2010年02月16日

殺されるよりましだ・プノンペン 16

タイの、格安航空会社で、何度か、痛い経験をしている、私たちは、帰国日の、前日に、タイ・バンコクに戻ることにしていた。

何せ、突然、時間が変更したりして、日本への、帰国便に乗れなければ、大変だからだ。

余裕を持っていた方が、安心である。

さて、私たちは、トゥクトゥクを利用したが、一人のおじさんに、すべて御願いした。
最初に、おじさんは、私に話し掛けてきた。

プノンペンでは、トゥクトゥク、バイクタクシーの運転手の、勧誘が、激しい。煩い。
だが、夜間などは、バイクタクシーは、非常に危険である。
道を知らない者が、乗るものではない。
とすると、夜間の出歩きは、歩ける範囲である。

私は、児童買春の宿があれば、見たいと、思ったが、それは、非常に危険であり、更に、幾人かの、バイクタクシーの運転手に尋ねたが、知らないと、言われた。

政府の、法規制もあり、本当に、闇に潜んだのかもしれない。

インドの児童買春宿に、踏み込んだという、レポートを読んだが、それは、命に関わるような、行動である。

お客として行ったとしても、万が一、偵察だと、知られると、その場で、殺されることも、ありえるのだ。

さて、私たちが、孤児たちの家に、連れて行ってもらった後で、トゥクトゥクのおじさんは、突然、実は、弟が、あなたたちに、逢いたいと言っているので、家に向かってもいいかと、言う。

弟さんは、日本語が、少し話せるというのだ。

私たちは喜んで、行くことにした。

孤児の家から、それほど、離れた場所でなかった。

長屋建ての、家に、兄弟四家族が住んでいた。

それは、おじさんの、弟さんが、建てたもので、田舎にいた兄弟たちが、弟さんを、頼って、プノンペンに出てきたという。

その、弟さんは、公務員だった。
その、給与は、月、およそ、23万円である。帰国して、ある人から、それを聞いた。

普通の人の、給与が、八千円から、一万円と少しであるから、破格の給与である。

家族の誰か一人が、公務員になれば、皆々、頼れるのである。

私たちは、大歓迎を受けた。
弟さんは、千葉県に、一年間、研修に来ていたという。
ある程度は、日本語が、話せた。

兎に角、喋るのである。
日本が大好きだと言う。
そして、日本に関して書かれた本を見せてくれた。

私が、着物姿なので、おそらく、相当、感激したのだと、思う。

しばし、歓談したが、あまり話すので、聞いているのが、疲れた。
まだ、てにをは、が、曖昧なので、理解するのに、英語より苦労するのである。

更に、明日は、子供の誕生日なので、五時に一緒に食事をしましょうと、誘われた。
すぐに、断るわけにもいかず、曖昧にしていた。

ようやく、立ち上がる事が、出来て、皆さんで、写真を撮る。
四人の兄弟の、家族も出てきて、皆さん、大歓迎してくれた。

トゥクトゥクのおじさんの、子供も、姉と、弟と、二人いた。
姉の方は、少し、英語が話せた。

ようやく、開放されて、ホテルに向かった。

おじさんには、タイへ行く日の、空港までの、送迎を御願いした。

明日は、どうしますかと、尋ねるので、ホテルをチェンジするので、連絡しますと、答えた。
結局は、連絡せず、有耶無耶にした。

歓迎されるのは、嬉しいが、あまりに、気を使うので、疲れるのだ。
誕生日の食事会には、出なかった。
おじさんからも、電話が来なかったので、安心した。

そして、タイへ行く日の、前日に、電話が来た。
空港まで、送迎するためだった。

変更した、ゲストハウスの場所を教えて、来てもらうことにした。

この、おじさんは、最初から、ボルことなく、通常料金を示したので、安心して、利用させてもらった。

空港までも、7ドルである。

次回も、御願いした。
次回は、プノンペンから、40分ほどの、町に行く予定である。
そこには、寺院の有名な建物があるが、私は、一万人以上殺されたという、場所に出掛けて、追悼慰霊を行いたいと思った。

カンボジアでは、至る所で、人が殺されたので、全国を回らなければならないほどだ。
処刑、虐殺が、日常的だった、ポル・ポト政権の、三年八ヶ月である。

35年前であるから、おじさんの、記憶にもあると、思うが、それについてを、尋ねる、勇気は、なかった。

おじさんが、50近くであれば、その頃は、少年時代である。

おじさんとは、電話番号を交換し合っている。
空港では、次回も、お世話になりますと、別れた。

私も、コータも、携帯電話を持っている。
それは、アジアの国であれば、内部のチップを、取り替えると、どこの国でも、使用できるものである。
ちなみに、プノンペンでは、電話番号を売る商売が盛んだ。
何故、番号によって、値段が違うのかは、謎である。

私は、インドネシア、フィリピン、タイと、番号を持っている。
ただし、あまり長い間使用しないと、停止されることもある。

さて、タイ・バンコクに着いて、私たちは、いつものスクンウィット通りではなく、コータの取材のために、一泊を、有名な、パッポン通りにした。

日本人向けの、飲み屋街が多い場所である。

そこで、私は、久しぶりに、居酒屋に入り、日本酒を飲んだ。
珍しく、とても、美味しく感じられた。

また、その店の経営者が、東北地方、イサーン出身の女性だった。

コータが、タイ語で、色々と話している。
内容は、私たちの活動だった。
その話が、彼女の心を、動かしたようだ。

彼女も、時々、故郷に戻る際に、冬物の衣類を持参して、寄付するというのだ。
是非、私たちに、ウドンタニという、町にも出掛けてくれと言う。

ウドンタニとは、懐かしい。
バンコクから、飛行機に乗り、ウドンタニに行き、ラオス国境の、町、ノンカーイに出掛けたのである。
二年前である。
私は、一週間、その町で、過ごした。
コータが、一人で、ラオスに入り、衣服支援をしたのである。

その旅日記も、掲載してあります。



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