2010年06月18日

神仏は妄想である 277

弘法大師伝説まで、多々ある空海の、その、バックボーンについたのは、誰か、何か。

そこで、司馬遼太郎の、空海の風景、から、引用する。

空海が住むべき寺はこと当時、無数にある。奈良には大寺がある。しかし空海を地方ではなく京に住まわせたいという希望は、他のどの勢力よりも奈良の旧仏教勢力においてもっとも強かったにちがいない。奈良の旧仏教勢力は最澄とその新体系を怖れることはなはだしかった。最澄を制しうるのは空海以外にいないとしたことは、かれらの存亡の危機意識から出ているだけに、空海の住寺をえらぶについても必死だったにちがいなく、むろん、土地は京がいい、宮廷に近ければ近いほどいい、ただ京というのは新興の王都だけに大寺がすくなく、結局は郊外ながら規模の大きさを利点として高雄山寺ということになったのであろう。

更に、空海が、意外にも、東大寺の別当、つまり、長官になったのも、陰に奈良の、仏教の存在がある。

新仏教を持ち帰った、空海が、旧仏教最大の拠点である、東大寺の長官になるとは、尋常ではない。
異常なことであると、司馬遼太郎は、書く。

この人事における、異常さは、そのまま奈良の旧仏教の焦りであり、危機意識であると、分析する。

南都六宗も、教学的に、新仏教の、取り入れを行いたかったはずである。
そこで、空海の、持論が、大いに救いになった。

それは、特に、六宗の中でも、華厳学は、一歩めれば、大日経の世界になるということである。

東大寺の中に、真言院をたて、その本尊である、毘遮遮那仏の宝前で、密教の重要経典である、理趣経を誦むべく規定し、現在に至るまで、東大寺の大仏殿で、毎日、あげられているお経なのである。

このことは、東大寺の華厳学をある意味では不透明にしてしまっていることにもなるが、しかしこの当時における奈良六宗の立場としては、教学を多少変えてでも新仏教による風あたりをやわらげざるを得なかったに相違なく、そういう奈良側の事情が、帰朝早々の空海を、にわかなことながら日本の代表的な高僧に仕立てあげざるをえなかったのである。
司馬遼太郎

更に、奈良仏教が、空海に、期待することは、宮廷である。
宮廷は、帰朝早々の、最澄によって、一時期、独り占めされたのである。これに対し、空海を、送り込むことによって、旧の状態に戻したいという、期待である。

最澄の、新仏教による、奈良側の被害を、少なくしたいという、願いである。

また、奈良仏教の、長老とは、政治的存在でもあった。

玄肪、道鏡などは、政治に介入して、自滅して以来、一般に、自制する気分があり、決して、表立っては、目立つ動きはしないが、裏面に精通し、時に、隠微な工作を行ったといわれる。

実は、空海は、この玄肪と、同流の血をひているのだ。
極端に、権力と、政争が好きなのである。

空海の、母方の血であり、空海の、少年時代に、基礎的な教育を施したのは、まさしく、母方の、叔父である、阿刀大足であった。
その叔父の、反対を押し切って、大学を辞めて、僧になる覚悟を決めたのである。

司馬遼太郎は、その玄肪と、空海の、類似点を上げている。

類のない秀才であったこと、留学生として入唐したこと。また長安のサロンでその学才が評判になったこと、唐の皇帝が召見したことなどである。多少違うのは空海の在唐が二年で、玄肪のそれが十八年であったことだが、在唐が長かっただけに、その学才を発揮する機会が多く、玄宗皇帝のごときはこれを愛するあまり三品の位をあたえ、紫衣をあたえたくらいである。・・・
さらに空海との類似点は、経綸五千余巻というおびただしい仏書を請来したことで、帰朝後のかれの人気はすさまじかった。一躍僧正に任じられたし、また聖武天皇の宮廷の内道場の主宰者にもなった。
司馬遼太郎

空海の、年少の頃から、30までの、時期は、凄惨な権力争いが、続いていた。

筑紫にて、踏みとどまり、和泉にて、山中に入り、京の宮廷と、長々と、避け続けていたという、異様な行動は、そういう配慮もあったのではないかと、司馬は、言う。

更に、そこに、奈良の長老たちが、助言した。

私は、時代性があり、時代精神があると、いった。
まさに、空海は、それに乗ったといえる。

空海一人の力では、後世の空海像は、出来ないのである。

ここでは、深く歴史的背景を、論ずることは、出来ないが、司馬遼太郎の、空海論を、示す。

日本の歴史上の人物として空海の印象の特異さは、このあたりにあるかもしれない。言いかえれば、空海だけが日本の歴史のなかで民族社会的な存在ではなく、人類的な存在だったということがいえるのではないか。
である。

確かに、空海の、学んだ、思想、密教、そして、その大日如来は、王も民もなく、人類を超越した感覚であろう。

何をも恐れぬ、ふてぶてしさは、空海の、学んだ、仏教、密教による。

唐に行き、多くの民族が、この世に存在することなども、見聞して、日本でも、天竺でも、どこでも、通用するものは、思想なのである。いや、空海に言わせれば、仏、更に、大日如来によって、包まれてあるものなのである。

勿論、当時は、それが、最新の教学であり、私のようなものに、妄想であると、断じられる何物もない。

空海の天下となるのである。

歴史を、どう生きるのかとは、歴史を、そして、現在を、突き放してみるのである。
古いも、新しいも、突き通したものを、もって、見る目である。
だが、しかし、悲しいことに、歴史は、進化する。
その、進化からは、何人も、逃れられないのである。



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ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 4

村の入り口には、掘っ立て小屋の、食堂があった。
運転手が、車を止めた。

数名の人たちがいた。
子供もいた。

私は、バッグを持って、こんにちはーーーと、日本語で、挨拶した。
そして、すぐに、子供たちに、ぬいぐるみを、渡した。
それで、私が、何かを持ってきた人と、解ったようだ。

