2010年06月12日

神仏は妄想である 271

まさに知るべし、自身即ち金剛界となる。自身金剛界となりぬれば、堅実にして神境通を逮得し、金剛身となる。
即身成仏義

この場合、仏と人間との距離はどうなるのか。人間とは生き身のままに成仏する可能性である。なぜなら宇宙の大生命であるところの大日如来は、大生命である故に、本来、人間「我」の内部にもあり、「大日即我」の関係がここに成り立つからである。往生成仏は死を意味しない。文字どおり「生に往く」ことであり、この「生」は大日如来の生に包摂されることであり、同化である。
亀井

何故、人間は、成仏しなければ、ならないのか。

それには、答えられないのである。
成仏する必要があるのか。

生まれたこと、生きること、それで、何故、善しと、しないのか。

人間の、「我」の内部にある、大日我と、亀井は、解釈する。
間違いないだろう。

最澄は、悉皆成仏と言った。
すべてが、成仏する。つまり、すべてが、仏になることが、出来る。

しかし、それは、間違いである。
最澄は、人間観察を、怠った。
決して、その本性を変えられない人間がいるのである。

三蔵法師玄奘が、決して、仏になれない人がいる、と、判定したのは、人間観察からである。

要するに、救いようの無い者が、いるという、現実直視である。

インドの、仏教著作家も、その観察によって、仏にならない、無性という、存在を認めている。

だが、私は言う。
何故、仏にならなければ、ならないのか。

何故、成仏などという、妄想に、悩まされなければならないのか。
何故、悟りなどという、妄想に、悩まなければならないのか。

人間は、人間で、いいのである。

より優れた人間になりたいと、思っても、仏になりたいなどとは、あまりに、荒唐無稽である。

多くの、仏教愛好者は、それに、躓いている。

弥陀の本願不思議に助けまいらせても、極楽などに、いや、極楽そのものが、妄想である。

題目を唱えても、仏になるどころか、それに、囚われ、他を攻撃し、不寛容に生きるのみである。

仏と人間との距離を滅却して、自身が金剛身となり、「大日即我」の境地に入るための実践とは、大日如来の右の性格から言えば、あらゆることを為さなければならないということになる。言わば万能であるところの人間を期待するのだ。しかし人間は万能でありうるか。空海の信仰上の実践とは、まさにこの点に賭けられたものだ。言わばあらゆる可能性をふくむ原始的生命力の混沌に身を委ね、それに挑戦したと言ってもよい。これが彼の最大の特徴である。
亀井

仏教研究家などには、言えない、評価である。

亀井は、好意的に、突き放して、更に、空海を理解しようとする。

信仰という形、教義、教学という形から、見れば、すべて、妄想の評価になるのである。

いかなる場合も、そこに自己を限定してはならない。自己が成りうるかもしれないあらゆる可能性を、つねに保有しておくこと、大日如来のことが至上命令なのだ。
亀井

私も、そのように思う。
空海の、挑戦である。

だから、
万巻の経典と、百種の道に困惑したあげく、仏性の極限をさぐりあて、それを自己の極限としようとしたところに、日本史上最初の「普遍的人間」が成立したと言ってよい。
亀井

文芸評論家の、辿り着いた、空海像である。

人間の、持てる、限界、極限まで、到達しようとした、空海を、私も、認める。しかし、それが、大日如来の同化であり、密教の儀式により成るものという、方法は、妄想である。

ただし、当時の状況を、考えてみれば、それも、理解する。
情報は、限られていたのである。
限られていた情報の中で、選んだものが、大日経であったということ。

それの、成立過程については、以前に述べた。

古代インドの、太陽崇敬から、発した、太陽信仰を、とことん、インドの伝統的思想で、また、その、儀式で、ベールを被せて、仏教的に、アレンジしたものである。

太陽信仰なら、理解は、出来るが、大日如来という、超越者の存在は、単なる妄想である。
その、仏は、妄想である。

それ仏に三身あり
それが、妄想なのである。

釈迦仏陀という、歴史的存在者がいて、彼が、仏であるというのは、理解するが、創造の存在をもって、仏であるとするのは、単なる、妄想以外の何物でもない。

ただ、言えることは、平安期に、空海という、人間が、人間の極限に挑戦したということである。

更に、日本仏教の中にあって、彼ほど、後の世に、影響を与えた人物は、いない。
故に、信仰という見方からすると、彼は、稀代の詐欺師であり、彼の業績は、誰も真似の出来ない、偉業であると、言う。

その、稀代の詐欺師の、面目は、その儀式である。
加持祈祷という、やたら、怪しいものである。

更に、密教の、儀式の、怪しさである。
そこには、全く、根拠の無い、儀式がある。

インド、タントラの真似事に尽きる。
これを、真言密教の、僧侶たち、その研究家に、求めても、詮無いことである。
彼らは、知らない故に、知らないことを、信じているからである。

信じたところから、堕落がはじまる。
そして、信じる者は、騙されるのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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