2010年02月18日

殺されるよりましだ・プノンペン 18

われわれの心を最も掻き乱していたのは、20人の幼い子供、とりわけ、1975年4月17日の後に強制移住させられた人々の子供の運命だった。この子たちは、あまりに空腹だったので、盗みを働いたのだ。彼らは逮捕されたが、それは罰せられるためではなく、野蛮きわまるやり方で殺されるためだった。

刑務所の看守は彼らが死ぬまで叩き、蹴っていた。
看守は、子供をおもちゃにして、足をしばり、屋根からぶら下げ、揺らしておいて、また蹴って動きを止めるのだった。
刑務所の近くに沼があった。死刑執行人は幼い囚人をそこに投げ入れ、足をつかって沈めた。哀れにも子供が痙攣をおこすと、彼らは子供の頭だけを水面に浮かばせ、それからまたすぐに水中に押し込みはじめた。
われわれ囚人は、そして私自身も、かくも残酷なやり方でこの世を去っていったこの子たちの運命について涙を流した。刑務所には八人の看守兼死刑執行人がいた。リーダーのブンとローンは一番野蛮だったが、全員がこの汚らわしい仕事に貢献し、同国人を苦しめさせるために残酷さを競いあっていた。

じわじわと、殺される者、直ちに、処刑される者。

その、どちらに入るのかは、禁止事項の違反、不純な社会的出身、体制に対する、明らかな離反、陰謀加担の疑惑などなどである。

最後の三つの理由の場合は、普通、被疑者は尋問を受け、以前の「やばい」かかわりあいを白状させられるか、あるいは有罪を認めて共犯者の名を明かさざるをえなくなった。ほんの少しでも言い落としやためらいがあれば、他のいかなる共産主義体制の国よりもずっと多く、拷問が使われることになった。
黒書

クメール・ルージュの、病的で、サディスティックな想像力を、豊かに、遺憾なく発揮したのである。

最も、普通に行われた方法は、頭に、プラスチックの袋をかぶせて、窒息状態にすることだった。

多くの囚人は、すでに衰弱していて、その場を、生き延びることは、なかった。
なかでも、最悪の蛮行の被害者だった女性は、真っ先に死んだ。

最も重大な場合、あるいは、「自白」が将来の告発のためにとりわけ役立つと思われるときには、囚人は刑務所群島の一段上のレベルへ送致された。
地元の監獄から、地区の監獄へ、更には、地域の監獄、そして、最後に、ツールスレン中央刑務所に、行き着くのだ。

行き着いた場所が、どこであれ、結論は、同じことだった。
死刑。

囚人が、これ以上情報が、提供できないと、確定すると、捨てられるのである。

処刑は、鉄棒で、首を潰すという、地方的特徴もあったが、拷問を数週間、数ヶ月受けた後、銃剣によることが、最も多かった。

断末魔の叫びを、覆い隠すため、騒々しい、革命音楽が、拡声器から、流された。

囚人といっても、通常の世界で言う、囚人ではない。
政治的犯罪、社会的犯罪とあるが、社会的犯罪には、昔の職業を隠していたとか、西洋に長く滞在していたなど、である。

刑務所収容の最後の、特殊性は、無視できない、旧人民や、クメール・ルージュの兵士や、役人までも、含められたことである。

彼ら自身も、もうたくさんだという気持ちを表明したか、近親者に逢いに行くため、脱走したのだった。
中、上級の幹部については、中央と、中央が管轄する、ツールスレン刑務所の管理下に、直接送還された。

証言者
英語をしゃべれるという犯罪のかどで、私はクメール・ルージュに逮捕され、首に縄をかけられ、よろよろとびっこをひきながら、バッタンバンの近くのカイ・ロテヘ刑務所に連行された。
それはほんの序の口でしかなかった。
私は、他のすべての囚人といっしょに、肌を削るような鉄の鎖につながれた。くるぶしには今でもその跡が、残っている。
私は、何ヶ月ものあいだ、繰り返し拷問を受けた。
私にとっての、唯一の救いは、気を失っているときだけである。
毎夜、看守が突然入ってきて、一人か二人、あるいは三人の囚人の名を呼んだ。
彼らは、連れて行かれたっきり、その姿が二度と見られることはなかった。
いうまでもなく、クメール・ルージュの命令で殺害されたのだ。
私の知る限りで、私の文字通りの、拷問と、絶滅の収容所、カイ・ロテヘで生き残った、きわめて稀な囚人の一人である。
イソップ物語やクメールに伝わる、動物説話をわれわれの看守だった、若者や、子供に話して聞かせる才能のおかげで、私は、生き残る事が出来たのだ。

看守が、若者、子供である。

驚く。

さて、ツールスレンの特殊性を挙げると、「中央委員会刑務所」であり、失脚した幹部や、指導者が、入れられた。
最後の特殊性は、1975年から、1978年半ばの入所者の完全な記録と、数千にのぼる仔細な自白書と、尋問報告書が存在することである。14000名の名簿である。
そのいくつかは、体制の大物に関わるものだった。

囚人の、約五分の四が、クメール・ルージュ自身だったという。
更に、驚くのは、囚人のみならず、その家族までも、消されたというのである。

カンボジアにおける行過ぎた残虐さを考えるとき、今世紀の他の大量犯罪についてと同じように、特定の人間の精神錯乱の側にか、それとも人民総体が呆然とするほどまでに陥った幻惑状態の側にか、そのどちらかに究極理由を求めざるをえない誘惑にかられる。もちろんポル・ポト個人の責任を軽減することなど論外だが、カンボジアの民族史も、国際共産主義も、いくつかの国々(中国をはじめとする)の影響も、この問題と無関係なものとして葬り去るわけにはいかなのだろう。これらの競合が生み出した最悪の体質というほかないクメール・ルージュの独裁は、明確な地理的・時間的な文脈に規定されていたと同時に、以上三つの次元の合流点にこそあったのだから。
黒書

犠牲者の数は、おおよそ、200万人である。

私は、このことについて、考え続けることにする。
まだまだ、書き足りないが、ここで、今回の旅日記を、終わる。
次回、カンボジアの旅を書くときに、再度、取り上げたいと思う。




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