2010年06月10日

神仏は妄想である 269

神仏は、妄想である。
どう、足掻いても、妄想から、脱することは、出来ないのである。

妄想、それは、人間の想像であり、創造である。

人間は、その想像と、創造以上のものを、見出すことは、出来ない。

神が存在するという、想像であり、創造である。
仏が存在するという、想像であり、創造である。

主イエスが、歴史的に存在した、そして、彼は、われは、神の子であると、言った。それが、事実である。
しかし、彼の言う神が、存在するものであるか、否かは、誰も知らない。
知る事が、出来ない。
彼の言葉を、信じるのみである。

釈迦仏陀は、神仏は、妄想であると、断言した。
彼は、人間の心のあり方を説いたのであり、神仏の存在を説いたのではない。

しかるに、彼の死後、釈迦仏陀を、仏として、判定し、彼の教えを慕った人々がいた。更に、彼の教えを、総合して、まとめるという、動きがあり、仏への道という、考え方が出来た。

仏は、それまで、超越した存在ではない。
我も、仏の道を、歩むという、理解だった。

しかし、時が経ち、仏という存在が、超越した存在の如くに、語られるようになり、堕落する。

更に、堕落は、仏の世界を、語るのに、様々な、インドの思想体系を、組み入れたことである。
果ては、御伽噺の経典を、多く、書き出したことである。

大乗経典は、まさしく、それである。

釈迦仏陀とは、何のかかわりも無い、お話の数々である。

更に、妄想逞しくして、仏の他に、如来から、菩薩から、神々まで、入れ込んだ。すべて、インドの、バラモンからのものである。

味噌も、糞も、一緒にしてしまった。
釈迦仏陀の、教えは、皆無である。

究極の救いとは何か。空海は自覚してそれを求めた最初の人だが、いかなる場にも自己を限定せず、能うかぎりの心と行動の振幅を示したところに、彼の固有性とともに苦悩があったと思う。
亀井勝一郎 日本人の精神史

私は、仏教学者の解説ではなく、文芸評論家である、亀井の案内で、空海を見る。

それは、人間としての、空海を見るからである。
教学としての、空海の、密教を見れば、単なる妄想の、解説になる。

空海は高野山だけにとぢこもっていたわけではない。平安京の東寺や綜芸種智院や奈良東大寺を主宰し、また嵯峨天皇のサロンの最も親しい客であった。彼の生活の振幅はひろい。
亀井

山岳は彼にとって「法身の里」であったということは、孤独に沈潜して禅定をこころみる場であったということだ。・・・死との対決の場であったといってよい。無常観は生を凝視するとともに死を凝視する眼であり、「死」眼を通じて生の意味をさぐる行である。それは同時に自己の空無の確認である。
亀井

そういう心を携えて今度は世間に環り、世間の煩悩や紛糾を携えて山岳へ環るという、この循環に空海の「行」があった。換言すれば、このような「行」を通して、彼は常に惰性からの脱却をこころみたと言ってもよかろう。
亀井

これが、文芸評論家の見方である。

評論というものは、創作でもある。
評論を通して、書き手の、思想を伝えるのである。
空海を、深く理解するのは、書き手の深さでもある。

空海の、時代は、民族変貌期である。
儒教、道教の流布と共に、奈良六宗が、成立していた。

その、仏教の、唯一の、主題は、人間は、いかに蒙昧、迷いを去って、悟りの世界に入るのかという、ことである。

すべての、仏教の主題である。

しかし、迷いを去って、悟りを得るという、その考え方から、すでに、妄想に入るのである。

生命力旺盛な青年時代に、煩悩、すなわち、性欲などを、抑圧して、悟りを求めるという、実に、不自然な行を、求めるということ、自体に、迷いがある。

欲望を、悪であり、罪であるという、意識に、病がある。

人間、年老いれば、欲望は枯れる。
自然に、放って、おいても、いずれは、落ち着くところに、落ち着くのである。
しかし、仏教に限らず、宗教というものは、不自然に、人間の欲望を、翻弄する。

実に、嫌らしいのである。

黙っていても、自然に、欲望が湧く。
それは、恵みであり、悪とか、罪という、意識を持たせるものではない。
ところが、人間を支配する、宗教の教学は、その人間の、欲望を手玉に取り上げて、抑圧し、更には、従わせるのである。

実に、意地の悪いこと、性悪である。

三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることをさとらず。
生れ生れ生れ生れて、生の始めに暗く、
死に死に死に死に死んで、死の終わりに冥し。
空海

現世で、生きる者が、狂っている。それを、知らない。
四度生まれ変わっても、盲者は、盲であることを知らない。
生の始めに、暗く、死の終わりに、冥し。

言葉の、罠である。

要するに、人間は、我というものを、知らずに生きているというのである。
生死も、解らず、生まれ変わり、死に変わりしていると、言う。

この、傲慢が、空海の、妄想の原点である。

鎌倉仏教の、始祖たちも、そうである。
私が知っていることを、知らないのは、救いがないというのである。
その、傲慢が、妄想の、はじめである。



posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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