次に、文具を出して、スクールボーイ、ガールと、言った。
運転手が、通訳している。

そこに、ノートや、ペンを出した。
最初は、皆、控え目である。

ラオスの人は、おとなしく、控え目で、静かである。

次に、衣服を出した。
そして、広げて見せた。
すると、一人の女性が、手を出す。
そして、支援がはじまった。

少し人が集う。
それが、だんだんと、多くなる。

タオルも出した。
受け取る人、衣服を指差す人・・・

混乱なく、静かだ。
男の子も、やってきた。
彼には、バッグを差し出した。
照れながら、受け取る。嬉しそうだ。

運転手に、写真を撮ってもらう。
数枚、撮って、私は、オッケーと言い、次の場所へと、促した。

すぐに、車は、村の中心に出た。

高床式の、建物。しかし、実に、粗末なものである。
その下に、子供が、二人、寝ていた。

そこで、支援をすることにした。

ハーイと、私は、声を掛けた。
少し、驚いている。

見ず知らずの人が、やってきた。
だが、運転手が、なにやら言うと、起きだしてきた。

私は、丁度良い、板の間があったので、そこに、バッグを置いて、中のものを、取り出した。

すると、いつの間にか、人だかりである。
次から、次と、人がやって来た。

そうして、次から次と、衣服を手渡しすることになる。
サイズを見て、それぞれに、手渡す。

そのうちに、手伝う人も、現れる。

バッグの中から、衣服を取り出したり、文具を取り出して、子供たちに、分け与える。

運転手に、写真を撮るように、頼む。

大半は、子供用だが、中に、大人用、特に女性物が、多かった。
男の人も来たが、中々、彼らに合うものがない。
だが、バッグの底から、男物が出てきた。

二人の男が、歓声を上げた。
ズボンである。
丁度良い、サイズだ。

とても、暑いが、それを、忘れた。

すっかりと、バッグの中身が無くなった。
そこで、それぞれ、写真を撮る。

だが、実に静かである。
不思議なほどに、静かなのである。

バイバーイと、声を掛けつつ、私は、車に乗り込んだ。
何事もなかったかのようである。

言葉が通じないのが、難であるが、物によって、何とか、通じた。

車に乗って、私は、浴衣が、汗だくになったことを、知った。
車の冷房が、とても、気持ちよいのである。

ホテルに戻る道は、意外に、時間がかかった。ということは、市内から、結構離れた場所に来たのだと、思った。

運転手と、英語で少し会話したが、何を話したのか、忘れている。

ラオスは、人が少ない。
市内に入るが、あまり、人影がないのである。

首都とは、思えない、ビエンチャンである。

さて、ホテルに到着して、私は、約束通りに、7万チャットを、運転手に出した。すると、20万チャットと、言う。
どうして
遠い所に行ったと、運転手が言う。

私は、ホテルのフロントに、向かった。
しかし、約束した、フロントの男も、ボーイもいない。
一応、フロントの男に、最初の紙を出してみた。

20万チャットと、言うが・・・

運転手が、フロントの男と、話す。
そして、フロントの男が、私に、遠くへ行ったからと、言う。

しかたがない。
私は、20万チャットを払うことにした。

最初に、遠く方へ行くはずだったのだが・・・

解釈できることは、運転手が、困っている人たちということで、孤児の家に行くとした。最初に、地図で示された場所ではなかった。孤児たちの家で、十分だと思ったが、途中で、中止にした。そこで、遠くへ行くことにした。それで、料金を高くした。

更に、日本人であるから、お金は、持っていると、考える。

実際、ビエンチャンには、日本人の年金暮らしの人たち、男たちが、実に多かった。

部屋に戻り、空になったバッグを見て、終わった開放感を得た。
ただ、20万チャットは、少し高いと、思う。

一万円が、80万チャットである。
つまり、20万チャットは、2500円である。

帰りの途中で、運転手が、よくやってくれたので、四日目の帰りの、バス停まで、頼んだ。
9万チャットと、言った。

バス停から、来たときは、タイバーツで、200バーツ、つまり、600円である。
9万チャットは、1250円であるから、高い。倍である。

兎に角、観光客からしか、お金が、取れないのである。
仕方がないことだ。

メーターがない車は、本当に注意して、料金を決めないと、大半が、高い。
それで、私も、いつものように、地元の人が乗る、バイクタクシー、トゥクトゥクにすることにした。勿論、そこでも、交渉しなければ、ならないのであるが。

2010年06月19日

神仏は妄想である 278

密教、特に、空海について、少し、書いてみた。
しかし、実際、空海の、輸入した、密教は、完全ではない。
それは、密教へ至る道の、途中のものである。

密教が完成するのは、その後の、インドである。
以前、タントラについて、紹介したが、実は、タントラが、密教完成の、ポイントであり、それは、チベット密教によって、今、それを、見る事が出来る。

それは、壮大な、妄想であり、また、実に恐ろしいほどの、内容である。
インド魔界が、関与して、はじめて、姿を現したといえる。

釈迦仏陀は、それを、見通していたと、思える。

釈迦仏陀の、教えが、完全に消滅してしまうのである。

法華経や、涅槃経などの、妄想は、まだ、漫画のようなものである。

上座部仏教批判から、大乗仏教が、新しい仏教運動として、起こったが、実際、それらも、頭でっかちに陥るのである。

つまり、理屈の、理屈を、はじめる。

竜樹などは、その典型である。
その他、諸々。

チベット密教について、書くが、チベット民族に関してではない。
あくまでも、妄想の、密教について書くのである。

チベット民族は、ある時期から、チベット仏教の、主を、国の主たる存在としたが、それは、それ、である。
現在も、チベット民族の、主である、ダライ・ラマが、インドにて、亡命政府を作っているが、それと、これとは、別問題である。

あくまでも、チベット密教についてである。

チベット密教とは、チベット人仏教者によって、伝承し、受容してきた仏教の一形態であり、その中核は、八世紀から、十二世紀の、インド仏教で成立した、後期密教である。

それは、現在の、中国が侵略して、チベット人が、住む、チベット自治区、四川省の西半分、青海省の南部、インドのラダック地方、スピティ地方の一部、ネパールのヒマラヤ山脈側、ブータンなどに、居住する人々である。

八世紀から、十二世紀は、仏陀亡き後、1700年を経ている。
そして、その年代は、仏教の歴史的最終段階に入る。

この時期、仏教に目覚めた、チベット人たちが、仏教の教えを、求めて、続々と、インド各地へ留学するのである。

そして、この時期は、仏教にとっても、特別な時期である。

かつて、インドの宗教に、君臨していた仏教が、衰退してゆく時期に当たる。
ヒンドゥー教の台頭、また、西方のイスラム教による、侵略により、その勢力は、縮小しつつあった。

