2010年06月04日

神仏は妄想である 263

仏教において、タントラの思想は、単色、または、彩色した図形によって、表現される。

ヒンドゥー教では、ヤントラと、言われ、仏教では、曼荼羅と呼ばれる。

ヒンドゥー教のヤントラは、三角形が基調で、上向きの三角形は、男性原理を、下向きの三角形は、女性原理を象徴し、複数の、三角形を交互に組み合わせたものが、基本である。

曼荼羅は、九世紀のはじめ、空海よって、金剛界と、胎蔵界が、一対になった、両部曼荼羅が、もたらされた。

曼荼羅は、仏や、菩薩の集合図のように、思われているが、もともとは、インドで、神々を招いて、祭祀を行う際に、土壇を築き、その儀礼を仏教が、取り入れたものである。

仏教が取り入れたというが、それは、大乗仏教である。

仏教の曼荼羅は、ジャイナ教のような人体宇宙図や、ヒンドゥー教のような、人体、蓮花、チャクラ、鳥獣、さらには、三角形と四角形の組み合わせはない。
すべて、仏、菩薩、明王などの、具体的な姿をとって、表現される。

両部曼荼羅という、考え方は、中国独特の考え方で、インドに起源を求めることは、できない。

胎蔵曼荼羅は、行タントラの代表経典とされる、大日経に基づいて、描かれたもので、中央の大日如来の周囲を、四仏、四菩薩を並べた、八葉の蓮弁が、取り囲む。

中央八葉院と名づけられる、中心部の四方を方形に囲む十一のセクションからなる。

内側には、釈迦、文殊、観音、金剛手など、仏や菩薩が、グループごとにまとめられ、一番外側の四方の囲いは、ヒンドゥー教の神々で、埋められている。

この、曼荼羅の意味は、母親が、胎児の成長のために、限りない慈しみと、愛情を注ぐというように、仏陀が、生きとし、生けるものに、無限の大慈悲を及ぼすという姿を、図形にした。

金剛界曼荼羅は、ヨーガタントラの代表とされる、金剛頂経に拠って、描かれたもの。
金剛とは、堅固で、壊れることのない、悟りの心、すなわち、菩提心をダイヤモンドにたとえて、それを、本体、すなわち界とする、曼荼羅という意味である。

全体を縦横三種の、枠によって、区切った、九個の囲いからなる。
中央が、成身会といわれ、全体の核となる、部分で、大日如来を中心に、三十七尊よりなっている。

胎蔵曼荼羅には、大乗仏教により、取り込まれた、膨大な数にのぼる、仏、菩薩、明王から、星宿、鬼神にいたるまで、整理されている。

金剛界曼荼羅は、大日如来を中尊とする、四仏を核に、合計三十七尊からなる。
大日如来以外の、諸尊は、金剛の名を持つ、密教独特の菩薩に生まれ変わっている。

つまり、胎蔵の方は、仏、菩薩、ヒンドゥーの神々をそのまま、取り込んだもの。
金剛の方は、それに、仏教独特の、考え方を、付け加えたものということになる。

後期のインド密教、チベット密教では、金剛曼荼羅のみを、生成発展させた。
胎蔵曼荼羅の必要性が、無くなったといえる。

曼荼羅というもの、タントラ美術である。
美術以外の、何物でもない。

一体、それに、つまり、タントラ美術に対して、信仰という、対応が、如何なるものか。

現代に、それが、美術として、理解されるが、宗教的な、意味づけは、もはや、意味を成さないのである。

さらに、仏教という宗教、釈迦仏陀の、仏教という意味では、全く関係が無い。

そのような、方法、修行などを、徹底して否定したのが、釈迦仏陀であるから、どう、見積もっても、空海の密教というもの、仏教とは、認められないし、また、甚だしく、空海の野心による、誇大妄想といえる。

インドタントラというのは、インドの伝統として、認めることは、できる。
それぞれの、民族の、持つものである。

それを、日本に輸入し、さらに、宗教の位にまで、上げて、さらには、空海は、天皇まで、取り込んで、我が世の春を生きたのである。

空海を、一人の天才と、認めることは、出来るが、彼の、創作、妄想した、想像の産物、大日如来の存在などは、妄想以外の何物でもない。
大日如来は、空海の妄想ではないが・・・大日経による。

大乗により、堕落した、仏法が、更に、堕落して、密教まで、生んだこと、嘆かわしい。

大乗とは、詭弁の何物でもない。
在家信者を中心にした、仏教復興運動とは、聞えはいいが、単なる、新興宗教の域である。

更に、日本の、仏教、特に、鎌倉に代表される、仏教は、釈迦仏陀の、仏法とは、全く関係無いものである。

ということは、すなちわ、それから、出る、すべての、仏教系の新興宗教は、仏法とは、全く関係ないものである。

以前に書いた、法然、親鸞、道元、日蓮などは、ただ、迷っただけである。
いや、それぞれが、新しい宗教を拓いたというならば、理解するが、彼らは、仏教と、名乗り、仏法を語るのであるから、実に、浅ましく、愚かである。

ただ、許せるのは、彼らの時代は、情報が、少なく、それが、事実だと、信じたことである。
現在では、それらの、成立過程が調べられ、どのように、出来たのかが、分るようになった。

騙されないのである。

それでは、例えば、日本の神道の場合などは、宗教ではなく、伝統としてあり、誰も、神道布教などはしない。
生活の中に、インド人が、タントラを有するように、日本人は、神道を有するのである。

それを、インド人に、布教するものなどいない。
それと、同じである。

いくら、天竺に憧れたとはいえ、それはないであろう。
更に、中国を通して、伝えられたものである。
中国人の理解を、通して、伝えられたのである。

更にいえば、生成発展した、チベット密教などと、比べると、大人と子供の差であろう。

密教に限っていえば、である。
私は、チベット密教にも、怪しさを観るものである。

もし、チベット密教に力があるならば、中国から、ダライ・ラマが、インドに亡命する必要は無い。
その、呪術に力が無いのである。

更に、即身成仏を果たしたならば、この世の国など、無くても、いいだろう。

チベット民族に対する、問題ではない。
私は、チベット民族の、理想的な、中国における、自治を願っている。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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