2010年02月11日

殺されるよりましだ・プノンペン 11

トゥクトゥクのおじさんに、私は、スラムへ、そして、最も貧しい人たちのいる場所へと、言った。

おじさんは、オッケーと、言って、私たちと荷物を積んで、走った。

街を抜けて、橋を渡る。
私が、予想していた、場所とは、違った。
橋の手前の、スラムを予想していたのだ。
しかし、おじさんに、従った。

随分と、走った。
もう、この辺りで、支援物資を配ってもいいと、何度も、思った。
コータにも、言った。
コータは、この際だから、おじさんに、任せようと、言う。

30分以上も、走り続けて、私の体は、その震動で、小刻みに揺れるようだった。

おじさんの、トゥクトゥクが、止まった。
道端の人に、何か言っている。
どこかの場所を探しているようだった。

すると、おじさんは、走って来た道を、戻るのである。
つまり、おじさんの、目指す場所があるのだ。

そして、ついに、辿り着いた。

壊れそうな、木の門がある。
広い、運動場のような、場所。

その中に、入って行く。

何と、そこは、孤児たちの、家だった。

おおよそ、3歳から、17歳までの、男女の子供たちが、暮らす施設である。

その、施設の説明を聞く前に、私たちは、支援物資を子供たちに、渡すことにした。
108名の子供たちが、生活する。

すべての、支援物資を積んで来ていた。
そこで、すべての、衣類を差し上げることになる。

子供たちは、礼儀正しく、日本語で挨拶した。
ただ、小さな子供たちは、我先にと、衣類を取り合うので、困った。

大きな子供たちは、じっと、自分たちの番がくるまで、待っている。
時々、小さな子供たちに、後ろから、指導者の男性が、注意する。その時は、静かになるが、また、始まる。

ミー、ミー、ミー
と、取り出した衣服を、くれと、言うのだ。

最後に、フェイスタオルが、残り、何も、上げていない子供たちに、渡すため、私は、少し離れた場所に、移動して、日本語で、何も、貰っていない人、来てください、と、言った。

すると、ザーッと、子供たちが、寄ってきた。

フェイスタオルなど、無いのである。

一人、一つだよ
私が、そう言いつつ、手渡す。

ようやく、すべての、支援物資を渡し終えて、子供たちが、落ち着いた。
丁度、昼食の時間が始まる頃になった。

子供たちの、食堂を見ていた。

職員の男性が、私たちを連れて、施設を見て回った。

色々な国の支援を受けて、成り立っている、ホームだという。
勿論、日本からの、支援も多い。

教室を見ると、コンピューターが置かれた一つの部屋があった。
その六台の、コンピューターは、日本の企業が、寄付したという。

更に、水浴する場所では、日本から来た、青年三人が、作ったという、浄水の手作りを見た。

泥水が、濾過されて、綺麗な水になっている。
子供たちは、そこで、体を洗う。

男女別に、一つ一つある。
差し上げた、タオルが、生かされると、思った。

事務所に戻り、私たちは、名前を書いた。
更に、私は、何が必要ですかと、尋ねた。

まず、薬である。
痛み止め、下痢止め、ビタミン剤である。
衣服も、勿論必要である。
政府から、年に、一人につき、二枚の衣服が、配られるという。それのみ。

更に、教室の、設備である。
手作りの、机と椅子があるが、もう、ガタガタである。

そして、寄付金は、食べ物を買うために、必要ですと、言う。

確かに、手作りの、机と椅子は、つながっている物で、ようやく、何とか使用している様子だった。

次に来た時は、子供たちに、日本語を教えてください。
何日でも、いいですから、と、言われた。

これは、大変なことだと、思った。
街から、離れると、スラムだけであるという。
更に、こうして、ホームに住める子供たちは、幸せな、方である。
街中には、ストリートチルドレンも、大勢いる。

実際、私は、何人も、彼らと出会い、渡すものが無くて、自分の着替え用の衣類を、渡したのである。
更に、路上生活をする、家族にも、自分の物を、持って差し上げた。

田舎から、プノンペンに出る人や、子供たちが多いのである。
都会に出れば、捨ててある食べ物で、しのげるのである。

親を亡くした子供たちは、様々である。
その多くは、地雷により、親を亡くしている。

実は、収入の少ない田舎の人たちは、地雷の鉄くずを集めて、売り、現金にする。しかし、素人であるから、地雷を爆発させて、命を落とす、あるいは、大怪我をする。
怪我をすれば、働けなくなる。

子供たちの行くべき場所は、人の多い、プノンペンになる。

国が、安定して、まだ、10年たらずである。
政府も、力が無い。
どうしても、海外からの、支援が必要なのである。

本当に、気の毒な、状態である、カンボジアは・・・

日本の、NPOなどが、多く活動する。
支援団体もある。
成果を上げているところもあるが、そうでないところもある。

単に、金集めだけの、団体もある。

児童買春撲滅に取り組んでいる、立派な団体もある。

実は、私は、児童買春の、実態を探ろうと、バイクタクシーの、危なそうな人に、尋ねて、歩いた。

だが、解らないと、言われる。
更に、政府は、児童買春に、ようやく、法的処置をとり始めたのである。

それは、ポスターで、解った。
児童買春は、罪です。
それを、見つけたら、こちらに、連絡してください。というものである。

だが、カンボジアで無くなっても、女児たちが、買われて、タイのバンコクなどで、性的労働をさせられている、可能性がある。

だが、タイでも、法整備が、整い、児童買春宿にと言うと、そのまま、警察に、連れて行かれることになるほど、厳しくなった。

社会の底の底に、潜んでいるはずである。

孤児の家から、出た。
子供たちの、さようなら、を、背中に聞いた。




2010年02月12日

殺されるよりましだ・プノンペン 12

少数民族のなかで高い割合の人々がクメール・ルージュ体制を生き延びられなかったことをどのように理解したらいいのだろうか?約40万人いた中国人に対しては50パーセントという死亡率が挙げられ、1975年の後もカンボジアに残っていたベトナム人の場合はもっと高い数字が提出されているが、スリヴィンスキはベトナム人については37,5パーセント、中国人については38,4パーセントという死亡率をとりあげている。