その、状況下にあった、仏教が、最後の、切り札のように、極めて、怪しい、後期密教を、確立させたのである。

八世紀、グヒヤサマージャ・タントラ、秘密集会、の登場をもって、後期密教が、はじまった。

最大の特徴は、解脱のための、方法として、性的ヨーガ、性行為を導入したのである。

僧侶の性行為は、一切禁じられていた。
勿論、上座部も、大乗も、僧侶は、禁じられていたのである。

であから、戒律と矛盾する。
インド仏教が、滅亡するまで、それは、多くの仏教者を、悩まし続けた。

結局、インド仏教は、この難問を十分に解決することが出来ず、それを継承した、チベット仏教に、委ねられることになる。

解決するはずもない。
それは、最早、釈迦仏陀の教えから、遠いものである。
結論から言えば、密教は、仏教ではなく、新しい、宗教だと、私は、理解する。

何故、仏教に、取り入れられたかといえば、単に、そこに、仏教があったからであり、ヒンドゥー教なども、タントラを十分に、取り入れている。

更に、インドには、性典と、呼ばれるものは、四つほどある。
そのまま、性の聖典である。

少なくとも、日本仏教とインド仏教との間に広がるギャップの大きさに比べれば、チベット仏教とインド仏教との間のギャップはずっと小さい。
性と呪殺の密教 正木晃

さて、チベット密教は、チベット仏教に内包されている。
密教は、チベット仏教の、構成要素の一つである。

つまり、密教ではない、顕教である。

時間的に言えば、あとになり、密教が起こっている。
インド仏教の、末期において、密教が、登場するのである。

末期は、それらが、併存していたのである。

勿論、顕教は、論理を駆使する、理論研究では、はるかに、蓄積が多い。
だが、理論を現実に、導く霊肉を開発するための、修行など、実践面では、密教の方が、はるかに、進んでいる。

だが、私から見ると、密教の修行の先にある、即身成仏などは、我の即身成仏であり、上座部仏教の、目的と、変わらない。
基本に戻ったが、その方法が、あまりに、魔的である。

チベット仏教に残る、様々な、本尊画を見ると、あまりの、異様さに、驚く。
男女交合を主にした、仏の絵図には、仰天する。

それが、また、経典には、釈迦仏陀が、説いたものであると、書かれるのであるから、呆れるのである。

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ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 5

前回、ラオスの、ルアンパバーンに出掛けた、旅日記で、ラオスの歴史に触れた。

今回は、その政治と、経済に触れる。
そして、何故、今回の、旅日記の題が、ビエンチャン、醒めない眠り、と、したかについて、書く。

ラオスの、人口は、おおよそ600万人である。
内陸山岳国として、経済的に、実に不利な位置にある。
経済発展は、短期的には、望めない国なのである。

フランス植民地を経て、1975年、人民民主共和国建国以来、ラオス人民革命党の、一党独裁体制である。

それは、ベトナム共産党と同じく、インドシナ共産党から、派生したものである。

80年代の、半ば、ソ連、ベトナムなどの、社会主義改革の波が、ラオスにも、起こる。

当時の、カイソーン大統領が、経済、政治、文化の、自由化を進める、「新思考」なる、政策指針を、打ち出した。

経済面では、市場経済への移行を柱に、改革、開放政策を、推進する。

ただし、国の、実際の、政治を動かすのは、55名の、党中央委員であり、中でも、11名の、政治局員が、内政の重要ポストを、兼務する。

立法機関は、一院制である。
国民会議に委ねられる。しかし、選挙は、選挙区ごとの、直接投票で、それが、秘密投票で、行われるという。

この、国民会議が、憲法の承認と、修正、正副大統領の選出、首相の承認、社会経済発展計画などの、重要な決定を行う。

一党独裁という、政治体制と、市場経済というのは、実に、矛盾するのである。

更に、ラオスには、誇るべき、伝統ある、歴史がない。
勿論、今は、ラーンサーン王国の、建国者であった、ファーグム王の、偉業を讃えて、人民革命党や、封建制から、現在の国家を築いた点を、高揚させて、その王国と、党を結びつける、キャンペーンがなされている。

