2010年06月14日

神仏は妄想である 273

空海の、代表作である、十住心論を、わかりやすく、簡単に説明する。

人間の、迷妄とともに、それを脱して、安住しようという心を、住心と呼び、空海は、その段階を、十にして、示した。
手本は、大日経である。

第一住心は、極悪の自己満足の心である。
殺生、盗み、姦淫、妄語、悪口、貪欲、憎悪、嫉妬などの、あらゆる罪を犯して、それを、自覚しない。
すべての、心の出発点としている。

第二住心は、第一の中にも、必ず、善心は、芽生えるものだという。その心を、幼童に、なぞらえる。
求道の心を、極悪人の中に、求めたことで、絶対悪が、存在しないことを言う。
そこでは、道徳的感覚の、芽生えと、その成長に応ずる、儒教の徳目をあげている。

第三住心は、善心が、芽生えて、道徳生活を送るが、さらに、宗教的生活に入ろうとするとき、仏教に帰依せず、それ以外の、宗教を求めて、修行する。
ここでは、道教や、神仙思想が含まれる。
仏教以外の、宗教的人間である。

第四住心は、仏教の初門である、声聞乗の人々である。
無我を悟った境地である。
我執を離れ、阿羅漢となった人である。
阿羅漢とは、小乗仏教の、悟ったものを言う。

第五住心は、声聞の、ひとつ上の、縁覚乗の人が、十二因縁を観じて、迷いの無知を退け、苦を滅した、境地である。
悟りは、深いが、他を教化する、慈悲に欠ける。
教化する行為を、菩薩行というが、それが無いのである。
菩薩とは、大乗仏教の悟ったものをいう。

第六住心は、第四、第五における、修行と、悟りの個人性から、脱却し、万人に対する、無差別平等の、慈悲心を起こす、大乗利他行為の心である。
これは、奈良六宗の、唯識法相を、その初門とみなした。

第七住心は、生死即涅槃の、即である。
つまり、大乗仏教に共通する、色即是空の、即、である。
奈良六宗の、三論宗の、教えを受けて、悟った境地を言う。

第八住心は、一道である。一仏乗の意味であり、すべての人の心の中に、如来蔵仏性があるという、心性は、本来清浄であるというもの。
天台宗の、教理を学んで、悟ったものである。
善人アホの、最澄が、悉皆成仏と、言った、すべての人には、仏性があるというもの。

第九住心は、極の究極である。
究極において、空性を悟り、一切法無自性の理に達した心。
華厳宗によって、悟ったものをいう。

第六から、第九までは、顕教に即した考察である。

密教体系から言えば、第六は、弥勒菩薩、第七は、文殊菩薩、第八は、観世音菩薩、第九は、普賢菩薩である。
その、四菩薩の、中心として、大日如来という、創造の仏がある。

勿論、他の菩薩も、観念である。
はい、私が、弥勒菩薩ですという、存在ではない。
観念であり、妄想である。

第十住心は、秘密荘厳心、つまり、自身が、肉身のまま、大日如来の、妙色身であることを、自覚した境地である。
つまり、即身成仏である。
自らが、秘密身と、化した、境地である。

求道の諸過程と、それぞれの型を体系化し、秘密荘厳心を最上究極のものとした。彼がいかに明晰の人であったかがわかるとともに、理知の究極が、神秘主義に達する過程を示して興味深い。
亀井

他宗派にとっては、至極、迷惑なことである。
だが、空海は、他宗派とは、争わない。

普遍的人間とは、否定的要素や様々の段階や矛盾をも内包することにおいて普遍的人間なのではないか。
亀井

空海は、平安期に、新しい仏教体系を作り上げたと、言ってよい。
その後の、鎌倉仏教などは、子供の遊びに似る。
ぐだぐだと、屁理屈のオンパレードである。

空海の、野心は、壮大だった。
その野心は、勿論、妄想による、野心の完成である。

今でも、日本の仏教から、空海の、影響を切り離して考えることは、できない。

そして、空海を、見つめた、亀井は、最後のところで、誤った。

曼荼羅は、輪円具足と漢訳されているが、車輪のそれぞれの機能の完全なように、諸仏如来の真実功徳の完全なることを意味している。完全とは、不完全なものをも包容することにおいて完全なのではないか。
亀井

この言葉遊びに、迷う人、多々あり。

タントラの伝統を、抜き出して、作られたのが、曼荼羅である。
タントラを、見るべきである。

宇宙の凝縮を、見るならば、一輪の花を見ればよい。
人の手による、曼荼羅、絵を、儀式に使うのはよしとして、あたかも、曼荼羅に、何事かあると、思い、信じるのは、妄想に、他ならない。

あれは、単なる、絵である。

人の観念を、描いた、絵である。

あのような、世界は、無い。
ある訳が無い。

空海、本人の、思念の中にあるのであり、他人には、全く関係無い。

空海の、業績は、評価するが、空海の、仏教論、密教論は、他人には、無用のもの。
それを、拝むなどとは、呆れるのである。

空海は、詐欺師というより、作話師である。
作家である。

人騒がせな、ファンタジーを書いたものである。
あれ以来、どれほど多くの人が、それにより、人生を棒に振ったか。
更には、迷ったか、計り知れない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。