2010年06月01日

神仏は妄想である 260

チャクラについての、詳しい話は、省略する。

確かに、体の、部分には、特別な、意識の焦点があることは、否定しない。
だが、私は、体のすべてが、チャクラだと、考える。
チャクラという、観念を持つならば、である。

自己に意識を、向けるという、方法の一つが、タントラの方法であり、それが、インドの伝統的、瞑想法なのである。

タントラの思想が他の思想とくらべて際立っている点は、男であれ女であれ、人間はだれでも今いるこの現実世界から目をそらさずに生きていると信じるところにある。つまり逆に、タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的にであれ、自分を取り囲む生の営みに全面的に没頭するよう、われわれの目を向けさせるのである。
ムケルジー

われわれをがんじがらめにしている人間の本性的な側面そのものが、実は解脱への踏み石になりうるのである。
ムケルジー

人間の本性的な側面が、がんじがらめにしている・・・
だが、それが、解脱への、踏み石になりうる・・・

煩悩即菩提という、詭弁がある。
それと、同じことを言う。

こうした考え方に立てば、セクシャルな衝動もまた、無限と有限とが一つであることを示す宇宙の真理の扉を明けるための道なのである。「アーサナ」すなわちヨーガの姿勢をとって、男女の交合が成し遂げられるや、われわれは歓喜を味わうとともに、それぞれの可能性に目覚めることになる。
そして、
交合のあいだ、男女は行者として周囲に気をとられることはない。その心は解脱を願って燃え上がる。セックスのエネルギーを持続させることで、内面圧が高められる。こうしてセックスの活力がきわめて強力な潜在力に変えられる結果、霊魂が解脱にいたるのである。
ムケルジー

つまり、セックスタントラである。

インドには、カーマ・スートラとともに、四つの性の解説書がある。
それぞれが、影響しあっているのだろう。

享楽主義に根ざした人間の快楽を求める衝動も、精神的な経験に変えることができるのである。
という。
快楽主義の肯定である。

大きな快楽に身をゆだねても、それが正しい手ほどきと正しい動機付けがなされるならば、そのこと自体が一つの精神活動とみなすことができる。

インド人の、屁理屈全開である。

人間の肉体は全体として、確かに生物としての働きや心理的な働きがありながら、宇宙の力が自由奔放にあらわれる一つの道具となるのである。
ムケルジー

おのれのなかで、相対立するものを一つとすることで、それぞれの人間は、すべての経験を調和させ、そうして二元性を捨て去り、現象世界を超える。
ムケルジー

改めて、申すまでもなく、そんなことは、潜在的に、知り得ることである。
ただ、相対立するものを一つとし、二元性を捨て去りとは、観念である。

ここで言う、人間の側面、つまり、余計なものは、人間を生かしているものでもある。

性的欲求、欲望までも、タントラに取り入れて、それに、理屈をつけて、合一思想などを、語るということに、私は、一緒の、魔術的、怪しさを感じる。

現象世界を超えるというが、現象世界を超えて、どうするのか。
今、生きている、世界は、現象世界である。
その、現象世界を生きるという、命題が、生きることであろう。

超えて、どうする。

また、超えられると、考えること自体に、迷いを感じるのである。

タントラの図形には、男性原理と女性原理、つまり、「二にして一なるもの」の静止の面と活動の面が描かれている。かれらは触れ合える限り触れ合い、抱き合っている。このことは、二つのものが本来的に一つになるといった、相対立する力が全体として融和してしまうことを示している。
ムケルジー

様々な、セックス体位の、図が、描かれている。

結合させた男女が織り成す、肉体の結び目、つまり、交合の様が描かれる。
スタイルの異なる、84の基本体位がある。
実行可能で、心身に有益であることが、体位決定の条件となる。
可能な限り、全感覚を高めるのである。

それが、正しい動機付けと、正しい手ほどきが、必要であると、言う。

魂は、個人と宇宙が同一であることを、忘れ、解脱を得るまで、輪廻を繰り返すという、考え方がある。

インドでは、早くから、輪廻の思想が、幅をきかせていた。
勿論、仏教も、それを、取り入れている。

そのように、考えてもよい。
更に、輪廻思想を、主にして、生きることも、良い。

だが、解脱という、超越感覚は、非常に危険である。
宇宙と、同一である、意識に、あい成りました。
つまり、悟りました、である。

実は、悟らなくても、宇宙と、同一化しているのである。
何も、特別なことをしなくても、宇宙と、一体になっているのである。

何故なら、宇宙の外では、生きられないからである。
それを、強く意識せよ、ということなのだろう。
意識しても、しなくても、あるべきように在るのである。

このような瞑想を深めていくと、人は自分および世界について、新たな観察を加える力が身についてくる。事実、もし人間が相対的な見方に執着するような態度を毅然としてこばみ、それを乗り越えようとするならば、相対的な見方がどれほど輝かしいものであっても、それに縛られるようなことはないのである。

この「悟り」とは、いったいどんな意味があるのだろうか。悟りをひらく道、つまり悟りとは何かをわれわれに理解させてくれる道がみいだされないがきり、それはわれわれの理解を超えたものとなる。これが、タントラ・ヨーガの道である。ヨーガは、最も高度な精神集中をする上で必要なのである。このヨーガによってのみ、人は無意識のなかに眠っているすべてを展開させることができるのだ。
ムケルジー

つまり、狂うということである。
無意識の中に、眠るものを、すべて展開させれば、人は、狂うのである。
狂わずにいるということは、無意識のすべてを、展開させていないという、ことである。

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2010年06月02日

神仏は妄想である 261

タントラの行法は、ひとりの人間と、宇宙的な自我というか純粋意識、すなわちタントラ用語でいう「シヴァ・シャクティ」とを結びつけるための方法である。それは純粋な存在意識が喜悦する状態である。綿密に考えられた瞑想の行法によって、つねに潜在する偉大な力である。「クンダリニー・シャクティ」が人間の肉体のなかで目覚める。この力はタントラの行法、すなわち、「性交ヨーガ」を行うことによって、活性化し、意識的な真実に変わる。この「性交儀礼」は異性の相手とともに実行される。女性は活動的な女性原理シャクティの化身であると考えられるからである。
ムケルジー

すべての人間関係は、単なる思考の産物である。
だから、行法にあたっては、どんな関係にある女性でも、選べる。

だが、女性パートナーは、どんな生まれであるにせよ、容貌や、肉体的条件について、ある種の資格がいる。

また、ヨーガ行者は、すぐれた健康と、肉体条件に恵まれていなければならない。

湯呑みし、着物をつけ、坐して、礼拝し、花束や、香、食べ物を供えて、完全に無我の、精神状態になるという。

タントラ行法の、秘伝は、セックス・エネルギーの、おとろえる傾向を、制御する性交ヨーガを通じて、それを上向きにする方法の手順を説明する。

交合は、男女にとって、心の働きを一つの頂点に向けるタントラ的な方法の、一つである。

この男女の交合は、極めて烈しいために、二人の意識を宇宙の意識と融合させることができるのである、という。

何度も言うが、この、宇宙の意識といわれる、モノである。

誰が、それを、宇宙の意識と、認定するのか。

男女共に、条件を満たして、激しい交合をすると、それは、セックスにおける、オーガズムに至るだろう。
しかし、それを、セックス・エネルギーの、衰える傾向を、制御する性交ヨーガを通して、それを、上向きにする方法の手順を、指導するというのである。