神話も、伝統もない国は、国民を一つに、まとめることが出来ないという、良い例である。

更に、フランス植民地時代に、真っ当な教育制度を、敷かなかったゆえに、今でも、教育制度は、整わない。
それは、また、少数民族の多さにも、原因がある。

ラオス政府の公式の、民族の数は、49であるが、実際は、まだ多い。

言葉の、統一もされていないのである。
ラオス語での、授業についていけず、学校に行かない子供たちも多い。

人口の、80パーセントが、農山部に住む。
首都の、ビエンチャンは、それらに比べて、実に豊かである。
格差が、実に、甚だしい。

平たく言えば、首都を中心にした、政府、つまり、独裁政権の周囲は、豊かであるが、その他大勢は、実に貧しく、教育も、行き届かないということである。

更に、驚くべきは、2001年の、第七回党大会で、削除していた、マルクス・レーニン主義用語を復活させたという。
イデオロギー路線に、回帰するというのである。

まさに、時代と、逆行しているのである。

一党独裁という、体制は、北朝鮮、ミャンマーに、続く。
激しい様子には、見えないが、矢張り、その弊害は、多くの国民に、帰する。

その証拠は、ビエンチャンの生活水準は、突出して高く、次に、県庁所在地のある、都市である。
それ以外の、農村地帯は、呆れるほど、貧しい。

更に、この地域格差が、拡大しているのである。

つまり、中国共産党のように、共産党幹部に、まつわる人々は、実に、経済的に、豊かでいられる状態が、ラオスにも、見えるのである。

金の流れを知る政府関係者に、つらなる者たちが、良い生活をしている。

首都ビエンチャンは、まさに、それを見せ付ける。

国民国家の、意識が希薄であり、国が、一部の人たちのものになっているのである。

そして、その眠りから、醒めることがない。
醒めようと、しないのである。

観光産業にも、力を入れている。
多くは、欧米人たちが、押し寄せている。

私が、市内の孤児たちの家に、出掛けての、対応は、ミャンマー並の、状態である。
ただし、頭隠して、尻隠さず。

私は、四泊の予定で、ビエンチャンに入ったが、二泊で、タイに、戻ることにした。
昼間のバス停で、見たものは、乞食である。
障害者、知的障害者の乞食たちである。

ストリートチルドレンは、隠すが、それらを、隠さない。
頭だけを、隠しているのである。

ビエンチャンの市内は、静かである。
人が少ない。
その、少ない人たちが、国の大半の、予算を享受する。

私は、更に、メコン川沿いに、立てられる中国系の建物の看板を見て、この政府は、ラオスは、中国に、身売りすると、感じた。

ベトナムからの支援よりも、中国からの、支援が多くなる。
つまり、安穏として、暮らしたい、一党独裁に、連なる人々は、それでいいのである。

国を、造るという、意欲に欠ける。
それは、今までの、他国に依存した、そのままである。

ビエンチャンには、二度と、来ないと、思った。

気概が感じられない。

ラオスの誇りというものが、皆無である。

ルアンパバーンに出掛けたときは、少なくても、ラオスであるという、誇りと、意欲が、感じられた。
ここには、それが無い。感じられない。

2000年前後に、小規模な、反政府的事件が起きた。
すかさず、引き締めが、随所に見られたという。

要するに、緩やかな、言論統制であり、独裁である。
世界が、どの方向に進んでいるのかを、知らない。
知っても、平然としているのか。

つまり、私には、醒めない眠り、と、見えたのである。


2010年06月20日

神仏は妄想である 279

再度、歴史的に、仏教の変化期を、俯瞰する。

仏陀が、教えを述べて、約1000年、つまり、五世紀以降の、インドでは、ヒンドゥー教優勢が、明らかになってきた。

原因は、仏教が知的水準の高い人々を、布教の対象にしたことで、都市型宗教となり、僧院中心の活動に、始終して、農村や、一般庶民への、浸透をはからなかったことである。

更に、異民族の、侵入と、東西の交易の退潮は、都市の衰微をもたらし、僧院の、支援者であった、商人たちも、没落してゆくのである。

仏教は、出家型の宗教であり、現世の問題に、遠い。

現世を、肯定的に、捉える、ヒンドゥー教とは、対照的だったのである。
現世の森羅万象は、そう思うだけである、という、仏教の見解は、空理空論と、みなされた。要するに、空の思想などである。

苛烈さを増す、現実を目の前に、打つ手が無いという、状態であった。

当然、次第に、人々の支持を失う。

それを見て、現実に対処しようと、大乗仏教が起こるが、それは、ヒンドゥー教に対抗するものでもあった。

他者救済、利他行による、解脱があると、大乗は、説いた。
世の中に、積極的に、働きかけるものである。

しかし、ヒンドゥー教から、多くの、儀式を取り入れて、堕落する。

更に、ヒンドゥー教が、まだ、手を出していない、領域に、入ろうとした。

儀礼と、共に、ヒンドゥーの人気ある、神々を、仏教に帰依するという形で、取り入れたのであるから、呆れる。

日本に、流れ着いた、仏教の、守護神たちは、すべて、インド魔界の、神々である。

諸天善神などとは、真っ赤な嘘。
諸天魔神である。

法華経などは、無反省に、それらを、取り入れて、守護の神々としている。
要するに、研究が足りないゆえに、法華経が、カースト外の人たちが、書いたものだと、知らない。

法華経の中にある、御伽噺は、すべて、インドの常識を知っていれば、見抜けるのである。
カースト外だから、書ける、お話が、沢山ある。

更に、法華経を支持する者には、沢山の褒美が与えられ、法華経をけなし、攻撃する者には、罰が与えられるという、とても、低能ぎみの、脅しが多い。

それで、お話であるから、どのように、解釈してもいい。
そこで、文底にあるものなどという、解釈が、出てきて、仏教とは、思えない、教えを堂々となすのである。
日本の、法華経系の新興宗教は、特に、その傾向である。

結局、大乗仏教も、頭でっかちになり、釈迦仏陀が、説いた、行というものとは、遠くなっていった。

そこで、行の中心を、ヨーガに置くことになる。

呼吸抑制やイメージ操作など、各種の身体的技法を駆使する瞑想法を抜きにして、仏教が求める理想の心身は成就できない。
正木晃
ということで、大乗仏教は、再度、ヨーガに取り組むことになる。

であるから、大乗仏教の中に、密教が、芽生えるのである。

五世紀以後の、インドのヨーガは、大転換を迎えていた。
性欲に代表される、生命エネルギーを抑制して、寂静たる、解脱の境地を目指すという、旧来の道から、生命エネルギーを、活性化させて、更に、そのエネルギーを純化することで、解脱に至ろうとする道である。

この、事態を受けて、仏教密教は、霊と肉との、関係の再構築を企画した。

それは、霊は、霊のみによっては、不可能であり、肉の変革が、霊の変革を可能にするという、結論である。

いかに、大乗仏教が、釈迦仏陀の、教えを歪めることになったのかは、おおよそ、この時点である。

儀礼主義、象徴主義、曼荼羅に結実した、壮大な神々の、パンテオン、そして、霊肉の関係から、生まれた、修行法である。

これらを、駆使して、究極の仏、大日如来と、我が身が、同一であると、認識するという、妄想である。

五世紀から、七世紀に、行われた、大乗の密教は、おおよそ、釈迦仏陀とは、関係なのない、教えに、成り果てた。

その証拠は、初期の、密教は、呪術による、現世利益が、主であった。
解脱という、妄想には、達していない。

解脱という、妄想に達したのは、六世紀以降である。

中期密教という。

この辺りの、密教が、日本密教に取り入れられた。
大日経と、金剛頂経である。
だが、密教経典としては、修行法が、十分に確立されていない。
空海は、それを持って、すべてだと、信じた。
そして、勝手な解釈、勝手な、修法をもって、真言密教を立てる。

ところが、密教は、後期になって、完成するのである。

金剛頂経の、路線が、生成発展してゆくことになる。

そして、ヒンドゥー教が、躊躇していた、性のタブーにも、果敢に挑んだのが、大乗仏教者である。勿論、釈迦仏陀の教えなどに、おかまいなく、である。
そこでは、壮大な性愛の、エネルギーの全開があり、とんでもない、代物となって、現れることになる。

性的エネルギーを持っての、呪術であり、涅槃の境地である。
人間の妄想力には、本当に、感服する。


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ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 6

