2010年01月24日

もののあわれ 484

関屋 せきや

伊予の介と言ひしは、故院かくれさせ給ひて又の年、常陸になり下りしかば、かの箒木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやり聞えぬにしもあらざりしかど、伝へ聞ゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月かさなりけり。限れる事もなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて又の年の秋ぞ、常陸は上りける。





空蝉の帰京のことである。
伊予の介であった人は、故院が、おかくれあそばした、その翌年に、常陸の介になり、下ったのである。その時、箒木も連れられて行った。
須磨の退去後も、遠国で聞いて、人知れず、思いやっていたが、伝える術もなく、筑波山のあたりからの、音の便りでは、心もとなく、少しの噂も、聞かないままに、年月が経ってしまった。
期限の決まった退去ではなかったが、京にお帰りになって、その翌年の秋に、常陸の介も、上洛した。

常陸は、親王の任国であり、その、実務は、介がとる。

箒木とは、空蝉のこと。




関入る日しも、この殿、石山に御願はたしに詣で給ひけり。京より、かの紀の守など言ひし子ども、迎へに来たる人々、「この殿かく詣で給ふべし」と告げければ、「道の程さわがしかりなむものぞ」とて、また暁より急ぎけるを、女車おほく、所せうゆるぎ来るに、日たけぬ。打出の浜来るほどに、「殿は粟田山こえ給ひぬ」とて、御前の人々、道もさりあへず来こみぬれば、関山に皆おりいて、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠れに居かしこまりて過ぐし奉る。車など、かたへはおくらかし、先きに立てなどしたれど、なほ類ひろく見ゆ。車、十ばかりぞ、袖口、ものの色合ひなども漏り出でて見えたる。田舎びず由ありて、斎宮の御下りなにぞやうの折りの物見車おぼし出でらる。殿もかく世に栄え出で給ふ珍らしさに、数もなき御前ども、みな目とどめたり。






石山とは、琵琶湖のほとりである。

常陸の介が、逢坂の関に入る、その日、この殿は、御祈願成就のお礼に、石山寺に参拝された。京からは、あの紀の守などといった、子どもたち、迎えた人々が、この殿が、参拝のよしを告げたので、途中で、混雑するだろうと、まだ暗いうちから、急いだのだが、女の車が多く、道いっぱいに、練って来る。日も高くなるのである。
打出の浜に出る頃、殿は、粟田山を越えたとあり、前駆の人々が、道も避け切れないほど、大勢入り込んできたので、関山に、一同が下りて、そこここの、杉の木の下に車を入れて、牛をはずし、鞍を下ろして、木陰に、うずくまり、畏まって、行列をやり過ごす。
車など、一部は、後からにさせて、また、あるものには、先に行かせたが、それでも、一族は多いのである。
十台ほどの、車から、女房たちの、袖口や、衣の色などが、こぼれ出て、見えている。それが、田舎くさくなくて、趣がある。斎宮の、御下向か何かの、折の、物見車を、思わせるのである。
殿も、このように、久々に、栄えることであり、数知れず、お供する、前駆の者たちも、一同に、目をとめた。

殿とは、源氏のことである。
石山詣での、騒がしさである。




なが月つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむら、をかしう見えわたるに、関屋よりさとくづれ出でたる旅姿どもの、色々のあをのつきづきしきふ縫ひ物、くくり染めのさまよりも、さる方にをかしう見ゆ。御車は簾おろし給ひて、かの昔の小君、今は右衛門の佐なるを召し寄せて、源氏「今日の御関迎へは、え思ひ捨て給はじ」など宣ふ御心のうち、いとあはれに、思し出づる事多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへしてものあはれなり。
空蝉
行くと来と せきとめがたき 涙をや 絶えぬ清水と 人は見るらむ

え知り給はじかし」と思ふに、いとかひなし。




九月の末であり、紅葉の濃いもの、薄いもの、霜枯れ草むらむらが、趣深く、見渡せる辺りに、関屋から、さっと、現われ出た、源氏の行列の旅姿は、色とりどりの狩衣に、整った刺繍や、絞り染めの様子も、それはそれで、趣がある。
お車は、御簾を下ろして、あの昔の小君が、今は、右衛門の佐になっているのを、お召しになり、源氏は、空蝉が、今日、関まで、お迎えした、私の志を、おろそかに、思われないだろうと、仰る。胸のうちでは、たいそう、しみじみとした、思い出が多く、一通りのことづてでは、甲斐ないことである。
女も、心中、ひそかに昔の事を、忘れない。思い起こして、しみじみとする。

空蝉
行くときも、帰るときも、抑えきれない私の涙を、人は、絶えず流れる、関の清水だと、思うでしょう。

殿は、この気持ちを、知るよしもない。と、思うと、まこと、甲斐ないことである。

いとあはれに、思し出づる事
とりかへしてものあはれなり

それを、しみじみと、訳す。
それ以上に、言葉が無い。

懐かしくもあり、切なくもあり、複雑な心境を、あはれ、という言葉に、託すのである。

心のうちに、起こる、様々な、気持ちの変化も、あはれ、という言葉に、託す。
つまり、あはれに、思うのである。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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