2010年06月09日

神仏は妄想である 268

漢訳「大日経」は、七巻三十六章から成り立つ。
六巻三十一章までと、最後の一巻五章は、善無畏の訳であり、インドでの成立事情も、中国への、伝来の歴史も異なる。

前者は、北インドで、病死した、無行が、インド留学中に、写本した梵語本から、漢訳したものであり、後者は、善無畏が、北インドで手にし、自ら中国にもたらし、訳した際に、最後部に編入したものである。

第七巻は、前六巻の作者と、思想傾向も、修行傾向も、同じか、極めて近い立場にあった、密教信奉者の手によったといわれる。

チベット訳は、第七巻に相当する部分は、全く別のものとされて、大日経の、一部をなしていないとは、研究家の言うことである。

それでは、大日経の内容とは、何か。
第一部は、理論篇、第二部は、実践篇、第三部は、実修篇の手引きとなる。

第一部は、「入真言門住心品」と呼ばれ、経典の、眼目である。

利他の万能の働きをする、仏の智慧は、何が原因で、開発され、どんな基本的性質を持ち、それの完成とは、どんなことを指すのかという、問いで始まる。

仏の、答えは、菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便をくきょうと為す。
くきょうとは、境地である。

仏の智慧は、悟り、菩提を求める心が、原因となり、その智慧は、慈悲的なものであり、利他のために、自由に発揮されるようになったとき、完成に達するという。

これが、大日経の、目指す、悟りの完成、仏の智慧の獲得である。

次に、いかんが菩薩とならば、曰く、実の如く自心を知るなり、である。
これが、大日経の、旋回軸であり、この軸の上に、全経典の法輪が転ずる。
つまり、悟りとは何か。それは、実の如く自心を知ることのなかにある、ということ。

如実知自心、にょじつちじしん、への、手引きということになる。

それは、我を知ることではないという。
大きい肯定の思想、存在者の未開の偉大な、可能性の指摘であり、賛美であるという。

そして、仏は、求道の方向を示す。
「自心に菩提と一切智智を尋ね求めよ」
一切智智とは、完成した仏の智慧である。

仏は、悟りと仏の智慧を、自心に求める理由を説く。
自心は、その本性清浄になるが故に。

仏から見ると、人の心の本来の性質は、清浄で、仏の智慧のそのものである。
すでに、悟りに至っている、という。

住心品は、迷える、六十の分析をして、心の解明に力を注ぐ。
悟りを求める心、菩提心の発展段階を説くのである。

空海が、書いた、十住心品も、そのほとんどが、ここに記されてある。

その方法は、肯定的にのべた事柄を、次の段階では、否定し、さらに、もっと高い綜合的な立場を、暗示する。ものの見方、考え方の転換と、新しい立場の発見を促すのである。

第二部は、「入曼荼羅具縁真言品」である。
第二章から、第三十一章の「属塁品」までの、大日経の大部分を構成する、実践篇である。

第一部で、示された思想を、自心に悟りを尋ね、自心に仏の智慧を求めるための、実践法を説く。
主として、秘密ヨーガの実修の心得、瞑想の順序、何を瞑想し、瞑想中に、どんな真言を唱え、また、それぞれの真言を唱えるときに、どんな心境になるべきかを、述べる。

第三部は、簡潔に、秘密ヨーガの実修の心得と、内容を説明する。
梵語の大日経の、原典になかった、この部分は、後進のために、善無畏が、加えたものである。

理論と、実践の一致を求める、心身の動きが、人をある時は、急に、ある時は、徐々に、今まで見えなかった、感じられなかった世界と、ものの見方を発見させるように、出来ているという。

このような、構造を持つ、経典は、他の、漢訳大乗経典の中にも、密教経典の中にも、見当たらない。

大日経は、経の中に、梵語のままの、不可解な真言や、梵字が、散在し、曼荼羅を土の上に描く方法や、灌頂などの、種々な宗教儀礼が、説明不十分な形で、続出する。

当然である。
それは、インドの伝統から取り入れているのである。
説明しなくても、インド人ならば、バラモンの伝統を知るものならば、理解できるのである。

内容は、興味深いたとえ話も、劇的効果を狙う筋もない。
感情に訴える、要素も乏しい。

創造的空想力と、秘密経典に相応しい、神秘的直感の荘厳な世界を示すといわれる。

いかにして、この世界の住人となるかということを、解くのである。

第二章以下は、専門家の、秘密の備忘録のようである。

さて、問題は、他の、経典と、明らかに違うところは、歴史的釈迦仏陀の説いた、教えではないと、明確にしていることである。

仏説ではないのである。

大日経は、歴史的仏陀の、説であると、言わない。
歴史的仏陀が、出現しても、しなくても、存在する、法、つまり、真理、法の体、法の身、そのものが、自己展開するとの、立場である。

そして、この永遠の法身と呼ばれるものは、永劫に存在し続ける、創造の母体である、大日如来であるというのだ。

現象界は、この創造の母体の、自己表現であるという、直感が、この経典を、貫く。

実在者、大日如来が、自己を多様化した、存在に答えるという、形式をもって、記述される。

一であると共に、多であるという、大日如来の、独り言である。

空海は、これを、自受法楽の法門と、いった。

その思想は、真言教学の土台となり、実践法は、密教禅として、事相と呼ばれる、実修法の、基礎となった。

天台の中でも、思想と、実践は、天台密教として、発展する。

つまり、日本仏教の、底流を流れるものである。

ここまでは、概要である。

仏陀を、仏陀ならしめた、法、真理そのもの、法身、それが、大日如来だという。

それが、インド伝統の、タントラなどから、派生したものであるということ。
それを、何故、釈迦仏陀の、法として、採用したのか・・・

仏陀というのが、悟った者だった。
そして、その悟りは、法なのであり、その法の、根本実在が、大日如来であるという、結論である。

今までの、経典とは、全く違った立場にあるものである。
仏説ではないのだ。

つまり、仏教と、言わなくていいのである。
そして、それは、仏教ではない。
新しい宗教である。

仏陀の悟りは、出汁である。
つまり、悟りは、仏陀と関係ない。
悟りは、仏陀からのものではない。
悟りの、本体は、大日如来からのものである。
明らかに、既成仏教とは、対立する。
この、創造的妄想は、また、実に激しいものである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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