三日目の朝、予定を切り上げて、タイ、ウドンターニまで向かうことにした。
本当は、四泊する予定だったが、魅力のない街にいても、しょうがない。

それなら、ウドンターニに、二泊することにした。
いずれ、ウドンターニへは、冬物を運ぶ予定であるから、丁度良かった。

チェックアウトの、12時前に、ホテルを出た。
あの、タクシーのおじさんらに予約したのは、キャンセルである。
勿論、何の連絡もしなかった。

あの、一日で、20万チャットも、稼いだのだ。言うことはないだろうし、また、もう二度と、ここには、来ないから、会うこともない。

ホテルを出て、バターミナル方向へ歩く。
すぐに、トゥクトゥクが見つかる。
あちらから、声を掛けてきた。

料金は、4万チャットであり、打倒な値段である。
ブロークン英語で、お互い、それで丁度良い。

道が、空いていて、スムーズに、バス停まで、行った。

帰りは、支援物資がないので、楽々である。
コープチャイと、おじさんに、言って、お金を払い、バス停前で、降りる。
すると、一人の青年がやって来る。
言葉が解らないが、ウドンターニと言うと、キップ売り場に連れて行ってくれた。

更に、乗り場まで、教えてくれる。
何か、売りつけるのかと、思いきや、それで、終わり。
要するに、親切なのだ。

国境をバスで、越える。
つまり、出国と、タイの入国をするのである。
その度に、バスが、止まり、客を待つのである。

出発時間まで、一時間ほどもある。
私は、近くを歩くことにした。
しかし、実に、暑い。
ただでさえ、汗をかく。
水を買って、それを飲みのみ、歩いた。

市場などがある。
そして、目に入ったのは、物乞いたちである。
障害者が多数。
女の子を連れた、母親もいた。

私は、心を鬼にして、お金は出さなかった。出せば、キリがないからである。

しかし、矢張り、我慢できず、三回、2000チャットを、出した。

少し歩くと、日本語で、話し掛けてきた、おじさんがいる。
驚いた。

えー、私は、日本で、25年働きました。今は、日本の年金を貰って暮らしています。娘が、日本にいます。私の家は、大きな家です。と、色々と、話す。
日本の年金で、暮らしていると、いうのだ。驚いた。

ところで、私は、夜の食事は、ホテル沿いの、和食の店で、食べた。
その時、すべての客が、日本人の男たちだった。
そして、皆、年金暮らしである。

一人の、おじいさんが、ここは、安くて、若い姉ちゃんも、遊んでくれるから、いいと、言っていた。

車椅子に乗っていた、おじいさんもいた。

久しぶりに、日本語を話すのか、おじさんは、中々話しを止めない。
私は、頷いて聞いていた。

ようやく、話が、ひと段落ついたので、私は、お元気でと、いい、その場を去った。
そして、市場の中に入り、見て回った。
ほとんど、食べ物を売っている。

矢張り、暑いので、私は、バス停に戻り、日陰のベンチに座った。
さて、トイレに行きたくなった。
トイレは、向こう側にある。
荷物は、どうするか。
フィリピンでの、盗まれたことを思い出した。しかし、隣に、座っていた、女の子に、身振りで、荷物を指して、御願いと、言った。
もし、彼女が、ドロボーなら、終わりだが、戻ると、大丈夫だった。
大切なものは、持っていたが、それでも、危ないことである。

トイレに入るのに、1000チャットを、払った。
それでも、綺麗とは、いい難いトイレである。

ようやく、出発時間が来た。
バスに乗り込む。満席である。

私の隣の席に、若い女の子が、座っていた。
ラオス人である。

ずーっと、携帯電話をいじっている。

その子も、何かと、親切にしてくれた。
ここで、降ります。荷物は、置いていて、大丈夫です。
勿論、言葉ではない。身振りである。

出国をする。
満席のバスから、皆、一度降りて、出国手続きをする。

皆が、揃うと、次は、友好橋を通り、タイ側に行く。
そして、入国手続きをする。
バスが、客を待つ。

タイ入りして、ようやく、バスが、ウドンターニに向けて、走る。

私も、隣の女の子も、寝た。
気づいた時、私たちは、恋人同士のように、なんと、肩を寄せ合って、眠っていたのだ。
二人で、それに気づいて、何となく、気まずい雰囲気である。

バスは、ウドンターニの市内に入っていた。
バス停に到着して、私たちは、さようならも言わず、バスを降りた。


2010年06月21日

神仏は妄想である 280

ちなみに、初期仏教の段階から、性機能が健全でなければ、出家は許されなかった。しかも、性欲が頂点に達する思春期以前に出家する必要があった。その理由を、ごく簡潔に表現するなら、仏教は性欲を修行によって悟りへの原動力に変容させることをもくろんだからにほかならない。
性と呪術の密教 正木晃

仏教と、性という、問題からの、切り口での、仏教というものも、面白い。

親鸞などは、全く、仏教に、相応しくないといえる。
妻帯するのであり、それを、僧でもなく、俗でもないと、平然として言う。
それでは、在家の集団として、仏教を、実践すれば、まだ、いいが、何と、結果、宗教団体になったのである。

更に、根惚けた説教を、繰り返した。
その、罪は、重い。

自分の迷いを、打ち明けて、それで、人心を、惑わすのであるから、親鸞は、実に、救われない。
だが、それを、哲学的、思想的だと、賞賛する、輩が現在も、多くいる。

浄土真宗などに、いると、決して、阿弥陀仏の極楽などには、行けないのである。

ただ、ただ、迷い続ける。

さて、性機能が、健全ということは、身体が、健全でなければ、出家できないということで、実に、正しい。
釈迦仏陀自身は、結婚し、子供も、もうけている。
その、経験に立った、見方である。

性を、制御できないのであれば、修行は、無理であると。
それでは、日本仏教愛好家の、連中は、皆、落第である。

皆々、妻を持ち、子供をもうけて、更には、性欲旺盛で、遊びまくっている。

日本仏教は、仏教とは、認められないということになる。
さながら、同好会程度であろう。

大乗仏教は、あろうことか、人間の諸々の行為も、また、本来、清浄なのだという、考え方をする。
これは、実に、特有の考え方である。

これは、大乗の最古の仏典、般若経によるものである。
そして、七世紀に、成立した、理趣経では、人間の煩悩は、もとより、性行為も、その快楽も、菩薩の境地に、ほかならないと、宣言している。

