2009年12月25日

もののあわれ 455

アハレといえば、「気色」にせよ「けはひ」にせよ「さま」にせよ、その対象が現に存在している。場合によっては、対象は道端の行き倒れの人でもある。それを外から見ている。そこに生じてくる気持ちである。そして、対象を目で見ているだけではなく、基本的に対象に心の底の共感を抱いている。
源氏物語のもののあはれ 大野晋編著

あはれ、が、共感能力であるということを、突き止めた。

ということは、日本人は、共感能力に、長けていたということである。
それが、気色や、気配、そして、様に、至るまで、である。

つまり、あらゆるものに、共感したといえる。
実に、対象の数が、無限にあるのである。

そして、共感する心が、高まったときに、あはれ、という言葉が、でる。

共感能力とは、人間の進化の、最高、最大の、徳であろう。

それでは、あはれ、と、ものあはれ、とは、何かである。
そして、また、もののあはれ、ということは、何か、である。

モノは平安女流文学では軽い接頭語ではない。モノアハレのモノは、ケハヒアハレナリ、サマアハレナリのケハヒ、サマのように、アハレナリの題目・対象である。そして、モノにはきまり、運命、忘れがたい過去の事実、逃れがたく身を取り囲む状況、周囲の状態、という大きな意味がある。モノアハレにはそれがはっきり現れている。
源氏物語のもののあはれ

ものあはれ、という言葉の意味、内容を知るには、その前後の、文脈から、推察する。

そこはかとなくものあはれなるかな
では、もの、という言葉が、なんとなくと、感じる。しかし、その前後の文脈により、何をして、もの、というのかが、解る。

実はモノは長い文脈の展開を受けて、それを運命と見る、動かしがたい成り行きと見るということを表す言葉なのだ。その視覚の欠如からモノを「何となく」と受け取って済ませてきたのではなかろうか。
源氏物語のもののあはれ

視覚の欠如とは、鋭い指摘である。

何となく・・・というのは、日本人に、特有の、曖昧さ、たゆたふ、という言葉にある、心情である。
それで、また、私は納得する。
何となく、伝わる。
しかし、こと、明確にしようとすると、上記のようになる。

そして、もう一つに、もの、という言葉が、動かし難い、成り行きとして、展開する、季節のありようなどを、見る場合も、そのようである。

秋の夕のものあはれなるに
時雨うちしてものあはれなる暮れつ方
荒き風の音にも、すずろにものあはれなり
入り方の月の山の端近きほど、とどめ難くものあはれなり
雪うち降り、空のけしきもものあはれに

この季節を、見ると、おおよそ、秋から冬にかけてである。
自然の推移が、あはれ、として、共感を呼ぶのが、この季節のようである。

秋は、あはれ、まされり、などは、古今でも、新古今でも、詠われる。

人間には、動かし難いもの・・・
不可抗力なるものに、対して、あはれ、という、言葉が使われる。

そして、それが、一つの、心象風景を作り上げて、日本人の心の姿、心性というものが、出来上がるのである。

さて、もののあはれ、という、使い方である。
平安宮廷では、もののあはれ、という、観念が、確立していたのである。

もの の あはれ
の、とは、名詞と名詞の間に、入り、存在の場所、所属の場所を、確定する、助詞である。

もの、とは、動かし難い事であり、人知でも、その力でも、変更できない事柄である。

あはれ、とは、共感能力であり、すべての対象を見るときに、生かされる言葉である。

そして、底流に、人生、不可変のこと、である。
変えられない、運命。
それを、受け入れるしか、方法が無いことである。

どうしようもないことを、どのように、受け入れるのか。
これは、生きる人、皆が、人生のうちに、何度か、経験することである。

春はただ 花のひとへに 咲くばかり もののあはれは 秋ぞまされる
拾遺和歌集

もののあはれも何時かは知らせ給はん
栄花物語

もののあはれ、は、源氏物語以前では、一人前の人として、知っているものとしていた。
それは、人生の、不可抗力と、儚さ、である。

源氏物語では、それに、加えて、過去の記憶にあるもの、も、それなのである。

過ぎにしもののあはれ

過去となってしまった、忘れ難い、事実である。

をかしきことももののあはれも人柄にこそあべけれ
恋のあはれの深さも、その人柄によるものだ。

源氏物語以前の、もののあはれ、というものは、人の世の定めに限られていたという。

しかし、物語によって、男と女の、出会いと、別れにこそ、あるものとの、意思である。
物語は、すべて、男と女の、物語である。

源氏物語は、男と女が、出会い、別れる、話である。

そして、その、もののあはれ、に、季節の移ろいの、もののあはれ、というものを、織り込んで、更に、もののあはれ、という、風景を、深めている。

世界初の小説が、抜き差しならない、男女の関係に、焦点を定めているところが、普遍の意味を持つものとなった。

生きている限り、恋と、関わらない者は、いない。

この、もののあはれ、という、風景が、日本人の心情と、精神の、底流として、そして、文化へと、脈々と、生き続けることになる。

だが、これは、一つの、検証である。
もののあはれ、は、自由自在、そして、無限に広がり行く、日本人の、心象風景になってゆくのである。

私は、万葉集の、挽歌に、その底流を見る。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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