2010年06月18日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 4

村の入り口には、掘っ立て小屋の、食堂があった。
運転手が、車を止めた。

数名の人たちがいた。
子供もいた。

私は、バッグを持って、こんにちはーーーと、日本語で、挨拶した。
そして、すぐに、子供たちに、ぬいぐるみを、渡した。
それで、私が、何かを持ってきた人と、解ったようだ。

次に、文具を出して、スクールボーイ、ガールと、言った。
運転手が、通訳している。

そこに、ノートや、ペンを出した。
最初は、皆、控え目である。

ラオスの人は、おとなしく、控え目で、静かである。

次に、衣服を出した。
そして、広げて見せた。
すると、一人の女性が、手を出す。
そして、支援がはじまった。

少し人が集う。
それが、だんだんと、多くなる。

タオルも出した。
受け取る人、衣服を指差す人・・・

混乱なく、静かだ。
男の子も、やってきた。
彼には、バッグを差し出した。
照れながら、受け取る。嬉しそうだ。

運転手に、写真を撮ってもらう。
数枚、撮って、私は、オッケーと言い、次の場所へと、促した。

すぐに、車は、村の中心に出た。

高床式の、建物。しかし、実に、粗末なものである。
その下に、子供が、二人、寝ていた。

そこで、支援をすることにした。

ハーイと、私は、声を掛けた。
少し、驚いている。

見ず知らずの人が、やってきた。
だが、運転手が、なにやら言うと、起きだしてきた。

私は、丁度良い、板の間があったので、そこに、バッグを置いて、中のものを、取り出した。

すると、いつの間にか、人だかりである。
次から、次と、人がやって来た。

そうして、次から次と、衣服を手渡しすることになる。
サイズを見て、それぞれに、手渡す。

そのうちに、手伝う人も、現れる。

バッグの中から、衣服を取り出したり、文具を取り出して、子供たちに、分け与える。

運転手に、写真を撮るように、頼む。

大半は、子供用だが、中に、大人用、特に女性物が、多かった。
男の人も来たが、中々、彼らに合うものがない。
だが、バッグの底から、男物が出てきた。

二人の男が、歓声を上げた。
ズボンである。
丁度良い、サイズだ。

とても、暑いが、それを、忘れた。

すっかりと、バッグの中身が無くなった。
そこで、それぞれ、写真を撮る。

だが、実に静かである。
不思議なほどに、静かなのである。

バイバーイと、声を掛けつつ、私は、車に乗り込んだ。
何事もなかったかのようである。

言葉が通じないのが、難であるが、物によって、何とか、通じた。

車に乗って、私は、浴衣が、汗だくになったことを、知った。
車の冷房が、とても、気持ちよいのである。

ホテルに戻る道は、意外に、時間がかかった。ということは、市内から、結構離れた場所に来たのだと、思った。

運転手と、英語で少し会話したが、何を話したのか、忘れている。

ラオスは、人が少ない。
市内に入るが、あまり、人影がないのである。

首都とは、思えない、ビエンチャンである。

さて、ホテルに到着して、私は、約束通りに、7万チャットを、運転手に出した。すると、20万チャットと、言う。
どうして
遠い所に行ったと、運転手が言う。

私は、ホテルのフロントに、向かった。
しかし、約束した、フロントの男も、ボーイもいない。
一応、フロントの男に、最初の紙を出してみた。

20万チャットと、言うが・・・

運転手が、フロントの男と、話す。
そして、フロントの男が、私に、遠くへ行ったからと、言う。

しかたがない。
私は、20万チャットを払うことにした。

最初に、遠く方へ行くはずだったのだが・・・

解釈できることは、運転手が、困っている人たちということで、孤児の家に行くとした。最初に、地図で示された場所ではなかった。孤児たちの家で、十分だと思ったが、途中で、中止にした。そこで、遠くへ行くことにした。それで、料金を高くした。

更に、日本人であるから、お金は、持っていると、考える。

実際、ビエンチャンには、日本人の年金暮らしの人たち、男たちが、実に多かった。

部屋に戻り、空になったバッグを見て、終わった開放感を得た。
ただ、20万チャットは、少し高いと、思う。

一万円が、80万チャットである。
つまり、20万チャットは、2500円である。

帰りの途中で、運転手が、よくやってくれたので、四日目の帰りの、バス停まで、頼んだ。
9万チャットと、言った。

バス停から、来たときは、タイバーツで、200バーツ、つまり、600円である。
9万チャットは、1250円であるから、高い。倍である。

兎に角、観光客からしか、お金が、取れないのである。
仕方がないことだ。

メーターがない車は、本当に注意して、料金を決めないと、大半が、高い。
それで、私も、いつものように、地元の人が乗る、バイクタクシー、トゥクトゥクにすることにした。勿論、そこでも、交渉しなければ、ならないのであるが。