クンダリニーの潜在エネルギーが、活動を始めると、二人の心は、礼拝するものと、される者が、合一する状態にのみこまれるに、至る。

彼らは、合一できた喜びに、浸りながら、絶対者、すなわち、純粋意識である、シヴァ・シャクティの中に、溶け込んでゆくのである。

二元性の合一についての、基本的なタントラの、考え方は、「左道」的な、つまりセックスの行を含む、礼拝儀式にも、表現されている。
入門儀式を経た後、ヨーガ行者と、彼の、女、シャクティは、ヨーガの行法を行うために、神秘的な円座へと、導かれる。

この行は、五摩事、五つの、Mの儀式として、知られる。

五摩事の、とは、左道的な儀礼の要素という意味である。

マディアは、酒、マンサは、肉、マツヤは、魚、ムドラーは、穀物、そして、マイトゥナは、性交儀礼である。

交合儀礼で、礼拝される、裸の女は、女神シャクティと、みなされる。

女と、ヨーガ行者との、性交は、非二元的な存在を象徴している。
交合儀礼は、真夜中に、選ばれた場所で、円座の中で、行われる。

行者が、女神となった、女と、身を合わせて、彼女を礼拝するとき、その一つ一つの抱擁、触れ合い、交合には、象徴的な意味がある。

マントラを唱えつつ、彼は、現実の肉体の五つの要素、土、水、火、風、空の要素を清める。
そして、火を起こし、色々な準備をする。
思考のプロセスを変えることで、タントラ行者は、新しく、生まれ変わり、彼そのものが、シャクティそのものと、結びつく。

交合を行う間、二人の心は、周囲には、無関心になり、彼らは、解脱への、衝動そのものになる。

セックス・エネルギーを持続させることにより、内圧が増し、セックスの潜在力を、恐るべき、強力なものに変えてしまうために、意識の流れが、解き放たれることになる。

この瞬間に、肉体と、魂は、一つになり、肉体の快楽が、解脱への、えもいわれぬ、精妙な喜びに、変わる。

以上、私は、演劇的であると、判断する。

儀式としての、セックスと、単なる、愛情に溢れる、セックスとは、何が、違うのか。
何も、違わない。

段取りをして、それに、屁理屈をつけて、行うのである。

それは、セックス時の、脳波による。
現代では、セックス時の、オーガズムによる、脳波の測定がされて、シーター波という、脳の、境地に達することが、明らかにされている。

それは、明らかにされなくとも、そのようであるということ。

健康な、男女であれば、誰もが、セックスによって、オーガズムを体験し、意識は、一体化する。
二人の人間が、交合によって、溶け合うのである。

ヨーガ行者でなくとも、誰もが、体験できるものである。

タントラによる、セックスヨーガとは、演劇性の高い、ショーである。
土の要素は、臭覚、水は、味覚、火は、視覚、風は、触覚、空は、聴覚と、関連し、この五つの要素は、一つ一つ、その潜在エネルギーとともに、それらの、根源に併合される。

究極的に、宇宙の認識母体に解消され、さらに、シャクティと、原初エネルギーである、プラクティに溶け合い、最後に、シャクティは、純粋なる、意識である、シヴァ、そして、プルシャに、併合されてゆくのである。

という、意味づけである。
こけおどしも、甚だしい。

勿論、私は、このような、伝統的、行為を、否定するものではない。
ただ、理屈が、過ぎる。

もし、万が一、日本の古神道であるならば、一切の、理屈は、無い。
淡々と、行為に始終して、その行為に、入ることで、善しとするだろう。
だが、古神道には、そんな、男女の合一、セックス行為を、儀礼的に行うというようなものは、無い。

兎に角、宇宙の意識云々とは、甚だしく、曖昧であり、観念的である。

人間の体は、宇宙の最小の形であり、その写しである。
私は、それだけで、十分である。

更に、人間の体は、宇宙そのものである、としても、いい。

つまり、人間の意識は、そのまま、宇宙意識なのであると、いえるのである。

ただし、そんなことを、考える暇の無い人が大勢いる。
暮らしを立ててゆくことで、精一杯な人たちである。
それは、それで、善し。


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2010年06月03日

神仏は妄想である 263

インド文化の、根底には、タントリズムがあり、それは、インド人の、様々な領域に生かされ、包括されている。
そして、ヒンドゥー社会の基盤ともなる。
更に、それは、仏教、ジャイナ教も、その影響から、逃れることは、できなかったといえる。

仏教の経典に、従来のスートラに、かわって、タントラという名があらわれたのは、七世紀の後半である。

タントリズムと呼ぶ傾向が、仏教の中に、取り入れられたのは、大乗仏教の中にである。

在家仏教の教団の中に、民衆の日常生活の、規範が、知らず知らずのうちに、侵入したともいえる。

仏像の造り方、礼拝の仕方、供養の仕方などが、次第に、仏教経典の中に、現れ始め、バラモン教の、宗教儀礼や、呪法なども、仏教に取り入れられた。

更に、アーリア起源、非アーリア起源の、神々が、仏教の中に取り込まれて、仏教の諸仏、菩薩、明王、諸天として、生まれ変わるのである。
純粋仏陀の、仏法というものから、どんどんと、遠のいたといえる。

釈迦仏陀は、それらの、迷い、迷信から、逃れることを、解いたはずである。

仏教タントラは、四種類がある。
所作タントラ、行タントラ、ヨーガタントラ、無上ヨーガタントラである。

所作タントラは、諸仏を供養したり、礼拝する儀式、及び、それを行うための、必要な、真言とか、讃、印契という、外面的な所作を中心にする。

行タントラは、その上に、内面的な瞑想の作法を加えたもので、特に、日本の、密教、空海が、重要視した、大日経である。

ヨーガタントラは、内面的なヨーガ、瞑想法を中心に、行者と、仏、菩薩との、合一をはかる、行法を解いた、金剛頂経などの、経典にあたる。

無上ヨーガタントラは、ヨーガタントラの行法を、より高度に、体系化する。
人間の呼吸、気管、脈管などの、生理作用を応用して、仏と、人の、一体化をはかる。
これは、方便・父タントラ、般若・母タントラに、分けられる。

方便・父タントラの代表とされる「秘密集会タントラ」は、俗説にいわれるように、禁欲的な秩序が崩壊したさいに生まれた秘密会議の産物という意味ではない。秘密集会という言葉からこういったイメージが抱かれがちであるが、人間の身体的な活動、言語活動、精神活動の三種の働きを「三業」と呼び、それらがもともと仏の三種の働きと同じであるところから「三秘密」ともいわれるわけで、この三秘密がタントラ名の「秘密」の本当の意味なのである。タントラ行者の「身語心」という三秘密を一体化することが「集会」であって、それによって究極の悟りが得られるとされるのである。
ムケルジー

