2009年12月10日

もののあわれ 440

四月になりぬ。ころもがへの御装束、御張の帷など、由ある様にし出づ。よろづに仕うまつり営むを、「いとほしう、すずろなり」と思せど、人様のあくまで思ひあがりたる様のあてなるに、思しゆるして見給ふ。





四月になる。
衣替えの、御装束、御張台の帷子など、趣のあるように、調えて差し上げる。
何から何まで、お世話するのを、気の毒でもあり、出過ぎたことだと、思うが、あくまで、気位を高く持つ、入道の人柄であるから、そのままにして、見ているのである。




京よりも、うち頻りたる御とぶらひども、たゆみなく多かり。のどやかなる夕月夜に、海の上くもりなく見え渡れるも、住み慣れ給ひし古里の池水、思ひまがへられ給ふに、云はむかたなく恋しき事いづかたとなく、ゆくへなきここちし給ひて、ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。「あはと遥かに」など宣ひて、

源氏
あはと見る 淡路の島の あはれさへ 残る隈なく 澄める夜の月

久しう手ふれ給はぬ琴を、袋より取り出で給ひて、はかなく掻き鳴らし給へる御さまを、見奉る人もやすからすずあはれに悲しう思ひあへり。





京からも、引き続いて、お見舞いが、次々と来る。
のどかな、夕月夜に、海の上、曇りなく、一面に見渡せる風景も、住み慣れた、古里の邸の、池水に、似ているように思い、たまらなく恋しい事を、誰に言うともなく、行方も知れず、さ迷い出る気持ちになるのである。
その、目の前に見えるのは、淡路島である。
あわと遥かに、などと、言いつつ

源氏
あはれと、呼んだ、淡路島のあはれさえも、残るところ無く、照らす、今宵の月である。

久しく手を触れなかった、琴を、袋から取り出して、少しばかり、かき鳴らす姿を、拝する人々も、何となく落ち着かず、悲しく思うのである。

あはれに悲しう思ひあへり
心深く、悲しみを感ずることを、あはれ、という言葉に託すのである。





広陵といふ手をある限り弾きすまし給へるに、かの岡辺の家も、松の響き波の音に合ひて、心ばせある若人は身にしみて思ふべかめり。なにとも聞き分くまじきこのもかのものしばふる人どもも、すずろはしくて浜風をひきありく。入道もえ堪へで、供養法たゆみていそぎ参れり。




広陵という、曲を全曲、ある限り、力ある限りに、御弾きになると、かの岡辺の家へも、松風や、波の音に響き合って、流れてゆき、たしなみのある、若い女房たちは、身に沁みて、感じているだろう。
何の音かと、聞き分けられずにいるであろう、そこここの、下人たちまでも、つい浜辺に誘い出されて、風邪を引いたりする。入道も、じっとしていられなく、勤行中の、供養法を怠けて、急いで、やってきた。





入道「さらに、背きにし世の中も取り返し思ひ出でぬべく侍り。後の世に願ひ侍る所の有様も、思う給へやるる夜の様かな」と、泣く泣くめで聞ゆ。わが御心にも折々の御遊び、その人かの人の琴笛、もしは声の出でし様に、時々につけて、世にめでられ給ひし有様ね帝より始め奉りて、もてかしづきあがめ奉り給ひしを、人の上もわが御身の有様も、思し出でられて、夢のここちし給ふままに、掻き鳴らし給へる声も、心すごく聞ゆる人は涙もとどめあへず。岡辺に琵琶筝の琴取りにやりて、入道琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。筝の御琴参りたれば、少し弾き給ふも、さまざまいみじうのみ思ひ聞えたり。いとさしも聞えぬ物の音だに折からこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう繁れる蔭どもなまめかしきに、くひなのうちたたきたるは「たがかどさして」とあはれに覚ゆ。





入道は、改めて、一度捨てた、浮世も、取り戻して、思い出しそうでございます。後世に願っておりますところの、有様、このようであれと、思われます、今宵の風情でございますと、感動に、咽びて、褒めるのである。
君の、お心のうちにも、折々の、御遊び、その人、かの人の、琴や笛の音、あるいはまた、歌声の調子で、その時、かの時、それぞれ、世間から、もてはやされた事など、帝をはじめ奉り、多くの人が大切にし、尊敬してくれたときの事が、人の身の上も、ご自分の事も、記憶に浮かんで、夢見心地のままに、かき鳴らす。
その、音に、心揺らぐ人は、涙を止める事が出来ず、岡辺に琵琶や筝の琴を、取りにやらせて、入道が、琵琶の法師になって、大変面白く、珍しい曲を、一つ、二つと、弾くのである。
君には、筝のお琴を差し上げたゆえ、少し弾かれる。
それを入道は、どの道にも、堪能だと、感じ入る。
それほどでもない、音でも、その折柄の風景によっては、引き立つものであるのに、遠く広く、何物も遮るもののない、海の景色は、かえって、春秋の花や、紅葉の盛りよりも、ただ、何となく、生い茂る緑の、木陰までが、色めいた感じに見えて、水鶏が、ほとほと、と、戸を叩くのは、誰が門さして、と、心を打つのである。

あはれに覚ゆ
くいなの、鳴き声が、戸を叩くように聞こえて、誰が門を叩くのかという、情景をして、あはれに、思うというのである。

この、あはれ、は、感動である。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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