右の質問にたいする答えは、他の犠牲者グループとの比較のなかに求めることができよう。

スリヴィンスキによれば、共和国軍「ロン・ノル政権の軍隊」の仕官の82,6パーセント、高等教育の免状所有者の51,9パーセント、そして、とりわけプノンペン住居者の41,9パーセントが姿を消した。
この最後の数字は、上記二つの少数民族について得られた数字に非常に近いことに注目すべきである。
すなわち、彼らはまず「超―都市住民」(1962年に、プノンペンは18パーセントの中国人、14パーセントのベトナム人を数えていた)として、そして第二に、「超―金儲け主義者」として迫害されたのだった。

彼らの多くは、元の社会的地位を上手に隠すすべを知らなかった。しばしばクメール人にまさる富を彼らがもっていた事実は、利点「持ち出せる富があれば、ブラックマーケットのおかげで、生き延びる可能性が生まれた」だったと同時に、脅威の種でもあった。彼らはその豊かさゆえに、新しい支配者の目から見て「標的」になったからである。しかし、首尾一貫した共産主義者として、新しい支配者は、人種や民族の争いより階級闘争「あるいは階級闘争であると理解したもの」のほうを優先させていたのだった。
黒書

上記は、私が、読みやすく、書きなおしている。

1978年、ポル・ポトは、カンボジアは、いかなるモデルにもしたがわない社会主義を建設しつつあると、断言している。

そして、ベトナムのクアンナム朝の別名、コーチシナ王国に併合された、カンプチア・クロム、つまり、カンボジア人は、今も、クメール語で、そう呼ぶ、カンボジア低地という意味である、18世紀に、「盗み取った」ベトナムに対する憎悪が、徐々に、クメール・ルージュのプロパガンダの中心的テーマになっていったーーーそしてそれは、今尚生き残る、クメール・ルージュの事実上唯一の明確な存在理由でありつづけている。

1976年、半ば以降、カンボジアに残るベトナム人たちは、罠にかかったのである。
国を出ることを、禁止された。
地方レベルで、いくつかのベトナム人虐殺事件があったことが、報じられた。
ベトナム人全員と、ベトナム人の友人や、ベトナム語を話すクメール人までも、逮捕され、中央治安部隊への引渡しを命令した、1977年4月1日の、指令に続いて、虐殺は、全般化した。

対ベトナム紛争が、すでに始まっていた、国境地帯のクラチエ州では、先祖にベトナム人をもつというだけで、有罪となり、当局は、すべてのユオン「ベトナム人」を、歴史的な敵と呼んだのである。
1978年に、東部地域の住民全体のことを、クメールの体内にいるベトナム人と非難することは、彼らに、死を約束することになった。

さてさて、それ以外に、迫害の対象になったのは、宗教である。

まず、カトリック教徒は、最も、被害が大きかった。
その、48,6パーセントが姿を消した。

プノンペンの大聖堂は、この都会で、唯一完全に、破壊された大建造物だった。

そして、イスラム根絶の、企てである。
1973年以降、解放区では、モスクが破壊され、礼拝が、禁止される。
1975年5月からは、全国に広げて行われた。

コーランは、集められて、燃やされた。
モスクは、他の用途に転用されるか、根こそぎ破壊された。

敬虔な信徒は、特に標的にされた。
約千人いた、ハジのうち、生き残った者は、30名ほどである。

更に、少数民族である。

主要な土着の、少数民族、チャム族は、1970年には、25万人を数え、農業、漁業に従事していたが、イスラム教を信じていたため、特別な運命をたどる。

彼らは、極めて優れた戦士との評判が高く、解放戦争初期には、クメール・ルージュのほうが、彼らに、へつらった。
彼らは、商業活動にかかわり過ぎると、非難されていたが、全体として、旧人民に属していた。

しかし、1974年以降、ポル・ポトは、密集した彼らの村を、分散させるように、密かな命令を下した。
1976年、体制内のチャム族出身の幹部全員が、その部署から、追放された。
1975年以降、チャム族は、名前を変え、クメール名に似た、新しい名前をつけなければならない。チャム族独特の心性なるものは、廃止される。命令に従わない者は、その責任を負う。
北西地域では、チャム語を話しただけで、殺されることもあった。

だが、チャム族は、頻繁に、反乱を起こした。
そのために、報復として、数々の殺戮を受けることになる。

1978年以降は、多数のチャム族共同体を、女子供も含めて、計画的に、絶滅させはじめたのである。

チャム族の、全体的な、死亡率は、およそ、50パーセントである。

恐怖が、頂点に達したのは、1977年である。
飢饉が、荒れ狂っただけではなく、粛清も、復活したからである。

それは、1975年のものとは、形相が違う。
より政治的になり、粛清は、体制内部で、益々激しさを増すというもの。

一層民族的要素を内包し、新しいカテゴリーの人々にも、被害をもたらすことになった。
基幹人民の中の、富農、あるいは、中農、までが、対象となった。
教師は、以前より、徹底的に、粛清された。

更に、粛清は、新たな残酷の刻印が、押された。

1975年の、指示で、すでに、共和国時代の将校の妻子の処刑が、命じられたが、それが、実際に行われるようになったのは、1977年になってからである。

家族全員か、あるいは、村全体が、抹殺されることもあった。

元大統領の、ロン・ノルの出身村では、解放の記念日に、350家族が、抹殺された。

殺戮が、益々、全般化し、特に、東部地域では、旧人民の間においても、である。
実に、異常な、レベルに達したのである。

通常の精神の持ち主だった、ポル・ポトの、妄想は、どのようなものだったのか。

一体、今までにない、いかなる、モデルもない、社会主義とは、如何なるものだったのか。

ポルポトの、死は、実に、穏やかだったという。
虐殺の、張本人の死が、穏やかだった・・・

一体、生きるとは、何か。
人間とは、何か。
そして、一人の人間の頭の中で、描かれた、妄想によって、何百万という人の死が、何故、行われるのか。

そして、今、カンボジアは、どのような、状態か。
何一つとして、社会主義に、当たるような、政治的方法を、見出せないでいる。

言えることは、貧困の中では、どんな、主義、主張も、詮無いことである。
暴力によっては、何物も、生まない、生めないのである。

20世紀の、国造りで、成功したのは、日本のみである。
少しでも、日本を真似た国は、希望が見えたのである。

戦争ではなく、経済活動を通して、日本は、世界の成功者となった。
そして、戦争することが、愚かなことであることを、日本は、身を持って示した。

伝統を捨てずに、日本は、更に、世界の指導者として、立つことだろう。
そのためには、若者に、再度、日本から見る、日本の歴史を、学んでもらうことである。

世界で、唯一、無形の権威を持つ、天皇という、存在を有する国である。
天皇は、人間、ただ一人である。
一切の、武器を持たない、天皇という、伝統継承の象徴を有する日本は、世界の指導者となる。

