出発が、明後日という日になり、いつものように、夜が更けないうちに、おこしになった。
まだ、はっきりと、ご覧になったことがなかった、女の器量は、大変に、気高い様子をしている。
生まれには、過ぎたものだと、見捨てにくく、名残惜しい気持ちになる。
しかるべく計らい、都に呼び迎えようと、決心する。
そして、その約束をするのである。
男の顔立ち、お姿は、改めて、いうまでも無い。久しい間の、勤行にひどく面やつれていることすら、いいようもなく、素晴らしいお姿であり、痛々しい様子であり、涙ぐみつつ、心を込めて、約束するのは、これだけの、お情けでも、幸せだと思い、諦めようと、思うが、その立派さに、我が身分を考えると、思いは、尽きないのである。
波の音も、秋風の中で、ひとしお、格別に響く。塩焼く煙が、かすかにたなびき、何から何まで、悲しみを集めた、この地の、趣である。
あはれ深く契り給へるさま
心深く約束する様であり、契りは、交わりでもある。
性描写を、ここまで、格調高く表現するのも、源氏物語の、骨頂である。
源氏
このたびは 立ちわかるとも 藻塩やく けぶりは同じ かたになびかむ
と宣へば、
女
かきつめて 海人のたく藻の 思ひにも 今はかひなき 恨みだにせじ
源氏
今は、別れても、藻塩焼く煙が、同じ方向に、靡くように、やがては、また、一緒になりましょう。
と、のたまえば、
女
藻をかき集めて、海人たちが、炊いている火のように、思いは、一杯ですが、申しても、かいないことです。恨みは、しません。
身分とは、身の程である。
実は、日本の身分制度は、他の国の、身分制度とは、違う。
江戸時代に、士農工商という、身分制度が、幕府によって、作られたが、そこには、皇室が、除外されている。
更に、将軍を、お上と、呼ばせた。
実は、日本には、お上とは、ただ、お一人であり、それは、天皇のことである。
将軍も、天皇からの、勅命を受けて、征夷大将軍という、位を得る。
戦国時代、京に上るというのは、それであった。
唯一の、権威である、天皇の命を、いただき、国民の信を得る。
皇室により、身分というものが、はじまるのである。
人は、皆、平等ではない。
そして、それがあるから、国が、定まる。
天皇は、武力を持たない、権威の象徴である。
武力で、統治しなかったとは、世界で、唯一の、家柄である。
それを、今、誇りにして、いいのである。
あはれにうち泣きて言少ななるものから、さるべき節の御答など浅からず聞ゆ。この、常にゆかしがり給ふ物の音などさらに聞かせ奉らざりつるを、いみじううらみ給ふ。「さらば形見にも忍ぶばかりの一ことをだに」と宣ひて、京わりもておはしたりし琴の御琴取りに遣して、心ことなる調べをほのかに掻き鳴らし給へる、深き夜のすめるは譬へむかたなし。入道え堪へで、筝の琴取りてさし入れたり。自らもいとど涙差へそそのかされてとどむべきかたなきに、誘はるるなるべし、忍びやかに調べたる程いと上衆めきたり。入道の宮の御琴の音をただ今のまたなきものに思ひ聞えたるは、今めかしうあなめでたと、聞く人の心ゆきて、かたちさへ思ひやらるる事はげにいと限りなき御琴の音なり。これはあくまで弾きまし、心にくく妬き音ぞまされる。
あはれに、泣いて、言葉少ないが、このような、返歌などは、情を込めて、申し上げる。
この、いつも聞きたがっていた、琴の音を、とうとうお耳に、入れたかったものを、大変、恨むのである。
源氏は、それでは、あなたの形見として、思い出になるように、一節だけでも、是非に、と、仰り、京から持ってきた琴の、お琴を、取りにやらせる。面白き、一曲を低く、掻き鳴らすが、夜更けの澄んだ、風の中では、たとえようも無い。
入道は、たまりかねて、筝の琴をとって、娘の御簾の中に、差し入れた。
娘は、涙を流しての、お願いに、その気になったのだろう。
音も低い、調べだが、まことに、貴婦人と感じられる、奏法である。
入道の宮の、お琴の音を、今の世に、類のないものと、聞いていたが、それは、今風で、結構なと、誰もが皆、感じ入り、お弾きになる、ご器量さえ、目の前に、浮かぶ気がするのである。実に、無上のお琴の音である。
どこまでも、冴えた弾き方で、奥ゆかしく、憎らしい程の、音色が、得意なのだ。
今めかしう あなめでたと
今風であり、とても、素晴らしい。
筝の琴とは、十三弦であり、琴、きんの琴は、七弦である。
七弦の琴は、弦楽器の中でも、最も重んじられた。しかし、一条天皇の頃には、奏法が、途絶えていた。物語の中では、源氏が、最後の名人とされている。