2010年06月25日

タイ・パタヤの闇 2

夕闇迫る頃、私たちは、昼間会った、足の悪い、女性の元に出掛けた。

彼女は、昼間の場所にいた。
更に、彼女と共に、二組の、親子連れがいた。
皆、カンボジア流民である。

早速、支援物資を出して、皆に、それぞれ、差し上げる。
今回は、女性物と、子供物を、厳選して、持参してきた。
それは、日本から、コータのところに、郵送したものである。

それぞれに、渡して、あなたたちの、友人はと、問うと、南の方向を示すので、そちらに、歩いて行った。

しかし、途中で、止めた。

後の、二泊をそちらにある、ゲストハウに泊まることにしていたので、道を戻り、いつも、支援していた、場所に向かう。

丁度、果物売り場の、広場がある、前の道に、何組か、いるのである。

矢張り、二組の、親子がいた。

早速、支援物資を出す。
少し、大きな子がいた。女の子である。
私は、衣服の他に、その子に、袋に入った、ハンカチを渡した。中を、見せてである。
とても、喜んだ。
そして、私を、じっと見詰める。

人通りが多く、中には、立ち止まり、私たちの行動を見ている人がいる。
一人の男性が、しばらく、見ていた。
私と、目が合うと、微笑んだ。

パタヤにて、このような活動をしている人は、いない。
更に、カンボジア流民に対して、何事かしている人は、いない。

私たちは、彼らが、どのようにして、タイ、パタヤに出て来たのか、知りたいと、思ったが、言葉が分からない。
そして、それが、秘密の事ならば、喋らないだろう。

どのようにして、入国して来たのか。
そして、パタヤの、警察は、何故、黙っているのか。

これは、想像であるが、日本の、ヤクザに似た、組織があり、その組織が、物乞い出稼ぎとして、連れて来ている可能性もある。

一度、タイの女性が、物は、上げてもいいが、お金は、上げない方がいいと、私たちに、アドバイスしたのである。
それが、そんな想像を、もたらした。

普通なら、強制送還される人たちかもしれない。
だが、そこが、タイの緩やかなところである。

適当なところと、言っても、いい。

陸路であるから、入国せずに、入るのかもしれない。

兎に角、それほど、カンボジアの国情が悪いということである。
貧しいのである。

プノンペンに出掛けたのは、今年の一月である。
地方からで出来た人々は、住む場所がないから、路上生活である。

街中は、まだ、何とか救いがあるが、地方に行くと、ど貧乏な生活であろうことは、想像に難くない。

街中でも、多くの孤児たちがいる。

地雷があるから、どこでも、行くことは、出来ないが、私は、地方に、出掛けたいと、思っている。

プノンペンの近郊から、シュムリアップ付近などである。
アンコールワットの遺跡に近い、地方である。
また、タイから、陸路で、入る事が出来る、場所である。

やることは、多々ある。
そのためには、資金が必要だ。
しかし、私は、多く、自腹で行う。

寄付や、支援金を御願いするが、真っ当に、それを、行動したことはない。

何故か。
単に、それが、嫌なのである。
人から、お金を貰ってするということが、嫌なのである。

更に、こういう、活動を始めたら、仕事らしいことは、あまり出来ない。
昔は、占いの原稿を多く書いて、生活していたが、一時期から、全く仕事がなくなった。
それから、そのままにして、仕事を得ることを、しなかった。