2010年02月13日

殺されるよりましだ・プノンペン 13

プノンペンでは、五泊の滞在である。

二泊は、10ドルの、ホテル。かび臭いホテルに泊まり、三泊目は、その近くの、ゲストハウス、20ドルの、部屋に、一泊した。
しかし、20ドルは、高いので、街中の、ゲストハウス、一泊15ドルの部屋に、二泊した。

街中の、ゲストハウスに泊まって、正解だった。
街の中の人々を見ることが、出来たからだ。

最後の日は、一日、支援物資が無かったが、私たちの、着替えの衣類を持って、路上生活の人、家族に、差し上げた。

明らかに、地方から出て来たと、思われる人たちである。

皆さん、とても、喜んで、貰ってくれた。
更に、夜は、バザールがある場所に行き、食事をして、物乞いの人たちに、少しばかりの、食事を、差し上げた。

特に、お年寄りが、多かった。

蒸かし饅頭のようなものを、買って、差し上げる。
日本円にすると、一つ、20円から、30円である。

朝夕は、少し涼しく、過ごしやすい。
昼近くになると、急に温度が上がる。

一度だけ、マッサージに出掛けた。
ゲストハウスの近くにある、本当のマッサージ店である。

本当か、エロマッサージかは、中々判断がつかない。

料金が、明確なので、コータと、入った。

私は、エアコンムールで、コータは、普通の部屋にした。
後で、エアコンルームは、一ドル高くなると、知る。
一ドルは、おおよそ、90円である。

東南アジアを旅すると、100円という、金額が、とても、重大になるのである。

マッサージは、普通だった。
可もなし、不可もなし。

タイマッサージと、比べると、物足りない。

それに、言葉が、分からないので、無言である。
英語も、通じない。

贅沢は、マッサージのみである。
和食の店にも、行かなかった。というか、和食を、食べたいと、思わないのだ。

地元の、物を、食べることに、熱心になった。

ベトナム料理の影響と、中華料理の影響が強い。
ベトナムの、フォーに似た、麺類が、美味しい。

その他は、揚げ物である。
ただ、油が、問題である。
古い油に、新しい油を、加えているので、どうも、食べると、胃にもたれる。

小魚の、油で揚げて、干したものを、食べた。
美味しいが、後味が悪い。

コーヒーが、旨かった。ただ、実に、濃いのである。
お湯で、薄めて、飲むのがいい。

街中の人々は、実に、優しかった。
色々と、教えてくれる。

乗り物以外は、問題なかった。

一番、悪いのは、バイクタクシーである。
料金が、いまいち、分からない。それに、ボルのである。

一度だけ、私は、怒鳴った。
一ドルというので、他のバイクタクシーの人に、再度、値段を尋ねると、3000リアルである。
私は、一ドルと言った、集団のところに行き、3000リアルではないかと、言った。

どうして、一ドルになるのだと、問い詰めた。
しかし、私の大声で、誰もが、口を閉ざした。

日本人だけではなく、観光旅行者は、色々と、ボラれるのである。
ただ、欧米人は、実に、横柄で、顎で、彼らを使う。
だから、欧米人には、言う通りに、従うようである。

だが、あの横柄さを、真似ることは、難しい。

日本人は、幾らですかと、尋ねるが、欧米人は、一ドルで、行けというのである。
その態度に、カンボジアの人は、従う。
植民地根性である。

私は、コータに、あのように、言う方が、いいのかと、聞くと、出来れば、あのような、横柄な言葉は、使いたくないと言う。
最もである。

私も、嫌だが、時には、そのようにしなければ、いけない場面もある。

私たちは、荷物を、自分で、運ぶが、彼らは、荷物も、運ばせる。
白人の、横柄さは、独特な感触である。

主人と、僕の関係を、即、作られるという、特技を持つ。

アジアの人、未だに、白人は、主人で、我らは、僕だと、思っているのか・・・

実に、複雑な心境である。

タイに戻る日は、ゲストハウスから、二時に出ればよい。
チェックアウトは、12時である。
フロントの、男の子に、聞いた。

すると、二時まで、部屋にいてもいいと、言う。

この、曖昧さが、日本人には、嬉しい。

次に来た時も、ここに、泊まりますと、言うと、フロントの男の子が、喜んで、オッケー、待っていますと、答えた。

日の丸を、至るところに、つけていたので、日本人であることは、解っている。
部屋から、荷物を、運んでくれた。

クメール語は、難しい。
中々、覚えられない。

私は、ありがとう、という、オー・クンだけを、覚えた。

オー・クンを繰り返して、彼らと、別れた。

一人、一人の、人間として、悪い人は、いない。
それが、集団になると、変形する。

私は、度々、カンボジアを訪ねることになると、思う。
クメール人に、やまと心を、伝えるために、である。

2010年02月14日

殺されるよりましだ・プノンペン 14

証言
民主カンプチアには、刑務所もなければ、裁判所も、大学も、高校も、貨幣も、郵便局も、本も、スポーツも、気晴らしもなかった・・・
一日二十四時間のうち、無為の時間は少しも許されなかった。毎日の生活は次のように分けられていた。
労働時間が十二時間、食事が二時間、休息と教育が三時間、睡眠七時間。
われわれは巨大な強制収容所にいた。そこにはもはや正義はなかった。われわれの生活のすべての行為を決定するのはオンカーだった。・・・
クメール・ルージュは彼らのたがいに矛盾する行為や命令を正当化するためにしばしばたとえ話を使ったものだ。
たとえば人間を牛にたとえてこう言っていた。クワを引いているこの牛を見ろ。牛はここで食えと命じられた所で食う。もしこの畑で草を食わせておけば、牛は食っている。もしたっぷり草がない畑に連れていっても、ともかくそこで草を食う。牛は自分で移動することはできない。牛は監視されている。そして、くびきを引けと言われればくびきを引く。牛は決して妻や子供のことなど考えない・・・
上記、読みやすく、私が改行して書いている。

