2010年01月11日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 11

パダン、一日目の朝。
私は、部屋の前の、椅子に座り、タバコを吹かした。

暫くすると、右隣の部屋の、若い一人も、出てきて、タバコを吹かした。

軽く、スラマッパギと、挨拶する。
パギと、返してきた。

パダンの朝夕は、涼しく、過ごしやすい。
とても、いい気分である。

現地の人にとっては、寒いらしいが・・・

さて、私は、隣の若者二人と、話すことになった。

まず、彼らの、一人が、私たちは、日本の企業で、働いているということから、だった。

会話は、英語である。
最初は、簡単な英語で、済んでいたが、次第に、話が込み入ってきた。
三菱系の、現地法人のようである。
上司の三人が、日本人だという。

更に、もう一人が出てきて、三人で、話す。
だが、私の語学力である。
アィムソォリィー
そして、コータを、起こした。

コータは、まだ寝ていた。
寝惚けた様子で、起きてきた。

四人で話すことになった。

コータが、英語が出来るということを、知り、二人の会話が弾んだ。
そして、突然のように、質問してきた。

日本の人は、イスラム教徒に対して、どんな感情を、抱いているのか、である。
彼らは、テロリストが、イスラムから出るところから、日本の人々は、イスラムを、恐れているのではないかと、思っている。

イスラム、つまり、教徒、モスリムと、テロリストは、別物であると、私は、言った。

彼らの、言い分は、こうである。
アメリカの政府は、イスラム教徒は、テロリストだと、言うが、それは、違う。テロリストと、モスリムは、違うのである。
更に、アメリカの新聞は、嘘を書くというのである。

私は、オッケー、オッケーといった。
解ったという、つもりである。

すると、貴方の宗教はとの、質問である。

以下は、コータが、通訳した。

日本には、宗教は、無い。伝統の国である
伝統・・・
レリジョンは無い。トラディションがある。私は、伝統に則り、生きている
シントウは、宗教ではないのか
伝統です

相手二人は、ウッと、詰まる。

祖霊は、太陽に象徴され、更に、天皇陛下が、国民の代表として、存在する
テンノウヘイカ

天皇とは、なにか
天皇とは、キング・エンペラーである
はじめて聞いた

天皇を頂く、伝統の国です、日本は
それでは、あなたは、死後の世界を、どう思うのか。私たちは、死後、霊魂は、神の作る、天国か、地獄へ行くことになる

日本人は、自然に隠れるのです。霊魂は、祖霊と同化します
天国には、行かないのか
天国とか、地獄という、考え方は無い
日本には、宗教が、沢山あると聞いた
そう、日本は、伝統の国だから、どのような宗教も、共生できる、否定しない

日本の、建国が、2670年という、話はしなかった。何せ、インドネシアは、建国、60年あまりである。

イスラム教も、否定しない
あなたは、イスラムの経典を知っているか
日本語で、コーランは、読めます。勿論、読んでいますよ
どのように思いますか
ただ、素直に読みます
イスラム教徒になれますか
イスラム教の国に行けば、モスリムになれます

是非、イスラムの指導者に、聞いてください。きっと、正しく、あなたを、導くでしょう。イスラムは、互いに愛すこと、殺しあうことを、教えていない。しかし、アメリカの新聞などは、イスラムは、危険と書くのです
分かっています。彼らは、キリスト教です

更に、彼らは、
イスラムは、あらゆる文化、学問に深く影響をあえた、素晴らしい世界を、持っています
と言う。

私は、
そうです。イスラムは、イスラム帝国から、実に、素晴らしい文化を有していた。それは、例えば、数学にしても、インド数学に影響を与えた。また、ギリシャ哲学も、ヨーロッパに、伝えたほどです。インド、古代中国と、文明が、栄え、最後に、ヨーロッパの文明が、起こるのです。イスラム文明の、伝播ですね

そうです。そうなんです。イスラムは、非常に、優れている
私も、そうだと、思います
あなたは、どうして、そんなことを、学んだのですか
すべて、日本語の書籍からです。日本語では、世界のあらゆる、書物が、読めますよ

彼らは、身を乗り出して、聞く。
コータが、通訳をする。

彼らが、私との、会話で、驚いたのは、伝統の国であると、言ったことである。
更に、どの宗教も、日本では、共生するということ。

日本には、宗教戦争が無いということを、言うと、納得した。

太陽が、祖霊を象徴し、万民を照らすように、日本の国民の象徴である、天皇は、何者も、否まないということである。
天皇陛下を知ることは、日本を知ることであると、言った。

