2010年06月26日

タイ・パタヤの闇 3

パタヤに来た、翌日、外出禁止令が、出された。
パタヤの歓楽街も、夜は、十時までの営業となった。

その日暮らしの、体を売る、女や、レディボーイは、死活問題である。

彼らは、夜から朝までが、勝負である。

気の毒にと、私たちは、話し合っていた。

そして、私が寝ると、コータが、街の様子を見に出たようである。
勿論、私は、それを、知らない。
ドアを少し開けて。実に、危険である。
これが、高級ホテルなら、本当に危ないかもしれない。

矢張り、十時に、店が閉まったという。
ところが、歩いていると、閉まっている店から、呼び込みされたという。
つまり、建前は、閉めているが、内実は、営業しているのである。

パタヤでは、何の騒動も、なかった。

さて、私たちは、南のウォーキングストリート近くの、ゲストハウスに移ることにした。

まだ残る、支援物資を持って、ソンテウに乗り、移動した。
兎に角、暑い。

ソンテウを降りて、少し歩くが、汗が噴出す。
コータは、傘を差していた。
私は、面倒なので、そのまま、直射日光である。

市場の前を通り、大きな通りに出て、ようやく、いつもの、ゲストハウである。

皆さんと、顔馴染みである。

400バーツの部屋である。1200円。
とても、綺麗な部屋で、心地よい。
大きなベッドが、一つ。

お客は、日本人は、私たちだけで、黒人も、アラブ人もいた。

汗だくになった、衣服を脱いで、シャワーを浴びる。

そして、しばらく、エアコンで、体を冷やす。
そして、水を買いに出る。

そのついでに、通りにカンボジアの親子がいないかと、確認する。
矢張り、この暑い中、親子が、電話ボックスの陰で、物乞いしていた。

私は、一本のペットボトルの水を、上げて、後で、衣服を持ってくると、身振りで、伝える。
それが、伝わるのだ。

後で、持って行くと、非常に喜んだ。

だが、支援は、これからである。
まだまだ、いるのである。

そして、その人たちは、どこに、陣取るのか、予測がつかない。
また、同じ場所でも、別な親子がいる場合もある。

部屋に戻り、休憩する。
突然、コータが、カレーが食べたいと言う。

それでは、カレーを食べることにしようと、出掛けた。

インドカレーの店に行く。
何度か、行った店である。
非常に愛想が悪い、店である。
だが、味は、いい。

と、その店に行き、今通って来た、道に、もう一軒のインド料理店があると、知る。
それは、大きな勘違いなのであるが、そう思った。思い込んだ。

今日は、こっちに、してみようと、私が言うと、コータも、頷いた。

そして、席に着いて、メニューを見た。
カレー、カレーと、私がいうと、ウエイトレスが、カレーは無いという。
えっ、インド料理でしょう。
インドではないと、言う。
どこ
イラン料理です。
えっ、イラン料理。

だが、一度座って、出るわけにも、いかないと、思いつつ、コータにいうと、一度、食べてみようということになった。

私は、チキン料理で、コータは、牛肉の煮物である。

初めての、体験である。

出てきた。
チキンの、半身である。
そして、米が、タイ米とは違う。
細長い米である。
タイ米も、細長いが、それの倍ある。

そして、その米に、小さな、干しブドウのようなものを、振りかけ、更に、バターを混ぜて食べるのだという。

食べ始めた。
腹が空いていたから、最初は、美味しく感じられたが、徐々に、胸が、一杯になる。

食べても、食べても、減らない。

チキンは、何とか、全部食べたが、ご飯が、もう進まない。
腹いっぱいになってしまった。
コータも、同じく。

残すのは、勿体無いが、もう、駄目だと、二人で、食べるのを、止めた。

こんなものを、食っているんだから、相当、彼らは、タフなんだと、コータが言う。

コータは、おかずも、ご飯も、残した。

私は、夜のご飯を食べなかった。それほど、量が多かった。

ただ、米まで、イランから、運んでいると、思うと、大したものだと、感心したのである。

その夜は、インターネットカフェに行き、書き込みをして、終わった。
腹が、もたれるのである。

その夜も、コータが出掛けた。
今度は、レディボーイの、取材である。
私は、寝た。
今夜は、折角だから、どこかに、飲みに出ようと思うのだが、夜になると、気力が無くなるのである。