また、占い師生活で、仕事をすることも、なくなった。

コンサート活動では、利益を得ない。
だから、大半の、蓄えを、使ってしまった。

今は、全く、お金は、無い。
それなのに、このような、行動をしている。

お金を得るなら、所得税のかからない、お金が欲しい。
それは、限られている。
想像に、任せる。

人様から、お金を貰い、するべき、活動ではないと、思っている。
私が、すべて、私の自由で、行う行為であって、欲しいのだ。

勿論、寄付しますという、人がいれば、頂かないということはない。
だが、こちらから、御願いすることではないと、思うのだ。

何故なら、これは、私の道楽なのである。
であるから、賞賛される行為でもない。



神仏は妄想である 284

密教を見るため、空海を見た。
そして、その源流である、インドの、タントラ、更に、密教の完成ともいえる、チベット密教も、俯瞰してみた。

更に、私は、空海と最澄との関係を、と、考えて、立ち止まった。
このままでは、まだまだ、仏教が、続く。

最澄を、つまり、天台宗というものを、語ると、南都六宗にも、目を向けなければならない。最澄によって、南都六宗は、その魅力も、政治的力も、失う。

ということは、まだまだ、書き続ける必要がある。
しかし、一旦、仏教を、休止して、新たな展開を作りたい。

いずれ、新仏教の生みの親ともいうべき、天台宗を、最澄を、書くことにする。
そこから、もう一度、仏教というものを、見つめる。

さて、それでは、私は、どこに、向かいたいのか。
新約聖書である。

リチャード・ドーキンスによる、神は妄想である、の際に、多く、旧約聖書に、触れたが、私は、カトリック、プロテスタントが、使用する、新約聖書に、批判のメスを入れて、その、本当の意味と、誰が、何の目的で、新約聖書を書いたのかを、問うことにしたい。

新約聖書として、認定された、聖書の他に、外典と呼ばれる、ものがある。
正規の聖書として、取り上げられなかったものである。

何故、それらが、取り入れられなかったのか。
私の、手元に、それらの、準聖書がある。
世界で、出せないものが、日本では、翻訳して、出せるという、状況である。

危険な書物といわれるもの、日本語に、翻訳されているもの、多数ある。

何年か前に、キリストの棺、という、本が、出された。
実に、センセーショナルな内容である。

イエスには、家族があった・・・
その、イエスの家族の墓が、科学で、徹底検証されて、キリストといわれた、ナザレのイエスの墓であると、鑑定された。
しかし、キリスト教国では、勿論、歓迎されるどころか、迫害される。

要するに、信じ込んでいる、イエス・キリストの、嘘の話の方が、いいのである。
今まで、信じ込んでいた、嘘話の方が、都合がよい。
真実なんて、必要ではない。

人が、一旦、信じてしまうと、このように、蒙昧になる。
つまり、信じることで、抜けられない、迷いの道に入り込むのである。

子供の頃の、御伽噺と、同じ程度で、満足するという、未熟である。

兎に角、信じることから、はじまるという、詭弁は、信じさせると、楽なのだ。
宗教者は、皆々、そうである。

信じてしまうと、思いのままに、動かせる。

今、世界では、モスリム旋風が、巻き起こっている。
モスリムたちの、世界席巻と、中国人たちの、世界席巻で、世界は、混乱する。
更に、元の、伝統文化などは、破壊し、尽くされる。

ヨーロッパに、おける、キリスト教文明の、終焉が、目の前に迫るほどなのである。

歴史を、見ても、イスラム教は、地場の、宗教を破壊して、入り込み、イスラムの世界に、仕立て上げてきた。

シルクロードの、仏教国が、今では、見事に、イスラム教になって、続いている。

その一つに、宗教指導者は、いるが、司祭と、信者は、信者自身が、演じるのである。
信者は、司祭でもある。
日々の、祈りは、信者の自発的行為であり、誰も、そこには、介入しないのである。

日本を出れば、すべての、空港の中に、イスラム教徒のための、祈りの部屋がある。
どんな、田舎の、空港にも、ある。

恐るべし、イスラム教である。

その隙間の中に、日本をはじめとする、新興宗教が、入り込む。
教線の拡大を、画策を狙う。

信者、会員を、一人でも、多くの持つことが、宗教団体として、力を持つと、信じている。

日本国憲法には、信教の自由が、謳われている。
理想的なことである。

信仰とは、極めて個人的な、情緒である。
何人も、その、情緒を犯しては、ならない。

さて、この世に、唯一、絶対というモノは、存在しない。
絶えず、揺れ動き、流動している。

確定してあるものは、無いのである。

確実なことは、ここに、私という、我を有する、存在があるということ。

真理の法を、よりどころとし、我が身を頼め、とは、釈迦仏陀の、遺言である。

神仏に、頼れとは、口が裂けても、言わなかった。
すべては、私の心の中で、行われることなのである。

人間としての、英知を捨てて、何かに、頼り、身を任せるということは、実に、恐ろしいことである。
ましてや、それが、化け物のような、神や、仏であれば、なお更のこと。

神や、仏は、人間が、想像し、創作し、妄想したものの、一つである。

その、神や、仏を、超えるべく、人間は、進化し続けている。
要するに、人間が、人間を超える努力である。
それを、進化という。

新しい時代は、新しい、器が必要である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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