本当は、キングでも、エンペラーでもなく、天皇なのであるが、英語では、その他の言い方がない。

イスラムを肯定し、他の宗教も、肯定する。それを、説いた。

話は、一時間以上も、続いた。

実に、有意義な時間だった。
彼らは、今夜も、私たちと、話したいと、言ったが、私たちは、ホテルを替わると言った。すると、もし、時間があれば、でいいので、また、話がしたいと、言う。

コータが、通訳に疲れた。
非常に、微妙な会話で、難しいと、言う。

ただ、彼らが、私の、言葉に、非常に興味を持ったことは、確かである。

日本は、宗教ではなく、伝統の国というのが、彼らにとっては、刺激的だったようである。

勿論、日本人でも、それほど、理解出来ることではない。
何せ、伝統などというもの、教えられないのである。更に、戦後の、教育は、見ての通り。
日本には、誇れるものは、ありません、である。
天皇制を、専制君主制という、アホもいる。
共産思想、サヨク系の人が、言う。彼らの方が、全体主義である。



最後の沈黙を破る 41

病気は、治すものではなく、治るものである。

名医は、治すためではなく、治るために、薬などを、処方する。
そして、患者が、治ると、薬が合ったのですねーーーと、ぼんやりと、言う。

気功、スピリチュアル治療などと、馬鹿なことを、言う、馬鹿な、気功家や、スピリチュアル治療家がいる。

患者は、彼らの後ろに、控えている、目に見えない存在を知らない。
ゆえに、治ると、その先生を、奉じるようになる。

へびや、狐、犬、猫の霊でも、病気を治す。
瞬間的に、治すのは、天狗のような、霊である。

その人の力で、治すというのは、すなはち、背後のものによる、関与による。

真っ当な、気功家や、心霊治療家は、治すものではなく、治るように、指導する。

また、治るという、手前まで、導いて、その本人の、自覚により、治るということを、教える。
だから、治らない人もいる。
それは、治っては、いけない人である。

私は、病を、治せない。
医者ではないから、ではない。
治す必要が無いからである。

私が願えば、病は、癒える。
しかし、それは、私の命との、交換である。
命と、交換するほどの人は、親以外に無い。

だが、親の病を、治して、私が、先に死ぬと、どうだろうか。
逆縁の、悲劇である。

治療家は、治すのではなく、病にある人が、自ら、治すために、するべくの、手当てをするのみである。

病になるのは、病になる、理由がある。

その理由が、問題なのである。

その、理由を、問わず、知らず、病を、治してもらい、感謝して、その治した人を、信仰するようになるならば、誤りである。

それならば、死んだ方が、マシである。

病に至る、その道を、病になった人は、観想しなければ、ならない。

それを、教えたのは、釈迦仏陀である。
どうして、そのような病になったのか。
そして、その原因を知り、そこから、病を癒す方法を、指導して、自ら、治すという、行為に、生きるということの、意義と、意味を、教えたのである。

痛みが、消えた。
治った。
そして、治してもらったと、治した人を、信じる人が多い。
実に、愚かで、誤りである。

それを、治したのは、その人の、背後の霊的存在である。

その霊的存在の、有無を知らない。

更に、その霊的存在の、正体を知らない。
実に、恐ろしいことである。

私は言う。

決して、治るという、治療家の元に、出掛けては、駄目。

大半が、霊的質が、悪い。

であるから、治っても、精神的、心的状態が、悪いはずである。

単に、病気を治すということは、単に、気を紛らわすということと、同じである。それならば、病気を、生きる方が、真っ当である。

何故なら、病気を生きる方が、人間として、真っ当であるからだ。

老いれば、病むのである。

それが、自然である。

更に、病は、気づきの、元である。

病気は、感謝する以外の、何物でもない。

私は、治さないし、治せないし、治す必要も無いと、考えている。

病院に行って、薬を、貰い、楽しんで、飲んでいる。

最後は、絶食して、死ぬ。
断食ではない。
絶食して、死ぬのである。

断食という、蒙昧に、迷うことはない。


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もののあわれ 472

いとまめやかにねんごろに聞え給ひて、さるべき折りは渡りなどし給ふ。源氏「かたじけなくとも、昔の御名残に思しなずらへて気どほからずもてなさせ給はばなむ、ほいなる心地すべき」など聞え給へど、わりなくもの恥ぢをし給ふ奥まりたる人ざまにて、ほのかにも御声など聞かせ奉らむは「いと世になくめづらかなる事」と思したれば、人々も聞えわづらひて、かかる御心ざまをうれへ聞えあへり。





とても、こまごまと、心を込めて、お世話をされる。更に、ご訪問などもされるのである。
源氏は、もったいないことですが、亡き母君の、身代わりと思い、気安く扱いくだされば、本望です、などと、仰せになる。だが、むやみに、恥ずかしがる内気な性格で、ほんの少しの声でも、大変なことだと、思われるので、傍に仕える女房たちも、勧めようがなく、このような、性格に、皆、苦労しているのである。




