2010年02月05日

殺されるよりましだ・プノンペン 5

ここから、カンボジアの歴史を、俯瞰する。

フランスの植民地時代から、見ることにする。

1863年、8月、ノロドム王は、それまでの、シャムとベトナムの二重属国状態を、脱するために、アンドゥオン王が、1853年、アジア進出していた、フランスと接近し、その後を継いで、フランスと保護条約を結んだ。

つまり、フランスの、支配下に入ったのである。

更に、1884年、協約の締結によって、フランスによる、植民地体制は、強化された。

1887年、フランス領インドシナ連邦の成立とともに、インドシナ植民地の一部に、編入された。
1953年に、独立するまで、フランスの支配を、受け続けた。

ここでの、問題は、植民地時代を、通して、フランスは、王朝、王権、仏教の、カンボジア固有の伝統を、温存した。
しかし、経済開発や、近代教育制度の導入などは、取り入れなかったのである。

そして、中国人移民、ベトナム人の労働者を、受け入れ、カンボジア人の代わりに、経済開発の担い手として、利用したのである。

結果、カンボジア人、つまり、クメール人の民族意識は、低迷した。

今だに、中国人と、ベトナム人が多く、クメール人は、実に曖昧な意識を持ち、更に、経済活動からも、取り残されていると、私は、見た。

第二次世界大戦後、フランスからの、独立を目指した。

その先頭に立ったのが、1941年、19歳で、即位した、シアヌーク国王だった。

1949年、フランス連合の枠内での、限定的独立を獲得したが、司法権、警察権、軍事権などが、フランスに残されて、真の独立とは、いえない状態だった。

そのため、国内では、シアヌークに対する、非難が起き、地方では、べトミン、つまり、ベトナム独立同盟系の、ゲリラ、反共勢力による、活動が活発になる。

そこで、シアヌークは、1953年、合法的クーデターにより、全権を掌握し、フランスとの、直接交渉に乗り出すのである。

1953年、4月以降、国際世論に訴えて、フランスから、譲歩を引き出し、11月、完全独立を、果たすのである。

独立を果たした、シアヌーク国王は、東西陣営の、どちらにも、組しないという、非同盟中立として、独自の路線を進めた、中立外交を訴えた。

これは、戦乱のインドシナ半島における、また、ベトナム戦争の戦火を回避する、現実的な方法だったといえる。

シアヌークは、仏教社会主義、王制社会主義を唱えた。
王制と、民主主義、社会主義は、矛盾しないと、主張する。

1955年、シアヌークは、王位を、父スラマリット殿下に譲り、退位する。

その直後、国民統合を目指し、新体制として、人民社会主義共同体、サンクムを、結成する。
総裁に就任し、王制と、仏教を護持しつつ、計画経済政策を導入するのである。

だが、それは、左右イデオロギー勢力を内包した、国民運動としての、政治組織であり、その実態は、シアヌークによる、独裁主義政治運営であった。

1960年代、後半、中国に倣った、自力更生による、経済政策が、失敗し、財政悪化すると、サンクム内における、左右勢力の均衡も崩れ、1970年3月、右派ロン・ノン将軍により、外遊中のシアヌークは、国家元首を解任される。

だが、右派の、政権は、ベトナム戦争のカンボジア領内への、拡大を招くことになり、カンボジアは、戦乱に巻き込まれるのである。

ロン・ノル将軍のクーデター後、北京に亡命していた、シアヌークは、カンプチア民族統一戦線の結成を宣言し、共産勢力、クメール・ルージュと、協力することを、表明した。

1970年以降、ベトナム戦争は、カンボジア国内に、拡大され、1973年以降は、カンボジア人勢力同士による、内戦へと、突入した。
結果は、国内の混乱である。

1975年4月17日、クメール・ルージュを中心にした、カンプチア民族統一戦線が、プノンペンに入城した。

内戦は、事実上、終結した。

が、政権を握った、ポル・ポト派が、急進的な共産主義政権を目指したため、国内は、再び、大混乱に陥ったのである。

ポル・ポト政権の、3年8ヶ月は、カンボジアの悪夢である。

現在も、その、悪夢にカンボジアは、悩まされ続けている。

35年前のことである。

まだ、記憶に、生々しく残るものである。

この、ポル・ポトによる、大虐殺の有様を、私は、共産主義黒書から、抜粋し、書き続けてみることにする。

少しく、重たいテーマであるが、これを書かなければ、カンボジアという国を理解できないと、共に、これからの、カンボジアとの、関係構築のためにも、欠かせない、知識であると、思う。

このようなことが、本当に、行われたという、現実である。

主義というもの、教義というものを、突き詰めてゆくと、原理となり、それが、原理主義を生み出し、悲劇を起こすという、事実である。

それは、政治形態だけに、言えるものではない。
哲学、思想、宗教と、あらゆる主義に対する、原理的行動への、警告である。

私は、日本人が、曖昧、たゆたう、という、精神構造を、培ってきたことを、実に、幸せに思うのである。




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