ある、新興宗教の、密教系のS苑では、こともあろうに、この三秘密を、三密と言い、それが、真言密、天台密、そして、S苑密だと、馬鹿なことを言う。
子供騙しも、いい気なもので、教祖一家を奉り、信者に拝ませているという、仰天である。

更に、馬鹿なのは、信者であり、全く、仏教というもの、密教というものを、知らないでいる。
恐ろしいのは、霊能者養成である。
霊能者の、免許を与えるというもの。
つまり、密教的に、怪しさを演出するものである。
死んだ、信者たちが、どこに行っているのかも、知らない、霊能者であるから、終わっている。

父・タントラのヨーガの方法には、多少とも左道的な傾向が含まれているが、基本的には真理が曼荼羅諸尊として展開するプロセスを行者が観想するわけである。その場合曼荼羅の中心となる五仏だけが妃をともなっているけれども、その他に女性的な要素はない。
ムケルジー

般若・母タントラの代表の「ヘーヴァジラ・タントラ」や「サンヴァラ・タントラ」に説かれるヨーガには、ヒンドゥー教的な色彩が濃厚で、曼荼羅の主尊も少なくない。行者の呼吸とか生理を利用して、真理の世界に融合していくプロセスが説かれている。
ムケルジー

インド密教の、最後期の産物としては、「カーラチャクラ・タントラ」という、ヨーガの面でも、父タントラと母タントラの両方の要素を、一元化しようとした形跡が見える。
十一世紀頃に、出来たもので、その頃に、インドに侵入して、仏教を破滅に追いやった、一つの原因となった、イスラムにも、言及している。

さて、日本の密教は、このインドの、タントラを源流とし、中国で、発展した、密教の影響を受けている。
だが、所作、行、ヨーガの、三種のタントラを基盤とした、無上ヨーガ密教の伝統は、全く、受け継いでいない。
それが、インドで、起こったのは、九世紀以後のことで、空海が、中国に渡った時代には、中国仏教にも、伝えられていないのである。

それが、伝えられたところは、チベットである。
チベットは、無上ヨーガタントラを、主流にしている。

インドにおいては、13世紀以後、仏教は、ほとんど滅亡した。

つまり、タントラ仏教の、彫刻、絵画、曼荼羅、音楽、儀礼などは、チベット仏教に残されてあるのみ、である。

空海は、最後の、タントラを知らずに、中国の真言系のタントラのみ、身につけたのである。

そして、それを、自分なりに、思想体系化した。
優れた、頭脳の持ち主であるが、また、壮大な妄想力である。

仏教タントラでは、男性原理は、方便、女性原理は、般若と呼ばれ、両者の合一を、大楽という。

般若は、智慧であり、真理の世界にぞくするもの。それは、永遠に不滅であり、活動する事が無い。
対して、方便は、般若の活動を起こさせる元になる。
般若だけで、方便の活動を伴わなければ、真理も無意味である。
また、般若に基礎を持たない、方便も、危険である。

般若と方便とが、一体化して、はじめて、真理が完全に、顕示することができるという。
それを、大楽と、称し、男女の交合した姿で、シンボリックに示している。

だから、究極を言うと、インドのタントラを、知らないで、日本密教の云々は、無意味である。

空海が、創作した、日本密教であるという、方が、すっきりする。
空海が、重要視した、大日経については、後で、検証する。

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2010年06月04日

神仏は妄想である 263

仏教において、タントラの思想は、単色、または、彩色した図形によって、表現される。

ヒンドゥー教では、ヤントラと、言われ、仏教では、曼荼羅と呼ばれる。

ヒンドゥー教のヤントラは、三角形が基調で、上向きの三角形は、男性原理を、下向きの三角形は、女性原理を象徴し、複数の、三角形を交互に組み合わせたものが、基本である。

曼荼羅は、九世紀のはじめ、空海よって、金剛界と、胎蔵界が、一対になった、両部曼荼羅が、もたらされた。

曼荼羅は、仏や、菩薩の集合図のように、思われているが、もともとは、インドで、神々を招いて、祭祀を行う際に、土壇を築き、その儀礼を仏教が、取り入れたものである。

仏教が取り入れたというが、それは、大乗仏教である。

仏教の曼荼羅は、ジャイナ教のような人体宇宙図や、ヒンドゥー教のような、人体、蓮花、チャクラ、鳥獣、さらには、三角形と四角形の組み合わせはない。
すべて、仏、菩薩、明王などの、具体的な姿をとって、表現される。

両部曼荼羅という、考え方は、中国独特の考え方で、インドに起源を求めることは、できない。

胎蔵曼荼羅は、行タントラの代表経典とされる、大日経に基づいて、描かれたもので、中央の大日如来の周囲を、四仏、四菩薩を並べた、八葉の蓮弁が、取り囲む。

中央八葉院と名づけられる、中心部の四方を方形に囲む十一のセクションからなる。

内側には、釈迦、文殊、観音、金剛手など、仏や菩薩が、グループごとにまとめられ、一番外側の四方の囲いは、ヒンドゥー教の神々で、埋められている。

この、曼荼羅の意味は、母親が、胎児の成長のために、限りない慈しみと、愛情を注ぐというように、仏陀が、生きとし、生けるものに、無限の大慈悲を及ぼすという姿を、図形にした。

金剛界曼荼羅は、ヨーガタントラの代表とされる、金剛頂経に拠って、描かれたもの。
金剛とは、堅固で、壊れることのない、悟りの心、すなわち、菩提心をダイヤモンドにたとえて、それを、本体、すなわち界とする、曼荼羅という意味である。

全体を縦横三種の、枠によって、区切った、九個の囲いからなる。
中央が、成身会といわれ、全体の核となる、部分で、大日如来を中心に、三十七尊よりなっている。

胎蔵曼荼羅には、大乗仏教により、取り込まれた、膨大な数にのぼる、仏、菩薩、明王から、星宿、鬼神にいたるまで、整理されている。

金剛界曼荼羅は、大日如来を中尊とする、四仏を核に、合計三十七尊からなる。
大日如来以外の、諸尊は、金剛の名を持つ、密教独特の菩薩に生まれ変わっている。

つまり、胎蔵の方は、仏、菩薩、ヒンドゥーの神々をそのまま、取り込んだもの。
金剛の方は、それに、仏教独特の、考え方を、付け加えたものということになる。

後期のインド密教、チベット密教では、金剛曼荼羅のみを、生成発展させた。
胎蔵曼荼羅の必要性が、無くなったといえる。

曼荼羅というもの、タントラ美術である。
美術以外の、何物でもない。

一体、それに、つまり、タントラ美術に対して、信仰という、対応が、如何なるものか。

現代に、それが、美術として、理解されるが、宗教的な、意味づけは、もはや、意味を成さないのである。

さらに、仏教という宗教、釈迦仏陀の、仏教という意味では、全く関係が無い。

そのような、方法、修行などを、徹底して否定したのが、釈迦仏陀であるから、どう、見積もっても、空海の密教というもの、仏教とは、認められないし、また、甚だしく、空海の野心による、誇大妄想といえる。