女別当内侍などいふ人々、あるは離れ奉らぬわかんどほりなどにて、心ばせある人々おほかるべし。この、人知れず思ふかたのまじらひをせさせ奉らむに、人に劣り給ふまじかめり。「いかでさやかに御容貌を見てしがな」と思すも、うちとくべき御親心にはあらずやありけむ。わが御心も定め難ければ、かく思ふという事も、人にも漏らし給はず、御わざなどの御事をも取り分きてせさせ給へば、あり難き御心を宮人も喜び合へり。



女別当や、内侍などいう人々、または、血統の王族の方々などで、趣味を分かる人々が、大勢仕えていることだろう。自分が、人知れず、思う、入内をさせるにしても、他の女御に、ひけを取ることはあるまいと。何とかして、宮の器量をはっきりと、見たいものだと、思うのである。それも、まだ、安心できる、親心ではないのであろうか・・・
自分の心も、いつ変わるか、知れないので、このような、考えがあるということさえ、誰にも、漏らさない。御息所の、仏事などを、特別に、念入りにされるので、ありがたいことと、宮家の人々も、喜んだ。

源氏の、心が、揺れているのである。
入内させようか、または、我が物にしようかと・・・

わが御心も定め難ければ
わが心が、どのように、変わるか、解らないのである。

わかんどほり
皇族、王族出身の意味。



はかなく過ぐる月日にそへて、いとどさびしく、心細きことのみまさるに、侍ふ人々もやうやうあかれ行きなどして、しもつかたの京極わたりなれば、人気遠く、やま寺のいりあひの声にそへても、ね泣きがちにてぞ過ぐし給ふ。




はかなく、過ぎてゆく月日と共に、いよいよ、寂しく心細い事が、多くなる。仕える人々も、次第に、離散してゆく。ここは、下京の、京極の辺りで、人家も少なく、そこに、山寺の鐘の音が、聞えてくると、つい、声を上げて、泣くことも、しばしばあり、日を送っている。



同じ御親と聞えしなかにも、かたときのまも立ち離れ奉り給はで、ならはし奉り給ひて、斎宮にも親そひて下り給ふ事は例なきことなるを、あながちにいざなひ聞え給ひし御心に、限りある道にては類ひ聞え給はずなりにしを、ひる世なう思し嘆きたり。



同じように、親御様と申す中でも、少しの間も、お傍を離れるることなく、生活していた。斎宮にまでも、親が付き添って、下ったのである。前例の無いことだった。母君を一緒にとの、心ならば、死出の旅にも、お供申し上げなかったことをと、涙の乾く間もないほど、嘆いたのである。



侍ふ人々につけつつ、心かけ聞え給ふ人、たかきも賎しきもあまたあり。されど、大臣の、源氏「御乳母たちだに、心にまかせたること、ひきいだし仕うまつるな」など、親がり申し給へば、いと恥づかしき御ありさまに、「びんなきこと聞しめしつけられじ」と言ひ思ひつつ、はかなき事の情もさらに作らず。




お仕えする、女房たちを、手引きとし、思いを寄せる方は、身分の高い人も、低い人も、大勢いる。けれども、大臣が、おん乳母たちも、自分勝手なことをしては、いけないなどと、親のように、仰せになるので、このご立派な殿様に、不都合なことを、耳に入れまいとしていた。少しの、訳知りことも、決して見せないのである。



院にも、かの下り給ひし日、大極殿のいつかしかりし儀式に、ゆゆしきまで見え給ひし御かたちを、忘れ難う思しおきければ、朱雀院「参り給ひて、斎院など、御はらからの宮々おはします類にて、侍ひ給へ」と、御息所にも聞え給ひき。されど、「やむごとなき人々侍ひ給ふに、かずかずなる御うしろみもなくてや」と思しつつみ、上はいとあつしうおはしますも恐ろしう、「またもの思ひや加へ給はむ」と、はばかり過ぐし給ひしを、今はまして、誰かは仕うまつらむ、と、人々思ひたるを、ねんごろに院には思し宣はせけり。




院におかせられても、あの、伊勢御下向の日、大極殿の、壮大だった儀式の時に、見事なほどに、美しかったご器量を、忘れ難く印象に残り、院は、こちらに、おいでになり、斎院など、私の姉妹の宮たちもいるので、同じようにして、暮らしなさいと、御息所に仰せられたこともある。
しかし、院には、素晴らしい方々が、仕えていらっしゃる。こちらには、ろくな世話役もいないと、遠慮した。それに、院は、病気がちであり、それも、怖くて、またこの上に、苦労があってはと、逃げていたのである。
今となっては、その頃以上に、誰が、お世話をするのかと、皆々思っていたので、院からの、懇切なお言葉を賜った。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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