生き延びたすべての人々に民主カンプチアは、あらゆる基準と価値観が失われた社会という異様な印象を残している。

黒書は、更に、続ける。

民主カンプチアで生き延びるチャンスにしがみつこうとすれば、大急ぎで新しいゲームの規則を学びとらなければならなかった。その第一条は人命にたいする根底的な軽蔑だった。すなわち「お前が死んでも損失はない。お前を生かしておいても何の役にも立たない」というのだーーーすべての証言がこの恐るべき決まり文句を報告している。

この世に、地獄が、実現したのである。
一体、何ゆえに、また、何の権利があって・・・ここまで、傲慢な、考え方が、出来るのか。

南西部地域の「解放」区では、「解放」の瞬間から仏教が廃止され、青年は家族から離され、制服にかんする規則が強要され、生産協同組合への編入が実施された。今こそ語らなければならないのは、民主カンプチア治下の人々を囲んでいた死にいたる無数の機会のことである。
黒書

いっさいの教育、移動の自由、合法的な商売、その名に値する医療、宗教、文字などがすべて消え去った状態に慣れなければならなかったし、同じように服装や行動にかかわる厳格な規準の押し付け「衣服については、色は黒、長袖で、首までボタンのついた服であり」行動の押し付けにも「愛情表現もだめ、喧嘩や悪口もだめ、愚痴や涙もご法度だった」慣れなければならなかった。
あらゆる指示に盲目的にしたがい、果てしない集会に「聞いているふりをしながら」出席し、命令どおりに叫んだり、喝采し、他人を批判したり、自己批判したり・・・しなければならなかった。
民主カンプチアの1976年の憲法は、市民の第一の権利は働くことだと規定していた。
当然ながら新人民は他にも権利があることなど決して知らなかった。
体制の初期に自殺者が疫病のように流行したことはきわめて納得がいく。
なかでも自殺者が多かったのは、家族の重荷になると感じた高齢者たち、身内と別れていた高齢者たち、あるいは最も裕福な階層に属していた人たちだった。

主義による、妄想から発する、計画は、無謀を超えて、単なる、妄想以外の何物でもなくなる。
ポル・ポトは、まさに、そのようだった。
「わが人民はアンコール寺院を建設することができたのだから、われわれにはすべてが可能である」
との、演説の空虚なこと。

彼の、狂信的心情は、宗教の信仰を超えた。

百人の天才も、一人の狂人に、適わないのである。

結果は、農村の崩壊である。

街道の両側に、見渡す限り荒れた田んぼが広がっていた。
田植え作業の跡を探したが、無駄だった。何もなく、ただ10キロほど先に、数人の娘からなる労働グループがいただけだった。
ラジオが毎日語っている移動労働隊の何百人もの若者はいったいどこにいるのだろう。
所々に、男や女のグループが肩にふろしき包みをしょって、うつろな様子で、ぶらぶら歩いていた。彼らが身につけている、かつては鮮やかな色だったに違いないボロ着や、細いズボン、破れたスカートから、彼らが新人民、つまり都市から追放されてきた旧都市住民であることが推測できた。

彼ら都市住民は、まず初めに南西部地域の恵まれない地区に送られ、そこで完全な窮乏に直面し、「新しい世界観」をつくりあげなければならなかったのだ。
ところで、その間、肥沃な地方は労働力を投入されず放りっぱなしになっていた。
国中で人が飢えて死んでいるのに、種を撒いた土地のたった五分の一しか利用されなかったことになるわけだ。
上記、読みやすいように、改行している。

一方、労働における積極性を大いに喧伝されていた移動労働隊についていえば、彼らが生活していた過酷な条件ときたら!
食事は畑に運んで来られるが、何本かの蔓を浮かした水のようなスープに、プノンペンで食べていた量の半分くらいの少々の米粒だけだった。こんな割当量では、力いっぱい働くことなど不可能だし、その結果、どんなものであろうと生産することは無理な話だった。

カンプチア共産党の経済計画はそれ自体耐え難いほどの緊張をはらんでいた。しかもその緊張は、計画の実行を担当する幹部たちの傲慢な無能力によってなお一層深刻になった。

無謀な計画は、
きちんと設計され、今日にいたるまで変わらず使用されている堤防や運河やダムが数えるほどしかないそのかたわらで、どれだけ多くの治水工事が最初の増水期が来ただけで「ことによると、数百人の建設労働者や村人を呑み込み」押し流されてしまったことか。あるいは水を逆流させ、たった数ヶ月でダムが泥に埋まってしまったことか・・・

どういうことかと、言えば、労働者の中には、水利技師がいても、彼らは、沈黙を守るしかなかったのである。
批判をすれば、オンカー、つまり、共産党幹部によって、敵対行為と位置づけられ、その結果は、「ダムを建設するのにお前たちに必要なのは、政治教育だけだ」と、退けられ、奴隷教育を受けることになるのである。

無知な、幹部たちは、部下と共に、働くこともなく、ほんのわずかな討論さえも、許さず、ひたすら、命令を下しているだけだった。

ここ、ここに至ると、もはや、書く必要がない。
人間が、その理性を失い、そして、知性を完全に、一定の原理に、押し込めると、このようになる。
何も、共産主義だけではない。民主主義でも、そうである。
更に、宗教の教義も、である。
それらは、人間の、理性と知性に、支えられ、更に、感性によって、バランスを取ることによって、かろうじて、最大公約数の幸福を求めることが、出来る。

