2010年03月21日

バリ島は静かに死ぬ 7

今回の、慰霊と、支援は、昨年の、サヌールビーチにて、更に、その奥の村の中に入ろうと考えていたが、急遽、ジンバランという、バリ島南部、高級リゾートホテルの多い、ヌサドアの上に位置する、漁師町の、海岸線にした。

メータータクシーで、行けるというのも、料金交渉をしなくて済むのである。

気温が、30度あるので、夕方に向かうことにした。

四時過ぎに、タクシーをつかまえて、支援物資と、日の丸を持って、乗った。

まだ、太陽は、西の空にある。
沈むには、時間がある。

シーフードの店が並ぶ、ジンバランのビーチに、着いた。
とても、暑い。

だが、日が沈んでは、支援が出来ないと、早速、ビーチに出て、慰霊する場所を探す。

その間も、シーフードの店から、勧誘の声がかかる。
実に、煩い。

それらを、無視して、慰霊の準備をした。
今回は、線香を炊く。
バリ島のものである。

追悼慰霊は、独立戦争で戦った、日本兵と、バリ島の犠牲者、そして、オランダ軍兵士たちである。

特に、ジンバランは、各国軍隊が、バリ島に乗り入れた場所である。

私は、沈黙して、まず黙祷からはじめた。
そして、太陽を拝して、祝詞を上げ、線香を霊位に差し上げた。

じりじりとして、太陽の熱が、激しい。
汗だくになる。

辻さんに、日の丸を、掲げてもらい、線香で、祓い清めをする。

おおよそ、30分程度の間だが、暑さで、とても、疲れた。

慰霊を終わり、そのまま、通りに出て、支援する場所を探した。

シーフードの店を過ぎて、市場に出た。
そこは、バリ島全域に、卸している、市場である。

卸値は、安いものだった。それが、あの料金になるという、感慨である。

私たち三人は、市場の中を、一巡りした。
そして、支援する、地元の人の住む、村を探した。

すぐに、集落があった。
小屋の、組み合わせである。
あまり、人の姿が、見えない。

数名の男たちが、木の椅子に座っていた。
そこで、衣類を見せて、必要ですかと、尋ねた。
男たちは、いらないと、言う。

私は、オッケーと、言って、そこを、立ち去ろうとした。
すると、子供たちが、出てきたので、ぬいぐるみを、渡した。
突然のように、人が、小屋の中から、出てきたので、驚いた。

私たちは、衣服を取り出して、必要ですかと、尋ねると、皆、欲しいと言う。

そこで、支援が始まった。

次々と、人が出てくる。

先ほどの、男たちも来たので、驚いた。後で知るが、売りに来たと思ったようだった。

どんどんと、人が溢れて来て、混雑してきた。
さて、すべてを、出してしまおうと、バッグの、中身を曝け出した。

物乞いの、親子なども、やって来た。

最後に残ったのは、文具である。それを、見た、子供たちが、歓声を上げる。
えんぴつや、ボールペンである。

子供たちに、配っていると、大人も、参加する。
大混雑である。

私は、物乞いの親子を、別に、集落から、連れ出して、少しの、お金と、子供に、文具を、上げた。
すると、それを見ていた、一人の、おばさんが、日本語で、ありがとうと、言うのである。

差し上げるものが、無くなって、辻さんも、コータも、集落から、出て来た。

私たちは、逃げるように、市場の、端に、戻った。

あまりの、暑さに、飲み物を、地元の人が利用する、店から、求めた。
ファンタなど、何十年振りで、飲んだ。

しばし、そこで、休んでいると、色々な人が、話しかけてくる。
少しインドネシア語が、出来る、コータが、一人のおじさんと、話した。

おじさんは、転々と、仕事をしているようで、地図を描いて、コータに説明している。
その、地図を見て、驚いた。
私が、知っている、地図と、全く、逆なのである。

つまり、南極を上にして、地図を描くのである。
カルチャーショックである。

北極が、上という、意識の地図が、頭にある。
しかし、赤道直下にある、人々は、南極が上なのである。

そうだ、こういう見方も、必要なのだと、つくづく思ったのである。




posted by 天山 at 00:00| バリ島は静かに死ぬ 平成22年2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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