インドタントラというのは、インドの伝統として、認めることは、できる。
それぞれの、民族の、持つものである。

それを、日本に輸入し、さらに、宗教の位にまで、上げて、さらには、空海は、天皇まで、取り込んで、我が世の春を生きたのである。

空海を、一人の天才と、認めることは、出来るが、彼の、創作、妄想した、想像の産物、大日如来の存在などは、妄想以外の何物でもない。
大日如来は、空海の妄想ではないが・・・大日経による。

大乗により、堕落した、仏法が、更に、堕落して、密教まで、生んだこと、嘆かわしい。

大乗とは、詭弁の何物でもない。
在家信者を中心にした、仏教復興運動とは、聞えはいいが、単なる、新興宗教の域である。

更に、日本の、仏教、特に、鎌倉に代表される、仏教は、釈迦仏陀の、仏法とは、全く関係無いものである。

ということは、すなちわ、それから、出る、すべての、仏教系の新興宗教は、仏法とは、全く関係ないものである。

以前に書いた、法然、親鸞、道元、日蓮などは、ただ、迷っただけである。
いや、それぞれが、新しい宗教を拓いたというならば、理解するが、彼らは、仏教と、名乗り、仏法を語るのであるから、実に、浅ましく、愚かである。

ただ、許せるのは、彼らの時代は、情報が、少なく、それが、事実だと、信じたことである。
現在では、それらの、成立過程が調べられ、どのように、出来たのかが、分るようになった。

騙されないのである。

それでは、例えば、日本の神道の場合などは、宗教ではなく、伝統としてあり、誰も、神道布教などはしない。
生活の中に、インド人が、タントラを有するように、日本人は、神道を有するのである。

それを、インド人に、布教するものなどいない。
それと、同じである。

いくら、天竺に憧れたとはいえ、それはないであろう。
更に、中国を通して、伝えられたものである。
中国人の理解を、通して、伝えられたのである。

更にいえば、生成発展した、チベット密教などと、比べると、大人と子供の差であろう。

密教に限っていえば、である。
私は、チベット密教にも、怪しさを観るものである。

もし、チベット密教に力があるならば、中国から、ダライ・ラマが、インドに亡命する必要は無い。
その、呪術に力が無いのである。

更に、即身成仏を果たしたならば、この世の国など、無くても、いいだろう。

チベット民族に対する、問題ではない。
私は、チベット民族の、理想的な、中国における、自治を願っている。


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2010年06月05日

神仏は妄想である 264

インドの伝統である、タントラの説明をした。

さて、そして、桐山氏の、お説である。

真言密教に「虚空蔵菩薩求聞持聡明法」こくうぞうぼさつぐもんじそうめいほう
略して、「救聞持法」がある。

かつてこの法を修行して大天才になった空海は、その著「三教指帰」にこう書いている。
「ここにひとりの沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。経にいわく、もし人、法によりてこの真言一100万遍を誦すれば一切の教法文義暗記することを得んと。大聖の誠言を信じ、阿国大滝の嶽に登りよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響き惜しまず、明星来影す」

満願の日、明星が飛んで、空海の口に入るというのである。

私は、かつて、この法を、自分の体験にもとづき、「目がカメラになり、耳はテープレコーダーになる」と表現した。
実際に、この法によって訓練した頭脳は、一度、目にし、一度、耳にしたことは、ぜったいに忘れぬ記憶機構を持つようになる。しかもそれはただ単になんでもおぼえてしまうというだけではなく、創造力を飛躍的に増大させ、発想が常人とまったくちがうようになる。まさに、大脳の生理機構が一変してしまうのである。
桐山靖雄 密教入門

更に、これが、即身成仏を可能にする、頭脳を作り出すというのである。

常人と全く違うようになる。
当たり前である。

七日間の断食と、一日四回の滝行を兼ねた、吹雪の中の、荒行に入って、彼は、苦行の頂点に立ったという。

そのときわたくしは一種の異常感覚の境にはいっていた。わたくしのからだの奥ふかくでひとつの機能が死にものぐるいでたたかっているのが感じられた。それがどのようにしてたたかっているのか、そのときのわたくしの目ははっきりととらえていた。そのとき、肉体の目は全く消失し、べつな目が肉体の外にあってわたくしを見つめていた。その目はわたくしの内臓のすみずみまで見透していた。
桐山

その分析を、このように言う。

副腎とよぶ機能の高まりであったこと、そうしてそれは、クンダリニー・ヨーガで、ムラダーラ、およびマニピューラとよばれるチャクラの部位であるとこがわかったのである。
桐山

そして、ヨーガの体得に深く没頭したという。

確かに、その苦行の努力は、壮絶なものである。
しかし、釈迦仏陀は、それを、否定して、仏法を語ったのである。

七日間の断食と、滝行での、荒行をすれば、どこかが、変化するのは、当たり前である。
更に、異常感覚を持つことも、当たり前である。

そして、即身成仏するための、頭脳を持つに至るという。
そのように、信じたということである。

彼も、信じなければ、始まらないと、鎌倉仏教の開祖たちのようなことを、言う。

明けの明星が、口に入ったという、空海の、体験も、異常である。
そして、それは、本当に、異常なのである。

明星の、響き、波動を受ける、それと、同じ波動になる、同化する、などなど、何とでも言えるが、それは、異常なことなのである。

異常なことを、通して、人生を観るという行為を、釈迦仏陀は、否定した。

勿論、仏教ではなく、新しい宗教だというならば、それであろうが、それでも、異常である。

火事場の馬鹿力などのような、修行を真っ当にやるというところは、認められるが、それだけのことである。

ただし、彼が言う、既成の、真言密教などは、すでに、死んでいる。
単なる、バラモンの、ヒンドゥーの、儀式の、真似事で、終わる。
真似事は、真似事である。

後は、理屈のみ。
これでは、桐山氏には、適わない。

兎に角、桐山氏は、師匠なくして、一人で、それを、行った。それには、彼の、特異体質があったと、自身で言う。

だが、得意体質ではなくても、しっかりと、教えられれば、出来ると言う。
それが、彼の宗教の、存在理由である。

体験をし、更に、それを、理論的に、様々な、分野から、解釈する姿勢には、尊敬を覚えるが、矢張り、異常は、異常であり、異常である行為でなければ、即身成仏のための、頭脳が作られないならば、止めた方が、無難である。

多くの人、精神的に、おかしくなる。
師匠が、ついていても、異常から、抜けられない。

精神的に、おかしくならない人は、数少なく、更に、鈍感であり、桐山氏のようなわけには、いかないのである。

あくまでも、その人、一人の、身にあてはまることである。

ちなみに、その程度の、修行ならば、インドに行けば、どこでも、出来る。
勿論、皆、精神的に、おかしくなるか、迷いの道に入る。

心身脱落して、悟りの境地に入ったという、インド帰りの人に、多くあったが、たまたま、精神病にならなかっただけの話で、他の人は、そのまま、おかしくなり、インドに、留まるのである。