まさに、ポル・ポト政権の、真相は、暴力である。

2010年02月15日

殺されるよりましだ・プノンペン 15

何百人のカンボジア人を何年にもわたってうちのめした飢えは、また、彼らをたやすく隷属させる道具としても意識的に利用されたのだった。たとえば、衰弱した人々は余分の食料をたくわえられないままに、逃げようという気持ちも失ってしまった。食料のことで常に頭がいっぱいの彼らのなかでは、自立的な思考や異議申し立てや性行動への意欲すらも打ち砕かれていた。状況に応じて彼らの食事量を調節する勝手放題な政策のために、強制移住に訴えるひとも、集団食堂制を進んで受け入れさせることも、思いのままになっていった(数回でも満足な食事が与えられると、皆がオンカーを好きになりはじめたものだ)。また、親子関係を含め、個人間の連帯を破壊するのもたやすいことだった。どんなに血にまみれた手であろうと、自分を養ってくれるのであれば、その手にキスすることを誰も厭いはしなかったであろうから。
黒書

クメール・ルージュ体制下では、一人につき、米250グラムを貰う事が出来れば、ご馳走の部類だった。

割り当て量が様々に変化するにつれて、五人、六人、八人に、250グラムを、分け合うことも、珍しくなかった。

ブラックマーケットの存在は、届出を出していない多数の死者への、割り当ての量を、幹部が横流しするという、悲惨さである。

飢えた人々は、その空腹感から、何物も、見逃すことは、なかった。
稲田に群がる蟹、蛙、タカツムリ、トカゲ、蛇、生のまま食われる、赤蟻、蜘蛛も、手当たり次第、狙われた。
森の中の、若芽、キノコ、根っこなどもである。
選択を誤り、または、熱を通さず食べて、多数の人が死ぬ原因になった。

飼いおけの餌を、豚と、奪い合うという事態も。野鼠を腹の足しにする。

貧しい国にとってさえ、思いもよらない極限状態にまで、達した。
食料を、個人的に調達しようとする試みは、常に制裁の主要な、口実の一つになった。
見せしめのための、処刑も、行われた。

現在でも、北朝鮮では、収容所に入れられた人々は、このようである。

飢餓からくる病気にも、色々あるが、最も普通で、最も重いものは、全身に広がる、浮腫である。
これは、毎日の粥の中の、塩分の大量摂取によって、促進されるもの。更に、比較的、安らかな死を迎えられるため、老人からは、羨ましいと思われていた。

更に、極限まで、達すると、人肉食という行為に至る。

人肉食という手段に訴えるこの行為のなかに、もっとずっと一般的な現象―――つまり、価値観や道徳観・文化的基準の、何よりもまず、仏教における基本的な徳である憐憫の情の衰弱という現象―――の極限例を見ることができるのではなかろうか?
これこそクメール・ルージュの体制の逆説といえようが、平等、正義、友愛、自己犠牲の社会をうちたてたいと公言しながら、他の共産主義権力と同じように、その体制が引き起こしたのは、エゴイズム、自分さえよければという態度、権力における不平等、恣意性が前代未聞の規模で荒れ狂う、嵐のような世界だった。
生き延びようと思えば、何よりも、うそをつき、だまし、盗み、しかも無関心でいることができなければならなかったのである。
黒書 読みやすく、改行しています。


この体制は、家族の絆を緩め、あるいは破壊するため全力を尽くした。

それは、全面的隷属という全体主義的計画にとって、家族の絆が、自然発生的に、抵抗の基盤になると、認識したからである。

したがって、夫は何週間もつづけて、あるいはもっと長いあいだ、妻から引き離され、子供は年老いた親たちから引き裂かれていた。青少年は家族と会うこともなく、その消息もなしに六ヶ月も過ごすことがあったが、時にはやって家に帰ってみて、全員が死んでいるのに気づくということすらあった。
黒書

夫の妻に対する権力も、両親の子供に対する権力も、取り上げられてしまった。妻をひっぱたいたかどで、処刑されることもあり、子供を叩いたかどで、子供から、告発されることもあり、侮辱したり、口論したりしたため、自己批判を強いられることもあった。

人間主義とは、とてもいえない、この種の状況のなかにこそ、自分の支配を免れる、すべての権威関係を解体させて、合法的な暴力の、独占体制を、無理やり、我が物にしようとする、権力の意志があったこと、事実である。

1976年の、四ヵ年計画は、中国の、文化大革命を、真似たもので、革命的な歌と、詩以外は、いかなる芸術的表現も、認められなかった。

証言
彼は、病院に妻を見舞いに行く権利を得られなかった。
また、隣の、重病の女性と、その小さな二人の子供を助けに行ったとき、彼はクメール・ルージュから、注意を受けた。
「助けるのはあなたの義務ではない。逆にそれは、あなたがまだ同情心だとか、友情という感情をもっている証拠だ。そういう感情は捨てて、個人主義的傾向をあなたの精神から根絶やしにしなければならない。早く自分のところに帰りなさい」
である。

この、一貫した人間性の否定を、いとも、簡単に受け入れ、実行する、という、主義の、原理である。

それが、支配者の視点に立つと、その裏側というものが、見える。
警備員、スパイが、後ろを向くやいなや、監視されている者たちは、うそをつくこと、さぼること、とりわけ、盗むことについての、一切のやましさが、消える。

子供から、年寄りに至るまで、誰もが、盗んでいた。

死ぬか、盗むか、騙すか、その、選択しか与えない社会とは、地獄というほかにない。

とくに若い世代におけるこの脱教育化作用は、カンボジアの発展の機会を阻害する冷笑的なむ態度とエゴイズムを今日にいたるまで存続させるにまかせてきたといえよう。
黒書

この愚かな、共産主義の全体主義という、原理的行動は、人間性の破壊だけではなく、人間を動物化させる。

社会が、このようなことにならないためにも、一人一人が、目覚めて、いなければならない。
自由と、平等というものが、如何に、大切であり、それを、与える指導者、支配者が、如何に必要であるか。
私は、過ちを繰り返しても、作り上げてきた、体制により、自由と、平等を、伝統として、有する、国を、愛する。

