2010年01月19日

最後の沈黙を破る 49

沖縄、普天間飛行場の、辺野古への、移転の問題は、何か。
何故、突如として、辺野古が、反対するに至ったのか。

私は、この話を、聞いて、驚いた。

地域住民に対して、政府は、一世帯の保証金を、五千万円支払うと、提案していたのである。

過疎地帯である。その程度で、妥協できると、政府は、信じていた。

ところが、この話しを、聞きつけた、または、誰かが教えたのか、本土の、ヤクザ集団が、我も我もと、引越ししてきたのである。

新住民として、住み着くようになる。
ヤクザは、所詮、ヤクザである。
真っ当に働く意欲がない、
暴力で、金をせびるのが、唯一の、仕事・・・・

政府は、慌てた。
そして、保障対象を、居住年数十年以上の世帯とする、制限を、新たに設けた。

すると、ヤクザたちである。
基地移設反対運動をはじめた。

すると、政府は、苦肉の策として、全住民に、対して、一律、二、三百万円とする、案を提示した。

大幅なダウンである。
旧住民と、新住民から、猛烈な、不満の声が上がり、ついには、旧住民まで、加わり、反対運動となった。

自民党時代に、根回しして、更に、根回しして、十年をかけての、準備期がある。

それが、これである。
要するに、金の問題である。

ヤクザの行動は、論外である。が、旧住民も、金に目が眩んだ。

沖縄は、いつまでも、犠牲を払うことを、求められる・・・
本当に、そうだろうか。
どれほど、沖縄に、税金が、投入されたのか。

日本には、ヤクザが、野放しになっている。
歴代政権と、ヤクザは、腐れ縁である。
今も、ある、大物議員との、つながりがある。

更に、ヤクザの中には、在日も多いという、事実。
外国人参政権を、謳う者を、疑う。

日本人も、中国人と、同じように、拝金主義に陥って、久しい。

その一例は、亡くなった、高齢者を、部屋に放置したまま、その、年金を貰うという行為である。極まれり、である。

それで、平然として、生きられる神経が、理解できない。
死んだことを、隠して、年金を貰うという、根性は、見苦し過ぎて、言葉も無い。

日本人の精神は、予想以上に、悪化していると、考えてよい。

金儲けのための、テキストが、多くは、詐欺だが、絶える事が無い。

何の創造性も無いものが、大枚な金を得るという、へんてこりんな、時代である。
金を持って、金を得るという。それで、大金を手にした人を、成功者と呼ぶ。

命の次に、大事な金だからといって、命がけで、金を得るのではない。

マネーゲームで、世界が、混乱しているのは、リーマンショックを、見れば、解るはずだが、それでも、マネーゲームを止めない。

金で、金を得ることが、実に、浅ましいことであるとは、考えないという、魔物が、世の中を、跋扈する。

しかし、時は、過ぎ行く。
それを、知る者は、知恵のある者である。

生きている間だけが、この世の春ではない。
死という、冬が、やってくる。

そのための、準備など、思いもつかないだろう。

勿論、死後の世界も知らない。
また、信じない。

死んでみて、初めて、驚愕する。




posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ 479

しもつきばかりになれば、雪あられがちにて、ほかには消ゆる間もあるを、朝日夕日をふせぐ蓬葎のかげに、深う積りて、越の白山思ひやらるる雪のうちに、出で入る下人だになくて、つれづれとながめ給ふ。はかなき事を聞え慰め、泣きみ笑ひみまぎらわしつる人さへなくて、夜もちりがましき御張のうちもかたはら淋しく、もの悲しく思さる。





十一月頃になると、雪やあられの降る日が多く、他の家では、消えるときがあっても、ここは、朝夕の日をさえぎる、蓬や葎の陰に深く積もり、越の白山がと、思われるような、雪景色である。出入りする、下人さえもいない庭を、しょんぼりと眺めている。
たわいも無いことを言って、慰め、泣いたり、笑ったりしながら、心を紛らわせる人もいなくなり、夜も、埃のある、御張台で、一人、寂しく、もの悲しく、思う。




