2010年02月14日

殺されるよりましだ・プノンペン 14

証言
民主カンプチアには、刑務所もなければ、裁判所も、大学も、高校も、貨幣も、郵便局も、本も、スポーツも、気晴らしもなかった・・・
一日二十四時間のうち、無為の時間は少しも許されなかった。毎日の生活は次のように分けられていた。
労働時間が十二時間、食事が二時間、休息と教育が三時間、睡眠七時間。
われわれは巨大な強制収容所にいた。そこにはもはや正義はなかった。われわれの生活のすべての行為を決定するのはオンカーだった。・・・
クメール・ルージュは彼らのたがいに矛盾する行為や命令を正当化するためにしばしばたとえ話を使ったものだ。
たとえば人間を牛にたとえてこう言っていた。クワを引いているこの牛を見ろ。牛はここで食えと命じられた所で食う。もしこの畑で草を食わせておけば、牛は食っている。もしたっぷり草がない畑に連れていっても、ともかくそこで草を食う。牛は自分で移動することはできない。牛は監視されている。そして、くびきを引けと言われればくびきを引く。牛は決して妻や子供のことなど考えない・・・
上記、読みやすく、私が改行して書いている。

生き延びたすべての人々に民主カンプチアは、あらゆる基準と価値観が失われた社会という異様な印象を残している。

黒書は、更に、続ける。

民主カンプチアで生き延びるチャンスにしがみつこうとすれば、大急ぎで新しいゲームの規則を学びとらなければならなかった。その第一条は人命にたいする根底的な軽蔑だった。すなわち「お前が死んでも損失はない。お前を生かしておいても何の役にも立たない」というのだーーーすべての証言がこの恐るべき決まり文句を報告している。

この世に、地獄が、実現したのである。
一体、何ゆえに、また、何の権利があって・・・ここまで、傲慢な、考え方が、出来るのか。

南西部地域の「解放」区では、「解放」の瞬間から仏教が廃止され、青年は家族から離され、制服にかんする規則が強要され、生産協同組合への編入が実施された。今こそ語らなければならないのは、民主カンプチア治下の人々を囲んでいた死にいたる無数の機会のことである。
黒書

いっさいの教育、移動の自由、合法的な商売、その名に値する医療、宗教、文字などがすべて消え去った状態に慣れなければならなかったし、同じように服装や行動にかかわる厳格な規準の押し付け「衣服については、色は黒、長袖で、首までボタンのついた服であり」行動の押し付けにも「愛情表現もだめ、喧嘩や悪口もだめ、愚痴や涙もご法度だった」慣れなければならなかった。
あらゆる指示に盲目的にしたがい、果てしない集会に「聞いているふりをしながら」出席し、命令どおりに叫んだり、喝采し、他人を批判したり、自己批判したり・・・しなければならなかった。
民主カンプチアの1976年の憲法は、市民の第一の権利は働くことだと規定していた。
当然ながら新人民は他にも権利があることなど決して知らなかった。
体制の初期に自殺者が疫病のように流行したことはきわめて納得がいく。
なかでも自殺者が多かったのは、家族の重荷になると感じた高齢者たち、身内と別れていた高齢者たち、あるいは最も裕福な階層に属していた人たちだった。

主義による、妄想から発する、計画は、無謀を超えて、単なる、妄想以外の何物でもなくなる。
ポル・ポトは、まさに、そのようだった。
「わが人民はアンコール寺院を建設することができたのだから、われわれにはすべてが可能である」
との、演説の空虚なこと。

彼の、狂信的心情は、宗教の信仰を超えた。

百人の天才も、一人の狂人に、適わないのである。

結果は、農村の崩壊である。

街道の両側に、見渡す限り荒れた田んぼが広がっていた。
田植え作業の跡を探したが、無駄だった。何もなく、ただ10キロほど先に、数人の娘からなる労働グループがいただけだった。
ラジオが毎日語っている移動労働隊の何百人もの若者はいったいどこにいるのだろう。
所々に、男や女のグループが肩にふろしき包みをしょって、うつろな様子で、ぶらぶら歩いていた。彼らが身につけている、かつては鮮やかな色だったに違いないボロ着や、細いズボン、破れたスカートから、彼らが新人民、つまり都市から追放されてきた旧都市住民であることが推測できた。

彼ら都市住民は、まず初めに南西部地域の恵まれない地区に送られ、そこで完全な窮乏に直面し、「新しい世界観」をつくりあげなければならなかったのだ。
ところで、その間、肥沃な地方は労働力を投入されず放りっぱなしになっていた。
国中で人が飢えて死んでいるのに、種を撒いた土地のたった五分の一しか利用されなかったことになるわけだ。
上記、読みやすいように、改行している。

一方、労働における積極性を大いに喧伝されていた移動労働隊についていえば、彼らが生活していた過酷な条件ときたら!
食事は畑に運んで来られるが、何本かの蔓を浮かした水のようなスープに、プノンペンで食べていた量の半分くらいの少々の米粒だけだった。こんな割当量では、力いっぱい働くことなど不可能だし、その結果、どんなものであろうと生産することは無理な話だった。

カンプチア共産党の経済計画はそれ自体耐え難いほどの緊張をはらんでいた。しかもその緊張は、計画の実行を担当する幹部たちの傲慢な無能力によってなお一層深刻になった。

無謀な計画は、
きちんと設計され、今日にいたるまで変わらず使用されている堤防や運河やダムが数えるほどしかないそのかたわらで、どれだけ多くの治水工事が最初の増水期が来ただけで「ことによると、数百人の建設労働者や村人を呑み込み」押し流されてしまったことか。あるいは水を逆流させ、たった数ヶ月でダムが泥に埋まってしまったことか・・・

どういうことかと、言えば、労働者の中には、水利技師がいても、彼らは、沈黙を守るしかなかったのである。
批判をすれば、オンカー、つまり、共産党幹部によって、敵対行為と位置づけられ、その結果は、「ダムを建設するのにお前たちに必要なのは、政治教育だけだ」と、退けられ、奴隷教育を受けることになるのである。

無知な、幹部たちは、部下と共に、働くこともなく、ほんのわずかな討論さえも、許さず、ひたすら、命令を下しているだけだった。

ここ、ここに至ると、もはや、書く必要がない。
人間が、その理性を失い、そして、知性を完全に、一定の原理に、押し込めると、このようになる。
何も、共産主義だけではない。民主主義でも、そうである。
更に、宗教の教義も、である。
それらは、人間の、理性と知性に、支えられ、更に、感性によって、バランスを取ることによって、かろうじて、最大公約数の幸福を求めることが、出来る。

まさに、ポル・ポト政権の、真相は、暴力である。



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