2010年02月17日

殺されるよりましだ・プノンペン 17

「われわれが建設中の国のためには、よい革命家が100万人いれば足りる。その他の住民は必要ないのだ。われわれは敵を一人生かしておくくらいなら、むしろ10人の友人を倒すほうを選ぶ」というのが、協同組合の集会でよく聞かれたクメール・ルージュの演説だった。

彼らは、こうしたジェノサイドの論理を実行した。

ポル・ポト治下では、非業の死こそ日常茶飯事だった。

当時は、病気で死ぬより、殺されて死ぬ方が、圧倒的に多かった。

三番目の殺し方とは、中央につながる部隊が、東部地域におけるように、失脚した地方幹部の集団、疑わしい村々の全村民、さには、住民全体を、現場で、大量に殺戮する。

どの場合でも、明確な告発はなかった。
「オンカーは殺すが、決してその理由を説明しない」というのが、当時の住民の新しい、諺になった。

死刑の、主たる理由を挙げると、最も適当なのは、食料ドロボーである。
コソ泥の場合でも、大量に死刑が、適用された。

果樹園で盗みを働いた少年たちは、仲間に裁かれた。
裁く仲間も、それを拒否することは、出来ないのである。
そして、死刑を宣告され、その場で、即座に頭を撃ちぬかれた。

一頭の子牛を分け合ったというだけで、一家全員が、殺されることもあった。

殺される理由は、どんな小さな、逸脱行為も、可能な限り、妄想逞しく、解釈をほどこすことは、簡単だった。

結婚以外の、性的関係は、無条件に死刑とされた。
若い恋人たちは、勿論だが、好色な幹部たちも、死に至った者は、多い。

アルコールの摂取も、死罪の一つだった。
それは、幹部と、旧人民に該当するものだった。
新人民は、食糧探しだけで、十分、命の危険に晒された。

与えられた、任務を達成できないことも、極めて危ういことだった。
些細な、間違い、事故でも、命にかかわることがあった。
更に、多くの身体障害者、精神病患者が、殺害された。
無能であり、客観的には作業の妨害者でもある、彼らは、新人民の大半より、尚一層、役立たずだからだ。

共和国軍の、傷痍軍人は、消滅させられるのに、最適な存在だった。

民主カンプチアにおける暴力の全体水準は恐るべきものだった。しかし、大部分のカンボジア人を恐怖に陥れたのは、死の光景そのものよりも、絶えず人が消え去ることをめぐる謎と、その予見不可能とだった。死はほとんど常に、目立たぬように隠されていた。
黒書

「彼らの言葉遣いは、最悪の瞬間でも心がこもっていて、とても優しかった。彼らはこの丁寧さを捨てることなしに、殺人まで行ったのだった。彼らは愛想のよい言葉を用いて死を投与した。・・・彼らは、われわれの疑念を眠り込ませるために、われわれが聞きたいと望むどんな約束でもすることができた。私は、彼らの優しい言葉が犯罪にともなうか、あるいはそれに先行することを知っていた。クメール・ルージュはどんな場合にも、たとえわれわれを家畜のように屠殺する前であっても、礼儀正しかったのである。」

カンボジアでは、ある午後遅く、あるいはある夜、兵士が「尋問」のために、「学習する」ために、あるいはお定まりの「森での当番」といった理由で、ある人を連れに来たものである。外に出るや、しばしば腕をうしろに回させてしばのりあげると、それで一巻の終わりだった。


今日では、非常に多くの死体投棄穴がーーーその数は、徹底的に調査された州の各々に、1000箇所以上あり、そうした州は、合計20州にのぼる。

「男も女もこやしにするため絶えず殺されていた。その死体は、耕作用の畑、主としてキャッサバ畑のいたるところにあった。死体のための共同溝に埋められた、キャッサバの根茎を引き抜くと、しばしば、人の全頭骨が掘り出されたものだ。その眼窟のところを通って、この食用の根が張っていた」

スリヴィンスキの調査によれば、
犠牲者の29パーセントが、銃殺によるもの。
頭蓋骨を潰された者は、53パーセント。
吊るされて、窒息死させられた者は、6パーセント。
喉を掻き切られた者、及び撲殺された者、5パーセント。
である。

すべての証言が一致しているのは、公開で行われた処刑は、わずか、2パーセントである。

公開処刑の、かなりの数を占めるのは、失脚幹部の、見せしめ処刑がある。
熾き火を満たした、穴の中に、胸まで、埋めるという。または、頭に、石油をかけて、焼くというもの。

しかし、瞬時に、殺された者は、幸運だったといえる。

例えば、刑務所の事実である。

最も控え目に言っても、そこでは、囚人の生活を楽にするどころか、いや彼らをただ生存させるだけのためにも、何の処置もとられていなかった。
黒書

飢餓線上の食料の配給、医療が施されることなく、過密状態、恒常的な鎖による、拘束である。

女性因と、軽罪の男性因は、片方の足首を一般的には、男性は、両足に鎖がつけられる、さらに、時には、両腕を背中で縛られたまま、床に固定された鉄の棒に、手錠で、並んでつながれた。
トイレに行くことも、体を洗うこともなかった。

そのような、状況では、新入りの囚人の、平均余命は、三ヶ月と、見積もられた。

収監を、学習会などと、呼んでいたのは、中国、ベトナムの、再教育という、真似からはじまったようである。

だが、それは、全く意味が無い。

外国から、帰国した、多くは、学生たちであるが、彼らは、その親と、共に、収監された。
それは、他でもない。
一度に、全員を厄介払いできるようにである。

「一本の草を引き抜く時には、すべての根を残らず引き去らなければならない」というスローガンの具体化で、このスローガン自体、極端な毛沢東主義者にとって親しい「階級の遺伝性」をラジカルに表現したものだった。
黒書

だが、更に
それにもまして酷かったのは、最低年齢の条件なしに収監されたきわめて年若い「非行者」の運命だった。



posted by 天山 at 00:00| バリ島は静かに死ぬ 平成22年2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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