民族的な、体質の違いもあるが、それは、特異体質であり、異常な出来事である。

荒行とは、山岳信仰、山伏などが、得意な分野であるが、彼らは、社会生活が出来ないほど、精神を、心を、やられる。
社会不適応の者、実に多い。
そして、頑固であり、融通が利かない。

ただし、それも、そのようにしか、生きられないから、そのようであると、言える。

吹雪の中で、滝に打たれるという、異常は、尋常ではない。
肉体を、極限まで、追い詰めるという、難行苦行は、釈迦仏陀が、体験して、必要無しと、認めたものではないか。

更に、ヨーガの、チャクラの問題も、妄想である。
チャクラというならば、肉体のすべてが、チャクラである。

神経も、リンパも、経絡といわれる肉体の、経路も、すべて、肉体の全体を回る。
気の流れというものも、肉体全体に、行き渡るから、生きているのである。
そこに、特別な、点を設ける必要はない。

この人の言う、即身成仏するための、頭脳を作るというのは、超人になるということなのである。
その、超人が、仏というものなのであろう。

だが、完全に何かになるという、妄想は、消えないようである。

それを、もう少し見ることにする。

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2010年06月06日

神仏は妄想である 265

厳寒に氷を割って滝に飛び込むという、肉体にとって最大の危機にそなえ、全身の細胞が全エネルギーを燃やしてたたかっているのだとわかった。凍てつくような寒気の中で飛び散る水しぶきを目にしながら行衣と着がえるとき、わたくしの全細胞は奮い立ち、十数年、若返っていたのである。
桐山

実に、激しい、苦行をしたものである。
そして、得た結果が、音響についてである。

その前に、言う。

私の郷里は、北海道の、日本海岸線の寒村である。
冬の、凍てつく、氷りつく、海に漁に出る、漁師たちを、見て育った。
いつも、このような、寒修行を聞くと、思う。
何故、人の役に立つ、漁をしている人が、何も、修行のことを言わないのかと。

彼らの方が、命懸けで、冬の海に、漁に出掛けている。

宗教の、あるいは、この手の、修行は、実に、傲慢である。
更には、そこから、人を指導するという、傲慢は、計り知れない。

それで、一体、得たものが、仏の、云々とは、呆れるのである。

若返ったという。
漁師たちも、それで、若返っているはずである。

彼は、一定期間であるが、漁師たちは、一生である。
その、違いは、遥かに、大きい。

よって、このような、修行は、道楽の、何物でもないのである。

しかし、彼が言う、音響を見てみる。

声が、脳に及ぼす、震動効果というものを、見出したようである。

百万遍も、同じ言葉を、唱えていれば、脳のどこかも、おかしくなる。
だが、
古代ヨーガでは、すべての形態はその形態固有の特質を持ち、それは環境の振動数の組み合わせの結果であると考える。つまり、振動数が、ものの形態をつくり上げ、そのものの性質を決定するというのである。これは決して無稽なものではない。いや、それどころか、それが正しいと思わざるを得ないよく知られた実験がある。
桐山

その実験の結果は、サイマティックスと呼ばれる、科学の分野を生み出した。
その基本原理は、「環境の圧力は波動のパターンをになわせられており、物質は波動の振動数に依存する形態をとって、これらの圧力に反応する」

更に、進んで、音を、不活性物質の目に見える三次元のパターンに変える「トノスコープ」という、機械が、発明された。

オーという、文字を発音すると、完全な、球体のパターンを作るという。

「Oという音の振動によって生ずる形が、まさにわれわれが文字で象形的に表そうと選んだ形そのものであることは、驚くべきことであるとうべきではないか」
ライアル・ワトスン

そして、桐山氏は、言う。
ところで、円は、ふつう、円満、調和、完全、完成などを意味する。そうして、つねに調和と完全を説く古代ヨーガが、オームという語を「聖語」として用い、その系統をひく真言密教の真言、マントラのほとんどが「オーム」という語ではじまっているのは、それ以上におどろくべきことであるというべきではないか。

確かに、その通りである。

そして、真言の真髄が、解ったというのである。
それも、理解する。

真言密教には、声明というものがあるが、それでは、足りないという。
私も、そう思う。
あれは、単なる、歌であるとの、指摘も、その通りである。

わたくしの真言読誦はちがう。口腔に発した真言の震動を共鳴させながら、からだの内部、すなわち心と胸の深部に響かせてゆくのである。
桐山

真言の、字ではなく、その震動であるという。
その通りである。

ホトケのとなえる真言の震動が、ホトケのへそからわがへそに入って咽喉にいたり、大震動を発して大脳の深部にいたり、大脳の部位を動かす。わが大脳のチャクラを動かした震動はしだいにホトケの大脳にいたり、ホトケの大脳とわが大脳と共鳴する。というように観想しつつ、実際に震動を発生させるのである。
桐山

氏は、発声法から、呼吸法まで、徹底的に、研究したという。
ご苦労なことである。

ホトケの大脳とわが大脳と共鳴するというように、観想する。
ここに、問題がある。
観想する。
思念する。思い込む。信じきる。

チャクラを使い、氏は、それに成功したという。
それは、自己申請であるから、何ともいえないが、確かに、震動による、云々とは、説得力があり、本来の、真言密教の、行者よりは、マシである。

そして、矢張り、異常な体質になるという。

脳の、チャクラの刺激によって、あらゆる、刺激が、今まで以上に強くなり、感じやすくなる。
つまり、過敏性体質になる。

それを、制御しなければ、通常の生活は、送れない。
異常である。

異常は、異常の何物でもない。

そして、氏は、それを、制御する方法を覚えたという。
それは、本当に、よかったと、思う。

異常は、精神疾患となるからである。

平常はこの感受力を微少なものにしておき、必要に際して拡大するのである。このチャクラの目ざめによって、わたくしは、すべてのものがいろいろな振動をはなっていることを、実際に、身を以って体験したのである。存在とはまさしく振動そのものにほかならぬのであった。
桐山

その、異常な感受性を、利用すれば、予知なども、簡単に出来るだろう。
また、我が身に、危険のある、人や物、場所などが、解るだろう。

何故、古代ヨーガにそれが、あるのかといえば、古代人は、それを、有していたからである。人間は、進化によって、それを、必要としなくなったのである。

古代人は、現代の人よりも、当然、ある感覚が、優れていた。
また、優れなければ、この厳しい自然の中を、生き抜けなかった。

それを、今、科学で、解明し、元の感覚を、別なものに転化させて、利用しようとしている。
そして、それが、正しい。

ホトケという、不明な存在を、観想して、そのような能力を得ても、宗教の開祖になるのが、関の山である。

更に、それを持って、人を指導するとなると、人を迷いの道に引き込むのである。

確かに、特殊能力であろうが、それらは、別なものによって、変えられて存在し、それを、利用して、人間の生活がある。

異常事態は、パニック障害などの、発作を起こす人にも、ある。
特殊能力である。
更に、抑うつも、そうである。

そのようなことを、しなくても、五感により、事を感じて、十分なのである。
その、当たり前の、五感の中に、生きる輝きを見出すことである。

妄想の、ホトケと、共鳴する必要は無い。

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2010年06月07日

神仏は妄想である 266

桐山氏は、様々な、知識と教養によって、自身の修行の正当性、または、説得力を力説する。
それは、十分に、評価する。
だが、人は、最初からの、考え方を、それに添うように、説明する。そのために、知識も、得る。妥当である。

