2010年02月04日

殺されるよりましだ・プノンペン 4

プノンペン、二日目の朝、私たちは、ホテルで、一ドルの朝食をとった。

本日は、まず、追悼慰霊である。
何処へ・・・

キリング・フィールド
そこは、プノンペンの南西12キロの、チュンエク村にある。
ポルポト政権時代に、プノンペン市内にある、トゥール・スレン刑務所に収容された人々が、そこに運ばれて、処刑された場所。
遺体は、村の、129ヶ所に埋められた。
後に、その一部が、掘り返されて、その、掘り出された、8985の遺骸が、安置された。
慰霊塔である。

ホテルの前から、少しばかりの、支援物資を持って、トゥクトゥクに乗り、キリング・フィールドに出掛けた。

街中を通り、実に、土ぼこりと、車の排気ガスの多い、通りを走り続ける。
私は、着物の袖で、口を押さえ、コータは、支援物資の中から、タオルを取り出して、口に当てた。

トゥクトゥクの速度は、遅い。
しかし、信号機の少ない、とても、危ない道を、走る。
この運転手は、実直そうで、口数少なく、私たちのストレスが少ないという、良い運転手だった。

道端に、たむろする、トゥクトゥクの運転手たちは、実に、煩い。
仕事を得るために、その話しかける様は、理解するが、日本人は、騙せる、騙されても、何も言わないと、思っているのである。

その話は、別に後で書く。

さて、キリング・フィールドに到着すると、すでに、バスが、三台と、多くのトゥクトゥクが、来ていた。
観光スポットになっている。

しかし、慰霊塔を見た私は、観光スポットになるという、訳が解らなかった。

慰霊塔は、それほど、悲惨極まりないものだった。

その辺りは、処刑された跡や、遺体が、埋められた穴などを、公開している。
私は、慰霊塔のみ。

丁度、人が、慰霊塔にいない時である。

慰霊塔の前に立った。

絶句した。
骸骨が、下から上まで、積まれている。
そのままである。

もし、日本であれば、こんな奉り方はしない。
一度、更に遺骨を火葬して、地下に納め、その上に、慰霊塔を建てる。

その、慰霊塔の様自体、異常で、異様である。

私は、慰霊塔の前で、菊の花と、線香を売る男から、それを買い、持参した、神紙を取り付けて、御幣を作り、ただ、太陽に向かい、礼拝し、慰霊塔の骸骨に向かって、清め祓いを行った。

ただ、音霊による。
それ以外の言葉は、無用である。

黙祷である。

その間、人は、誰も来なかった。

何を祈るのか。
彼らの、無念さを、感じるのみ、である。

様々な、人間の感情を複雑に絡めて、その慰霊塔が、存在する。

実は、私は、この旅に、出る少し前から、今までに無い、抑うつ状態に陥っていた。
それは、バンコクに着いても、そうだった。
一体、どうしてしまったのか。
寒い冬のせいかと、思ったが、暖かいバンコクに来ても、抑うつは、続いた。

その訳が、慰霊塔の前で、追悼慰霊の行為をしている時に、解った。

これである。
霊位の、感応が起こっていたのである。
慰霊をするという、私の心に、すでに、霊位の感応が、起こる。
これは、私の感受性である。

慰霊を終えると、その、抑うつ状態は、すーっと、消えた。

私が、線香を上げて、花を大きな花瓶に挿すと、人がやって来た。
欧米の人たちは、慰霊塔の中にまで入り、その、骸骨を見ている。

その神経が、理解出来なかった。
考古学の、資料でも見ている雰囲気である。

コータが、辺りを見ている間、私は、ベンチに座り、タバコを吹かした。

他の場所を見る気はいない。

コータが、戻り、サイレントツリーと言われた、木を見たという。
どんなに、処刑されることに、騒いだ人も、その木に、吊るされると、静かになったという、木であるという。

その辺りに、遺体の埋められた穴が、見学出来るようになっているという。

これは、見せしめである。
私が、この旅日記の題を、殺されるよりましだ・プノンペン、と、つけたのは、それである。

このようになりたくなければ、反抗するな。
ただ、黙って、従え。
さもなくば、このように、殺される、という、メッセージとして、受け取った。



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