2010年06月02日

神仏は妄想である 261

タントラの行法は、ひとりの人間と、宇宙的な自我というか純粋意識、すなわちタントラ用語でいう「シヴァ・シャクティ」とを結びつけるための方法である。それは純粋な存在意識が喜悦する状態である。綿密に考えられた瞑想の行法によって、つねに潜在する偉大な力である。「クンダリニー・シャクティ」が人間の肉体のなかで目覚める。この力はタントラの行法、すなわち、「性交ヨーガ」を行うことによって、活性化し、意識的な真実に変わる。この「性交儀礼」は異性の相手とともに実行される。女性は活動的な女性原理シャクティの化身であると考えられるからである。
ムケルジー

すべての人間関係は、単なる思考の産物である。
だから、行法にあたっては、どんな関係にある女性でも、選べる。

だが、女性パートナーは、どんな生まれであるにせよ、容貌や、肉体的条件について、ある種の資格がいる。

また、ヨーガ行者は、すぐれた健康と、肉体条件に恵まれていなければならない。

湯呑みし、着物をつけ、坐して、礼拝し、花束や、香、食べ物を供えて、完全に無我の、精神状態になるという。

タントラ行法の、秘伝は、セックス・エネルギーの、おとろえる傾向を、制御する性交ヨーガを通じて、それを上向きにする方法の手順を説明する。

交合は、男女にとって、心の働きを一つの頂点に向けるタントラ的な方法の、一つである。

この男女の交合は、極めて烈しいために、二人の意識を宇宙の意識と融合させることができるのである、という。

何度も言うが、この、宇宙の意識といわれる、モノである。

誰が、それを、宇宙の意識と、認定するのか。

男女共に、条件を満たして、激しい交合をすると、それは、セックスにおける、オーガズムに至るだろう。
しかし、それを、セックス・エネルギーの、衰える傾向を、制御する性交ヨーガを通して、それを、上向きにする方法の手順を、指導するというのである。

クンダリニーの潜在エネルギーが、活動を始めると、二人の心は、礼拝するものと、される者が、合一する状態にのみこまれるに、至る。

彼らは、合一できた喜びに、浸りながら、絶対者、すなわち、純粋意識である、シヴァ・シャクティの中に、溶け込んでゆくのである。

二元性の合一についての、基本的なタントラの、考え方は、「左道」的な、つまりセックスの行を含む、礼拝儀式にも、表現されている。
入門儀式を経た後、ヨーガ行者と、彼の、女、シャクティは、ヨーガの行法を行うために、神秘的な円座へと、導かれる。

この行は、五摩事、五つの、Mの儀式として、知られる。

五摩事の、とは、左道的な儀礼の要素という意味である。

マディアは、酒、マンサは、肉、マツヤは、魚、ムドラーは、穀物、そして、マイトゥナは、性交儀礼である。

交合儀礼で、礼拝される、裸の女は、女神シャクティと、みなされる。

女と、ヨーガ行者との、性交は、非二元的な存在を象徴している。
交合儀礼は、真夜中に、選ばれた場所で、円座の中で、行われる。

行者が、女神となった、女と、身を合わせて、彼女を礼拝するとき、その一つ一つの抱擁、触れ合い、交合には、象徴的な意味がある。

マントラを唱えつつ、彼は、現実の肉体の五つの要素、土、水、火、風、空の要素を清める。
そして、火を起こし、色々な準備をする。
思考のプロセスを変えることで、タントラ行者は、新しく、生まれ変わり、彼そのものが、シャクティそのものと、結びつく。

交合を行う間、二人の心は、周囲には、無関心になり、彼らは、解脱への、衝動そのものになる。

セックス・エネルギーを持続させることにより、内圧が増し、セックスの潜在力を、恐るべき、強力なものに変えてしまうために、意識の流れが、解き放たれることになる。

この瞬間に、肉体と、魂は、一つになり、肉体の快楽が、解脱への、えもいわれぬ、精妙な喜びに、変わる。

以上、私は、演劇的であると、判断する。

儀式としての、セックスと、単なる、愛情に溢れる、セックスとは、何が、違うのか。
何も、違わない。

段取りをして、それに、屁理屈をつけて、行うのである。

それは、セックス時の、脳波による。
現代では、セックス時の、オーガズムによる、脳波の測定がされて、シーター波という、脳の、境地に達することが、明らかにされている。

それは、明らかにされなくとも、そのようであるということ。

健康な、男女であれば、誰もが、セックスによって、オーガズムを体験し、意識は、一体化する。
二人の人間が、交合によって、溶け合うのである。

ヨーガ行者でなくとも、誰もが、体験できるものである。

タントラによる、セックスヨーガとは、演劇性の高い、ショーである。
土の要素は、臭覚、水は、味覚、火は、視覚、風は、触覚、空は、聴覚と、関連し、この五つの要素は、一つ一つ、その潜在エネルギーとともに、それらの、根源に併合される。

究極的に、宇宙の認識母体に解消され、さらに、シャクティと、原初エネルギーである、プラクティに溶け合い、最後に、シャクティは、純粋なる、意識である、シヴァ、そして、プルシャに、併合されてゆくのである。

という、意味づけである。
こけおどしも、甚だしい。

勿論、私は、このような、伝統的、行為を、否定するものではない。
ただ、理屈が、過ぎる。

もし、万が一、日本の古神道であるならば、一切の、理屈は、無い。
淡々と、行為に始終して、その行為に、入ることで、善しとするだろう。
だが、古神道には、そんな、男女の合一、セックス行為を、儀礼的に行うというようなものは、無い。

兎に角、宇宙の意識云々とは、甚だしく、曖昧であり、観念的である。

人間の体は、宇宙の最小の形であり、その写しである。
私は、それだけで、十分である。

更に、人間の体は、宇宙そのものである、としても、いい。

つまり、人間の意識は、そのまま、宇宙意識なのであると、いえるのである。

ただし、そんなことを、考える暇の無い人が大勢いる。
暮らしを立ててゆくことで、精一杯な人たちである。
それは、それで、善し。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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