更に、夜になって、暑いのである。
今時期が、一番暑いタイである。

ふっと、思う。
旅に出ると、本も読まない、物も書かない。何もしない。
だから、日本にいる時の、あの状態から、抜けて、気分転換をしていると、思う。

それが、癖になったのである。
一挙両得。
慰霊と、支援の旅に出て、それが、気分を一新させ、日本に戻ると、また、猛烈に本を読み、そして、物を書く。

ただし、お金儲けだけは、していない。
不思議だ。



神仏は妄想である 285

マタイの福音書を、解体する。

その手引きは、神学者、田川建三氏の、宗教とは何か・マタイ福音書によせて、から、取り入れる。

以下の、引用文は、すべて、田川氏による。

貧しい者は幸い

これは嘘だ。たとえどんなことがあっても、人間が貧乏だからといって、それで幸福だ、なんぞというわけはない。
田川

最初から、やる気十分である。
新約聖書作家たちへの、挑戦である。

マタイによる福音といえば、マタイという人が一人で、書いたものと、思うが、違う。
簡単に言えば、マタイ教団が、書いたもの。まとめたものと、いえるのである。

この、福音書は、ユダヤ教からの、改宗者のために、特に、イスラエルとシリアに住む、改宗者のために、書かれたといわれる。
そのため、他の、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書とは、違い、ユダヤ教の、祭儀へ、言及する箇所が、多いといわれる。

要するに、読者を絞り込むのである。

それが、カトリック、そして、プロテスタントの、キリスト教から、聖典とされるものである。

勿論、聖典があり、外典もある。
外典は、聖典として、取り入れられなかったものである。が、読むべき価値は、ある。

知らないものは、無いものであるから、クリスチャンたちは、教会が、定めた聖典を、正しいものと、信じて、疑わない。

信じる者は、決して、救われることが無い。
信じる者は、騙されるのである。

貧困はその人の生活を苦しくする。生活の苦しさは、労働の過重を呼びおこす。労働の過重は極度の疲労をこきおこす。それも自分だけのことではない。妻も、家族みんなも。貧困は一日だけの架空の実験ではない。毎日続く状態である。こういうものは毎日続けば慣れて軽くなる、というものではない。毎日同じ重さを加えてくる。肉体の疲労が毎日続く状態であれば、一方ではそれは必ず、病気か、病気に近い健康状態を結果する。病気にならずに頑張ったとしたら、寿命を縮めるのがおちだ。他方では、精神的いらだちを結果する。疲れた時にとがってくるのは神経なのだ。しかも自分だけではなく、家族全体がそうであるとすれば、せめて、精神的にだけでも豊富な余裕があれば、と希求するのは当然だが、程度以上の疲労はそれを支えきれない。かえって、自分のいらだちが相手のいらだちを増幅し、相手のいらだちが自分のいらだちを増幅する。
田川

これは、マタイ福音の、山上の垂訓という、有名な場面の説教を、批判するものである。

幸い、貧しい者

この有名な台詞には、動詞が無い。
だから、どういう動詞も、そこに、想定することができる。
訳文により、いかようにも、手を入れることが、出来るということだ。

フランシスコ会聖書研究所訳
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人のものだからである。

だが、
貧しい者が幸いである。
貧しい者こそ幸いである。
貧しい者も幸いになるだろう。
貧しい者こそ幸いなれかし。

「幸い、・・・・な者」という動詞を含まない言い方は、旧約、ユダヤ教に伝来の言い方である。それは特に、いわゆる知恵文学に多い。そしてそれは宗教的かつ倫理的な生活の智慧として語られてきたものであった。
田川

幸い、汝イスラエルよ
幸い、知恵を見出す者
幸い、主により頼む者は皆
幸い、貧しい者のことをおもんばかる者

幸い、とは、祝福の言葉である。
伝統的に、多くの場合、宗教的説教の意味で、語られてきた。
イエスの、幸い、貧しき者、も、同列の平凡な説教と、みなそうとしたことも、ありなのである。

田川氏は、上記の、詩篇から引いた、貧しい者に、慈善を垂れる、富む人は、幸いであるという、言葉と、イエスの、貧しい者は幸い、という言葉には、無限の距離があるという。

イエスの言葉は、詩篇の言葉への、挑戦であるという。

幸い、貧しい者という、発言が嘘である、ということを知る者のみが、この動詞の省略された言い方が、一方では固定的な平板な真理から、他方では挑戦としての逆説までを表しうる表現形式なのだ、ということを発見するのである。貧困について語られている言葉は、貧困の事実を知るところからしか理解しえない。
田川

これを、解説し、説教を繰り替えす、司祭や牧師たちは、体の良い言葉の、羅列をする。

心の貧しさであり、それは、神を求める心、信仰の、現れである云々。

個人的好みや、信者の心を、酔わせる言葉を吐くのである。
どこにも、心の貧しい人は、幸せであるとは、書いていないのである。

主イエスは、端的に、旧約の逆説を言うのである。
貧しい人は、幸いである。

だが、それは、嘘なのである。
貧しさが、幸せであるはずがない。
それは、田川氏の、上記の言葉でも、解る。

貧しさは、人間を、また、その人間性までも、狂わせ、更には、貶める。
貧しさから、這い上がるために、人を人とも、思わず、行為する人もいる。

聖書解釈は、実に、血みどろの戦いになるのである。

この、言葉を、ただ、ただ、信仰に持ってゆくように、説教を繰り返す、指導者たちである。

唯一、神のみを、頼め。
神のみが、あなたを、救う。
全く、検討違いの、説教を、平気でする。

その、見当違いの、説教を聞いて、信者は、死ぬまで、騙されるのである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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