その、底辺には、インドの思想が、大きな影響を与えている。
つまり、究極の、智慧は、究極の快楽と、不可分の関係にあるという、認識である。

理想の、ヨーガには、最高の快楽が、伴うというものである。

つまり、大乗仏教というものは、時代のニーズに合わせて、造られた、創作されたものであると、いえる。

更に、インドの快楽主義肯定に立つものである。

インドの性愛については、別に書いている、性について、の、中で、書くので、ここでは、省略する。

以前、紹介した、タントラでも触れたが、生命エネルギーを活性化することで、解脱に至ろうとする、試みは、会陰部に潜む性的エネルギーを、特殊な身体技法を用いて、霊的な方向へ目覚めさせることから、はじまる。

その上で、身体の中心線に存在する、チャクラ、輪、と、ナーディ、脈管、と呼ばれる、霊的な器官の中を、上昇させて、性的エネルギーを、次第に、霊的エネルギーに変換させる。そして、ついに、頭頂のチャクラに到達したとき、絶大な快楽のうちに、最高の智慧を獲得して、解脱を遂げるという。

さて、大乗仏教の、へんてこりんな、考え方である、空の思想であるが、その、空の思想を、性の快楽として、捉える考え方が、登場する。

それを、大楽思想という。

ここでも、言葉遊びが、見られる。

聖なるものと、俗なるもの、それは、逆転する。
俗なるものの、極みが、聖なるものとなる、云々、である。

空を、快楽として、把握することと、聖なるものは、俗なるものと、不可分の関係にあると、みなすことは、合い通じているというのである。

両者を総合すれば、聖なるもの、の、極みとしての、空は、俗なるものの、極みとしての、性の快楽によって、把握できるという、霊的方程式が、出来上がるというのである。

かくて、性行為という、人間にとって最も根源的であり、誰しも避けては通れないものであるにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、世界中のあらゆる宗教が忌避してきたもの、誰の目にも、俗の中の俗としか見えない行為、それこそが、人間を、わけても汚濁にまみれた末世の人間を、解脱や悟りという聖のきわみへと、いわばジャンプ・アップさせる唯一の方途なのだと後期密教経典は説き、インド亜大陸のそこかしこに、熱狂が渦巻いた。この段階に達した密教を、・・・チベット大学僧プトゥンは「無上ヨーガ・タントラ」に類別した。
正木晃

後期密教、八世紀後半の、秘密集会タントラ、ひみつしゅうえタントラ、では、仏陀は、あらゆる如来たちにとってあらゆる真理の源泉である複数の女性たちの性器のなかにおられた・・女性たちと性的ヨーガを行じておられた、という、文言を掲げて、登場した。

そして、十三世紀の初頭、インド仏教滅亡と、共に、幕を閉じたのである。

その間、500年、後期密教は、三つの方向に、展開した。
父タントラ、母タントラ、双入不二タントラ、である。

これでも、解る通り、大乗仏教は、釈迦仏陀は、置物である。
個人的考えを元に、勝手気ままな、妄想を、繰り返して、勝手に経典を、掲げて、我が思うところの、考え方をもって、釈迦仏陀の、教えと称して、世に迎合しつつ、無益な、言葉遊びを、繰り返し、終には、性行為の快楽に、解脱の道があるとまで、高めた、いや、卑しめたのである。

まだ、法華経や、涅槃経などの、御伽噺のうちは、可愛いものだが、ここ、ここに至ると、とんでもない、仏陀の教えとなってしまった、のである。

あらゆる如来たちにとってあらゆる真理の源泉である複数の女性たちの性器のなかにおられた・・・

女性たちと性的ヨーガを行じておられた・・・

大楽思想とは、よく思いついたものである。

人間から、性というものを、取り外すことは、出来ない。
性を肯定するのは、当然なことである。

しかし、釈迦仏陀は、一言も、そんなことを、言わないのである。
あえて、推論すれば、性というものを、制御することで、心を、乱さず、苦の中に、身を置かないことである、と、なる。

初期仏典の、どこを、どう探しても、性の快楽によって、などという、言葉は、無い。

在家の人々も、性を、妄りに、弄ぶのではなく、苦になるような、性愛を、求めるべきではないと、なる。

逆に、出家者は、女の膣に、ペニスを入れてはならないと、断定している。

一度、その快感を知れば、そこに、囚われるからである。
知らないで、心を、定めて、静かに息をし、心を、騒がせることなく、その心の、穏やかさを、保っていることであると、推論する。

だが、インド仏教衰退後、それが、チベットに渡り、まさに、呪術と、恐るべき霊能力を得るための、性の行が、始まる。

そこには、実に、危険な、反社会的思想も、登場するのである。


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ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 7

ウドンターニのバス停は、混雑していた。
その中でも、トゥクトゥクの売り込みが、激しい。

私の傍にも、一人のトゥクトゥクの運転手が、やってきて、売り込みる。

私は、町外れの、一泊250バーツのホテルと、決めていた。
あまり、しつこいので、料金を聞くと、70バーツである。
少し高い。

だが、乗ることにした。
すると、すでに、母と女の子が、乗っていた。

何と、家族一家で、ある。
ということは、トゥクトゥクを住まいにも、しているのかもしれない。

驚いたのは、女の子の、教科書である。
タイ語と、日本語の対比である。

それを、母子で見て、私に話し掛けてきた。
文具があれば、その子に、渡したいと思った。

ウドンターニは、東北地方、イサーンの都市である。
ここから、バンコクや、パタヤに、出稼ぎに出る。

更に、タクシン派の活動拠点の一つであり、市内では、反政府運動が盛んでもある。
私の、滞在していた日も、町の中心部で、デモを繰り広げていたらしい。

私は、町はずれの、ホテルだったので、それを、見ることはなかった。

ホテルは、古い大型のホテルで、主に、タイ人が利用する。
250バーツは、ホテルとして、安い。ゲストハウス並みの、料金である。
750円である。

部屋も広く、エアコンが、点けっぱなしになっている。
フロントで、管理しているのだ。
お客が入ると、エアコンが機能する。
しかし、それが丁度良いのだ。
24時間、点けていても、丁度良いくらい、暑いのである。

