継ぐという、趣旨をはらむ。

田川氏は、マタイ教団は、ユダヤ教の説教的産物であり、その種の敬虔主義を受け継いでいるという。
更に、その伝統は、前一世紀、「ソロモンの詩」と呼ばれる、一群の詩を作った、敬虔主義からのものであり、更に、それを、継承するのが、クムランのエッセネ派であるという。

イエスは「貧しい者」に「霊において」という句をつけて精神化することはしなかった。
田川

それでは、イエスは、何を言ったのか。

イエスは、貧しい者、飢える者、泣く者、と、並べておいた。
飢える者とは、貧しさの、具体的な貧困の、問題である。

更に、泣く者とは、貧しさが、社会的抑圧としてあるということだ。

現実を、見た、イエスの発言を、宗教指導者、その他、諸々の、宗教の太鼓持ち知識人たちが、精神主義を掲げて、いいように、解釈するのである。

要するに、反吐が、出るような、説教である。

イエスは、貧しさに、ある者の生活を、徹底して見たのである。
そこにある、とんでもない、苦痛と、苦難と、悲しみである。

生活苦のない、金持ちは、幸せであると、言えば、貧しい人は、死ぬしかなくなる。

貧困が、苦痛の原因であることを、知りつつ、イエスは、声を荒げて、いうのである。
貧しい者を、真綿で、絞めるような、説教では、救われない。更に、精神主義でも、駄目。それは、貧しい者の、苦痛を知るからこそ、声を大にして、もし、神の国があるならば、貧しい者、幸いという、以外に、方法は無いのであると。

どうしようもない、現実という、世界。
その中で、宗教というものが、如何にあるべきか・・・

イエスは、私には、寝る穴も無いと、いう。
それは、自ら、貧しくならなければ、貧しい人の心に、声など、届かないのであるということ。

ご大層な、建物を建てて、ご立派な衣装を身につけて、司祭や、牧師が、壇上から、説教をするような、ものが、キリスト教ではないということ、である。

アメリカでは、テレビ伝道師という有名、牧師たちが、登場して、説教を垂れる。
彼らの生活は、如何なるものか。
神を、売り物に、十分な、蓄えを持ち、豪華な生活をして、悠々として、神の国、云々と、ほざく。

イエスとは、程遠いのである。

そして、神、神よと、祈り、大袈裟に、跪き、上手に芝居をして、信者、会員を、増やし、政治的権力まで、有するという。
イエスが、聞いたら、泡を吹くような、行状である。

聖なるもの・・・
そんなものを、持ち合わせる、キリスト教徒が、この世界の、どこにいるのか。

マザーテレサか・・・
カトリックの、広告塔として、活躍し、死後、即座に、聖人の手前の福者に、格上げされた。
彼女は、此の世で、すべて、褒美を得た。

そのような、大々的なことで、イエスは、善なる行為を示せとは、言わない。

イエスの、絶望は、如何なるものか。

ちなみに、マザーテレサのような活動をしている、シスター、それ以外の女性たちは、数多くいる。
何故、マザーテレサだけが、あれほどに、有名になり、傲慢不遜な説教が、出来たのか。
それを、よくよく、考えてみるとよい。

まさに、聖者を演じる、役者のようである。

修道会を立ち上げて、ローマ法王の、認可を得る。
何故、個人的活動と、しなかったのか。
寄付は、受け取りません。
しかし、何故、莫大な寄付が、集まったのか。

要するに、カトリックの、逆転挽回の、役割を負ったのである。
カトリックの、聖人となるべく、彼女は、祈り、活動した。
イエスや、マリアに化けた霊の、仕業だとは、知らない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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