2010年06月11日

神仏は妄想である 270

成仏するとは、どういうことなのか。

ここで仏と人間との距離が問題となる。人間研究の結果は。この距離の無限を自覚せしめるであろう。
亀井勝一郎

距離の無限を自覚する。
人間研究から、見ればというが、実に、真っ当な考えである。

妄想の存在との、距離など、在るのか・・・

空海は、大日如来という、本仏との、合一をもって、成仏とする。
即身成仏とは、そういうことである。

しかし、生身の人間である。
そこで、編み出したのが、その方法である。

後に、その方法を書くことにする。

亀井は、続けて、
たとえば自己の内心を観じたとき、それが煩悩と悪の巣であることを自覚せしめられたならば、どうなるか。それこそ発心の動機にちがいないが、その深さは、この距離の無限をいよいよ明らかに自覚させるであろう。永久に救われざる存在としての自己確認という、一種の絶望に見舞われないだろうか。すべての求道の根本にはこの種の絶望があるにちがいない。
と、言う。

そこで、親鸞を持ち出すが、彼は、自分は、救いようの無いものである。だから、法然に、騙されても、念仏によって、救われるというならば、それを信じるという。本来なら、自分は、地獄に行くべき、身であるという。

この、汚らわしいほどの、自虐的思考は、日本始まって以来であろう。

親鸞ほど、後の世の、教養人に、支持された宗教家もいないが、実に、歪な性格である。
自己嫌悪、自己不信、自己罪悪感・・・

更に、その思索が、深いと、理解されるあたり、とんでもない、信仰家である。

それなら、魔境の世界を、悟りと、勘違いした、道元の方が、真っ当である。
少なくとも、その欲望を抑えたのである。

僧にもあらず、俗にもあらず、と、妻を二人も、娶り、勝手な解釈、勝手な教えを、人に語るのであるから、どうにもしようがない。
何故、農民にならなかったのか・・・
何故、漁民にならなかったのか・・・

更には、その教えに、人が集うという、狂いである。
今では、浄土真宗という、巨大教団に、なっているのである。

浄土真宗とは、宗教でも、なんでもない。
ただの、戯言の集団である。

まして、今では、堕落に、堕落を重ねている。
広く貧乏人から、お金を集めるのは、宗教の得意分野である。
檀家制を、いいように使い、西、東本願寺と、堕落の一途である。

勿論、その親の、法然の、浄土宗も然りである。
実は、法然が、はじめたものではない、
中国の、浄土宗からの、ものである。

さて、空海である。
その天才的な、能力を駆使して、あらゆる分野で、活躍した。

空海に、絶望は無い。
亀井は、空海を通して、自らの、思想を語るのである。

仏と人間との距離についての自意識そのものが、妄想でないと言いきれるかどうか。これを撤去し、仏性「即」人間の世界に生きる道はないか。
亀井

勿論、それは、空海だけの、問題ではない。
すべての、大乗仏教の、問題である。

ではどのような実践がそこに伴わなければならないか。奈良六宗の思索的であるのに対して、空海はこの実践の基礎を求めた。様々な如来のなかの窮極のものとは、この「即」の実践の機軸となるものでなければならなかった。
亀井

それ仏に三身あり、教は則ち二種なり
空海

応身仏、報身仏、法身仏の、三身である。
釈迦仏陀の場合のように、生身の人間として、あらわれる仏。
菩薩が、長年の修行によって、仏となる場合。
そして、永遠の真理としての、仏である。

真理の、法身仏は、応身も、報身も、法身によって、貫通しているのである。

この、法仏を、密蔵、つまり、密教と呼び、応身と、報身を、顕教と、呼んだ。

その、法身仏の、大日如来は、空海の求めた、究極の、理想の仏だった。

しかし、古代インドの太陽信仰崇拝に、発した、インド伝統のタントラなどを、取り入れ、混合した、思想形態である。

大日如来は、光明遍照とも、訳される。

宇宙に偏在する大生命の光源ともいうべきもので、仏教自体のもつ汎仏論的性格を、彼はこのようなかたちで徹底した。換言すればそれは仏性の極限である。
亀井

それは、また、古代、太陽信仰の、ものであり、何も、仏性云々を持ち出すまでもないことである。

太陽信仰に、立ち返れば、いいのである。
日本では、天照る神、あまてるかむ、である。

だから、空海は、後に、天照大神と、大日如来を結び付けているのである。
そして、誤魔化し、手品のような、加持祈祷である。
稀代の、詐欺師空海の、面目である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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