ホテルの裏手には、市場が、二つもある。
私は、それで十分だった。
市場に行けば、何でも揃う。
食堂も、ある。

浴衣を、脱いで、シャワーを浴びて、タイスタイルに、着替えて、水を買うために、外に出た。
ホテルの並びに、コンビニがあり、とても、便利である。
何はともあれ、水は、必要不可欠。
ペットボトルを買って、ホテルに戻り、安心して、ベッドに、横になった。

旅の間は、興奮しているから、あまり感じないが、旅を終えると、その疲れが、どっと、出るのである。
だから、旅の間に、休むことなのである。

そこで、H君を思い出し、電話を掛けることにした。
そして、電話番号をじっと、見詰めて気づいた。
これは、日本の携帯番号である。つまり、一度、日本を通して掛けなければ、通じないと。

そこで、日本に電話をするように、掛けてみた。
それで、つながった。

H君は、丁度、チャンマイに着いたところだった。
つまり、私と前後して、ビエンチャンを出たのだ。そして、そのまま、長距離バスに乗って、チェンマイに向かったのである。

一晩かけて、チェンマイに着いたようだ。
彼も、電話をしていたようである。
彼は彼で、日本を通して、私にかけていた。私の番号は、タイの番号であるから、通じない。

彼は、北の地方を回り、27日に、帰国すると、言った。
私は、26日に、帰国する。
それでは、日本で、会いましょうということで、電話を切った。

彼は、薄いリックサック一つの、荷物である。
もし、彼が、一緒に旅に出てくれたら、彼の荷物として、支援物資を、飛行機に積み込む事が出来る。
その後は、自由行動にして、協力を御願いしたいと、思った。

とりあえず、電話がつながり、安心した。

私は、しばらく、ベッドで、休む。

夜の食事は、ガイドブックにあった、イサーン料理の店に行くことにした。
もち米の、カオニャオと、おかずを食べる。
店の前では、鶏肉と、ブタ肉を焼いている煙が、もうもうと、立ち込めている。

二件並んである。
私は、その一軒に入り、鶏肉と、カオニャオを注文した。
イサーン料理は、パパイヤサラダの、とても、辛い、ソムタムという料理がある。
それと一緒に、カオニャオを食べるのだが、私は、遠慮した。

容赦なく、辛いので、食べるには、気力がいる。
今、タイ全土で、その、ソムタムを、食べる事が出来る。
タイ料理としても、定着するだろう。

町外れだから、実に静かである。
人も少ない。

ホテル前から、その店の横は、広い公園になっていて、博物館が建っている。

帰り道、その公園で、寝泊りする人たちを、見た。ホームレスである。
あまり、悲惨さは、無い。
少しばかりの、食べ物を食べていた。

この街には、冬物の衣類を持って、来る予定である。
特に、郊外に行くと、寒さで、死ぬ人もいるといわれる。
この街が、出来た経緯も、ベトナム戦争時代である。

2010年06月22日

神仏は妄想である 281

父タントラ、母タントラ、そして、両方を、兼ねた、双入不二タントラ。
タントラについては、以前に書いたので、そこで、触れなかったことを、書く。

母タントラである。
これには、呪殺や、黒魔術、オカルト的な、要素まで、取り込んでいた。

つまり、解脱のためには、何をしても、許されるという、解脱至上主義である。
実に、恐ろしい。
だが、出家僧院では、そんな理屈は、通るものではない。

後期密教段階の、インド仏教界は、解脱と、戒律を巡り、抜き差しなら無い状況に、追い込められた。

一つの、解決法があった。
性的ヨーガを、あくまで、観想として、行ずるということである。
つまり、呼吸法や、イメージ操作などで、身体技法の限りを尽くし、現実の女と、性行為を行ったときと、同じ心身状態を作るというものだ。

また、黒魔術、オカルト的なものも、仏教の教義によって、象徴的に、解釈することが、試みられた。

その一例は、大小便、血、精液などの、混合物を食すという、猥雑な行為も、いかなる、事物も行為も、仏から見れば、清浄極まりないものであると、考える。

これで、解る通り、大乗仏教以後は、屁理屈の極みをいったのである。

煩悩即菩提などの、言葉遊びにも、通じる。

だが、それを解決する間もなく、仏教最大の、拠点、ヴィクラマシーラ大僧院が、イスラム軍に、滅ぼされたのである。

後を引き受けたのは、チベット仏教となる。

ここで、少し、チベット仏教、密教の、歴史を、俯瞰しなければ、ならない。

チベット仏教は、七世紀中ごろ、古代チベット王国、ソンツェン・ガンポ王の時代に、はじまった。
この王は、チベットに、はじめて、統一国家を実現した。

唐、ネパールと、政治的にも、文化的にも、深い関係を持ち、王が唐と、ネパールから迎えた、王妃たちと、唐から、中国仏教を、ネパールから、インド仏教が、もたらされた。

密教の歴史は、八世紀の前半に、王位に就いた、ティデ・ツクツェンの時代に、はじまる。

この王のときに、「金光明経」が、輸入されたからである。

この経典は、護国、災害から、逃れる、そして、仏教の教えによる、統治を説く。更に、経典に、呪術的力があると、みなされた。
典型的な、現世利益の経典である。

更に、次の王を継いだ、ティソン・デツェンの時代、八世紀の後半は、古代チベットの、全盛期である。

唐の都、長安を一時的に、占領するという。
更に、シルクロードにも、進出して、敦煌を半世紀以上も、支配した。

その結果、王室、貴族たちを中心に、中国仏教を奉じる勢力と、インド仏教を奉じる勢力が、分裂し、更に、固有の信仰を守ろうとする、勢力もあり、熾烈な争いを生んだ。

王は、仏教を、積極的に、擁護する。
王は、インドから、ナーランダ寺院の、著名な学僧、シャーンタラクシタを招き、仏教擁護に尽したが、最初は、廃仏派の力が、強く、その試みは、失敗した。