2010年02月16日

殺されるよりましだ・プノンペン 16

タイの、格安航空会社で、何度か、痛い経験をしている、私たちは、帰国日の、前日に、タイ・バンコクに戻ることにしていた。

何せ、突然、時間が変更したりして、日本への、帰国便に乗れなければ、大変だからだ。

余裕を持っていた方が、安心である。

さて、私たちは、トゥクトゥクを利用したが、一人のおじさんに、すべて御願いした。
最初に、おじさんは、私に話し掛けてきた。

プノンペンでは、トゥクトゥク、バイクタクシーの運転手の、勧誘が、激しい。煩い。
だが、夜間などは、バイクタクシーは、非常に危険である。
道を知らない者が、乗るものではない。
とすると、夜間の出歩きは、歩ける範囲である。

私は、児童買春の宿があれば、見たいと、思ったが、それは、非常に危険であり、更に、幾人かの、バイクタクシーの運転手に尋ねたが、知らないと、言われた。

政府の、法規制もあり、本当に、闇に潜んだのかもしれない。

インドの児童買春宿に、踏み込んだという、レポートを読んだが、それは、命に関わるような、行動である。

お客として行ったとしても、万が一、偵察だと、知られると、その場で、殺されることも、ありえるのだ。

さて、私たちが、孤児たちの家に、連れて行ってもらった後で、トゥクトゥクのおじさんは、突然、実は、弟が、あなたたちに、逢いたいと言っているので、家に向かってもいいかと、言う。

弟さんは、日本語が、少し話せるというのだ。

私たちは喜んで、行くことにした。

孤児の家から、それほど、離れた場所でなかった。

長屋建ての、家に、兄弟四家族が住んでいた。

それは、おじさんの、弟さんが、建てたもので、田舎にいた兄弟たちが、弟さんを、頼って、プノンペンに出てきたという。

その、弟さんは、公務員だった。
その、給与は、月、およそ、23万円である。帰国して、ある人から、それを聞いた。

普通の人の、給与が、八千円から、一万円と少しであるから、破格の給与である。

家族の誰か一人が、公務員になれば、皆々、頼れるのである。

私たちは、大歓迎を受けた。
弟さんは、千葉県に、一年間、研修に来ていたという。
ある程度は、日本語が、話せた。

兎に角、喋るのである。
日本が大好きだと言う。
そして、日本に関して書かれた本を見せてくれた。

私が、着物姿なので、おそらく、相当、感激したのだと、思う。

しばし、歓談したが、あまり話すので、聞いているのが、疲れた。
まだ、てにをは、が、曖昧なので、理解するのに、英語より苦労するのである。

更に、明日は、子供の誕生日なので、五時に一緒に食事をしましょうと、誘われた。
すぐに、断るわけにもいかず、曖昧にしていた。

ようやく、立ち上がる事が、出来て、皆さんで、写真を撮る。
四人の兄弟の、家族も出てきて、皆さん、大歓迎してくれた。

トゥクトゥクのおじさんの、子供も、姉と、弟と、二人いた。
姉の方は、少し、英語が話せた。

ようやく、開放されて、ホテルに向かった。

おじさんには、タイへ行く日の、空港までの、送迎を御願いした。

明日は、どうしますかと、尋ねるので、ホテルをチェンジするので、連絡しますと、答えた。
結局は、連絡せず、有耶無耶にした。

歓迎されるのは、嬉しいが、あまりに、気を使うので、疲れるのだ。
誕生日の食事会には、出なかった。
おじさんからも、電話が来なかったので、安心した。

そして、タイへ行く日の、前日に、電話が来た。
空港まで、送迎するためだった。

変更した、ゲストハウスの場所を教えて、来てもらうことにした。

この、おじさんは、最初から、ボルことなく、通常料金を示したので、安心して、利用させてもらった。

空港までも、7ドルである。

次回も、御願いした。
次回は、プノンペンから、40分ほどの、町に行く予定である。
そこには、寺院の有名な建物があるが、私は、一万人以上殺されたという、場所に出掛けて、追悼慰霊を行いたいと思った。

カンボジアでは、至る所で、人が殺されたので、全国を回らなければならないほどだ。
処刑、虐殺が、日常的だった、ポル・ポト政権の、三年八ヶ月である。

35年前であるから、おじさんの、記憶にもあると、思うが、それについてを、尋ねる、勇気は、なかった。

おじさんが、50近くであれば、その頃は、少年時代である。

おじさんとは、電話番号を交換し合っている。
空港では、次回も、お世話になりますと、別れた。

私も、コータも、携帯電話を持っている。
それは、アジアの国であれば、内部のチップを、取り替えると、どこの国でも、使用できるものである。
ちなみに、プノンペンでは、電話番号を売る商売が盛んだ。
何故、番号によって、値段が違うのかは、謎である。

私は、インドネシア、フィリピン、タイと、番号を持っている。
ただし、あまり長い間使用しないと、停止されることもある。

さて、タイ・バンコクに着いて、私たちは、いつものスクンウィット通りではなく、コータの取材のために、一泊を、有名な、パッポン通りにした。

日本人向けの、飲み屋街が多い場所である。

そこで、私は、久しぶりに、居酒屋に入り、日本酒を飲んだ。
珍しく、とても、美味しく感じられた。

また、その店の経営者が、東北地方、イサーン出身の女性だった。

コータが、タイ語で、色々と話している。
内容は、私たちの活動だった。
その話が、彼女の心を、動かしたようだ。

彼女も、時々、故郷に戻る際に、冬物の衣類を持参して、寄付するというのだ。
是非、私たちに、ウドンタニという、町にも出掛けてくれと言う。

ウドンタニとは、懐かしい。
バンコクから、飛行機に乗り、ウドンタニに行き、ラオス国境の、町、ノンカーイに出掛けたのである。
二年前である。
私は、一週間、その町で、過ごした。
コータが、一人で、ラオスに入り、衣服支援をしたのである。