神仏は妄想である 277

弘法大師伝説まで、多々ある空海の、その、バックボーンについたのは、誰か、何か。

そこで、司馬遼太郎の、空海の風景、から、引用する。

空海が住むべき寺はこと当時、無数にある。奈良には大寺がある。しかし空海を地方ではなく京に住まわせたいという希望は、他のどの勢力よりも奈良の旧仏教勢力においてもっとも強かったにちがいない。奈良の旧仏教勢力は最澄とその新体系を怖れることはなはだしかった。最澄を制しうるのは空海以外にいないとしたことは、かれらの存亡の危機意識から出ているだけに、空海の住寺をえらぶについても必死だったにちがいなく、むろん、土地は京がいい、宮廷に近ければ近いほどいい、ただ京というのは新興の王都だけに大寺がすくなく、結局は郊外ながら規模の大きさを利点として高雄山寺ということになったのであろう。

更に、空海が、意外にも、東大寺の別当、つまり、長官になったのも、陰に奈良の、仏教の存在がある。

新仏教を持ち帰った、空海が、旧仏教最大の拠点である、東大寺の長官になるとは、尋常ではない。
異常なことであると、司馬遼太郎は、書く。

この人事における、異常さは、そのまま奈良の旧仏教の焦りであり、危機意識であると、分析する。

南都六宗も、教学的に、新仏教の、取り入れを行いたかったはずである。
そこで、空海の、持論が、大いに救いになった。

それは、特に、六宗の中でも、華厳学は、一歩めれば、大日経の世界になるということである。

東大寺の中に、真言院をたて、その本尊である、毘遮遮那仏の宝前で、密教の重要経典である、理趣経を誦むべく規定し、現在に至るまで、東大寺の大仏殿で、毎日、あげられているお経なのである。

このことは、東大寺の華厳学をある意味では不透明にしてしまっていることにもなるが、しかしこの当時における奈良六宗の立場としては、教学を多少変えてでも新仏教による風あたりをやわらげざるを得なかったに相違なく、そういう奈良側の事情が、帰朝早々の空海を、にわかなことながら日本の代表的な高僧に仕立てあげざるをえなかったのである。
司馬遼太郎

更に、奈良仏教が、空海に、期待することは、宮廷である。
宮廷は、帰朝早々の、最澄によって、一時期、独り占めされたのである。これに対し、空海を、送り込むことによって、旧の状態に戻したいという、期待である。

最澄の、新仏教による、奈良側の被害を、少なくしたいという、願いである。

また、奈良仏教の、長老とは、政治的存在でもあった。

玄肪、道鏡などは、政治に介入して、自滅して以来、一般に、自制する気分があり、決して、表立っては、目立つ動きはしないが、裏面に精通し、時に、隠微な工作を行ったといわれる。

実は、空海は、この玄肪と、同流の血をひているのだ。
極端に、権力と、政争が好きなのである。

空海の、母方の血であり、空海の、少年時代に、基礎的な教育を施したのは、まさしく、母方の、叔父である、阿刀大足であった。
その叔父の、反対を押し切って、大学を辞めて、僧になる覚悟を決めたのである。

司馬遼太郎は、その玄肪と、空海の、類似点を上げている。

類のない秀才であったこと、留学生として入唐したこと。また長安のサロンでその学才が評判になったこと、唐の皇帝が召見したことなどである。多少違うのは空海の在唐が二年で、玄肪のそれが十八年であったことだが、在唐が長かっただけに、その学才を発揮する機会が多く、玄宗皇帝のごときはこれを愛するあまり三品の位をあたえ、紫衣をあたえたくらいである。・・・
さらに空海との類似点は、経綸五千余巻というおびただしい仏書を請来したことで、帰朝後のかれの人気はすさまじかった。一躍僧正に任じられたし、また聖武天皇の宮廷の内道場の主宰者にもなった。
司馬遼太郎

空海の、年少の頃から、30までの、時期は、凄惨な権力争いが、続いていた。

筑紫にて、踏みとどまり、和泉にて、山中に入り、京の宮廷と、長々と、避け続けていたという、異様な行動は、そういう配慮もあったのではないかと、司馬は、言う。

更に、そこに、奈良の長老たちが、助言した。

私は、時代性があり、時代精神があると、いった。
まさに、空海は、それに乗ったといえる。

空海一人の力では、後世の空海像は、出来ないのである。

ここでは、深く歴史的背景を、論ずることは、出来ないが、司馬遼太郎の、空海論を、示す。

日本の歴史上の人物として空海の印象の特異さは、このあたりにあるかもしれない。言いかえれば、空海だけが日本の歴史のなかで民族社会的な存在ではなく、人類的な存在だったということがいえるのではないか。
である。

確かに、空海の、学んだ、思想、密教、そして、その大日如来は、王も民もなく、人類を超越した感覚であろう。

何をも恐れぬ、ふてぶてしさは、空海の、学んだ、仏教、密教による。

唐に行き、多くの民族が、この世に存在することなども、見聞して、日本でも、天竺でも、どこでも、通用するものは、思想なのである。いや、空海に言わせれば、仏、更に、大日如来によって、包まれてあるものなのである。

勿論、当時は、それが、最新の教学であり、私のようなものに、妄想であると、断じられる何物もない。

空海の天下となるのである。

歴史を、どう生きるのかとは、歴史を、そして、現在を、突き放してみるのである。
古いも、新しいも、突き通したものを、もって、見る目である。
だが、しかし、悲しいことに、歴史は、進化する。
その、進化からは、何人も、逃れられないのである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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