だが、やがて、廃仏派の勢力を、削いで、再び、学僧を招いた。

このとき、在家の密教行者で、強大な霊力を持つ、パドマサンヴァが同行し、チベット土着の神々を、次々に、制圧して、仏教に帰依させたという。

人々に、密教の、威力を見せたのである。

この当たりから、怪しくなるのである。

チベットには、仏教が伝わる以前から、固有の信仰が存在していた。
ポン教である。
自然、自然現象の背後にある、神々の存在を認めて、崇める。

ポン教は、神々に、犠牲を捧げ、その意思を、霊媒を通して、知り、災害から逃れ、幸運を祈るのである。

この、ポン教に、密教の、霊的力を見せつけ、次第に、ポン教は、密教に、近づき、関係を深めることになる。

そこから、インド密教呪術と、ポン教の教えを、融合させて、チベット仏教の、ニンマ派という、有力な、宗派が、出来上がる。

ただし、ニンマ派の、密教は、七、八世紀段階の、インド密教であり、日本に導入された、密教よりも、新しいものである。

ニンマ派は、宗派としての、統一性は薄く、一人一派、一寺院一派という、意識が強い。

もともと、在家の密教行者を中心とした、宗教者を、一括して、そのように、呼んだのだ。

ただ、他宗派からは、仏教以外の要素が多いと、批判される。
だが、今も、庶民の支持は、強く、大きな勢力を持っている。

一方で、無上ヨーガタントラ系の密教、呪詛、調伏法などは、完成したばかりの、王権を揺るがすとみなされて、導入されなかった。

この頃、チベットには、中国や、敦煌から、禅系統の仏教が、勢力を広げる。
功徳を積まなくても、禅定のみで、悟れるとの、主張である。

だが、インド仏教では、功徳の集積を強く求めていたゆえに、両者が、衝突するのは、時間の問題だった。

794年、サムイェー寺において、インド仏教と、中国仏教が、対決するのである。

論争は、足掛け三年に渡り、結果は、インド仏教の、カマラシーラの勝利を、王が、宣言した。

この背景には、ただ単に宗教哲学上の是非にとどまらず、頓悟を主張して現実世界における善行の集積を無意味とする中国仏教に、現体制を否定しかねない危険性を王が感知した点もあった。少なくとも、現実世界における善行の集積を重要とみなすインド仏教の方が、そのことに関しては、ずっと安全だった。しかし、この論争はあとを引いた。論争後まもなく、カマシーラは暗殺された。王も同じころ没し、しばらくの間、チベットの政界と宗教界は混乱をつづけた。
性と呪殺の密教 正木晃

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ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 8

翌日の、一日は、まったく予定は無い。
午前中に一度、近くの市場に見学に出た。

魚、野菜、その他諸々が、売ってある。
その一つ一つを、見て回る。
その、活気がいい。
ただし、暑い。

昼の食事をする店を、探した。
市場の食堂は、とても、安いのである。
その、一軒を見つけて、ホテルに戻った。

それだけでも、汗が噴出していた。

明日は、夕方の国内線で、バンコクに戻る。
そこで、チェックアウトの時間を、遅くしてもらうために、フロントに行く。
タイムオーバーだから、追加料金がかかるはず。だが、二時までいても、追加料金は、いらないという。
それではと、二時まで、部屋にいることにした。

そして、ホテル前の、女性が所有する、トゥクトゥクに、明日の、二時に、エアポートまで行くといい、料金を尋ねると、100バーツである。
それで、決めた。

昼になったので、市場の食堂に行く。
客は、いなかった。
店主と、奥さんは、大歓迎してくれた。

タイ語が、話せるかと、聞かれた。
出来ないと、言うと、奥さんが残念そうである。

タイ風ラーメンを頼む。
麺は、指差して、決めた。
さらに、魚介類を選び、主人が、示した、野菜も、入れることにした。

いつもより、量が多い。
暑い中、暑い麺を食べる。

30バーツ、100円である。
美味しかった。タイ語で、アローイという。
何度も、アローイといって、私は、店を出た。

果物が、食べたいと、市場で、小売している、おばあさんのところに、行く。
そこで、マンゴーを指差す。
5個で、15バーツである。
私は、皮を剥けないので、皮を剥いて欲しいと、身振りで、言った。
おばさんは、頷いて、一つ一つの、皮を剥いて、さらに、食べやすく、切ってくれた。

一人では、食べきれない量である。
ホテルに着いて、ベッドメークの、おばさんに、二個分を差し上げる。

マンゴーは、腹持ちがよく、夜まで、腹が一杯だった。

夜の食事は、イサーン料理の店に行く。
昨夜の、隣の店に行くことにしていた。

シャワーを浴びて、兎に角、体を、休めることにする。
私は、熱中症の対策をせず、外に出るので、実に危険である。

熱を、体に溜めたままにしていると、確実に、熱中症になるので、部屋で、体から、熱を取る。

そして、水を良く飲むのである。

ラオス、ビエンチャンの、支援は、あっけなく、終わった。
更に、二泊だけの滞在である。

ラオスは、地方に行くべきだと、考えた。
北と南へ、行くことにする。
山岳地帯の、村々には、物が、限りなく、不足している。

ラオスが、それなりの、国になるには、気の遠くなる、時間が必要である。
前回の、旅日記にも、書いたが、教育が、真っ当に行われていない。
それは、フランス植民地時代に、さかのぼる。
フランスは、知識人を増やすことを、恐れて、教育を、おろそかにした。それが、一つの、政策だった。

現政権も、教育に関して、まだ、曖昧である。
建物は、あるが、先生が来ない、教科書が無いという、状態である。

ごくごく、選ばれた者だけが、中国、上海などに、留学する程度である。
国民に、教育をさせないという、裏には、賢くなってもらっては、困るという意識があるものと、見る。

秘密選挙自体が、怪しい。
矢張り、独裁政権と言うしか無い。

多くの支援を、他国から、得ているが、国民のために、使用されているのかは、不明である。

少しでも反政府の行動があると、即座に、取り締まるというのも、独裁政権の、特徴である。

ラオスの、若者たちに、希望は、見えない。
どうしても、今の生活の中でしか、生きられないとの、諦観がある。

文明社会の、恩恵を受けられる人は、少数である。
国に、活力を与えるためには、若者に、教育が、必要不可欠である。

予算が無いため、海外からの、支援により、専門学校が、出来るようになったと、言うが、それ以前の、教育が、なされなければ、特別な子供たちだけが、通えるだけである。

貧しい村々では、文具もないのである。

更に、子供たちは、早くから、生活の手伝いに追われる。
結果、そのまま、大人になり、希望なく、生きることになる。

バイクタクシーか、トゥクトゥクの運転手になる程度の、希望である。

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