2010年06月16日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 2

ラオスも、タイと、同じように、日本との、時差は、二時間遅い。
日本の、朝八時は、六時である。

翌日、六時頃に目覚めて、まず、ホテル周辺を歩いてみた。

すぐ目の前が、メコン川であるが、工事しているために、入れない。

その一つの、建物には、中華なんとか総会なる、文字がある。
つまり、中華系の建物・・・

ということは、そこに、中華街が出来るのか。
しかし、後で、別の場所に、中華街があると、知る。

昨年の、アジア競技大会開催で、すべてを中国の資金で、まかなった。その際に、中国から、中国人五万人の受け入れと、中華街の建設を、提示されて、現政権は、それを、受け入れた。

十年と、中国は、言うが、決して、そんなことはない。
中国人は、増殖して、居座るだろう。

ビエンチャンは、兎に角静かである。
あまり、人がいない。
首都などとは、思えないほどである。

北部の、ルアンパバーンのへ方が、活気があった。
そして、私は、それを、期待していた。

朝の食事も、至る所で、売っていると、思っていたが、全然、見当たらない。
もっと、市場の方に、行かないと、無いのだうろか・・・と、思いつつ、歩いた。

朝なのに、とても、暑い。

町内を一回りして、ホテル近くの、誰もいない、地元のオープンカフェに、入った。

コーヒーを注文する。
なんとかこんとか・・・といわれたので、うんうんと、頷く。
何を言っているのか、全く解らない。
ラオス語は、タイの、イサーン、東北地方の方言だと聞いていたが、タイ語は、勿論わからないから、ラオス語も、解らない。

出てきたコーヒーを飲んで、まずまずである。
ところが、半分ほど飲んで、その下に、何かある。
何だろう・・・
そのままにして、飲んだ。

カップの下には、コンデスミルクが、入っていた。
もし、スプーンで、掻き混ぜていたら、甘くて、飲めたものではなかった。

タイもむそうだが、ノーシュガーといわなければ、とんでもなく甘いコーヒーが、出てくる場合、多々あり。特に、田舎は、そうである。

一度、ホテルに戻る。

そして、フロントで、尋ねた。
英語で、貧しい人たちが、住む場所に行きたいが、どの辺りなのか、と。

ボーイたちも、参加して、地図を広げて、皆、色々と、話し合う。

そして、結論は、この辺りだということになった。
私は、地図にしるしをつけて、それでは、車の手配を御願いしたいと、言った。
すると、一人の男が、やってきて、時間を決める。

料金は、7万チャットである。
一万円が、80万チャットである。
おおよそ、千円である。

それではと、三時に御願いした。

そして、部屋に戻り、朝の食事を、どうしようかと、考えた。
どこにも、露店は、無いので、コンビニに買い物に、行くことにした。

ホテル近くに、一軒だけ、コンビニがある。

そこで、フランスパンと、ハムのようなものを、買ったと思う。
記憶が曖昧である。

部屋に戻り、それを、食べる。
あまり、食欲が無い。暑さのせいだろうと、思った。

ただ、昼は、地元の食堂に行き、ラオスの、食べ物を、食べたいと、思った。

部屋の、掃除は、断った。
タオルのみ、チェンジしてもらう。

そして、H君の連絡を待つが、なかなか、電話が来ない。
そこで、私からも、電話をするが、通じない。

何度も、H君に、電話をした。
だが、通じない。

折角の、チャンスである。
私の活動を、知ってもらうためにも、同行して欲しかった。
もし、それで、次の旅を、決めるなら、無料で、飛行機に積める支援物資の量を、多く出来ると、思った。

何度も、何度も、電話した。
どうして、通じないのか・・・

結局、日本を通じて、かけなければ、通じない電話だった。それを、後で知る。

昼を過ぎたので、私は、また、外に出た。
そして、地元の、食堂を、探した。

中心部は、レストランが多いが、ラオス料理の店ではない。
皆、欧米人向きの、レストランである。

ついに、私は、そのレストランの、呼び込みの人に、尋ねた、ラオス料理の店は、どこにあると。
すると、あっち、と言う。
その、あっちに行く。

ようやく、地元の、食堂に、出会った。

私は、麺の一つを、指差し、それを、注文した。
百円にもならない、金額である。

そこで、ようやく、ラオスを感じることが、できた。




神仏は妄想である 275

ところで次にこういう問題が起こる。こうした信仰を徹底して行ったならば、宗教と芸術との差はなくなり、宗教は芸術のなかに解消するのではないか。造型や詩歌に没入するだけで、成仏出来ると考えられないだろうか。
亀井勝一郎

