2010年06月13日

神仏は妄想である 272

平安期の、密教とは、どのようなものだったか。

奈良六宗と、本質的には、変わらない。
国家安泰、天災や、個々人の幸不幸に関する、祈祷である。
だが、奈良諸宗は、迷信と化し、頽廃していた。

それを空海は、見抜いた。
このままでは、駄目だ。
国家も、人々も、離れてしまう。

密教の、重要な実践は、祈祷と、修法である。

空海は、全く、新しい、呪術の場を、構想した。

秘密荘厳心を、人の目に見える形で、行ったのである。

即身成仏とは、眼に見えるものであり、身体で実感できるものでなければならなかった。わたしが仏教享受における第二義の道といった造型能力を、第一義の道たらしめた根源はここにある。「大日経」「金剛頂経」にもとづいて、四種の「まんだら」を説いたのがそれである。
亀井

この、曼荼羅は、タントラから、出たことは、前に書いた。

四種の曼荼羅は、相互に不離であり、すべて大日如来の顕現である。
大日経にいう。「一切如来に秘密身あり。曰く字・印・形象なり」彼はこれを説明して、「字」は法まんだら、「印」は三昧耶まんだら、「形象」は大マンダラであると言う。
亀井

そして、この三種の身に、それぞれの、威儀事業ありとし、それは、かつま・まんだらと呼び、四種のまんだらを説く。


ここであきらかなことは、仏菩薩の画像と、所持の用具と、文字と、彫刻と、この眼にみえる造型世界そのものが、大日の秘密身に表現とされていることである。眼にみえない仏菩薩の礼拝だけではない。これらの造型世界を礼拝し、その秘密に参入することが、大日の秘密身に参入することである。新しい呪術の場は、この目的のために構成された。
亀井

実に、見事な、演出である。

稀代の詐欺師は、演出家である。

金銀、朱、緑、黄などの強烈な色彩を施したまんだら図や、これら諸像の前で護摩をたき、火焔の立ちのぼるなかで祈祷するわけである。炎の高さは一メートル半にも及び、それがゆらぐたびに、背後の図像や周囲の彫刻もゆらぐようにみえ、あたかも現実に仏菩薩があらわれたような幻覚に人々を導き入れる。
亀井

その中で、呪文が流れ、全宇宙と荘厳と、神秘が出現する。
眼くらましである。

あたかも・・・の如く・・・である。
人は、その建物だけでも、騙される。
宗教施設が、豪華絢爛たれば、それだけでも、人は、何か、有難いものを、感じる。
それに、儀式がつけば、更によい。
そして、音楽である。

大勢の人間が、お題目三唱すれば、現実に無い世界を、感じるものである。
これが、真実であるという、錯覚。

演劇性に、人間は、取り込まれる。
演劇は、芸術であるから、その場から離れた瞬間、現実に、戻るが、宗教の、演劇性は、持続して、迷いの世界に、没入させる。

更には、騙しの世界に、没入していることも忘れ、のめり込み、狂信者として、成長する。

宗教的虚構の極致だが、芸術的構築の、最大限の宗教的活用といってもよかろう。
亀井

まさに、その通りである。

密教道場とは、一種の神秘劇の上演される場である。仏と人間の交響楽の奏される場である。
亀井

それは、違う。

そこに、仏など無い。
あるわけがない。
仏と人間の交響楽とは、言葉の綾である。

妄想の確実性である。
どうしても、仏、菩薩というならば、私は言う。
おおよそ、そのような、演出に、関わるのは、魔界の仏、菩薩、神々であろう。

万が一、仏や、神というものが、存在するならば、それは、自然の中に、隠れて、おわすものである。
決して、人間の演出の中には、存在しない。

建物、造型、儀式の、本質は、騙しのテクニックである。

立ちのぼる護摩の炎の光は、おそらく決定的な効果をあげたであろう。それは造型にひそむ「生命」を導き出して躍動させるとともに、祈祷する人々の心を浄化する火である。
亀井

自己暗示も、甚だしい。

自然発生として、出来た伝統である、祭りや、踊りなどなどは、納得するが、見世物として、人心を惑わすものは、魔物である。

空海にとって、信の秘密に直面することは、美の秘密に直面することであった。この合致が秘密荘厳心である。
亀井

評価のし過ぎである。

まだまだ、空海の、編み出した、いや、インドタントラから、取り出した、演出が続く。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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