さて、もう少し、彼の、考えたことを、見る。

それは、求聞持聡明法にいうところの、明星に対しての意味である。

われわれが、他の天体からの、無数の粒子にさらされていることは、すでによく知られた事実である。それはむしろ地上にあるものよりはるかに多量で、わたくしは、地上にあるものはすべてこの天体からの波動を受けて振動しているのではないかと思っている。
桐山

その主なものは、宇宙線である。
それは、現実に、一分間に一センチ四方あたりおよそ六十五万粒という。それが、体を突き抜けている。
更に、頑強な鉛のバリヤーも、素通りし、1000メートルの海底にまで、達している。

ラジウム、レントゲン等々のほかの放射線とおなじように、宇宙線も二つのはたらきを持っている。一つは突然変異を引き起こすこと、つまり遺伝子に変化を起こすことであり、もう一つは組織を破壊してしまうことである。
ヤコブ・オーグスター

勿論、宇宙線は、生物の組織を破壊するが、生長の促進もする。
ある天体から、放射された、宇宙線の波動は、人間の内分泌を刺激して、気分を昂揚させたり、能力を高める働きをする。

それも、十分に、有り得る。

最も、高い確率で、人間の体に影響を与えるのは、月の働きである。
また、自然の働きにも、大きな影響を与える。
それも、十分に、理解する。

大地の震動、大気の潮汐、宇宙線などにすべて共通していることは、それらが非常に低いエネルギーで作用しており、きわめて微弱な信号を送り出していることである。見えない月の位置、見ることの出来ないイオンの濃度、地平線上の惑星の微弱な磁気の影響などのような刺激に反応する生物の明らかに超自然な能力は、すべて単一の物理的現象―――共鳴の原理に帰すことができる。
W・ワトスン

確かに、それはあるが、微弱である。
微弱でも、それを、使いこなせば、超自然の能力を得られるという、根拠である。

そこで、求聞持法の、明星である。

空海の口に入ったという、明星、つまり、金星である。

チャクラが目覚めてからはじめて、暮れかけた東南の空に向かって座ったわたくしはすぐにわかった。明星が、決して単なる神秘感をいだかせるだけのものではないことを。
桐山

マントラの読誦による脳の覚醒だけでは充分ではないことがわかった。それは、金星からの波動の受信装置、共鳴装置と思えばよかった。それと、行が成就したのちにさらに明確になったことがある。
桐山

明星だけではなく、それに、付随して必ず、現れる、在る星であるという。
それは、秘密だそうだ。
その星のとの、相乗効果が、重要だったという。

いままでだれも気がつかないおもしろい「受信装置」のあることに、わたくしは気がついたのである。
桐山

それが、彼の、宗教立教の元なのだろう。

それが、彼の、妄想なのである。
そのように、思えた。確信した。
つまり、彼の、妄想力ゆえのものである。

そのことを、説得するために、学者の、論文などを、引用する。

しかし、それ以上になると、それは、彼の妄想である。
そして、それを、確信して、彼が、何らかの能力を得たという、思い込みである。

激しい修行の、暁に、彼は、彼自身を、納得させる、あることに気づいたのである。それは、彼自身のものであり、他の誰でもない。

私は、知ったのであるという。
そして、その知ったことは、私から、見れば、妄想なのである。

地球に降り注ぐ、多くの宇宙線の云々より、太陽の、光の、その大量のエネルギーを、差し置いて、微弱な、星星の云々を言う。

古代の人が、太陽を拝したのは、彼らは、太陽エネルギーによって、生きること、すべての、エネルギーと、栄養を得ていることを、知っていた。
それに比べれば、他の星、惑星などは、単なる、微量である。
勿論、微量であることで、否定はしない。

ここで、あえて、太陽の光にある、様々な、エネルギーと、栄養素は、省略する。

太陽に比べて、はるかに、劣る、金星や、その付近の星の、云々は、それほど、重要ではない。

そこから、何がしかの、波動を受信したと、思い込むのも、自由である。しかし、私は、それを、妄想であると、判定する。

それが、仏との、共鳴などというのは、話にならない。
また、仏の意識と、同じ意識云々というのも、単なる妄想である。
仏に意識があるのか・・・

大日経の、大日如来は、太陽のことであろう。

決して、今までの、修行者は、太陽と、共鳴したとは、言わない。言えない。太陽と、共鳴すれば、即座に死ぬ。
死ねば、口なしである。

桐山氏の、努力は、否定しないが、それで、密教の、妄想に入れ込んだと、解釈する以外にない。

その、発見に、敬意を表して、桐山氏の、お話は、終わることにする。


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2010年06月08日

神仏は妄想である 267

それでは、空海が好み、更に、それにより、壮大な思想体系を、作り上げた、大日経を、見ることにする。

大日経は、仏教経典成立史上、最後期に、属する。
西暦7世紀の半ば頃である。
西インドにて、成立したと、考えられる。

成立後、間もなく、各地に伝わり、七世紀後半には、中インド、北インドまで、伝播していたという。

だが、作者不明である。

それが、恐ろしい。
更に、七世紀とは、実に、仏教発生、釈迦仏陀から、千年以上を経ている。

その、大日経の作者は、どのような、思い、状況の中で、それを、創作したのか・・・

経典全体を流れる思想的傾向は、インドの、思想の諸要素を綜合的に、捉えている。
インド古来の、伝統的精神、宗教思想、つまり、バラモン、そして、バラモンの儀礼、社会的習慣を取り入れ、二世紀頃から、活発になった、大乗仏教の思想も、取り入れている。

般若経、華厳経などの、経典も、含まれているといえる。

有限な現象界にありながら、無限の絶対界に生きる道があるのか、生きる営みが、生きることそのことが、かぎりなく楽しい遊戯三昧であるような心境にはどうしたら到達できるかを、密教の流れの中にあって思索し、いろいろな瞑想法を試みた。やがて、教理の研究によってばかりではなく、密教禅、秘密ヨーガ法の実修によって、心身の直接体験を通じて、仏教徒の理想、釈迦の悟った法「真理」を得、彼の到達した心境を自分も味わいたいと、インド人独特の強烈な宗教的情熱をもやした。
そしてついに、現象界にありつつ絶対界に生きる叡智を見出す道は、自分にとってこれであるとの確信を得るにいたった。そして、その道を他にも伝達したいと願い、絶大な自信と宗教的権威をもって「大日経」の執筆を始めた。
日本の仏典より