亀井の得意分野である。
信仰と、芸術、美への憧れである。

ステンドグラス美しい、教会の美に酔うことを、信仰と、勘違いしている、クリスチャンというのが、最も、よい例である。

新興宗教の教組たちも、造型、音楽、舞踊などいう、芸術行為を、利用して、その信仰を、鼓舞した。
信仰なのか、芸術活動なのか、解らなくなる場合もある。

宗教曲が、好きで、教会合唱に入っているうちに、音楽が好きなのが、信仰と、勘違いして、洗礼を受けるという人も多い。

勿論、宗教の方は、どんな形であれ、信者になることは、よいことである。
一人増えれば、上がりも、増えるのである。

経済不況でも、全く関係ないところに、僧侶たちがいる。
料亭の、上客は、僧侶だと、聞く。

私の知り合いの、芸者が、彼らの話を耳にした。

こんな商売やめられませんな・・・である。

信長ならば、その場で、斬り捨てるだろう、会話である。

信者の献金する、小銭を集めて、悠々と、遊びに明け暮れる。
児童買春、少女売春など、朝飯前である。
表沙汰にならないだけ。

アメリカ、アイスランドに、火の手が上がった、カトリック司祭の、男子児童に対する、性的虐待は、留まることを知らないようである。
ついに、法王が、被害者に、謝罪するという、前代未聞の展開になった。

勿論、日本の仏教は、そんなことは、歴史的に稚児制度の中で、男色行為盛んである。
今は、開放されて、女色に溺れる僧侶、多数。

一般人より、手がつけられない。

司祭も人間。僧侶も人間。
そんな、理屈は、通らない。
即座に、司祭も、僧侶も、止めるべきである。

しかし、日本の僧侶は、跡継ぎ制で、馬鹿でも、アホでも、寺院を継ぐ。

ある、仏教系の大学に通う、知り合いの学生から、聞いた。
あいつらが、寺の住職だとしたら、檀家の皆さんが、あまりに、可愛そうだと。

その行状については、省略する。

密教はいままで述べたような性格上、この可能性をはらんでいる。密教の密教自身による自己否定という矛盾を内包していると言ってよい。
亀井

声字実相義から、亀井が見出した結論である。
芸術行為は、執着愛着の世界であり、煩悩と悪因のうちにさ迷うものである。芸術行為は罪をつくるというのだ。空海はこれを「愚」とし、「法界まんだら」の建立を「仏の事業」となすかぎりにおいて、芸術行為を「智」とみなしている。それは信の行為であらねばならぬという当然の主張だが、ここで肝心なのは、「能く迷い能く悟る」という連続した表現をとっていることである。
亀井

でました、言葉遊び。

能く迷うことにおいて能く悟り、能く悟ることにおいて能く迷うということだ。「能く」は的確必至の意味である。迷わざるをえないし、悟らざるをえない、と言ってもよい。この矛盾と相剋と、それは動揺つねならざるものだが、ここにのみ秘密の無限性があるのではないか。
亀井

これは、亀井の、思想である。
空海の思想ではない。

このような、言葉遊びに、アホは、なにやら、深みを感じてしまうという、頭の悪さである。勿論、本人は、真剣である。

煩悩即菩提
華厳の言葉遊び。

あたかも、深遠な思想であるかのように、扱う。

煩悩即煩悩である。

即、という言葉で、誤魔化しているが、煩悩と、菩提を対立させている。

菩提は、妄想である。

煩悩は、煩悩に尽きる。

その、煩悩を、人間の健全な欲望に当てるという、限りなき、誤り。
人間の欲望は、自然の中にあるものと、同じである。

南極越冬隊員に、尋ねたことがある。
性欲は、どうなりますか。
ええ、ダッチワイフ等などの、オナニーグッズは、用意されていますが、南極の、朝の光を受けると、性欲など、吹き飛びますね。
あまりの、自然の様に、個人の欲望は、消滅するようです。

お解かりか、煩悩即菩提という、アホな連中さんたち。
寺の中で、なにやらしていると、煩悩が湧くのである。

南極でも出かけて、そこで、生活して、御覧なさい。
煩悩即菩提でございなどいう、言葉遊びなど、出るものではない。

寒中修行などするくらいなら、寒風吹きすさむ、日本海に出て、漁でもしろ、と、私は言う。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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