その旅日記も、掲載してあります。

2010年02月17日

殺されるよりましだ・プノンペン 17

「われわれが建設中の国のためには、よい革命家が100万人いれば足りる。その他の住民は必要ないのだ。われわれは敵を一人生かしておくくらいなら、むしろ10人の友人を倒すほうを選ぶ」というのが、協同組合の集会でよく聞かれたクメール・ルージュの演説だった。

彼らは、こうしたジェノサイドの論理を実行した。

ポル・ポト治下では、非業の死こそ日常茶飯事だった。

当時は、病気で死ぬより、殺されて死ぬ方が、圧倒的に多かった。

三番目の殺し方とは、中央につながる部隊が、東部地域におけるように、失脚した地方幹部の集団、疑わしい村々の全村民、さには、住民全体を、現場で、大量に殺戮する。

どの場合でも、明確な告発はなかった。
「オンカーは殺すが、決してその理由を説明しない」というのが、当時の住民の新しい、諺になった。

死刑の、主たる理由を挙げると、最も適当なのは、食料ドロボーである。
コソ泥の場合でも、大量に死刑が、適用された。

果樹園で盗みを働いた少年たちは、仲間に裁かれた。
裁く仲間も、それを拒否することは、出来ないのである。
そして、死刑を宣告され、その場で、即座に頭を撃ちぬかれた。

一頭の子牛を分け合ったというだけで、一家全員が、殺されることもあった。

殺される理由は、どんな小さな、逸脱行為も、可能な限り、妄想逞しく、解釈をほどこすことは、簡単だった。

結婚以外の、性的関係は、無条件に死刑とされた。
若い恋人たちは、勿論だが、好色な幹部たちも、死に至った者は、多い。

アルコールの摂取も、死罪の一つだった。
それは、幹部と、旧人民に該当するものだった。
新人民は、食糧探しだけで、十分、命の危険に晒された。

与えられた、任務を達成できないことも、極めて危ういことだった。
些細な、間違い、事故でも、命にかかわることがあった。
更に、多くの身体障害者、精神病患者が、殺害された。
無能であり、客観的には作業の妨害者でもある、彼らは、新人民の大半より、尚一層、役立たずだからだ。

共和国軍の、傷痍軍人は、消滅させられるのに、最適な存在だった。

民主カンプチアにおける暴力の全体水準は恐るべきものだった。しかし、大部分のカンボジア人を恐怖に陥れたのは、死の光景そのものよりも、絶えず人が消え去ることをめぐる謎と、その予見不可能とだった。死はほとんど常に、目立たぬように隠されていた。
黒書

「彼らの言葉遣いは、最悪の瞬間でも心がこもっていて、とても優しかった。彼らはこの丁寧さを捨てることなしに、殺人まで行ったのだった。彼らは愛想のよい言葉を用いて死を投与した。・・・彼らは、われわれの疑念を眠り込ませるために、われわれが聞きたいと望むどんな約束でもすることができた。私は、彼らの優しい言葉が犯罪にともなうか、あるいはそれに先行することを知っていた。クメール・ルージュはどんな場合にも、たとえわれわれを家畜のように屠殺する前であっても、礼儀正しかったのである。」

カンボジアでは、ある午後遅く、あるいはある夜、兵士が「尋問」のために、「学習する」ために、あるいはお定まりの「森での当番」といった理由で、ある人を連れに来たものである。外に出るや、しばしば腕をうしろに回させてしばのりあげると、それで一巻の終わりだった。


今日では、非常に多くの死体投棄穴がーーーその数は、徹底的に調査された州の各々に、1000箇所以上あり、そうした州は、合計20州にのぼる。

「男も女もこやしにするため絶えず殺されていた。その死体は、耕作用の畑、主としてキャッサバ畑のいたるところにあった。死体のための共同溝に埋められた、キャッサバの根茎を引き抜くと、しばしば、人の全頭骨が掘り出されたものだ。その眼窟のところを通って、この食用の根が張っていた」

スリヴィンスキの調査によれば、
犠牲者の29パーセントが、銃殺によるもの。
頭蓋骨を潰された者は、53パーセント。
吊るされて、窒息死させられた者は、6パーセント。
喉を掻き切られた者、及び撲殺された者、5パーセント。
である。

すべての証言が一致しているのは、公開で行われた処刑は、わずか、2パーセントである。

公開処刑の、かなりの数を占めるのは、失脚幹部の、見せしめ処刑がある。
熾き火を満たした、穴の中に、胸まで、埋めるという。または、頭に、石油をかけて、焼くというもの。

しかし、瞬時に、殺された者は、幸運だったといえる。

例えば、刑務所の事実である。

最も控え目に言っても、そこでは、囚人の生活を楽にするどころか、いや彼らをただ生存させるだけのためにも、何の処置もとられていなかった。
黒書

飢餓線上の食料の配給、医療が施されることなく、過密状態、恒常的な鎖による、拘束である。

女性因と、軽罪の男性因は、片方の足首を一般的には、男性は、両足に鎖がつけられる、さらに、時には、両腕を背中で縛られたまま、床に固定された鉄の棒に、手錠で、並んでつながれた。
トイレに行くことも、体を洗うこともなかった。

そのような、状況では、新入りの囚人の、平均余命は、三ヶ月と、見積もられた。

収監を、学習会などと、呼んでいたのは、中国、ベトナムの、再教育という、真似からはじまったようである。

だが、それは、全く意味が無い。

外国から、帰国した、多くは、学生たちであるが、彼らは、その親と、共に、収監された。
それは、他でもない。
一度に、全員を厄介払いできるようにである。

「一本の草を引き抜く時には、すべての根を残らず引き去らなければならない」というスローガンの具体化で、このスローガン自体、極端な毛沢東主義者にとって親しい「階級の遺伝性」をラジカルに表現したものだった。
黒書

だが、更に
それにもまして酷かったのは、最低年齢の条件なしに収監されたきわめて年若い「非行者」の運命だった。

posted by 天山 at 00:00| バリ島は静かに死ぬ 平成22年2月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月18日