インドの、密教信奉者が、大日経の、作者であったと、想像されるようである。

しかし、その根拠は、皆無である。
それが、冗談であることでも、作者が、不明である。

上記の、文は、肯定的に、あるいは、好意的に、解説しているが、作者が、冗談のつもりで、書いたかもしれないのである。
あるいは、密教を、仏教に入れ込んで、仏教を取り込もうとしたということも、いえる。

推測、憶測で、研究家が、言うが、その根拠は、皆無である。
権威というのは、空海、最澄が、尊んだ経典であるということ、のみ。

更に、それは、漢訳されたものである。

ただ、確実なことは、インド古来の伝統的精神文化と、宗教思想、儀礼、社会的習慣を、取り入れているということである。

作者が、壮大な妄想癖の、持ち主だったという、可能性も、大いにある。

釈迦仏陀以外にも、悟った人は、吐いて捨てるほど、存在した。
何故、釈迦の悟りを、求めたのか。

更に、密教とは、仏教とは、全く関係ないところの、バラモン、あるいは、インドの、伝統である、タントラの思想であろう。

結果は、バラモン、そして、後の、ヒンドゥー教に、釈迦仏陀も、一人の神として、奉られたのである。

自分にとって、これであるという確信を得た、というが、それは、自己申請であり、それを、そのまま、はいそうですか、と、受け入れることは、どうなのだろうか・・・

結局は、信じる、信仰するという、結果に行き着く。

そんなことでは、真理といわれるものなど、見える訳が無い。
更に、真理など、無いものである。

この世は、事実があるのみで、真理と、呼ばれるものが、一つでも、あるだろうか。

それは、信じる以外に無い。
そうして、信じて、騙されている者、多数。

信じて、救われていると、思うのは、勘違いである。
信じて、皆、一つの、あるいは、多数の、誤魔化しに、生きるのであり、更には、迷うのである。

馬鹿も、休み休み言えである。

釈迦仏陀が、悟った法というのが、真理であるとは、一体、誰が、確認できるのだろうか。
誰も出来ない。
ただ、それを、信じるというだけである。

信じていては、救われないのである。

更に、こけおどしのように、奇跡のような、手品を見せられては、興ざめする。

現象界にありながら、絶対界の生きる、叡智とは、何か。
この世が、現象の世界であることは、解るが、絶対界とは、何か。
実在界という人もいる。
つまり、霊界である。

霊界も、相対的な世界であり、絶対という、姿は、在り得ない。

絶対界が、存在するものだと、仮定しての、行為であろう。

また、絶対界というのは、妄想の世界である。
その証拠は、人は死ぬのである。
心が、絶対界に、遊んでも、人は確実に死ぬ。

死ぬことによって、絶対界に行くというのは、ただ、信じることである。
更に、宇宙には、唯一絶対などという、モノは、存在しない。

存在するのは、宇宙という、モノのである。
それを、どのように表現してもいいが、それは、芸術であり、信仰の世界ではない。
信仰の世界とは、解らないと、表明する世界である。

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2010年06月09日

神仏は妄想である 268

漢訳「大日経」は、七巻三十六章から成り立つ。
六巻三十一章までと、最後の一巻五章は、善無畏の訳であり、インドでの成立事情も、中国への、伝来の歴史も異なる。

前者は、北インドで、病死した、無行が、インド留学中に、写本した梵語本から、漢訳したものであり、後者は、善無畏が、北インドで手にし、自ら中国にもたらし、訳した際に、最後部に編入したものである。

第七巻は、前六巻の作者と、思想傾向も、修行傾向も、同じか、極めて近い立場にあった、密教信奉者の手によったといわれる。

チベット訳は、第七巻に相当する部分は、全く別のものとされて、大日経の、一部をなしていないとは、研究家の言うことである。

それでは、大日経の内容とは、何か。
第一部は、理論篇、第二部は、実践篇、第三部は、実修篇の手引きとなる。

第一部は、「入真言門住心品」と呼ばれ、経典の、眼目である。

利他の万能の働きをする、仏の智慧は、何が原因で、開発され、どんな基本的性質を持ち、それの完成とは、どんなことを指すのかという、問いで始まる。

仏の、答えは、菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便をくきょうと為す。
くきょうとは、境地である。

仏の智慧は、悟り、菩提を求める心が、原因となり、その智慧は、慈悲的なものであり、利他のために、自由に発揮されるようになったとき、完成に達するという。

これが、大日経の、目指す、悟りの完成、仏の智慧の獲得である。

次に、いかんが菩薩とならば、曰く、実の如く自心を知るなり、である。
これが、大日経の、旋回軸であり、この軸の上に、全経典の法輪が転ずる。
つまり、悟りとは何か。それは、実の如く自心を知ることのなかにある、ということ。

如実知自心、にょじつちじしん、への、手引きということになる。

それは、我を知ることではないという。
大きい肯定の思想、存在者の未開の偉大な、可能性の指摘であり、賛美であるという。

そして、仏は、求道の方向を示す。
「自心に菩提と一切智智を尋ね求めよ」
一切智智とは、完成した仏の智慧である。

仏は、悟りと仏の智慧を、自心に求める理由を説く。
自心は、その本性清浄になるが故に。

仏から見ると、人の心の本来の性質は、清浄で、仏の智慧のそのものである。
すでに、悟りに至っている、という。

住心品は、迷える、六十の分析をして、心の解明に力を注ぐ。
悟りを求める心、菩提心の発展段階を説くのである。

空海が、書いた、十住心品も、そのほとんどが、ここに記されてある。

その方法は、肯定的にのべた事柄を、次の段階では、否定し、さらに、もっと高い綜合的な立場を、暗示する。ものの見方、考え方の転換と、新しい立場の発見を促すのである。

第二部は、「入曼荼羅具縁真言品」である。
第二章から、第三十一章の「属塁品」までの、大日経の大部分を構成する、実践篇である。

第一部で、示された思想を、自心に悟りを尋ね、自心に仏の智慧を求めるための、実践法を説く。
主として、秘密ヨーガの実修の心得、瞑想の順序、何を瞑想し、瞑想中に、どんな真言を唱え、また、それぞれの真言を唱えるときに、どんな心境になるべきかを、述べる。

第三部は、簡潔に、秘密ヨーガの実修の心得と、内容を説明する。
梵語の大日経の、原典になかった、この部分は、後進のために、善無畏が、加えたものである。

理論と、実践の一致を求める、心身の動きが、人をある時は、急に、ある時は、徐々に、今まで見えなかった、感じられなかった世界と、ものの見方を発見させるように、出来ているという。

このような、構造を持つ、経典は、他の、漢訳大乗経典の中にも、密教経典の中にも、見当たらない。

大日経は、経の中に、梵語のままの、不可解な真言や、梵字が、散在し、曼荼羅を土の上に描く方法や、灌頂などの、種々な宗教儀礼が、説明不十分な形で、続出する。

当然である。
それは、インドの伝統から取り入れているのである。
説明しなくても、インド人ならば、バラモンの伝統を知るものならば、理解できるのである。

内容は、興味深いたとえ話も、劇的効果を狙う筋もない。
感情に訴える、要素も乏しい。

創造的空想力と、秘密経典に相応しい、神秘的直感の荘厳な世界を示すといわれる。

いかにして、この世界の住人となるかということを、解くのである。

第二章以下は、専門家の、秘密の備忘録のようである。

さて、問題は、他の、経典と、明らかに違うところは、歴史的釈迦仏陀の説いた、教えではないと、明確にしていることである。

仏説ではないのである。

大日経は、歴史的仏陀の、説であると、言わない。
歴史的仏陀が、出現しても、しなくても、存在する、法、つまり、真理、法の体、法の身、そのものが、自己展開するとの、立場である。