かの殿には、珍し人に、いとどもの騒がしき御有様にて、いとやむごとなく思されぬ所々には、わざともえ訪れ給はず。まして、その人はまだ世にやおはすらむとばかり思し出づる折もあれど、たづね給ふべき御志もいそがでありふるに、年変はりぬ。




源氏の殿は、久々に会う、紫の上に、夢中な様子で、たいして、大切に思われない方々には、特に、訪れることもない。まして、この姫君、末摘花のことなどは、まだ生きているのかとは、思い出すことはあるが、探す気持ちも無いまま、日を過ごして、その年も暮れた。




うづきばかりに、花散里を思ひ出で聞え給ひて、忍びて対の上に御いとま聞えて出で給ふ。日頃降りつる名残の雨すこしそそぎて、をかしき程に月さし出でたり。昔の御ありき思ひ出でておはするに、かたもなく荒れたる家の、木立茂く森のやうなるを過ぎ給ふ。



あくる年の、四月の頃に、花散里のことを思い出し、対の上に、ご挨拶して、こっそりと、出掛ける。
数日降り続いた雨の、名残が少しぱらついて、趣ある空に、月が出た。君は、昔の忍び歩きを思い出し、優美な夕の月に、道々、様々な回想に耽った。
たどり着くと、形もなく、すっかり、荒れ果てた家に、木立が、茂って、森のような所を、通り過ぎる。





おほきなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなき香りなり。橘にはかはりてをかしければ、さし出で給へるに、柳もいたうしなだれて、ついひぢもさはらねば、乱れ伏したり。「見し心地する木立かな」と思すは、はやうこの宮なりけり。いとあはれにて押し止めさせ給ふ。例の、惟光はかかる御忍びありきにおくれねば、さぶらひけり。召し寄せて、源氏「ここは常陸宮ぞかしな」惟光「しか侍り」と聞ゆ。源氏「ここにありし人は、まだやながむらむ。とぶらふべきを、わざとものせむも所狭し、かかるついでに入りて消息せよ。よく尋ねよりてを、うち出でよ。人たがへしてはをこならむ」と宣ふ。





大きな松の木に、藤の花が、咲き始め、月の光に、ほのかに揺れる。
それが、風の流れに乗って、匂うのである。懐かしい。ほんのりとした、香りである。
橘の香りと違い、また、趣がある。車から、顔を出して、ご覧になると、柳の枝が垂れて、築地も崩れているので、乱れかかっている。
見たことにある、木立だと、思うのも、そのはず。これこそ、宮なのである。
いとあはれにて
とても、感慨深くて、車を止めさせる。
例の通り、惟光は、このような、忍び歩きには、慣れているから、今日も、お付き合いしていた。
お召しになって、源氏が、ここは、常陸の宮の御殿であろう。惟光が、さようでございますと、申し上げる。
源氏は、ここにいた人は、今も、侘しく暮らしているのだろうか。訪ねるべきなのだが、わざわざ、訪ねるのも、何やら、おかしいことだ。この機会に、中に入り、消息をしてみよ。よく尋ねた上で、言い出すことだ。人違いすると、笑われる、と、仰る。

その、家の有様に、いとあはれ、を、感じる心。
胸に迫る、感情を、あはれ、という。
物語は、もののあはれ、を、表現し、更に、歌の道を、示す。
もののあはれ、は、歌道のことでも、ある。




ここには、いとどながめまさる頃にて、つくづくとおはしけるに、昼寝の夢に故宮の見え給ひければ、さめて、いと名残悲しく思して、漏り濡れたる庇の端つ方おしのごはせて、ここかしこの御座引き繕はせなどしつつ、例ならず世づき給ひて、


なき人を 恋ふる袂の ひまなきに 荒れたる軒の しづくさへ添ふ

も心苦しき程になむありける。




姫の方では、ひとしお、物思いの深まる頃で、思いつめていると、昼寝の夢に、亡き父宮が、お見えになった。
目覚めてから、名残惜しく、悲しい思いになり、雨漏りで濡れた、庇の間の端を、拭かせて、あちこちの、御座所を取り繕わせて、いつになく、人並みになり、


亡き父を恋い慕う涙で、袂の乾く暇もない。荒れた軒の雨水までかかり、袂は、いっそう、濡れる。

その有様、心苦しいことである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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