2010年02月12日

殺されるよりましだ・プノンペン 12

少数民族のなかで高い割合の人々がクメール・ルージュ体制を生き延びられなかったことをどのように理解したらいいのだろうか?約40万人いた中国人に対しては50パーセントという死亡率が挙げられ、1975年の後もカンボジアに残っていたベトナム人の場合はもっと高い数字が提出されているが、スリヴィンスキはベトナム人については37,5パーセント、中国人については38,4パーセントという死亡率をとりあげている。

右の質問にたいする答えは、他の犠牲者グループとの比較のなかに求めることができよう。

スリヴィンスキによれば、共和国軍「ロン・ノル政権の軍隊」の仕官の82,6パーセント、高等教育の免状所有者の51,9パーセント、そして、とりわけプノンペン住居者の41,9パーセントが姿を消した。
この最後の数字は、上記二つの少数民族について得られた数字に非常に近いことに注目すべきである。
すなわち、彼らはまず「超―都市住民」(1962年に、プノンペンは18パーセントの中国人、14パーセントのベトナム人を数えていた)として、そして第二に、「超―金儲け主義者」として迫害されたのだった。

彼らの多くは、元の社会的地位を上手に隠すすべを知らなかった。しばしばクメール人にまさる富を彼らがもっていた事実は、利点「持ち出せる富があれば、ブラックマーケットのおかげで、生き延びる可能性が生まれた」だったと同時に、脅威の種でもあった。彼らはその豊かさゆえに、新しい支配者の目から見て「標的」になったからである。しかし、首尾一貫した共産主義者として、新しい支配者は、人種や民族の争いより階級闘争「あるいは階級闘争であると理解したもの」のほうを優先させていたのだった。
黒書

上記は、私が、読みやすく、書きなおしている。

1978年、ポル・ポトは、カンボジアは、いかなるモデルにもしたがわない社会主義を建設しつつあると、断言している。

そして、ベトナムのクアンナム朝の別名、コーチシナ王国に併合された、カンプチア・クロム、つまり、カンボジア人は、今も、クメール語で、そう呼ぶ、カンボジア低地という意味である、18世紀に、「盗み取った」ベトナムに対する憎悪が、徐々に、クメール・ルージュのプロパガンダの中心的テーマになっていったーーーそしてそれは、今尚生き残る、クメール・ルージュの事実上唯一の明確な存在理由でありつづけている。

1976年、半ば以降、カンボジアに残るベトナム人たちは、罠にかかったのである。
国を出ることを、禁止された。
地方レベルで、いくつかのベトナム人虐殺事件があったことが、報じられた。
ベトナム人全員と、ベトナム人の友人や、ベトナム語を話すクメール人までも、逮捕され、中央治安部隊への引渡しを命令した、1977年4月1日の、指令に続いて、虐殺は、全般化した。

対ベトナム紛争が、すでに始まっていた、国境地帯のクラチエ州では、先祖にベトナム人をもつというだけで、有罪となり、当局は、すべてのユオン「ベトナム人」を、歴史的な敵と呼んだのである。
1978年に、東部地域の住民全体のことを、クメールの体内にいるベトナム人と非難することは、彼らに、死を約束することになった。

さてさて、それ以外に、迫害の対象になったのは、宗教である。

まず、カトリック教徒は、最も、被害が大きかった。
その、48,6パーセントが姿を消した。

プノンペンの大聖堂は、この都会で、唯一完全に、破壊された大建造物だった。

そして、イスラム根絶の、企てである。
1973年以降、解放区では、モスクが破壊され、礼拝が、禁止される。
1975年5月からは、全国に広げて行われた。

コーランは、集められて、燃やされた。
モスクは、他の用途に転用されるか、根こそぎ破壊された。

敬虔な信徒は、特に標的にされた。
約千人いた、ハジのうち、生き残った者は、30名ほどである。

更に、少数民族である。

主要な土着の、少数民族、チャム族は、1970年には、25万人を数え、農業、漁業に従事していたが、イスラム教を信じていたため、特別な運命をたどる。

彼らは、極めて優れた戦士との評判が高く、解放戦争初期には、クメール・ルージュのほうが、彼らに、へつらった。
彼らは、商業活動にかかわり過ぎると、非難されていたが、全体として、旧人民に属していた。

しかし、1974年以降、ポル・ポトは、密集した彼らの村を、分散させるように、密かな命令を下した。
1976年、体制内のチャム族出身の幹部全員が、その部署から、追放された。
1975年以降、チャム族は、名前を変え、クメール名に似た、新しい名前をつけなければならない。チャム族独特の心性なるものは、廃止される。命令に従わない者は、その責任を負う。
北西地域では、チャム語を話しただけで、殺されることもあった。

だが、チャム族は、頻繁に、反乱を起こした。
そのために、報復として、数々の殺戮を受けることになる。

1978年以降は、多数のチャム族共同体を、女子供も含めて、計画的に、絶滅させはじめたのである。

チャム族の、全体的な、死亡率は、およそ、50パーセントである。

恐怖が、頂点に達したのは、1977年である。
飢饉が、荒れ狂っただけではなく、粛清も、復活したからである。

それは、1975年のものとは、形相が違う。
より政治的になり、粛清は、体制内部で、益々激しさを増すというもの。

一層民族的要素を内包し、新しいカテゴリーの人々にも、被害をもたらすことになった。
基幹人民の中の、富農、あるいは、中農、までが、対象となった。
教師は、以前より、徹底的に、粛清された。

更に、粛清は、新たな残酷の刻印が、押された。

1975年の、指示で、すでに、共和国時代の将校の妻子の処刑が、命じられたが、それが、実際に行われるようになったのは、1977年になってからである。

家族全員か、あるいは、村全体が、抹殺されることもあった。

元大統領の、ロン・ノルの出身村では、解放の記念日に、350家族が、抹殺された。

殺戮が、益々、全般化し、特に、東部地域では、旧人民の間においても、である。
実に、異常な、レベルに達したのである。

通常の精神の持ち主だった、ポル・ポトの、妄想は、どのようなものだったのか。

一体、今までにない、いかなる、モデルもない、社会主義とは、如何なるものだったのか。

ポルポトの、死は、実に、穏やかだったという。
虐殺の、張本人の死が、穏やかだった・・・

一体、生きるとは、何か。
人間とは、何か。
そして、一人の人間の頭の中で、描かれた、妄想によって、何百万という人の死が、何故、行われるのか。

そして、今、カンボジアは、どのような、状態か。
何一つとして、社会主義に、当たるような、政治的方法を、見出せないでいる。

言えることは、貧困の中では、どんな、主義、主張も、詮無いことである。
暴力によっては、何物も、生まない、生めないのである。

20世紀の、国造りで、成功したのは、日本のみである。
少しでも、日本を真似た国は、希望が見えたのである。

戦争ではなく、経済活動を通して、日本は、世界の成功者となった。
そして、戦争することが、愚かなことであることを、日本は、身を持って示した。

伝統を捨てずに、日本は、更に、世界の指導者として、立つことだろう。
そのためには、若者に、再度、日本から見る、日本の歴史を、学んでもらうことである。

世界で、唯一、無形の権威を持つ、天皇という、存在を有する国である。
天皇は、人間、ただ一人である。
一切の、武器を持たない、天皇という、伝統継承の象徴を有する日本は、世界の指導者となる。



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