殺されるよりましだ・プノンペン 18

われわれの心を最も掻き乱していたのは、20人の幼い子供、とりわけ、1975年4月17日の後に強制移住させられた人々の子供の運命だった。この子たちは、あまりに空腹だったので、盗みを働いたのだ。彼らは逮捕されたが、それは罰せられるためではなく、野蛮きわまるやり方で殺されるためだった。

刑務所の看守は彼らが死ぬまで叩き、蹴っていた。
看守は、子供をおもちゃにして、足をしばり、屋根からぶら下げ、揺らしておいて、また蹴って動きを止めるのだった。
刑務所の近くに沼があった。死刑執行人は幼い囚人をそこに投げ入れ、足をつかって沈めた。哀れにも子供が痙攣をおこすと、彼らは子供の頭だけを水面に浮かばせ、それからまたすぐに水中に押し込みはじめた。
われわれ囚人は、そして私自身も、かくも残酷なやり方でこの世を去っていったこの子たちの運命について涙を流した。刑務所には八人の看守兼死刑執行人がいた。リーダーのブンとローンは一番野蛮だったが、全員がこの汚らわしい仕事に貢献し、同国人を苦しめさせるために残酷さを競いあっていた。

じわじわと、殺される者、直ちに、処刑される者。

その、どちらに入るのかは、禁止事項の違反、不純な社会的出身、体制に対する、明らかな離反、陰謀加担の疑惑などなどである。

最後の三つの理由の場合は、普通、被疑者は尋問を受け、以前の「やばい」かかわりあいを白状させられるか、あるいは有罪を認めて共犯者の名を明かさざるをえなくなった。ほんの少しでも言い落としやためらいがあれば、他のいかなる共産主義体制の国よりもずっと多く、拷問が使われることになった。
黒書

クメール・ルージュの、病的で、サディスティックな想像力を、豊かに、遺憾なく発揮したのである。

最も、普通に行われた方法は、頭に、プラスチックの袋をかぶせて、窒息状態にすることだった。

多くの囚人は、すでに衰弱していて、その場を、生き延びることは、なかった。
なかでも、最悪の蛮行の被害者だった女性は、真っ先に死んだ。

最も重大な場合、あるいは、「自白」が将来の告発のためにとりわけ役立つと思われるときには、囚人は刑務所群島の一段上のレベルへ送致された。
地元の監獄から、地区の監獄へ、更には、地域の監獄、そして、最後に、ツールスレン中央刑務所に、行き着くのだ。

行き着いた場所が、どこであれ、結論は、同じことだった。
死刑。

囚人が、これ以上情報が、提供できないと、確定すると、捨てられるのである。

処刑は、鉄棒で、首を潰すという、地方的特徴もあったが、拷問を数週間、数ヶ月受けた後、銃剣によることが、最も多かった。

断末魔の叫びを、覆い隠すため、騒々しい、革命音楽が、拡声器から、流された。

囚人といっても、通常の世界で言う、囚人ではない。
政治的犯罪、社会的犯罪とあるが、社会的犯罪には、昔の職業を隠していたとか、西洋に長く滞在していたなど、である。

刑務所収容の最後の、特殊性は、無視できない、旧人民や、クメール・ルージュの兵士や、役人までも、含められたことである。

彼ら自身も、もうたくさんだという気持ちを表明したか、近親者に逢いに行くため、脱走したのだった。
中、上級の幹部については、中央と、中央が管轄する、ツールスレン刑務所の管理下に、直接送還された。

証言者
英語をしゃべれるという犯罪のかどで、私はクメール・ルージュに逮捕され、首に縄をかけられ、よろよろとびっこをひきながら、バッタンバンの近くのカイ・ロテヘ刑務所に連行された。
それはほんの序の口でしかなかった。
私は、他のすべての囚人といっしょに、肌を削るような鉄の鎖につながれた。くるぶしには今でもその跡が、残っている。
私は、何ヶ月ものあいだ、繰り返し拷問を受けた。
私にとっての、唯一の救いは、気を失っているときだけである。
毎夜、看守が突然入ってきて、一人か二人、あるいは三人の囚人の名を呼んだ。
彼らは、連れて行かれたっきり、その姿が二度と見られることはなかった。
いうまでもなく、クメール・ルージュの命令で殺害されたのだ。
私の知る限りで、私の文字通りの、拷問と、絶滅の収容所、カイ・ロテヘで生き残った、きわめて稀な囚人の一人である。
イソップ物語やクメールに伝わる、動物説話をわれわれの看守だった、若者や、子供に話して聞かせる才能のおかげで、私は、生き残る事が出来たのだ。

看守が、若者、子供である。

驚く。

さて、ツールスレンの特殊性を挙げると、「中央委員会刑務所」であり、失脚した幹部や、指導者が、入れられた。
最後の特殊性は、1975年から、1978年半ばの入所者の完全な記録と、数千にのぼる仔細な自白書と、尋問報告書が存在することである。14000名の名簿である。
そのいくつかは、体制の大物に関わるものだった。

囚人の、約五分の四が、クメール・ルージュ自身だったという。
更に、驚くのは、囚人のみならず、その家族までも、消されたというのである。

カンボジアにおける行過ぎた残虐さを考えるとき、今世紀の他の大量犯罪についてと同じように、特定の人間の精神錯乱の側にか、それとも人民総体が呆然とするほどまでに陥った幻惑状態の側にか、そのどちらかに究極理由を求めざるをえない誘惑にかられる。もちろんポル・ポト個人の責任を軽減することなど論外だが、カンボジアの民族史も、国際共産主義も、いくつかの国々(中国をはじめとする)の影響も、この問題と無関係なものとして葬り去るわけにはいかなのだろう。これらの競合が生み出した最悪の体質というほかないクメール・ルージュの独裁は、明確な地理的・時間的な文脈に規定されていたと同時に、以上三つの次元の合流点にこそあったのだから。
黒書

犠牲者の数は、おおよそ、200万人である。

私は、このことについて、考え続けることにする。
まだまだ、書き足りないが、ここで、今回の旅日記を、終わる。
次回、カンボジアの旅を書くときに、再度、取り上げたいと思う。


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