そして、この永遠の法身と呼ばれるものは、永劫に存在し続ける、創造の母体である、大日如来であるというのだ。

現象界は、この創造の母体の、自己表現であるという、直感が、この経典を、貫く。

実在者、大日如来が、自己を多様化した、存在に答えるという、形式をもって、記述される。

一であると共に、多であるという、大日如来の、独り言である。

空海は、これを、自受法楽の法門と、いった。

その思想は、真言教学の土台となり、実践法は、密教禅として、事相と呼ばれる、実修法の、基礎となった。

天台の中でも、思想と、実践は、天台密教として、発展する。

つまり、日本仏教の、底流を流れるものである。

ここまでは、概要である。

仏陀を、仏陀ならしめた、法、真理そのもの、法身、それが、大日如来だという。

それが、インド伝統の、タントラなどから、派生したものであるということ。
それを、何故、釈迦仏陀の、法として、採用したのか・・・

仏陀というのが、悟った者だった。
そして、その悟りは、法なのであり、その法の、根本実在が、大日如来であるという、結論である。

今までの、経典とは、全く違った立場にあるものである。
仏説ではないのだ。

つまり、仏教と、言わなくていいのである。
そして、それは、仏教ではない。
新しい宗教である。

仏陀の悟りは、出汁である。
つまり、悟りは、仏陀と関係ない。
悟りは、仏陀からのものではない。
悟りの、本体は、大日如来からのものである。
明らかに、既成仏教とは、対立する。
この、創造的妄想は、また、実に激しいものである。

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2010年06月10日

神仏は妄想である 269

神仏は、妄想である。
どう、足掻いても、妄想から、脱することは、出来ないのである。

妄想、それは、人間の想像であり、創造である。

人間は、その想像と、創造以上のものを、見出すことは、出来ない。

神が存在するという、想像であり、創造である。
仏が存在するという、想像であり、創造である。

主イエスが、歴史的に存在した、そして、彼は、われは、神の子であると、言った。それが、事実である。
しかし、彼の言う神が、存在するものであるか、否かは、誰も知らない。
知る事が、出来ない。
彼の言葉を、信じるのみである。

釈迦仏陀は、神仏は、妄想であると、断言した。
彼は、人間の心のあり方を説いたのであり、神仏の存在を説いたのではない。

しかるに、彼の死後、釈迦仏陀を、仏として、判定し、彼の教えを慕った人々がいた。更に、彼の教えを、総合して、まとめるという、動きがあり、仏への道という、考え方が出来た。

仏は、それまで、超越した存在ではない。
我も、仏の道を、歩むという、理解だった。

しかし、時が経ち、仏という存在が、超越した存在の如くに、語られるようになり、堕落する。

更に、堕落は、仏の世界を、語るのに、様々な、インドの思想体系を、組み入れたことである。
果ては、御伽噺の経典を、多く、書き出したことである。

大乗経典は、まさしく、それである。

釈迦仏陀とは、何のかかわりも無い、お話の数々である。

更に、妄想逞しくして、仏の他に、如来から、菩薩から、神々まで、入れ込んだ。すべて、インドの、バラモンからのものである。

味噌も、糞も、一緒にしてしまった。
釈迦仏陀の、教えは、皆無である。

究極の救いとは何か。空海は自覚してそれを求めた最初の人だが、いかなる場にも自己を限定せず、能うかぎりの心と行動の振幅を示したところに、彼の固有性とともに苦悩があったと思う。
亀井勝一郎 日本人の精神史

私は、仏教学者の解説ではなく、文芸評論家である、亀井の案内で、空海を見る。

それは、人間としての、空海を見るからである。
教学としての、空海の、密教を見れば、単なる妄想の、解説になる。

空海は高野山だけにとぢこもっていたわけではない。平安京の東寺や綜芸種智院や奈良東大寺を主宰し、また嵯峨天皇のサロンの最も親しい客であった。彼の生活の振幅はひろい。
亀井

山岳は彼にとって「法身の里」であったということは、孤独に沈潜して禅定をこころみる場であったということだ。・・・死との対決の場であったといってよい。無常観は生を凝視するとともに死を凝視する眼であり、「死」眼を通じて生の意味をさぐる行である。それは同時に自己の空無の確認である。
亀井

そういう心を携えて今度は世間に環り、世間の煩悩や紛糾を携えて山岳へ環るという、この循環に空海の「行」があった。換言すれば、このような「行」を通して、彼は常に惰性からの脱却をこころみたと言ってもよかろう。
亀井

これが、文芸評論家の見方である。

評論というものは、創作でもある。
評論を通して、書き手の、思想を伝えるのである。
空海を、深く理解するのは、書き手の深さでもある。

空海の、時代は、民族変貌期である。
儒教、道教の流布と共に、奈良六宗が、成立していた。

その、仏教の、唯一の、主題は、人間は、いかに蒙昧、迷いを去って、悟りの世界に入るのかという、ことである。

すべての、仏教の主題である。

しかし、迷いを去って、悟りを得るという、その考え方から、すでに、妄想に入るのである。

生命力旺盛な青年時代に、煩悩、すなわち、性欲などを、抑圧して、悟りを求めるという、実に、不自然な行を、求めるということ、自体に、迷いがある。

欲望を、悪であり、罪であるという、意識に、病がある。

人間、年老いれば、欲望は枯れる。
自然に、放って、おいても、いずれは、落ち着くところに、落ち着くのである。
しかし、仏教に限らず、宗教というものは、不自然に、人間の欲望を、翻弄する。

実に、嫌らしいのである。

黙っていても、自然に、欲望が湧く。
それは、恵みであり、悪とか、罪という、意識を持たせるものではない。
ところが、人間を支配する、宗教の教学は、その人間の、欲望を手玉に取り上げて、抑圧し、更には、従わせるのである。

実に、意地の悪いこと、性悪である。

三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることをさとらず。
生れ生れ生れ生れて、生の始めに暗く、
死に死に死に死に死んで、死の終わりに冥し。
空海

現世で、生きる者が、狂っている。それを、知らない。
四度生まれ変わっても、盲者は、盲であることを知らない。
生の始めに、暗く、死の終わりに、冥し。

言葉の、罠である。

要するに、人間は、我というものを、知らずに生きているというのである。
生死も、解らず、生まれ変わり、死に変わりしていると、言う。

この、傲慢が、空海の、妄想の原点である。

鎌倉仏教の、始祖たちも、そうである。
私が知っていることを、知らないのは、救いがないというのである。
その、傲慢が、妄想の、はじめである。

posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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